えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

オランダの『情念論』:生理学から共和制へ Cook (2007)

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【要約】
オランダ時代のデカルトは同地で発展していた医学・生理学の研究にたずさわり、経験主義的になっていった。その中で、情念を生理学的に分析する『情念論』が書かれた。この著作でデカルトは、「理性によって情念をコントロールするべき」という従来の考えを捨て、「情念はそもそも良いものなのでそれに従って生きるべき」という新たな見解に達した。この考えかたは実践において自然主義的な人間本性を重視する一方で、超自然的な力、伝統的な徳、また理性の重要性を軽視するものであったため、宗教的教義や君主による支配に反対してオランダ共和制を支持する政治哲学の基礎として利用されていくことになった。

【目次】

情念の解釈

[247-2] 『省察』が生じさせた論争の中でもデカルトは医学研究を続けていた。1641年後半からとりくんだ『哲学原理』では動植物や人間に関する考察は後回しにされたが、「感官の対象」という見出しのもとで、情念に関して少し書かれている。『原理』は1644年に出版されたが、このころまでにデカルトは驚くべき結論に達していた。情念は身体の一側面で、幸福や健康について教えるものだとされ、道徳哲学ではなく生理学に関係づけられた。また、以前は情念を理性でコントロールする必要があると考えていたのが、すべての情念は良いものだと考えるようになった。

[247-3] こうした考察と転向をもたらしたのは、生理学の知識と、プファルツ王女エリザベトが課した問題だった。当時エリザベトは亡命してハーグにおり、デカルトは共通の知人を介して知遇を得た。[247-4] 1643年5月6日付書簡でエリザベトは魂と身体の相互作用について尋ねている。[248-1] 思考実体でしかない魂が、いかにして身体を動かすのか? デカルトは返答する。魂には二つの側面があり、一方は思考で、他方は身体を伴う能動・受動である。そして、魂が身体を動かすことは、通常の身体=物体運動に関する概念では説明できない。エリザベトはこの説明は理解できないといらだち 、デカルトは申し訳なさそうに返信する。心身合一は哲学から離れるときにこそ最も明晰に理解できるものでなので、これについて判明な概念を得ることは不可能である。形而上学について考え続けるのは有害なので、この問題は忘れるのが望ましい。当然、エリザベトはこの回答にも満足しなかった。

[248-2] しかし一年後、今度は医学的考察の中で、デカルトはこの論点に戻ってくる。このときエリザベトは体調をくずしており、デカルトは、怒りや恐怖のような情念は身体に大きな影響を及ぼすから、想像と感覚を知性によってコントロールすることが肝要だと説いた。魂が精気を有益/有害な場所へ運ぶのは、意志や思考を通じてのことだからだ。[249-3] こうした助言は、理性に従って行動することが健康には必要だという古典的見解に依拠していた。そしてそのために、理性の妨げとなる情念をコントロールしなければならないのである。

[249-4] エリザベトはこの助言に同意し、二人はセネカの『幸福な人生について』に関する書簡のやりとりを始めた。セネカはストア派として知られているが、エピクロス派にもかなり共感していた。セネカの影響で、ストア派とエピクロス派は両立すると考える思想家(モンテーニュ、シャロン)や、キリスト教とエピクロス派が両立すると考える思想家(ガッサンディ)が現れていた。ただし、エピクロスの自然哲学は完全に唯物論的であり、情念はすべて善とされ、善は快楽によって判断されるものである。このため、エピクロス派の自由思想家(Libertans)は不道徳的だと非難されることが多かった。

[250-2] デカルトはセネカについて論じるさいにも、健康と幸福のためには理性が情念をコントロールするべきだというストア派的立場を取った。しかしエリザベトは反論した。病者をはじめ多くの人々は、そもそも理性を自由に行使できない、と。デカルトはこの点には同意したが、情念とは理性の歪み(思考の誤り)であり、情念を理性に服従させることが善だという点ではストア派の立場を譲らなかった。

