えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

人種について(フンボルト『コスモス』から) Humboldt (1846)[1849]

https://archive.org/details/cosmossketchofph01humbuoft/page/n5/mode/2up

  • Alexander von Humboldt (1849) Cosmos: A Sketch of a Physical Description of the Universe, vol. 1. Translated by E. C. Otté. London: Henry G. Bohn.

※小見出しおよび注はすべて要約者による

導入:人間の自然への依存

 [360-3] 自然の全体像は、人種の際立った特徴に触れないままでは不完全だ。すなわち、人種の身体的差異、その地理的分布、自然の力が人間に与える影響、その逆の影響、などを考察しなければならない。

 人間には精神活動、知的文化、高度な気候適応能力があるので、自然の諸力の支配から逃れやすい。しかしそれでも、人間は自らを取り囲む土壌や気象に依存し、地上生活と結び付けられている。このように人間は自然に依存しているために、[361-1] 自然的宇宙誌の範疇の中に人間の単一起源の問題が入ってくる。

 [361-2] また、言語の様々な構造には民族の運命が神秘的にも反映しており、従ってそれは諸人種の類縁関係とも密接に関連する。人種のわずかな違いが知的文化にも影響することは、ヘレニズム諸民族の歴史を見れば明らかである。

人種の単一性

極端な差異への注目

 [361-3] 人間の肌の色や形態の差異の極端な部分にのみ目を向ければ、諸人種(Racen/races)は単なる変種(Abarten/varieties)ではなく、そもそも異なる種(Menschenstämme/spiecies)なのだと考えたくなる。また、気候などが過酷な条件に置かれても人には変化しない特徴があり、それは元々そういう種だからだ、とも考えられる。

原注:タキトゥスは、ブリテン島の住人たちの特徴について、当地の気候に起因するものと遺伝に由来する不変なものを区別した(『アグリコラ』、11)*1。また、温暖地帯、寒冷地帯、新大陸の山岳地帯のそれぞれにおいて、人々の体型が変化しない点については、フンボルト自身のRelation Historique (1825) を参照 。

近年の研究:諸形態のグラデーション

 しかしながら、人種の単一説を支持するより強力な理由があると考えられる。例えば肌の色や頭蓋骨の形態について、数多くの中間的なグラデーションがあることが、[362-1] 近年の地理学的知識の急拡大や、雑種の生殖能力に関するより正確な観察からわかってきている(脳についてはFriedrich Tiedemann、骨盤についてはWillem Vrolikと〔Rudolf〕Wagnerの研究を参照)。

 例えば、肌の暗いアフリカの民族〔を特徴づけると思われていた〕黒い肌・ドレッドヘア・固有の相貌といった諸特徴は、南インド諸島や西オーストラリア諸島の民族やパプア族・アルフォルス族との比較によって、必ずしも互いに結びついた諸特徴ではないことがわかった。熱帯の暑さと黒い肌が切り離せないと思われていたのは、西洋が地球のごくわずかな部分しか知らなかったからなのだ。

 古代ギリシアの悲劇詩人ファセリスのテオデクテスは、エチオピア人は太陽神によって肌を黒くされ髪も乾燥していると述べていた。気候が人種に本当に影響するのかが初めて議論されるようになったのは、アレクサンダー大王の遠征によって自然地理学に関する様々なアイデアが生まれてからであった。

ミュラーの『人間生理学ハンドブック』から

 [363-1] 今日もっとも偉大な解剖学者であるミュラーは次のように述べている。

 動物や植物の集団(Geschlechter/families)は、その種(Art/race)や類(Gattung/spiecies)の固有の制約の中ではあるが、分布に応じて様々な変化を遂げ、種(Art/species)のなかの変種(Variation/variations)として、有機体の世代を超えて伝播していく[*]*2。現在の動物種(Racen/races)は、 [364-1] 内的および外的条件両方の影響によって生じたものであり、最も広く分布するものが最も多様な形態を持っている。諸人種(Menschenracen/races)もまた、単一の種(Art/species)の諸形態(Formen/forms)であって、一つの属(Genus/genus)における異なる種なのではない。なぜなら、異なる人種の交配による子孫は繁殖可能だからだ(第2巻 p. 768, 772–774)。

