えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自然的世界誌とは何か(フンボルト『コスモス』から) Humboldt (1846)[1849]

https://archive.org/details/cosmossketchofph01humbuoft/page/n5/mode/2up

※小見出しおよび注はすべて要約者による

自然の諸相およびその法則の研究から生じる様々な程度の享楽についての考察(承前)

思弁的自然学との差異

 [29-3] 本書で展開する「自然的世界誌」*1は、純粋に理性的な自然学ではない。それは、宇宙空間とそこに存在する物体との記述を伴う、自然地理学である。あくまで科学が記載して知性が検証した事実に基づき、宇宙を観照(contemplation)するものだ。

 確かに本書では、世界における諸現象の発展のなかに統一性(unity)を求めようとする。しかしその統一性は、歴史学的著作が到達しうる統一性に似ている。すなわちどちらの統一性も、あらゆる点で、偶然的な個別事象(individualities)にかかわっている。物体の本性や配置であれ、人間と自然あるいは人間と人間の争いであれ、現実に生じるもの(the actual)は様々に変化する多様なありかたをしており、決して、理性的な基盤のみに基づくものではありえない。言い換えれば、イデアのみから演繹されることはありえない。

自然の周期性(法則)と自然科学の目的

 [30-1] 自然現象・出来事について反省し、その原因を推論によって辿っていくと、或る古い学説の正しさにますます確信が深まる。すなわち、物質に内在する力や人間の世界を支配する力の働きは、ある原初的な必然性によって支配されており、それは周期的な運動に従っている、というものだ。[30-2] この必然性、隠れているが(occult)永続的な連関、形態・現象・出来事の漸次的発展のなかに見られる周期的回帰こそが、「自然」を構成する。

 [30-3] 自然学(Physics)はその名の通り、物質的世界の現象を物質的性質によって説明することのみを行う。従って、諸実験科学の究極目標は、法則を突き止め、それらを徐々に一般化することにある。それを超えた事柄は、より高次の思弁に属している。[31-1] カントは『天界の一般自然史と理論』(1755) で賢くも自然学的説明の限界を明確にしていた。

諸現象の連関と、その記述にふさわしいスタイル

 [31-2] 〔本書が試みるような〕多種多様な被造物を扱う研究は、実行可能なのかどうか不安がられるものだ。しかし今日では、観察の増加に伴って、あらゆる現象の連関がますます詳細に知られるようになっている。

 例えば、互いに独立だと思われていた植物や動物が、移行的段階の発見によって結び付けられている。ある大陸(に存在する種、属、科全体は、地球の反対側の大陸に存在する類似した動植物の中に、いわば反映している。有機体の大いなる系列(la grande série)のなかには、互いに補い合うような「同等体」(equivalents)が存在しているのだ。

 また無機物について。エリー・ド・ボーモン(Elie de Beaumont)によれば、複数の気候・植物相・人種を分かつような山脈も、[32-1] 堆積層や裂か(fissure)の方向を元に、その相対年代を明らかにすることができる。ハンガリー、ウラル(ロシア)、アルタイ(ロシア)の調査ではわからなかった粗面岩(tracyte)と閃長斑岩(syentic porphyry)および閃緑岩(diorite)と蛇紋岩(serpentine)の上下関係も、メキシコ、アンティオキア(コロンビア)、チョコ(コロンビア)での調査で解明された。

 現代において、自然的世界誌にとって重要な事実は、無作為に集められたものではない。遠くへの旅が有益なのは、旅行者が科学の現状を知り、自分の調査を理性によって導く場合に限られる*2

 [32-2] こうした〔諸現象を連関させる〕一般化によって、既知の自然学の多くの部分が、あらゆる社会階層の人々の共通財産となる。しかしそうした知識が、18世紀に「通俗知」と呼ばれていた形でまとめられると、本来の重要性が失われてしまう*3。科学的な主題は、それにふさわしい威厳や重厚さ、そして活気に満ちた言葉で語られるべきだ。そうすれば、日常生活に閉じ込められ自然との交流から長く遠ざかってきた人も、新しいアイデアで心が活気付くという最も豊かな楽しみ(enjoyment)を得ることができる。自然との交流は眠っていた知覚能力を呼び覚ます。それによって私たちは、物理的な発見がいかに知性の領域を拡張するか、そして、力学や化学などの応用がいかに国家の繁栄に寄与しうるかを、一目で理解するようになる。

自然科学の全分野は等しく重要である

 [32-3] 物理現象の連関について正確な知識を得るために、避けるべき誤りがある。それは、[33-1] 文明や産業の発展への寄与という点から言って、自然科学の各分野の重要性には差がある、という考えだ。実際のところ、偉大な発見の種が、完全に別物と思われていた現象の観察の中に潜んでいることは珍しくない。2種の金属との接触で神経が興奮するというガルヴァーニの偶然の発見が、ボルタ電池による化学的分析や温度測定に至るとは誰も予想できなかった。ホイヘンスによる光の屈折の観察が、フランソワ・アラゴ(François Arago)による偏光の発見につながり、さらには氷州石(Iceland spar)(右図)を利用した太陽や彗星の性質の研究に至るとは、誰も予想できなかった。

