えめばら園

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アームソン「聖人と英雄」 Urmson (1958)

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  • Urmson, J. O. (1958). Saints and heroes, in A. I. Melden (ed.), Essays in Moral Philosophy, Seattle: University of Washington Press, pp. 198–216.

 以下は、J. O. アームソンの論文「聖人と英雄」(1958)の全訳です。超義務(supererogation)にかんする古典的論文として広く知られています。


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聖人と英雄

J. O. アームソン


 [198] 道徳哲学者たちは、意識的かどうかはさておき、道徳的価値の点で行為を三種類に区別しがちである。第一は、責務(duty)である行為、あるいは義務的な(obiligatory)行為、あるいはするべき行為であり、これらはほぼ同義語とされる。第二は、正しい(right)行為である。これは、一定の道徳的立場から見て許容可能で、他の道徳的考慮事由によっても排除されないが、道徳的に要求されるわけではない行為である。この特徴は、トランプのブリッジでどのカードを出す(リードする)かという話に似ている。第三のものは不正な行為、あるいはするべきでない行為である。道徳哲学者のなかには、自身の哲学のその他の部分との整合性から見て、三種の行為の区別をほとんど認められない人もいる。たとえば〔功利主義者である〕ムーアは、道徳的に無記(indifferent)な行為や、許容可能だが推奨される行為、といった分類を認めることがほとんどできない。なぜなら、もっとも些細な行為からも、なんらかの種類の良さ/悪さが生じるはずだからだ。とはいえ、多くの道徳哲学者は三種類の行為を認め、この三分類を理解可能にするような道徳理論の構築を試みてきた。

 私の考えでは、この三分類、あるいはその単なる変化・洗練形態は、道徳の事実に照らすとまったく不適切である。[199] したがって、このような分類しか認められない道徳理論もやはり不適切である。本論文の主な課題は、この分類からもっとも顕著に外れている二種類の行為に注目することで、分類の不適切さを示すことにある。ここで注目する事実にもっとも容易に対処できる理論はどのようなものかという点も少し考察してみるが、第一の関心事はあくまで事実のほうにある。


 我々は、「聖人」という言葉を宗教的な意味抜きで純粋に道徳的な意味で使って、人を聖人と呼んだり、行為を聖人的だと言うことがある。また我々は、人のことを英雄と呼んだり、行為を英雄的だと言うことがある。こうした「聖人」や「英雄」といった言葉が、少なくとも普通は肯定的評価のために使われることは議論の余地がない。この評価が常に道徳的な評価であるとは限らない。道徳的な意味ではなく宗教的な意味で人を評価するときに聖人と言うこともあるし、道徳的性質が発揮されるわけではないゲームや運動競技にかんして人を英雄と呼ぶこともあるからだ。とはいえ、これらの言葉が道徳的評価に用いられる場合もあると示すのにいちいち形式的な議論は必要ないだろう。

 さて、「聖人」や「英雄」が道徳的評価語でありうるなら、我々がこうした言葉を道徳的文脈でどのように用いているか、その暗黙の基準を明示化してみることができるだろう。我々はこれらの語を複数の状況で用いており、また「英雄」と「聖人」の用いられかたには、密接な並行関係があるように思われる。ここでは、これらの語が用いられる状況のなかでも、互いに大きく異なるため区別したほうがよさそうな状況を三種類挙げてみよう。このうち二種は上述した三分類に十分当てはまるので、以下では簡単に触れるにとどめて、第三の状況に注目したい。第三の状況こそ、[200] 例の三分類に当てはまらず、本論文の目的にとってもっとも重要なものである。

 次のような場合、人は聖人と呼ばれうる。すなわち(1)ほとんどの人であれば傾向性、欲求、自己利益によって責務を果たさない場面で、常人離れした自制心を発揮して自らの責務をきちんと果たす場合。これと並行して、次のような場合、人は英雄と呼ばれうる。すなわち(1)ほとんどの人であれば脅威、恐怖、自己保存への衝動によって責務を果たさない場面で、常人離れした自制心を発揮して自らの責務を果たす場合。同じことが行為にも言える。行為が聖人的だと言われうるのは、(1)ほとんどの人であれば傾向性や自己利益によって道からそれる場面で、自制心の徳によって義務が果たされた場合である。行為が英雄的だと言われうるのは、(1)ほとんどの人であれば恐怖や自己保存への衝動によって道からそれる場面で、自制心の徳によって義務が果たされた場合である。この種の状況における聖人的なものと英雄的なものの違いには、前者が欲求や自己利益への抵抗にかかわるのに対して、後者が恐怖や自己保存への抵抗にかかわる、という違いしかない。この違いは非常にはっきりしたものだが、どちらに相当するか不透明な事例や、動機が混ざりあっている事例もあるかもしれない。こうした場合には、行為を聖人的と言っても英雄的と言っても、どちらも等しく適切だろう。このように特徴づけた英雄的なものと聖人的なものの具体例を挙げることは容易である。未婚の娘が、未亡人で病気の父の看病のために実家にとどまる行為は聖人的であるし、ペストが蔓延する町で医師は怯えながらも患者のもとに英雄的にとどまるのである。

