えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

動物の権利と避妊・去勢手術の整合性 Boonin (2003)

digitalcommons.calpoly.edu

  • Boonin, David (2011). Robbing PETA to Spay Paul: Do Animal Rights Include Reproductive Rights?, Between the Species, 13(3), Article 1.

 犬や猫は頭数過剰によって大きな苦しみを経験している。この問題を解決する方策の一つが、避妊・去勢手術だ。この対策は、厳密に功利主義的な視点からはまったく正当だ。しかし権利論的な観点ではどうだろうか。避妊・去勢手術は手術を受ける動物自身の利益になるわけではなく、あくまで他の動物の苦痛を減じるにすぎない。だが、「他の動物の利益のためにある動物にコストを課す」というのは、権利論が拒否する典型的な理屈ではないか? 少なくともリーガンが『動物の権利』で展開した権利論によれば、犬や猫に対する避妊・去勢手術は正当化できないと、本論文では結論する。なお著者はこの結論を歓迎するものではなく、この問題がさらに議論されることを望んでいる。

問題

 リーガンは、「生命の主体」である個体は全て「敬意ある処遇」(respectful teratment)を受ける権利を持つと主張している。「生命の主体」である個体とは、一定の心理物理的同一性を通時的に持つ個体であり、1歳以上の哺乳類はおおむねこの種の同一性を持つと考えられている。ある個体が「敬意ある処遇」を受ける権利を持つ場合、その個体を害することで全体としてより良い結果が得られる可能性が高いとしても、その個体を害することは正当化されない。

 では、避妊・去勢手術について考えてみよう。こうした手術が動物、例えば猫のフラッフィー(メス)に与える苦痛は決して瑣末なものではない。フラッフィーは獣医に連れて行かれ慣れない恐ろしい環境に晒され、手術中には痛みがあるか、死のリスクもある全身麻酔をかけられる。手術には感染症や大量出血による合併症のリスクがあり、術後には意識障害、吐き気、身体的不快感が長ければ数日続く。これと同等の質および量の苦痛が、仮にシャンプーやヘアスプレー開発のために動物に課せられるのであれば、それは権利の侵害であるとリーガンは間違いなく考えるだろう。たしかに手術は利益をもたらすが、それはフラッフィー自身を益するものではなく、全体的な苦痛が減るということでしかない。したがって、これはフラッフィーへの避妊手術を正当化する理由にはならない。以上の議論にどう反論すれば良いだろうか。

反論と欠点

パターナリズムによる反論

 一つの反論方法は、避妊手術はコストを上回る利益をフラッフィー自身へ与えると主張することだ。もしそうであれば、狂犬病の予防接種を正当化するのと同じように、避妊・去勢手術もパターナリズムの観点から正当化できるだろう。しかしこの反論には2種類の問題がある。

 最初の問題は、避妊・去勢手術に本当にそのような利益があるのかという点だ。避妊手術が当動物にあたえる利益の候補が二つある。最初の候補として、避妊手術によってメスの乳がんのリスクが低減する。しかしこの利益に訴えることには3点の問題がある。第一に、そもそも乳がんになるリスクは高くない。第二に、最初の発情前に手術を行わないとリスク削減効果は小さい。第三に、去勢手術にはこれに相当する利益がない。利益の第二の候補は、妊娠に伴う負担を取り除けるというものだ。しかしこれにも2点の問題がある。第一に、これもオスには相当する利益がない。第二に、限られた品種を除き、犬や猫が妊娠において大きな外傷を負うことを示す証拠はほぼない。以上を考慮すると、避妊・去勢手術のコストを利益が上回るのはごく限られた場合のみで、典型的な事例では避妊・去勢手術は正当化できないだろう。

 第二の問題はより理論的なものだ。この反論はあくまで「当動物への利益が危害を上回らない限り避妊・去勢手術は許されない」という主張に立脚している。しかしながらこの主張は、犬や猫の頭数過剰という状況を踏まえた時、「避妊・去勢手術は許されない」という単純な主張と同じくらい反直観的ではないだろうか。つまり、こうした状況で避妊・去勢手術を正当化する根拠は「他の多数の個体への危害を防げる」ことだというのが直観的主張なのであって、〔以上の反論はこの直観をうまくとりこめていない〕。

養育の限界による反論

 あなたはフラッフィー1匹を世話することはできるが、子供までは面倒を見きれないとする。かといって、生まれてしまった子猫に対して無責任な態度も取れないとする。この場合の選択は、(A)避妊手術をした上でフラッフィーを飼うか、(B)避妊手術をせずフラッフィーを路上に放置/保護施設に入れるか、になる。(A)のほうがフラッフィーにとって良いのは明らかなので、避妊手術をすることは許容される。このような反論が考えられる。