科学、産業、国家の繁栄

 [33-2] 各分野を等しく理解することは、現在では特に求められる。というのは今日において国家の物質的豊かさと繁栄とは、自然の産物と諸力を啓蒙的に利用する事にかかっているからだ。実際ヨーロッパを見れば、[34-1] 工業技術者育成競争から身を引いた国家は豊かさを失っている。自然のみならず国家もまた、「とどまることなく進歩発展し、あらゆる無為を呪う」(ゲーテ)ものなのだ。そして、自然に働きかけるためには自然を理解する必要がある(ベーコン)。ただし、〔自然に働きかけるためというのではなく〕自由な思考から生まれる知識もまた人の財産であり、天然資源が少ない地域でもそれを補って人々を豊かにしてきた。〔こうした純粋な研究を含む意味での〕一般的な産業化の動きに積極的に参加しない国は、豊かさを失っていくだろう。

 [34-2] 哲学、詩、芸術の目的が内なるもの(知性を高めること)であるように、科学は世界の活動力(vital force)を統べる法則や統一原理を知ろうとする*4。そして前述のように、自然研究は産業化に役立つ。原因と結果の間の幸福な関係によって、有用性は真や美や善に結びついているのだ*5。自由民による農業の改善、地方行政の拘束から自由になった工芸の勃興、[35-1] 国際交流の増加による商業の発展などは、人類の知的発展とそれに伴う政治制度の改良がもたらした素晴らしい結果である。

 [35-2] また、自然研究や産業への傾倒によって、哲学、歴史、古代研究などの知識の高貴な活動が停滞したり、芸術から生き生きとした想像力の息吹が奪われると考える必要はない。自由な体制と賢明な法の元で文明が発展するかぎり、知識の一領域が他の領域を犠牲にして振興されるという心配はない。物質的な豊かさをなすものであれ、より永遠的なものであれ、すべての知識は国家に貴重な果実をもたらす。

小括

 [35-3] 以下本書が取り組む内容はあまりに膨大なので、その応用の有用性についてこれ以上しつこく述べることはできない。筆者は遠くへの旅行に慣れているので、目の前の道を実際より快適であるかのように描く誤ちを犯しているかもしれない。高山ガイドは、山から見える景色の大部分が雲に覆われている場合でも、その景色を絶賛するものだ。なぜなら、それが見るものの想像力を掻き立て、景色にある種の魅力を与えることを知っているからだ。同様に、自然的世界誌の高みからだと、地平線のすべての部分〔=個々の知識の領域〕が同じように明確に見えるわけではない。[36-1] これは部分的には、現状の諸科学の不十分さに起因するが、しかし一部の責任は、愚かにもこんなに高い山に登ろうとしたガイドたる筆者自身にある。

コスモスと言葉*6

 [36-2] この序論の目的は、自然的世界誌の重要性と偉大さに注目させることだけでない。様々なアイデアの一般化によって、有機体と自然の諸力とを唯一の衝動によって命を吹き込まれた活動的な生ける全体として捉えることができる視座が得られると示すことも、目的の一つである。シェリングが述べたように、自然は不活性な塊ではない。熱心な探求者にとって自然は、「万物を自分自身から能動的に創造する、神聖で永遠に創造的な、世界の根源力(Urkraft)である」*7

 [36-3] 地球上の現象と宇宙の現象を一つの視点の元で統合することで、コスモスの科学の範囲を定めることができる。コスモスの科学は、単に諸科学の知識の百科事典的なものではない。そうした素材を元に、世界を統べる諸力の同時作用と相互連関を示すのが、自然的世界誌の高貴な役割である。本書では、部分的な事実は常に全体との関係で考察される*8。[37-1] 視点が高くなるほど、主題を生き生きとして絵画的な言葉で体系的に扱う必要が生じてくるだろう。そして言葉は思考と密接に結びついている。言葉が、優美さと明晰さをもって思考を解釈し、また外界の対象を生き生きと忠実に描きだすならば、思考の方にも命が吹き込まれる。この相互作用こそが、言葉を単なる記号以上のものにする。

 著者は、知的な統一に力を注ぐ国家〔=プロイセン〕を誇りに思い、母語で思考を表現できる利点を喜びをもって思い起こすものである。そして、世界の偉大な現象を説明しようとする中で、自由な思考とほとばしる想像力によって人類の運命に大きな影響を与えてきた言語〔=ドイツ語〕を使うことができる著者は、幸福である。 

自然的世界誌の限界と方法

 [37-3] 以下では、自然的世界誌を展開する方法について検討し、この学の限界を定める。[38-2] 個々の現象の描画(Delineration)に入る前に、まずいくつかの一般的な問題が考察される。ここには次のような考察が含まれる。