 次のような場合も、人は聖人と呼ばれうる。すなわち(2)ほとんどの人であれば傾向性や自己利益によって責務を果たさない場面で、前述したような常人離れした自制心によるのではなく、努力なしで、自らの責務を果たす場合。並行して、次のような場合も、人は英雄と呼ばれうる。(2)ほとんどの人であれば恐怖によって責務を果たさない場面で、努力なしで、自らの責務を果たす場合。これに対応する聖人的な行為(2)および英雄的な行為(2)の説明はいちいち言わなくてもわかるだろう。前段落で見たのは著しく自制的で克己的な行為であったが、それに対してここで問題となっているのは、[201] アリストテレスの意味で著しく有徳な行為である。このようなかたちで誘惑から解き放たれたり恐怖に打ち勝つ人は少数かもしれないが、アリストテレスはたしかにそういう人は存在しうると考えた。今日では、この手の人は単に幸運なだけだとか、想像力が欠けているだけだなどと思われがちであるが、アリストテレスはこうした人々のことを、自制心を発揮する必要がある人よりも高く評価していたのである。

 ここまで見た二種類の状況では、明らかに、責務という概念に当てはまる行為が問題になっている。大雑把に言えば、我々が人を聖人的とか英雄的とか言うのは、ほとんどの人ではできないような困難な場面で責務を果たすからなのだ。このことを論証したり具体例を出したりすることに時間を費やす必要はない。というのも今私は、本論文の目的に鑑みて、「聖人的」や「英雄的」という言葉にはこのような用法もあると譲歩しているだけだからだ。このような用法に限れば、「聖人的」や「英雄的」という言葉は、私が不適切だと言いたい例の三分類でも明らかに受けいれることができる。というわけで、「英雄的」・「聖人的」という言葉の第三の用法にすぐさま進んでしまおう。この用法については、私は単に認めたいと言うだけでなくきちんと確立しなければならない。

 さて、私の考えでは、我々は次のような人も聖人と呼ぶことができる。それはすなわち、(3)反対の傾向性や自己利益を制御するのでも努力なしで行うのでもかまわないが、当人の責務の範囲をはるかに超えた行為をする人である。これと並行して、我々は次のような人も英雄と呼ぶことができる。それはすなわち、(3)自然な恐怖を制御するのでも努力なしで行うのでもかまわないが、当人の責務の範囲をはるかに超えた行為をする人である。このような行為は聖人的(3)ないし英雄的(3)である。私はこれこそが、真に卓越した(par excellence)英雄や聖人、英雄的行為や聖人的行為であると思う。ここまで検討してきたのは、二流の(minor)聖人と英雄だったのだ。 上で挙げた、ペストに襲われた町で患者のもとにとどまる医師の行為も、たしかに英雄的行為だった。だが今考えるべきなのは、他の場所にいる無数の医師と変わらない立場のある医師が、ペストが襲う町で枯渇した医療部隊に志願して加わるという事例である。[202] また、上で念頭に置いていたのは、多くの兵士であれば萎縮してしまう危険に直面しても英雄的に責務を果たす兵士——英国陸軍のアーミーメダルが授与されるにふさわしい人物であった。だが今考えるべきなのは、上官の命令以上のはたらきをする兵士——(死後のことも多いが)ヴィクトリア十字章が授与される人物である。同様に我々は、義務のための聖人的な自己規律から目を転じて、他者へ奉仕する献身的で謙遜な人生、それも、多くの素直で優しく誠実な人ではおくるつもりもない、それどころか考えさえしないほどの人生へと、目を向ける必要がある。

 一点はっきりさせておきたいのだが、今考えている事例は、母親が子どものために自己を犠牲するといった、自然な愛情の事例ではない。こうした事例は、そもそも道徳という概念には当てはまらず、別のしかたで称賛されるべきだと言ってもよいかもしれない。目下考察している事例は、おそらくその他の道徳的行為の場合と同様に、自然な情動との結びつきはむしろ弱いと考えることができる。このことをはっきりさせるために、「英雄的」(3)が意味する事例についてより詳しく考えてみよう。