[250-3] エリザベトは納得せず、情念を明確に定義するよう求めた。デカルトは途中で脱線しつつも、この問題に生理学の観点からアプローチしていった。デカルトはこの時期、「健康の維持は常に私の研究の根本目的であった」(ニューキャッスル侯宛書簡)、道徳哲学や物理学よりも医学に「はるかに多くの時間を費やしてきた」(エクトール=ピエール・シャヌー宛書簡)などと語っている。

[251-2] デカルトは1646年初頭までに情念に関する著作の草稿をまとめ、エリザベトに意見を求めた(『情念論』の「第三部」に組み込まれたと考えられる(後述))。ここでは、情念に伴う血液の流れが物理的・生理的原理によって説明されている。デカルトは、「過剰な情念の治療を行うことは困難」だと譲歩しつつも、依然として、過剰な情念から魂を解放することで「自由な判断」が可能になると信じていた。

しかしながら驚くべきことにデカルトは、「コントロールが必要なのは、悪や不必要なものへの欲望だけだ」とも述べている。さらには、「こうした事柄では、理性よりも経験に導かれる方が良い」としている。加えて数カ月後のシャヌー宛て書簡には次のような主張がある。「情念を検討した結果、そのほとんどすべては善いものであり、人生において非常に有益であると分かった。もし情念を感じることができないならば、魂は肉体とわずかな時間でも結びつきたいと思わないだろう」。

1647年末、デカルトはスウェーデン女王のクリスティーナの後援を得ようするとなかで、エリザベト宛書簡と情念論の草稿を女王へ送付した。この新著のおかげか、デカルトは新たな地位を得て、1649年秋にはストックホルムの宮廷へ向かった。

精神の受動=情念

[252-2] デカルトはストックホルムで死去することになるが、その三か月前の1649年11月に『情念論』が刊行され、エリザベトに献呈された。ここでは情念はすべて善いものであるとされている。この見解は「情念の一部は場合によっては善い」というアリストテレス的見解を遥かに超えており、また新ストア派の先達たちにはほとんど考えられない見解であって、むしろバルラエウスらの見解をさらに推し進めたものだった。

[252-3] 情念を善いものと見なす見解は、当時の詩や文学には広く見られる。皮肉っぽい例としては、ブレーデロ(Gerbrand Bredero)の『スペインのブラバント人』(Spaanschen Brabander)があげられる。「よく飲むものはよく眠り、よく寝るものに罪はなく/罪なき者は、たしかに祝福されている」。より真剣な例としては、ピーター・コルネリウスゾーン・ホーフト(Pieter Cornelisz. Hooft)の作品があり、[253-2] 情念、特に愛が善を示す力を歌いあげている。[253-3] 騎士であった若き日のデカルトも、当然ながら詩に深い関心を抱いていた。ベークマンに渡した論文では、音楽の目的は情念を動かすことだとしている。ライプニッツによれば、デカルトが夢と思考を記録したノートの冒頭には情念に関する長い考察があったという。デカルトはまた、人間の大半の行動の動因として「自己愛」に注目した当時のフランスの道徳思想にも通じていたはずだ。

[253-4] こうした背景のもと、『情念論』はこう始まっている––「私たちが古人からうけついだ学問がいかに欠陥あるものか、何よりもこれがよく現れているのは、情念について古人の書いたものである」(谷川訳、五頁)。本書でもデカルトは魂と身体をあくまで別々に扱っており、情念が魂に作用する方法は、物体が視覚を通じて認識される方法と同じだとしている。『省察』などによれば、魂は感覚から得た情報を想像力によって「把握する」。理性的魂は分割不可能なものなのだが、身体とのかかわりのなかで複数の能力(あるいは「様態」)を持つのである。『情念論』では、さらにもう一つの「様態」が追加された。それが、身体と生活にとって善いものを把握することを目的とする様態、すなわち情念である。「人間における情念すべての主な効果は、情念が身体に準備させていることを、精神にも意志するよう促し仕向けることである」(I, 40: 三九頁)