 この反論の第一の問題は、野生の犬・猫に対する避妊・去勢手術を全く正当化できない点にある。そして第二の問題として、この反論は次のような前提に基づいている。すなわち、「あなたの一連の行為((A))が、それをしない場合((B))よりも個体の状況を改善する場合、その一連の行為はその個体の権利を侵害していない」。しかしこの前提は誤りである。もしこれが正しければ、例えば野良犬を保護した人は、その犬の状況が路上生活時より悪化しない限りで、その犬に対して何をしても良いことになってしまう。

早期手術による反論

 リーガンは、敬意ある処遇を受ける権利を持つのは1歳以上の哺乳類だとしている。この点に注目し、次のように論じることができる。犬や猫は1歳より早期に安全な避妊・去勢手術をすることができる。したがってこうした早期手術であれば権利論の立場と整合的である、と。

 この反論にもいくつかの問題がある。まず、この理屈だと1歳以降の避妊・去勢手術は許されないことになるが、これは元の主張同様やはり反直観的である。またリーガンは、カエルを例に挙げながら、「生命の主体」であるか否か確信が持てない場合には「疑わしきは罰せず」の方針で行くべきだとも述べている。実際、例えば生後3ヶ月のフラッフィーに敬意ある処遇を受ける権利を認めないとすると、多くの人がとても認めないような〔ひどい〕ことも許容可能になってしまうだろう。

安楽死との類推からの反論

 重度の苦痛状態にあり治療不可能な一部の動物について、リーガンは安楽死を許容している。こうした状態に置かれた動物には「苦痛を取り除きたい」という選好があると考えられ、この選好を満たす唯一の方法がその動物を殺すことである場合、安楽死は敬意の原則に適っている、というのだ。これは「選好尊重安楽死」と呼ばれる。同じ理屈で、「選好尊重避妊手術」を考えることができるかもしれない。すなわち、頭数過剰という現状を仮にフラッフィーが理解していたら避妊手術を望むだろう、という前提のもと、その選好を満たすために避妊手術をすることは正当だ、とするのだ。

 しかしこの議論は受け入れがたい。まず、頭数過剰状況を知ったフラッフィーが何を望むかは明らかではない。また仮にフラッフィーが「自分を犠牲にして他者の苦痛を取り除きたい」と望んでいたとしても、この理屈ではあらゆる「選好尊重」行動が正当化されてしまう〔その中には、とても許容できないものもあるだろう〕。

不正に宿されない権利からの反論

 仮に、自分(人間)の産む子供は重度で治療不可な苦痛に常にさらされ数ヶ月しか生きられないとわかっている場合に、それでもなおあえて妊娠・出産する人がいた場合、これは不道徳的だと多くの人が考えるだろう。この点に注目し次のような反論を構成できる。まず、今あげた妊娠・出産の悪さを説明するのに、〔可能的な子供が持つ権利として〕「不正に宿されない権利」(right not to be wronglly conceived)を想定することができるかもしれない。仮にこの権利があるとすると、フラッフィーの事例は権利侵害が不可避な事例になるかもしれない。すなわち、避妊手術をすればフラッフィーの権利が侵害され、避妊手術をしなければ子猫の権利が侵害される。ところで、リーガンはこうした権利衝突時における行動の方針として、2つの原則を提示している。第一の原則「権利拒否最小化原則」は、権利侵害によって受ける不利益は全ての関係者で等しいという仮定のもとで、権利を拒否される個体を最小限にせよというもの。第二の原則「悪化原則」は、権利が侵害された場合の小集団Xの状態と権利が侵害された場合の大集団Yの状況を比較し、前者が後者よりも悪い状態に置かれてしまう場合には、大集団Yの方の権利を拒否せよ、というものだ。ここで避妊・去勢手術の事例に戻ろう。不正な妊娠による子への危害は避妊去勢手術による親への危害より大きいと仮定し、また犬や猫は1匹以上の子を産むと仮定しよう。この時、避妊・去勢手術を行わないという選択は2つの原則を両方とも破ることになっている。したがってこの場合、リーガンの権利論の元でも、避妊・去勢手術を行うことは正当化される。