 ある兵団が、手榴弾の実弾を投げる訓練をしている様子を想像してほしい。一人の兵士の手から手榴弾が滑り落ち、兵団の近くの地面に転がった。別の兵士が手榴弾の上に身を投げて命を犠牲にし、その身体をもって戦友たちを守った。こうした人物を突き動かした情動が、兵団のなかに親友がいたら生じたであろう〔自然な〕情動と同種のものだとはまったく考えがたい。この人物は兵団に最近入隊したばかりかもしれず、そうだとしてもこの行為は明らかに道徳的地位をもつ行為である。ところで、もしこの兵士が手榴弾の上に身を投げなかった場合、それは自身の責務を果たさなかったことになるのだろうか。あるいは、身を投げた兵士はその他の兵士よりもなんらかの点で明らかに優れているだろうが、では他の兵士のほうは自ら犠牲になろうとしなかった点で自分の責務を果たさなかったと言えるだろうか。犠牲になろうとしなかった兵士に対して、[203] 誰か他人が、「あなたは手榴弾の上に身を投げるべきだった」と言えるだろうか。上官が身を投げるよう命じたとしたら、それはまともな命令でありうるだろうか。これらの疑問に対する答えは、はっきりとノーだ。そうすると、我々はここで明らかに、例の分類に当てはまらない道徳的行為、英雄的行為の例を手にしていることになる。

 だが、この結論に納得しない人もいるかもしれない。それも、単に従来の学説を守りたいという理由ではなくて、よりきちんとした理由、たとえば次のような理由がひきあいに出されるかもしれない。例の身を投げた兵士に、なにかを感じたり考えたりする時間の余裕があったとすると、おそらく身を投げるべきだと感じただろう。それが適切な行為なのだと考えただろう。そして、もし身を投げなかった場合には、他の誰が責めずとも自らを責めることになっただろう。この想定のようなかたちで行為が我々に現前してくる場合、その行為をすることが我々の責務なのであって、他に選択肢はないのだ、と論じることができるかもしれない。私の主張に対するこの反論にはたしかに見るべきところがあるのだが、しかしこれは問題を誤解している。私は、英雄は英雄的行為を任意のもの(optional)、つまりすることもしないこともできるものと見なすのが自然だなどと言いたいわけではない。そのように行為する義務があると当人が見なす可能性については、私も認めるにやぶさかではない。しかしそうだとしても、たとえば英雄がその行為のあと生き延びたとして、「私は責務を果たしただけです」などと言えば、これは欺瞞的に見えるほど過剰に謙虚というものだろう。というのも、この英雄が責務の求める以上のことをしたことは、我々も当人も承知しているからだ。さらに、たしかに英雄はその行為が責務だと自らに言うかもしれないが、同じことを事前に他の誰かに言うことはできなかったであろうし、また他の誰もそう言うことはできない。当人の主観的には、行為の時点でその行為が責務として現前したのだが、〔実際には〕責務ではなかった、と言ってもいいかもしれない。
 
 別の例、次は聖人性の例を出すとよりわかりやすくなるだろう。ボナヴェントゥラの記録によれば、ある特別な機会にアッシジのフランチェスコが鳥たちへの説教を終えたとき、同僚たちがフランチェスコを囲んで称賛と感嘆の声をあげたという。だがフランチェスコ自身は少しも喜ばなかった。というのも、これまで鳥の世界へ説教しなかったことを深く後悔しており、[204] 今やそれが自分の責務だと考えていたからである。実際、適切な人物がこれこそ自分の責務だと思わないような行為は、聖人性をまったく帯びていないだろう。だが、これまで鳥たちへの説教をしてこなかったことと、(どんな小さなものであれ)はっきりとした責務不履行とのあいだには、天と地ほどの差がある。第一に、フランチェスコであれば自分は責務を怠ったとして自らを非難してもおかしなことではないが、他の人が同じことで(約束を守らなかった場合と同じように)自らを非難するなどということはまったく馬鹿げている。第二に、鳥たちへの説教を怠った他人をフランチェスコが責務不履行として非難した記録も残っていない。フランチェスコは、この説教は自分にとっては責務なのだと主張し、もしかすると他人にもそれを勧めたかもしれないが、他人が説教しないのを非難することはありえなかっただろう。

 ここまでの要点をまとめると、次のことは明らかであると思われる。どんなに現実離れした(quixotic)、英雄的な、あるいは聖人的な行為であっても、行為者はそれが自分に義務づけられるとみなすことがありうる(真実を語ることや約束を守ることを義務づけられていると感じるのと同じように)。こうした行為は、熟慮のなかで任意の選択肢として現前するわけではないのだ。しかしながら、そうした行為が自分の責務だと言えるのは行為者当人だけであり、また他者の行為ではなく自分自身の行為を熟慮する場面のみの話である。また、自分自身についてであっても、客観的な報告としては〔その行為が自分に義務づけられているとは言えない〕。さらに、他の誰であっても、真実を語ることや約束を守ることを要求するのと同じようなかたちで、このような行為を行為者当人に求めることはできない。これらのことから考えるとこの事例は、すべての人にとっての責務であり、誰の観点から見ても責務であり、誰が注意してもよいような、最低限の責務とは非常に大きく異なっている。したがって、上で架空の反論者が挙げた論点を否定しなくても、英雄的行為や聖人的行為が責務という概念にうまくおさまらないと主張することは可能なのである。