[*] 訳者注:実際、イギリスにおける現在の植物相は、気候変化に伴って徐々に形成されたものである。

兄フンボルト『人間の言語構造の相違について』から

 [364-2] また、諸人種のいわゆる「揺籃の地」に関する地理学的探求は、未だ純粋に神話的な性格を脱していない。兄フンボルトは次のように述べている。

 諸民族集団(Völkerhaufen/social groups)が元々あったのか後から形成されたのかを示す歴史的証拠はない。確かに、地球上の異なる場所における神話には関係が見られる。このことは、全人類はもともと一つだったと示唆するように思える。[365-1] しかし逆に、そうした神話は伝承や歴史に基づくのではなく、単に人間の表象様式の同一性に由来すると考えることもできる。また〔仮定される共通の〕神話は、人類の出現という出来事を、現在の人間の経験に沿うように説明しており、この点でもやはりこれは純粋な〔事実ではない〕神話にすぎないと思われる。すなわち人類の誕生は、無人島や人里離れた谷への植民のように語られているのだ。人は自らの種族(Geschlecht/race)および時代(Zeit)にあまりにも深く結びついているので、先行する世代や時代をもたない個人なるものを思考する(fassen/conceive)ことができない。したがって、人類の出現という問題について考えることは無駄である。

民族に依拠した人種分類

 [365-2] したがって、今日「人種」(Racen/race)という曖昧な言葉で呼ばれているものは変種(Abarten/varieties)であり、人類の分布は変種の分布にすぎない。

 動植物界に関しては、細かい集団への分類の方がその基盤がしっかりしている。そこで人類についても、小さな民族集団(Völkerfamilien/families of nations)の確立を根拠とした人種の決定が行われるべきだと考える。ブルーメンバッハの5分類*3やプリチャードの7分類*4は、各人種の定義がはっきりしておらず、確立された原理に基づいたものではない。確かに極端な形態や色は区別されているが、どこにも当てはまらない人種も存在している。また、地名や国名を分類名として使うと大きな曖昧さが生じてしまう。例えば、トゥーラーン(マー・ワラー・アンナフル)は、プリチャードの言うトゥーラーン族の語源となった地域だが、時代によってインド・ゲルマン族やフィン族が住んでいた。

原注:〔トゥーラーン地域について。〕ニーブールは、ヘロドトスやヒポクラテスの言う「スキタイ人」はモンゴル人だという仮説を立てた。しかし当時からスキタイにモンゴル人がいたのだとすると、トルコやモンゴルの部族たちがオクサス川〔=アムダリヤ川。トゥーラーンの南限〕やキルギス草原に到着したのは遅かったという事実との整合性がとりにくい。むしろ「スキタイ人」はインド=ヨーロッパ系のマッサゲタイを指している可能性が高い。当時モンゴル人(タタール人)はもっとアジアの東の方にいた。〔後略:同地域にフィン族が住んでいたことの説明〕

言語

 [366-2] 諸言語は、人間の精神的創造物であり、その精神の発展と密接に結びついている。諸言語は特定の民族的形態をとるので、[367-1] 民族の類似性や相違性を認識するために非常に重要である*5。この半世紀のドイツにおける哲学的言語学の進展によって、言語の民族的性格*6の研究は大きく促進された。しかし、すべての理念的思弁の領域同様、ここでもまた、豊かな収穫と欺瞞の危険は隣り合わせである。

 [367-2] 実証的な民族学研究が教えるように、諸民族やその言語の比較には細心の注意が必要である。[367-3] というのは、隷属、長期の交流、異国の宗教の影響、混血などが、ごく少数の影響力と教養のある移民のあいだで生じただけでも、両大陸において一様な新現象を生み出してしまうからだ(ある民族の中にまったく異なる種類の諸言語が導入されたり、異なる起源を持つ諸民族のなかに共通のルーツを持つ諸語彙が導入されたりする)。この種の現象は、アジアの征服者達によって頻繁に生じてきた。

 [367-3] それでも、言語はやはり精神の発展の歴史の一部分である。精神は自然的条件の影響から自らを解放しようとするが、完全に逃れることはできない。したがって、心の自然な能力には、なにがしか人種や気候の痕跡が残るものだ。そこで我々は、人種と言語の関係にかんする考察(現時点ではほのめかすだけだが)から生じるだろう明るい色彩を、この自然の全体像から奪うことはしなかった。自然世界と知性および感情の領域を密接につなぐ絆を無視したくはなかったからである。