〔では、情念とはどういうものか。〕「わたしたちのうちにあるあらゆる様態の知覚ないし認識は、一般に〔広義の〕受動=情念と呼べる」(I, 17: 二〇頁)。受動=情念は、魂からも身体からも生じうる(I, 19)。しかし情念は、単に知覚の様態であるというよりは、魂そのものの属性である。[253-5] しかし〔魂の属性であると言っても、〕情念は意志とは異なる。情念は「意志作用によって直接的に引き起こしたり取り去ったりはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に、引き起こしたり取り去ったりできるのだ」(I, 45: 四三頁)。[255-1] また、情念は心臓における何らかの撹乱を伴い、その撹乱は血液や動物精気全体にまで及ぶものとされる

エリザベト宛書簡が示していたように、デカルトは情念が疾病の原因の大きなものだと考えている。例えば、情念が生じさせる血液の適切な運動が欠けてしまう場合、血液が腐敗し、それが発熱につながる。このように『情念論』の大部分は、情念と身体生理学がいかに不可分に絡み合っているかに焦点を当てている。[255-2] 結局デカルトの結論は、情念をして理性と調和させるべきだというものではなく、精神をして情念と調和させて、我々の本性が欲してほしいと思っていることを欲するようになるべきというものだった。


  • [図 p. 254] 情念に関する古典的な見方。神の恩寵と理性が情念を拘束する(J. F. Senault, The Use of Passions, translated by Henry, Earl of Monmouth (1649). 扉絵)


さらに、1647年にクリスティーナから至高善について問われたとき、デカルトは「良いことをする固い意志と、それが生み出す満足(contentment)」と答えていた。身体にとっての良さや財産とは違い、意志は自分でコントロール可能なものだからだ。「満足」を至高善とする考えかたは、通常、ストア派よりもエピクロス派と結びついたものだ。たしかに『情念論』には、意志が情念をコントロールするという、デカルトの若い頃の新ストア派的思考の痕跡も残っている。しかし、〔エピクロス的な見解は非常に強調されている。たとえば、〕「自分が最善だと判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのは、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない」(II, 148: 一二九頁)。[256-1] 健康も幸福も、理性に従った生きかたからうまれるものではないのである。

[256-2] 今の引用は、デカルトの狙いを明確に示している。デカルトは道徳哲学(徳に従うこと)を、人生において何が最善かを判断する方法に関する議論へとつくりかえようとしていた。そしてその方法を知るためには、情念が精神と身体をいかに縛っているかを経験によって学ぶ必要がある。この点、セネカもまた、自分が最善と判断したことに確信をもって生きることが幸福だと語っていた。ただし、セネカとデカルトには根本的な相違点が一つある。セネカは「人間本性」を徳の観点から語っていたが、デカルトにとってそれは人間のつくりの問題である。『哲学原理』(1644)序文では、適切な道徳哲学は人体を含む自然界の理解から導かれるとされていた。そして『情念論』も、〔伝統的な意味での〕道徳的指針ではなく生理学的な説明と助言を扱うのである。

[256-3] 『情念論』の内容に立ち入ってみると、デカルトの狙いは一層明確に見えてくる。本書は(生前出版物の中では)デカルトの生理学上の見解をもっとも充実した形で示している。第一部は機械論的生理学の概要で、情念は主に心臓に根拠を持つとする従来のほぼすべての議論から一定の距離をとり、むしろ血液と精気の動きについても論じている(これよりデカルトは、キリストの聖なる心臓*1を崇敬する運動からも遠ざかった)。 たとえば、魂は血液と精気の乱れが収まるまでは強い情念を克服することがむずかしい、云々。第二部では [257-1] 主要な情念(驚き、愛、憎悪、喜び、悲しみ、欲望など)と、その外的な表れ(眼や顔の表情、顔色、震え、無気力、笑い、涙、嘆き、呻き、ため息など)を分析、記述している。