 さて以上をもって、次の点は確立されたとしよう。倫理学は、責務・許容可能な行為・不正な行為という単純な三分法やそれに実質的に類似した図式ではなくて、[205] なにかもっと複雑なものを扱わなければならない。少なくとも、道徳的価値はたしかにあるが責務という概念の外にありその範囲を超えていると思われる行為を加味しなければならないのだ。そうした行為は英雄的ないし聖人的と呼ぶにふさわしいものであった。だが実のところ、英雄的行為や聖人的行為は、責務の基本的要求を超えている行為のなかでも顕著な例であるにすぎず、そのすべてではない。例えば、無私の親切心や寛大さのなかには、明らかに基本的責務の要求を超えているが、「聖人的」や「英雄的」といった高貴な称号を要求することはできないような事例がありうる。実に、〔聖書に言う、誰かが一マイル行くように強いるときに〕二マイル行くような行為はすべて、この種の事例なのだ。なぜなら、最初の一マイルを行くのは基本的責務であるが、もう一マイル行くことはそれと同じ意味での責務ではありえないからである。もしこう考えず、二マイル行くことが責務だと論じはじめてしまうと、この二マイルのルールの精神は今度は一緒に四マイル行くことを要求することになり、これが繰り返されて、いつでも無限の旅に行く必要があることになってしまう。公平なやりとりの要求よりもわずかに寛大に、慎み深く、協力的に、また寛容になることで、自らの責務を少し超えて行くことができる。あるいは、聖人や英雄とともに、責務の基本的規範をはるかに超えていくこともできる。私は英雄的行為や聖人的行為に注目してきたが、それはこうした行為が、いま批判している三分法の外にあってほとんどの倫理学理論の範囲外にあるような行為の領域全体のなかで、顕著な例であるからにすぎない。

 ここまで述べてきた事実が倫理学にどのような含意をもつかを検討する前に、似ているがそこまで高尚ではない例にも注意しておくのがいいだろう。我々がなんらかのクラブに所属しているとすると、そのクラブには成文化はされていないかもしれないがとにかく規則があって、一定の基本的要求を守るよう求めており、その要求は会員の条件あるいは会員の義務だとされているだろう。会費を払うといった基本的要求がこれに相当するかもしれない。このとき、会費を小切手で払うか現金で払うかはおそらくどうでもよい——どちらの手続きも「正しい」——だろう。[206] また、会合にどのような帽子をかぶってくるかはほぼ確実にまったくどうでもよいことだろう。なにが言いたいかというと、伝統的な三分法に従えば、クラブの規則に従うことが責務を果たすことに相当し、規則違反は悪行に相当、そして多くのどうでもよい〔つまり、善悪無記の〕行為があるのだ。だが、こうしたクラブできちんと規則を守っている会員のあいだにも、いかに大きな違いがありうるだろうか! おそらくだが、こうしたクラブがうまく運営できているのは、一人あるいは二、三人の会員の献身と熱心な奉仕のおかげであり、それはその他すべての会員のあらゆる活動の合計よりもはるかにクラブに貢献していることだろう。こうした人々はクラブの英雄ないし聖人であって、その他の会員に求められることよりもはるかに多くを行っており、そうした多大な奉仕は規則では要求できないものである。こうした人々のあとに、意欲的な人からぬるい人まで様々な人が続く。その貢献の価値は様々であるが、規則の要求をほとんど超えないこともある。人々が社会に対してなす道徳的な貢献も、その価値の点でこれと同様なのである。

 さて、以上が注意していただきたい事実である。これらは単純な事実であって、私の提示のしかたが悪くなければだが、我々は全員このことをある意味で完全に認識しているはずだ。だから、これまで道徳哲学者たちが聖人や英雄の存在に気づいていなかったとか、著作で一度も言及したことがないなどと言うのは馬鹿げたことだろう。だが、道徳にかんする一般的、体系的な説明のなかでこうした事実が無視されてきたというのはどうやら本当なのだ。実際、いくつかの著名な理論のなかにこうした事実の居場所がないことを理解するのは容易である。ムーアや多くの功利主義者にとっては、ある状況において可能な最大の善をもたらす行為がなんであれ責務である。そうすると、もっとも英雄的な自己犠牲や聖人的な自己滅却も、真実を語ることや約束を守ることとまったく並んで責務だということになってしまう。カントにとっては、賢慮の助言と熟練の規則〔という二種の仮言命法〕以外には責務の定言命法があるだけで、すべての責務は等しくまた完全にすべての人を拘束する。[207] カントが聖なる意志という極限事例を認めていたことはたしかだが、この聖なる意志というのは責務を超えた意志ではなくて、命法に従った行為しかできないという意味で道徳を超えた意志のことである。ここまで見てきた事例でこの聖なる意志にもっとも近いのは、我々の言う第二の意味での聖人の意志——多くの人ができない状況で自らの責務を努力なしに果たす意志——であろうが、これも完全な並行事例とは言えないし、またいずれにせよ聖なる意志は、我々が主に注目している、義務を超えた道徳的行為のなかに入ってくるものではない。また、カントが徳や才能に条件つきの価値を認めていたことも事実ではあるが、その価値は道徳的な価値ではなかった。これに対し、目下考察している英雄性や聖人性を帯びる行為は道徳的価値に満ちており、しかもその価値は無条件のものだと誰もが思うだろう。カントの倫理学上の仕事を専門的に検討しなくても、カントが目下の事実を一貫したかたちで正当に評価していたわけではないことは明らかにわかる。最後に直観主義についてだが、私はこの理論はあまりにも曖昧だと思うので、本件について直観主義者がなにを言うかを予言したくはない。だが、私が著作に目を通してきた直観主義者たちに限って言えば、その理論が基づいているのは、直観への合致や、とりいそぎの(prima facie)責務や要求であり、こうした特徴をある時点で最も大きくもつ行為が責務だとされる。直観主義者たちは、より大きな要求と小さな要求の区別や、より強い要求と弱い要求の区別を認識しているものの、しかしこれは責務の対立という問題を解決するためのものであって、責務ではないが高い道徳的重要性をもつ行為にはなんの居場所も与えていない。