  • 1. 一つの独立した学としての自然的世界誌の正確な限界
  • 2. 自然現象の全体にかんする簡単な目録が、「自然の一般描写」として提示される。
  • 3. 外界が想像力と感情に与える影響。これらは現代では自然科学に向かう大きな衝動になっている。
  • 4. 自然観想の歴史、あるいはコスモスという観念の漸進的展開。
自然的世界誌の二面性

 [38-7] 自然現象を高い視点から考察する科学ほど、その限界をはっきり定めておく必要がある。[38-8] 自然的コスモス誌は、世界を構成するあらゆる物質的存在の観想に基づく。そこでこの学は、地球の住人たる人類に対しては、2つの形態で現れる。すなわち、地球に関する部分と宇宙に関する部分である。[39-1] このうちまず地球の部について考察することで、自然的世界誌の性格や独立性、他の学問(一般物理学、記述的自然史、地質学、比較地理学など)との関係を示そう。

分野の名称の問題

 近年、互いに密接に結びついた一連の研究をまとめることがますます困難になっている。言い表したい経験的知識の領域に対して広すぎる/狭すぎる学問名称が長年用いられてきたことや、名称の由来となった古代語の元来の意味との食い違いが、その原因である。「physiology」、「physics」、「natural history」、「geology」、「geography」といった名称は、各々が含む多様な対象について明確に理解されるはるか以前より用いられてきた。ヨーロッパで最も文明が進んでいるある国〔=イギリス〕では、「Physics」が医学に使われていたり、工業化学、地質学、天文学、純粋な実験科学が「Philosphical Transactions」としてまとめられている。

 [39-2] 古い名称を新しくより適当な名称で置き換える試みもしばしばあったが、そのほとんどが無駄であった。これを試みる人のほとんどは、知識の様々な領域の一般的な分類を行う人であった。古くはグレゴリウス・ライシュ(Gregorius Reisch)の『哲学宝典』(Margarita Philosophica, 1503)から、ベーコン、ホッブズ、ダランベール、近年では、アンペールの例がある。アンペールの場合、二分法の軽率な使用や分類が細かすぎるなどの問題もあったが、それよりも不適当なギリシア語の使用はさらに問題だったと言える。

原注:『哲学宝典』は、16世紀初頭にかけて数学的科学と自然科学の普及に多大な影響を及ぼし、中世における数学史において重要な役割を果たした(Chasles 1837)。著者もこの本を参照することで、新大陸をアメリカと名付けた最初の人物であるマルティン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemüller)、アメリゴ・ヴェスプッチ、ロレーヌ公ルネ2世、1513年版と1522年版のプトレマイオス『地理学』、のあいだの関係を調査したことがある(『新大陸の地理学史に関する批判的検討』Examen Critique De L'histoire De La Géographie Du Nouveau Continent: Et Des Progrès De L'astronomie Nautique Aux 15 Me Et 16 Me Siècles, Volume 4, 1837)

*1:この語のみ対応するドイツ語 Eine physische Weltbeshreibung の直訳とした。なお英語は The physical history of the universe、仏語は La physique du monde。

*2:ちなみに、同内容がカントの『自然地理学』序論第2節に見られる。「多くの旅行をした人は、世界に通じた人だと言われがちである。しかし、世界を知るということは、単に世界を見るということ以上のことだ。旅行から何かを得ようとする人は、前もって計画を持つべきであって、世界を外的感覚の一対象として捉えるだけではいけない。」(A157/B8)

*3:通俗性(Popularität): 18世紀ドイツの啓蒙思想の中に見られたスタイル。聴衆・読者を啓蒙するために、抽象的議論や学問的用語を避け、身近で具体的な事柄へ注目したり平易な日常用語を使用する。これに対してフンボルトは、自然的世界誌はむしろ人を日常性から解放するようなスタイルで書かれるべきだと考えていることが、この箇所からわかる。

*4:Vital forceを「生気」と訳さなかった。この語が有機体を形成する原理としての生気を意味していないことは文脈的にも明らかだが、加えて、『コスモス』の時期のフンボルトは生気というアイデアに否定的である(英 p. 57 参照)。若い頃には生気を受け入れていたのが、徐々に後退していったようだ(Gernot Rath, 1964, “Alexander von Humboldt and the Medicine of His Time”, Studies in Romanticism, 3, pp. 129–143)。なお仏訳は「自然の普遍的な生(活動)に現れる法則や統一原理(の発見)」((”la découverte des lois, du principe d’unité qui se révèle dans la vie universelle de la nature.”)としている

*5:仏訳に依拠。英訳は「美と高貴(the beautiful and the exalted)」。

*6:以下はフランス語訳には対応部分がなく、ドイツ語原文から直接英訳されている

*7:『造形芸術の自然に対する関係について』(Über das Verhältnis der bildenden Künste zu der Natur, 1807)からの引用。

*8:ちなみに、カントは自然地理学(と人間学)を、物理学(や経験心理学)とは異なった「宇宙論的=コスモス論的」(cosmologisch)学問だと規定している。ここで言う「コスモス論的」とは、狭義の宇宙とは関係なく、ある対象が持つ、その対象と全体との関係を理解させるような特徴を研究する学問のことをいう(『様々な人種』, A443)