[257-2] より個別の情念を扱う第三部は明らかに最初に書かれたもので、1645年9月にエリザベトがデカルトに求めた情動の定義がここに記されている。また、この部分は最も格言風であるが、やはり生理学的説明も提示している。例えば「崇敬」(veneration)について。デカルトはこれを「敬う対象を重視するだけでなく、その対象から好意を得ようと努めなんらかの不安をもってその対象にために服従しようとする精神の傾向」と定義する。そして、「この情念を引き起こす精気の運動は、驚きを起こす運動と不安を起こす運動とから合成されている」(III, 160: 一四三–一四四頁)。

[257-3] つまるところ『情念論』の考察は、現在で言う生物学還元主義的な分析に近い。デカルトにおける情念は「第一義的には精神的な出来事が、身体を通じて表現されたもの、ではなくて、自己維持と生存に役立つ身体調節プロセスが〔精神に〕反映したものである」(Fuchs and Grene)。情念は人間本性を正確に表現していると受け入れ、それに従って行動するように意志を行使すれば、精神は幸福かつ平穏となるのだ。これは古代哲学者と類似した見方だが、しかしデカルトは徳については、「経験から最善と判断されることを行う」以外のことは語らず、理性に訴えるのを避け続けた。「こうした事柄では、理性よりも経験に導かれる方が良い」のだった。[258-1] 「良心」さえも、情念の本性に従って行為がなされていることの認識だということになる。理性は情念の悪用や過剰を防ぐことはできるが、身体における〔物質の〕運動に対抗することはできない。知性は想像力によって感覚経験を把握し、意志は身体の自発的行為を導きうる〔、つまり、いずれも精神が身体よりも優位になっている〕が、情念においては精神と身体は一体である。

[258-2] デカルトと並行する見解を探すのであれば、節制を重んじるアリストテレス主義、愛を焦点としたルネサンス期の新プラトン主義、またエピクロス派を挙げることができるかもしれない。エピクロス派をめぐる〔デカルトの時代の〕議論では、理性と情念の関係が差し迫った問題として浮上しており、デカルトはガッサンディによって説得されたのかもしれない。よりありそうなのはセネカの影響である。さらに言うと、1620年代にはこの問題をきっかけにフランコ・ブルヘルスデイク(Franco Burgersdijk)らオランダの〔アリストテレス〕注解者たちが、徳は情念に根ざしているが理性によって導かれるというプルタルコス的見解をアリストテレス倫理学に導入していた(バルラエウスも32年のアムステルダム・アテネウム創立記念講演で同様の見解を示していた)。オランダの医師たちも、理性が情念を制御できるかどうかについて疑問を投げかけていた。ボンティウスはインド諸島向けの健康管理に関する著作で、ホラティウスの格言をもとに情念はほとんど制御できないと述べている。[258-3] ただし、デカルトは自分の情報源を明かさなかった点には注意するべきである。デカルトは自身の著作を伝統からの脱却と考えていたからだ。また、デカルトは道徳哲学や政治哲学の著作を書こうとしたこともなかった。

1649年後半にデカルトはクリスティナ女王の宮廷に到着したが、女王の関心はむしろデカルトの数学にあり、『情念論』は平凡な著作だと考えていた。道徳哲学に通じていた女王にとって、デカルトの見解はすでにプラトンやセクストゥス・エンペイリコスのなかにあると見えたのだ。学識ある廷臣たちもデカルトを嘲笑したし、デカルトのほうも、古代哲学に関する学問的議論には関心がなかった。デカルトの死は古典学者による毒殺だったという噂も流れた。