 このように、単純な功利主義、カント主義、直観主義はいずれも、聖人や英雄に明確な理論的位置を与えていない。聖人や英雄の事実を受けいれられるように理論を改定することももちろん可能だが、改定がうまくいくまではこれらの事実は受けいれられないとするほかないし、あるいは必要な修正を加えた結果として理論のもっともらしさが失われることも十分ありうる。たとえば直観主義者であれば、聖人、英雄、慎み深さ(decency)、正々堂々(sportingness)といった自然ではない特徴にかんする直観も取りこめるのだと言うかもしれないが、[208] その場合、まじめな労働ではなく窃盗から利益を得ている*1という印象を強めることになってしまうだろう。

 したがって、我々が道徳理論家として見つけなければならない理論は、次の二つを両方とも認めるものでなければならない。第一のものは絶対的責務で、これは(ミルの表現を借りれば)負債として要求できるものであり、これを果たさないことは不正であって非難に値し、おそらく形式的な規則や原理の形にすることができる。そして第二のものは、道徳的価値をもち、行為者当人としてはそれを行うよう求められていると感じるが、しかし実際は要求されておらず、またそれをしなかったからといって悪行に相当するわけでもないような、一連の行為である。ここまで示唆してきたように、従来の道徳理論はこの両方を認めることには失敗している。聖人と英雄の事実を含むあらゆる事実を認めるような完全な道徳理論をいまここでつくることは本論文の範囲を超えているし、おそらく私の能力も超えている。だが、伝統的な理論でこの事実にもっとも容易に対応できるのは功利主義だと私は考えているので、以下ではこの見解を補強するいくつかの考察を行いたい。


 ムーアは内在的に良いものの本性を精確に規定するのに多大な労力をはらい、またミルは最高善について同様の労力を払った。ムーアの目的は、個別の行為の正しさと不正さを直接的に説明することであり、ミルの目的は、個別の行為の正しさと不正さを説明できるような一連の道徳原理を正当化することだった。だが通常、義務に関する問題というのは、(なかには非常に厄介なものもあるが、)究極目的を精確に決定しなければ解けないようなものとしては生じてこない。心にすぐに浮かぶような道徳原理、たとえば真実を語る、約束を守る、殺さない、盗まない、暴力を振るわない等々を考えてみると、最高善の精密な決定などは話に関係ないように思える。これらの原理に従うことで、ムーアの言う一連の内在的良さが達成されているか、[209] ミルの言う幸福が達成されているか、などと議論する必要はない。こうした原理なしでは社会生活は不可能であり、人生は孤独で、貧しく、乱雑で、粗野で、そして短くなってしまうことを認識していればそれで十分なのだ。自己利益が道徳の唯一の基礎だと思っている人もいるが、その自己利益の観点から見ても、こうした原理を説くこと(従うこと、とまでは言えないにせよ)は賢明であると十分言える。このような考えかたは新しいものではなく、功利主義者のなかには最高善の達成ではなく最低悪の回避を道徳の基礎とするに至った者もいる。 ただしこれは道徳の地位をあまりにも卑しめていると思う人もおり、そうした思いもある程度正当である。