人種に本性的な優劣はない

 [368-2] さて、我々は人間の種類の統一性を主張してきたが、同時に、本性的に高等/下等な人種があるという不愉快な想定に反対する。

原注:自由に対する人間の権利は平等ではなく奴隷制は自然な制度だという非常に軽薄かつ今日でもあまりに頻繁に聴かれる見解を最も体系的に展開したのは、大変残念ながら、アリストテレス『政治学』である(第一巻三、五、六章)。

 確かに、精神的な文化を通じてより高貴になった(veredelte)民族はある。しかし、高貴な民族(edleren Volksstämme)なるものは存在しない。すべての民族は等しく自由へと運命付けられて(bestimmt)いるのだ。〔この点について、兄フンボルトは次のように述べている〕。

 全歴史を通じて、その妥当性がますます明白になってきている観念が、人間性(Menschenlichkeit)だ。これはすなわち、あらゆる偏見や視野狭窄が人々のあいだに築いてしまった障壁を取り除き、宗教、国家、肌の色に関係なく、全人類を一つの共同体として、精神的な力を自由に発展させるという一つの目的をもった全体として扱おうとする努力である。これは社会の究極的・最高の目的であると共に、人間の心に自然が植え付けた方向性、すなわち自らの存在を無限に拡張しようとする方向性とも合致する。[369-1] 人間性という絆の承認は、人間の内なる本性に深く根ざし、人間の最高の努力によって自らに課せられることで、人類の歴史のもっとも高貴な指導原理の一つとなる。(カヴィ語研究第3巻426頁)

原注:同書からさらに引用:アレクサンダー大王、ローマ、メキシコ人、インカ人などによる征服は、諸民族の国際的合併をより拡大させた。こうした偉大で強力な人物や国家は〔人間性という〕一つの観念の影響下で行動していたのだが、その観念の純粋な形は理解されていなかった。〔その純粋な形、すなわち〕高貴な慈悲という真理を初めて広めたのはキリスト教だった。今日では文明化という考えはますます活気付いており、民族の交流や知的涵養を広げていこうという機運が高まっている。全人種を結びつけるのは、何よりも言語である。一見、諸言語はそれぞれに特異な性質によって諸民族を分離するかと思われるかもしれない。しかし、異言語を互いに理解し合うことこそ、個々の民族の特色を傷つけることなく、人々を結びつけるものなのである〔p. 427〕。

結び

 [369-2] 以上で、宇宙の自然現象の一般的記述の結びとしたい。ここまで我々は、一部の既知の法則にしたがって自然現象を整理してきた。しかし、より神秘的な別の法則が、有機的世界のより高次の領域を支配している。そこには、様々な人種、その創造的な知的能力、そして諸言語が含まれる。知性の領域が始まるところで自然画は終わり、そして我々の目には新たな精神の世界が飛び込んでくる。自然画はここに境界線を引き、それをまたがない。

*1:「それはさておき、ブリンタニアに始めから住んでいた人が、はたして、生え抜きの人であったか、あるいは、よそからやってきた人であるかは、このような蕃族にあっては、当然予想されるように、はっきりわからない。住民の体つきはさまざまである。そこからして、いろいろの結論が引き出せるだろう。/つまり、カレドニアに住む人たちは、燃えるがごとき金髪と、大柄な四肢を持っているが、これは、彼らの起源がゲルマーニアであることを、強く主張している。シルレス族は、黒ずんだ顔をして、たいてい髪は捲毛であり、しかも、その対岸にヒスパーニアが位していることなどから判断すれば、その昔、ヒスパーニア人が、海峡を渡って行き、現在のシルレス族の居住地を占領したのではないかと、信じられる。また、ブリタンニアでガッリアにいちばん接近している地方の住民たちは、やはりガッリア人に似ている。これは、遺伝の因子が、ずっと続いているためであろうか。あるいは、おそらく、土地が向き合って突き出ているため、気候が似ていて、両者の体質にこうした特徴が賦与されたものであろう。」(国原訳(『世界古典文学全集 22』)、三二九頁)

*2:ドイツ語原文によった

*3:Caucasian、Mongolian、American、Ethiopian、Malayan

*4:Iranian、Turanian、American、Hottentots〔南アフリカの民族、現在のコイコイ人〕、Bushmen〔南アフリカの民族、現在のサン人〕、Negroes、Papuas、Alfourous〔オーストラリア先住民〕

*5:ドイツ語原文によった

*6:兄フンボルトの「人間の言語構造の相違と、人類の精神的展開に及ぼすその影響について」(「カヴィ語研究序説」)への参照がある。亀山訳の該当ページは、pp. 23–24、p. 60、pp. 269–70。