[259-2] デカルトは神の存在証明から哲学を始めたが、オランダ共和国で経験論者に近い立場になった。この分野におけるデカルトの論証は道徳哲学や宗教からくるものではなく、物質世界の経験に自然理性を組み合わせて示せる事柄を基盤とした。デカルトの生理学には、聖霊や悪霊が身体や精神に働きかけるといったことは何も書かれていない。情念自体がわれわれを幸福で健康にするのだ。『情念論』をデカルト初期の著作にしたがって判断するならば、そこにはなんの根拠もないということになるだろう。デカルトが(セネカとともに)偉大な魂の証だとみなした情動、つまり高邁(Generosity)についてさえ、「真の寛大さに本質というものはない」*2。それは神の愛にも依存しないし、個人の救済に不可欠なものも含まれない。だが情念における身体と精神の合一がもたらす満足は、人間本性に関するより正確な知識、より良い健康と長寿、自由、そして富を約束しているのである。

「デカルト主義」、身体、政治的自由

[260-1] デカルトの見解のもつ含意は見すごされなかった。デカルトの生理学をめぐる論争は1640年代半ばまでにはライデン大学に広がり、1647年までには全国的な論争へと発展した。

1619年、ライデン大学からレモンストラント派*3が追放されると、ブルヘルスデイクが哲学の教授職のいくつかを継ぎ、自然に関する新たな情報をアリストテレス哲学に組み込もうとした。35年にブルヘルスデイクが亡くなると、大学運営陣はひきつづきアリストテレスを基礎として哲学教育を行うことを決定し、44年には保守的なアリストテレス主義者のアダム・スチュワート(Adam Stewart)が自然哲学の教授に就任した。スチュワートは、神学の上級教授であるヤコブス・トリグランドゥス(Jacobus Triglandius)、および州立カレッジのメンバーであるヤコブス・レヴィウス(Jacobus Revius)とともに、デカルト主義への攻撃を開始したこれに反対したのが、自然哲学教授選考でスチュワートにやぶれた若き論理学教授アドリアン・ヘーレボード(Adriaan Heereboord)だった。ヘーレボードはライデン大学初期のデカルト主義者で、デカルトの仕事を新アリストテレス主義の観点から––つまり、感覚の証拠に基づいて自然哲学を構築するというアリストテレスの立場を、大幅に修正しつつも推し進めるものとして––捉えていた。46年から48年にかけて論争は激化し、乱闘が発生したことを受けて、大学理事らはスチュワート、レヴィウス、ヘーレボードを厳しく叱責して秩序回復に努めた。これにスチュワートは不満を述べたが、理事たちはスチュワートがデカルト主義に対する世論を煽っていると警告し、デカルト哲学が私的に教えられることは容認した。その後も小競り合いは続き、オランダ州議会が講義、演説、論争における足踏みや机叩きを禁止する法令を公布せざるをえないほどだった(59年)。

[260-2] しかし1640年代後半には、多くの学者(とくに医師)はデカルトの教えを公然と支持するようになっていた。[261-1] 初期の支持者たち*4は、デカルト主義を記述的な経験主義を支持するものとみなしたが、デカルト自身の晩年の傾向を踏まえればこれは驚くことではない。多くのオランダ人医師は、デカルトの見解がガレノスやアリストテレスの枠組みを超えた生理学的議論を進める上で有用だと考えていた。1656年にライデン大学シルヴィウスが加わると、人体構造に関するデカルトの見解を公然と支持した。ルーヴェン大学では医学部のフォルトゥナトゥス・プレンプ(Fortunatus Plempius)とレオナール=フランソワ・ディンヘンス(Léonard-François Dinghens)がデカルト主義を公然と支持した。とはいえ、62年に哲学部以外でのデカルト主義の教育は禁止された。デカルトの物理学ですら、ジャック・ロオー(Jacques Rohault)の『物理学論』(Traité de physique, 1671)の紹介では形而上学的部分が落とされていた。

[261-2] デカルトは死の直前に、人体生理学に関するフランス語の論文を残しており、その写本は内々で流通していた。1671年、フロレンティウス・シュイル(Florentius Schuyl)が写本を校合・編集し、ラテン語に翻訳して『人体の記述』(De homine)として出版した。これにより、死後12年経ってようやくデカルトが生理学について語った完全な見解が公になった。これ以前の段階では、デカルトの医学的見解は主に情念に関する研究の中に見出されていたのだった。