 これに対し、我々が本論文で見てきた事実は、最高善の話とたしかに関係している。殺さないことがどのような理想にかなっているのかという問いはたしかに馬鹿げているが、上で見たような英雄的行為について、それは単に反社会的行動をしていないだけだなどと考える人は誰もいない。ここにあるのはもっと豊かななにか、積極的な理想によって奮い立たされる必要のある行為だ。もし責務というものが、ミルが言うように、負債として要求できるものであるとすれば、その理由は、責務とは人々が共に暮らしていくための最低限の要求だからである。責務を超えた行為という積極的な貢献は、このようなかたちで要求することはできない。このような考えかたは、高尚な道徳を称える一方で責務を見下しており、責務に対して過度に冷笑的になっていると言われるだろうか。この反論の言わんとすることが、責務を果たすことがいかに難しいかを忘れている、あるいは、責務を果たすことも英雄的・聖人的と呼ぶに値しうる、ということなのであれば、それはすでに上で認めている。責務を果たすことの難しさは、忘れられているわけではなく、単に今回の話には関係がないのだ。目下の論点は、行為の道徳的分類のなかで責務が占める位置がどこかという問題であって、道徳的行為者の価値の問題ではない。あるいは、私が責務について低俗で限定的な見解に諾々と従っているように見え、もっと責務を拡張して考えよと言われるかもしれない。かくかくの責務を果たす必要がある、またできればしかじかをしてほしいが要求はしない、などという話に甘んじず、もっと野心を持ったらどうか。[210] 責務の概念が道徳全体を包括しないのは、その概念が不完全だからではないか、と。この問題についてごく簡単に検討しよう。我々が責務を超えた道徳を認識していること自体は間違いないと思われるので、この認識が適切であると私が考えるのはなぜなのかを説明したい。

 さて、いやしくも知的な人物であれば、自分の道徳的見解は絶対に誤らないなどとは言わないだろう。だがこれを認めると、自分の道徳規範は自分が見る限りでは理想的だ、と言わなければならなくなる。というのも、「私は道徳規範Aを承認しているのだが、道徳規範Bのほうが優れていることは明らかだ」などと言うことは、「私は道徳規範Bを承認しているが、道徳規範Aに従って生きるつもりしかない」と言っているようなものだからだ。ある意味では、誰もが自らの道徳規範を理想的なものとして正当化する用意がなければならないのだ。だが、これがどういう意味での正当化なのか誤解している哲学者がいる。多くの哲学者は、自らの道徳規範を理想的なものとして擁護するためには、それが人間を超えたア・プリオリな妥当性をもつと示す必要があると考えてきた。たとえばカントは、自分が受けいれる道徳原理は、人間であれ天使であれ理性的存在であれば不可避的に受けいれなければならないものなのだと示そうとした。経験主義者として知られるロックも、道徳法則の演繹的正当化が可能でなければならないと考えていた。こうした主張をする哲学者は、意図せず、道徳の首を締めてきた。というのもこれらの哲学者は、道徳規範が理想的体系である、つまり、時間・空間・状況・人間本性から独立した、理性的に正当化可能な体系である、と示すことはできなかった。そしてこの失敗によって多くの人は、道徳規範にはいかなる正当化も不可能なのだ、道徳規範とは好みや慣習の問題なのだ、と結論するに至ってしまったのである。

 だが、私の理解では、道徳とはそもそも人間のニーズに役立つべきものであって、たまたま人間と関わりをもっているようなものではない。そして、道徳が理想的であると示すというのは、それが人間にもっとも役立つと示すことなのだ、ここでいう人間とは、ありのままの人間、人間がなれるかぎりの人間であって、完全に理性的な人間や身体を持たない天使のことではない。機械を作るときに、[211] 機械学の原理という抽象的概念によれば最善の結果が得られる、というふうに作るのは愚かなことであって、〔機械を使う側の〕人間の不器用さや無知、不注意にある程度耐えられるようにするほうがはるかに望ましい。これと同様に、我々の道徳も、実際に機能するものでなくてはならない。「理想」という言葉の意味を、行為にとって重要なものに限って考えれば、そこには「道徳規範は人間の幸福に実際に寄与しなければならない」ということが含まれている。だから、天使にしか機能しない道徳規範(天使には道徳規範など不要だろうが)は、人間にとっての理想的道徳規範からはかけはなれている。たしかに、理想には人間のあいだでは事実上機能しないものもあり、それは設計図だけはあるが生産されない機械のようなものだ。そうした理想は、責務の基本的規範になるべき立場のものではない。

 では、我々は人間のニーズにもっとも寄与する道徳規範を目指しているとしよう。この目指すべき規範は、その規範が承認されている世界はその他の規範が承認されている世界よりも良い場所だという意味で、理想的なものである。このとき、こうした理想的道徳規範が、基本的規則(単純な規則のかたちに要約され全員を拘束するもの)と高尚な道徳(聖人性や英雄性を顕著な事例とするもの)とを区別するべき理由が数多くあると思われる。以下に挙げる。
 
1. 道徳の要求をすべての人が遵守することが不可欠な事柄については、緊急性の点で特別の地位を与えて、厳しい圧力をかけることが重要である。英雄的に勇敢な人物がいない軍隊は貧弱だろうが、軍法が規定する責務への注意を全般的に欠いた軍隊は暴徒と化す。同様に、聖人や英雄のいない世界では人生は貧しいだろうが、貧しいだけであって、基本的責務が無視されている場合のように粗暴で短い人生になるとは限らない。