 この議論にどう応じるべきか。もちろん「不正に宿されない権利」なるものを否定する道もあるが、これを認めたとしても、この反論には多くの問題がある。第一に、フラッフィーの子猫たちの生が、生まれない方が良いほどに悲惨だというのはありそうにない。第二に、仮に子猫の生がそこまで悲惨だと仮定しても、フラッフィーの権利を侵害せず問題を解決する方法がある。すなわち、子猫を生まれてすぐ/離乳してすぐに殺すという方法だ(この殺害は、「選好尊重安楽死」として正当化できるだろう)。第三に、避妊手術を行う場合にフラッフィーの権利を侵害するのは我々だが、避妊手術をしなかった場合に子猫の権利を侵害するのは我々ではない。なぜなら、我々が子猫を妊娠するわけではないからだ。したがって我々としては、避妊手術を行うべきではない。なお、子猫の権利を侵害するのはフラッフィーでもない。なぜならフラッフィーは道徳的主体(moral agent)ではないため、「権利侵害」に相当する行動はできないのだ(リーガンはこの点について、我々は羊を狼から守る義務はないと強調している)。したがって、「権利侵害者の手助けをしてはならない」という根拠から避妊手術を正当化することもできない。

獲得義務からの反論

 Evelyn Pluharは次のように論じている。確かに避妊・去勢手術は、動物の生に干渉してはならないという義務論的理念に抵触しているように見える。しかしながら、私たちは家畜化/飼いならし(domestication)への関与という形で、すでに動物に干渉してしまっている。この事実に加え、さらに動物を引き受けようという意思があるのであれば、それによって我々は相応の義務を獲得することになる。この観点からは、猫・犬やその子供を危険に晒したり、路上に置き去りにしたり、安楽死施設に捨てるなどということは「不干渉」では全くなく、無責任な態度なのだ。

 この議論は、伴侶動物に関してであれば、その安全・健康などを維持する義務の存在を説得的に支持している。しかし、避妊・去勢手術の義務に関してはうまくいかない。というのもこの議論は、「もともと「許容可能だが義務ではない」行為がどのように義務的行為になるのか」を示すものであって、「もともと許容不可能な行為がどのように許容可能になるのか」を示すものではないからだ。第三世界の子供のために薬を買うことは許容可能だが義務ではない。しかしその子供を養子として迎え入れたのであれば、薬を買うことは義務である。これは確かに説得的だ。しかし、第三世界の子供に避妊手術することが許されないのであれば、その子供を養子として迎え入れたとしても、その行為はやはり許されないだろう。またPluharは、「人間の親が12歳の娘の妊娠を阻止する」という事例と、「飼い主が猫の避妊手術をする」という事例を類比的に論じている。しかし、前者が正当なのは当人に危害が及ぶというパターナリスティックな根拠によるのであり、後者にはすでに論じたようにそうしたパターナリスティックな正当化はできない。

まとめと今後の方向性

 リーガンの立場は、少なくとも典型的な事例では、犬や猫に対する避妊・去勢手術を正当化しない。この主張に対する反論を検討したが、そのどれもうまくいっていなかった。では、ここで我々はどうするべきなのか。3つの選択肢がある。

 第一は、この結論を受け入れるというものだ。この時、リーガンのようなタイプの権利論の支持者は、動物の権利論に避妊・去勢手術に反対するべきである。第二は、以上の議論を義務論的アプローチに対する帰謬法として受け取るというものだ。功利主義的アプローチであれば避妊・去勢手術は簡単に正当化できる。このことは、義務論的アプローチより功利主義的アプローチの方が優れていると考える理由となりうる。第三は、権利ベースのアプローチを修正すべきだと考えるものだ。著者としてはこの方向性を最も望んでいる。

修正の方向性を簡単に述べる。次の事例を考えよ。悪気のない(innocent)赤子が知らず爆弾のボタンを踏みそうになっており、それが爆発するとあなたは必ず死ぬ、止める方法は赤子を殺すしかない。この時、赤子には悪気はないとしても、それでもあなたが赤子を殺すことを多くの人は許容可能だとするだろう。同じことは赤子が犬であった場合にも言える。このことを説明するのに、次の要因に訴えることができるかもしれない。「この赤子/犬は、仮にボタンを踏むことの結果を理解できる道徳的主体であったならば許されないような行為をしている」。この要因が成立している場合、赤子/動物の(悪意ない)行為が他者に生じさせる危害と、それを防ぐために赤子/動物自身に課される危害が釣り合っている限りで、赤子/動物に危害を加えて他者への危害を阻止することは許される。このことからの類推で、我々には動物を避妊・去勢する権利があると言えるかもしれない。こうした議論の方向性は避妊去勢手術以外の事例に関する考察に動機づけられており、リーガンの立場を場当たり的に制限したものではない。

 以上の修正案はまだまだ暫定的だが、その他の選択肢より尤もらしいことを示せていればと思う。もし示せていない場合、本論文の議論が間違っていることを願う他ない。