[261-3] その一方で、デカルトが語らなかったことを行おうとする試みもすぐ現れた。つまり、情念の生理学を基礎として道徳・政治哲学を論じる試みである。初期オランダの政治理論は公共的徳を最優先目標としており、徳を達成するために君主制による統治で情念を制御すべしといった議論まであった。オランダの人文主義教育も市民的徳を重視していた。このため、〔従来的徳を軽視する〕デカルト主義は正統派のカルヴァン派から嫌悪され、より自由主義的なアルミニウス派でさえ〔デカルトと結びつけられがちだった〕物質主義と戦っていた。 ただし自由思想家たちの見方は違った。あらゆる善は、理性的教義や強力な君主によって情念を抑圧することではなく、自然に従って行為するところから来るというバルラエウスが示唆した考え*5を、デカルトが精緻に論証したと捉えていたのだ。

1647年にオラニエ公ヘンドリックが死去すると、ウィレム2世の元、厳格なカルヴァン派とオラニエ派の同盟が復活した。ところが50年にウィレム2世は急死し、いわゆる(州)議会派(States Party)の支配が固まった。このグループは共和主義的・自由主義的で、72年にウィレム3世が執政官に就くまで、かなり自由な政治・経済観を展開していった。党首ヨハン・デ・ウィット(Johann de Witt)は、歴史家の言では、「明らかな新ストア派的傾向を持ったカルヴァン派」であり、「人々の愛や感情を最も刺激するのは、財布の感覚である」と知っていた(Boogman)。

[262-2] このような文脈の中でデカルトの情念に関する生理学理論がどれほどの爆発力を持つかを示したのが、ピーテル・ド・ラ・クール(Pieter De la Court)とその弟ヨハン(Johan)だった。この兄弟はライデン出身の教養ある商人で、資本主義と共和主義に関して注目すべき主張を生み出した。ピーテルの著書『オランダの利益、あるいはオランダ繁栄の根拠』(Interest van Holland, ofte gronden van Hollands-welvaren, 1662)は、兄弟の立場をよく表している。[263-1] オランダには天然資源が乏しく、漁業、貿易、一部製造業に依存せざるを得ない。しかしアムステルダムはかつてないほどの大貿易都市となることができた。その理由は、自由があったからだ。人々は好きに礼拝し、都市間を移動し、生産活動に従事し、利益を追求できた。それが富を生み出した。厳格なカルヴァン派は良心の自由を制限しようとしており、VOCの拡大は漁業・貿易・工芸の自由を狭め、重い税金は貿易を縮小させかねない。オランダが繁栄したのは、オラニエ公とその同盟者が支配していた時代ではなく、完全に自由な政府を持っていた時代だったのだ。[263-2] 良き国家は有徳な君主に依存しないと論じたことで、ド・ラ・クール兄弟はオラニエ家の権力回復・強化を望む人々と真っ向から対立した。兄弟はさらに『国家考』(Consideratien van staat, 1662)と『政治論』(Politike discoursen, 1662)を執筆し、独自の共和主義理論を提示すると共に、州総督職、貿易政策、思想の自由、海軍、聖職者の権力といった重要課題について立場を鮮明にした。

政治思想史家E. H. コスマン(Kossmann)は、ド・ラ・クール兄弟の理論が、デカルトの『情念論』に基づいていると指摘している(ピーテルの娘婿はヘーレボードだった)。ド・ラ・クール兄弟は、共和制が最善の政体であるという見解は何らかの学説に基づくものではなく、経験と情念の分析によって確立できるのだと、行政官を説得しようとしていた。個々人の情念は自由に表現されるべきであり、政治経済システムが契約法に基づいて秩序づけられていれば、相反する情念も互いに均衡し、公共の調和と平穏をもたらす。だから、公共の利益は民主主義に根ざした商業的共和国においてのみ可能なのである。[264-1]「良き統治とは、統治者の徳や悪徳によって臣民の運命が左右されるようなものではなく……被統治者の好調や不調によって統治者の運命が左右されるようなものである」。