2. 負債としての基本的責務に対して厳格になり、その不履行に厳罰をもってあたるのであれば、そうした責務は(通常の状況では)普通の人でも履行可能なものでなければならない。[212] ほとんどの人が明らかにやる気になれない行為について、「あなたは、いや誰であっても、それをしなればならないのだ」などと自分自身や子どもたち、また同胞たちに言うのは愚かだろう(あなた自身としてはその例外になろうと決意しているのかもしれないが)。このことの並行事例を実定法の領域から挙げてみよう。禁酒法は米国国民に過剰な要求を課したため、全面的に破られることになった。そして、法律違反が常態化していくと、当然、法律に対する尊重も全体的に低下していった。全員が法律に従うことはもはや期待できないとみなされるようになったのである。英国の賭博法も同様で、その一部がまったく非現実的なものであったために、全体としても軽視されるようになった。これと同じように、同志のために命を犠牲にする英雄的行為を基本的責務だとしてしまうと、責務という概念が本当は持っているはずの緊急性や厳格さが低下してしまうだろう。基本的な道徳規範は、普通の人が普通の状況で可能な範囲をおおきく超えた部分を含んではならない。そうでなくては、責務はなにか高貴で到達しがたいものに見え、「我々のようなもの」には関係ないと思われてしまい、道徳規範の遵守全体が崩壊してしまうことは必定である。山上の説教を称賛する人でも、〔一方の頬を打たれたときに〕反対の頬を向けないことや〔下着を取る者に〕上着まで与えないことを、十戒違反と同じように扱うことは実際にはしないし、できない。どんなに熱心にキリスト教的生活を志していようとも。

3. 道徳規範は、規範である以上は定式化できなければならないし、またその定式が手に負えないほど複雑な規則の形になってしまえば、遵守可能にならない。普通の人が道徳規範を適用し解釈するさいに、最高裁判所や貴族院並みの力量が必要になるのではいけない。だがここで求められる規則が手に入る状況は限られていて、問題となる行為がかなり容易に認識でき、しかもその種の行為がほぼ例外なく望ましい、もしくは望ましくない、という状況でなくてはならない。たとえば、殺人はほぼ例外なく望ましくなく、約束を守ることはほぼ例外なく望ましい、といった具合である。もし、明確で比較的単純な規則では正当に対応できない状況に直面した場合には、そもそも、特定の種類の行為全体を責務として課したり罪として非難するような次元の道徳で対処することは不可能なのである。[213] 〔具体例で考えよう。〕ある人が、らい病者の世話のために遠くから駆けつけ、道徳的に大きな価値をもつ行為をおこなう、といったことがたしかにたびたび起こる。だがすぐ上の 2. で述べたように、こうした行為は平均的な人の能力を超えており責務とは言いがたい。らい病者を世話するために遠くから駆けつける〔という種類の行為全体〕が、あらゆる状況のあらゆる人に期待されていると考えるのはまったくおかしなことだ。かといって、こうした行為が責務となる条件を規定するような複雑な規則を定式化しようというのも馬鹿げている。同じ論点は、この行為ほどは目を引かない事例、たとえば正当な負債を免除するとか、病気の隣人の世話をするといった事例にも容易に当てはまる。

4. 責務概念には、「我々は自分が利害関係者である場合でも、他人に責務の遵守を要求する権利がある」ということが部分的に含まれている。私はあなたに、私との約束を守るよう要求できるし、私に真実を語るよう、また私に暴力をはたらかないよう要求できる。そしてあなたがこれに違反した場合には、あなたを非難できる。これに対して、見知らぬ病人の面倒をみることは、いかに立派であっても基本的責務ではなく、我々が病気の時に世話してくれなかった赤の他人を非難する権利など我々にはない。また私のタバコが切れていたときに、あなたがタバコをくれなかったからといって、あなたは私に対する責務を果たしていないなどとは言えない。タバコを渡さなかったあなたは、自分はケチだったなと後から強く後悔するかもしれないが、それは今の話とは関係ない。他人に期待したり(expect)要求したりできることと、他人に望む(hope)ことしかできないこととのあいだには、線が引かれなければならない。後者については、もし叶ったら感謝とともに受け取るのみである。責務はこの線のこちら側〔前者側〕にあり、その他の道徳的に価値ある行為はむこう側〔後者側〕にある。そしてこれは適切なことなのである。

5. 基本的な道徳的責務によって、我々の行為は一定の制約を受けることになる。このような根本的な事柄については、遵守するようお互いに圧力をかけていく他にやりようがない。ここでは、道徳法則は個人的な理想よりも公的な法律に似ている。だが、圧力下にあって行為することよりも、よりよい行為を自由に選択することのほうが常に望ましい(圧力が道徳的なものであった場合でもこれはあてはまる)。だから、もし可能なときには、圧力をかけるのはやめてしまって、[214] 行為しないことに強い要求や非難をくわえるのではなく、行為することに励ましや称賛を与えるほうがよい。もちろん、これは程度問題である。もしかすると、〔基本的責務を超えた領域に関しても〕、基本的責務以上の優しさや寛容さのほうへ歩みだすように人を説得したり、あるいは正しい人になると同時に厳格すぎる人にはなるなと人を説得するときには、それなりの圧力をかけることも理にかなっているかもしれない。だが、例えば約束を守るといった基本的責務を行うよう圧力をかけることにはなんの問題もないが、英雄的行為をしろと人に圧力をかけていくことには、なにか恐ろしいものがある。もちろん、当人はその行為をするよう道徳的に求められていると自ら感じることがあるかもしれないが、他人のために自分の命を犠牲にしろと人に圧力をかけるのは、道徳的に言ってとんでもないことだろう。

 以上の五つの点からわかっていただけると思うが、日常的な道徳的思考は基本的責務とその他の道徳的に価値ある行為とを区別していると私は考えているものの、それをもって、日常的な道徳思考が一般的な道徳理論家の思考よりも劣っていることの証だなどとは考えていない。日常的な道徳的思考は、決して、人を次善の策に甘んじさせるようなものではない。確かに、行為者自身の観点から見れば、〔道徳によって〕命じられているのは自分が考えうる最高の理想にしたがって行為できるよう努力することであって、その理想内にある行為が、責務なのか、何らかのより超義務的な行為なのか、というのは当人にとっては関係のないことだ。しかしだからといって単純に、両者の区別があらゆる点で無価値だという話にはならない。なぜなら、基本的道徳を要求するのと同じしかたで理想的行為を他人に要求するべきではないし、また、あらゆる領域での失敗を等しく責めるべきでもないからだ。他人に対して積極的な要求を最低限しかしないというのは、〔責務を軽く見る〕冷笑主義に陥ることでは決してない。むしろ、ある行為を責務とするということは、その行為をまさにそのような最低限のものとして要求するということなのだ。

 このように考えると、責務の命法とは、人々が社会のなかで共に暮らしていくために容認できない行為を禁じ、同じ目的へ向かう最小限の協力を要求するものだと理解できるだろう。[215] だからこそ我々は、責務の遵守を強制的なものとし、その不履行を公的非難に値するものとしなければならないのである。我々はベンサムのように、ピン押し遊びと詩は同じくらい良いものかを問う必要もなければ、ミルのように不満足なソクラテスと満足した愚者のどちらが良いかを問う必要もない。あるいはムーアのように、美しい世界はそれを見る人が誰もいなくても内在的価値を持っているかどうかを問う必要もない。社会のなかでなにが許容可能でなにが許容不可能かは、そうしたご立派な区別を前提するものではないからだ。だが実際のところ功利主義者たちは、責務の主な規則を最高善の観点から正当化しようするさいに、様々に異なる種類の正当化を行ってきた。その中には、許容不可能な結果を避けられるといったことから、極めて高尚な理念をあますところなく実現できるといったことまでが含まれているのである。

 したがって私としては、本論文で注目してきた事実をもっともうまく受け入れられるのは功利主義なのだと言いたい。だが私は、最高善や快楽の良さについて特定の見解を支持するつもりはない。功利主義ということで私が意味しているのは単に、行為の道徳的正当化は結果の観点から行われるべきだとする理論のことである。ここでは、責務は主に許容不可能な結果の回避にかかわり、その他の道徳的行動はより積極的な目的に関わる、と言うだけで満足しておこう。

 話をまとめる。責務、無記の行為、悪行という三分法は不適切であると私は述べてきた。本来の意味での責務を超えたものにかかわる行為は何種類もあり、聖人的行為や英雄的行為はその顕著な例である。この点に注意を喚起し、また道徳哲学者たちに対して、多くの伝統的理論のようにこの点を暗黙のうちに無視して理論化することのないよう求めることが、私の主要な関心事であった。また駆け足にはなったが、責務とは社会生活の許容可能な基盤を提供することのみを普遍的に求める基本的要求だとみなすことができる、とも述べた。この場合、普遍的要求を超えたより積極的な貢献をなすことが、より高次元の道徳なのだと考えることができる。[216] こうした高みは公に強要されるものではないが、許容不可能なことを避けるだけでは満足できない人にとっては、明らかに、自らの心の法廷に普遍的要求と同じくらい差し迫ってくるものだ。以上のような考えかたは一種の功利主義と呼べると私は提案したが、そう呼ぶべきかどうかは些細な問題である。

*1: 訳注:十分な検討なしに必要な直観をなんでも受け入れられるとただ言っているだけということ。ラッセルのIntroduction to Mathematical Philosophyに由来する表現。