[264-2] スピノザはさらに踏み込んだ。スピノザがド・ラ・クール兄弟と直接知り合いだった証拠はないが、少なくとも交友範囲は重なっている。[264-3] 目下重要なのは、スピノザ哲学が精神と身体の同一性を主張しており、そこでは情念の理解が極めて重要であるとされていることだ。スピノザは、ホッブズやエピクロス主義者同様、人間社会に寄与するものを有益、不和をもたらすものを悪とし(第四部定理四〇)、また、快楽は直接的には善であり苦痛は直接的には悪であるともした(第四部定理四一)。しかしスピノザはデカルトをも超えて、「コナトゥス」という概念によって精神と身体は同一であると主張する。コナトゥスとは、精神を持つ身体(物体)が自己保存と自己増進に向かう生命活動である。コナトゥスの趨向のなかで、情念は本質的な役割を果たす。

要約者注:以下、著者の意図を掴むのが難しい。おそらくだが著者は、「スピノザにおける情念」の話はしておらず、精神と身体が合一であるというデカルト的な情念の特徴が、スピノザにおいてはすべての精神活動にまで拡張している、ということを言いたいのだと思う。したがって、スピノザにとっては精神がそれとは別の存在である身体をコントロールするべきだという発想がなく、それが共和制擁護につながる、と言いたいのだと思われる。*6

人間には身体的欲望があり、それを満たすための生命活動を行う。すべての精神的営みはこの生命活動の反映物である。といっても、意識が〔それとは別の〕欲望を表象しているというのではなくて、意識とは、思考という属性の下で見た欲望そのものなのである。スピノザの理論は非常に強力な同一説であり、情動、喜び、悲しみ、欲求はすべて思考と同一である。

こうした同一説の上でスピノザは共和制理論も展開したが、これはド・ラ・クール兄弟の主張と多くの類似点を持つ(おそらく兄弟に深く影響された)。すなわち、共和制においてのみ人々は調和のうちに共存し、情念に基づいて行動しつつ互いの欠点を抑制しあえる。

[265-2] ド・ラ・クール兄弟やスピノザのような政治的な物質主義が、17世紀後期のオランダ共和国の典型的思想だったと考えるのは誤りである。自由思想家ですら不快感を示すときがあり、ボエティウス派(Voetians)*7は憤慨していたからだ。さらに1672年、ルイ14世が陸路で、イギリスが海上でオランダに侵攻したことで、議会派は崩壊し共和国はほぼ消滅した。正統派カルヴァン派とオラニエ派が反旗を翻し、ウィレム3世が国家元首となった。デ・ウィットと弟は惨殺されて吊るされ、身体の一部は群衆に配られたり売られたりした。兄弟を深く敬愛していたスピノザは、事件現場近くの壁に「究極の蛮行(ultimi barbarorum)」と記した看板を掲げようとしたが、危険であるとして大家に止められた。この惨劇の後、 スピノザやド・ラ・クール兄弟のような見解を明示的に採用したオランダの政治論考はほとんどなくなった

[265-3] しかし特に医師たちの間では、こうした見解が根強く残っていたことを示す兆候は多い。例えばデカルト派の医師であったボンテコは、「魂と身体が合一している間……魂は身体に非常に強く支配されており、その知恵と徳は身体に依存している」と記している。


ライデン大学のパウのような初期の解剖学者たちは、見物者に対して善悪の知識の樹の果実を食べたアダムとイブの堕罪のことを思い出させていた*8。堕罪は我々を〔眼の前の遺体のように〕死すべき存在にしただけでなく、自覚的な(=意識を持つ)道徳的存在へと変えるものでもあった。しかし後の世代は解剖学者たちから〔人間は意識を持つ道徳的存在だという教訓とは〕別の教訓を学び、我々を形作る驚くべき仕組みは——さらには精神までもが——おそらく完全に身体的なものなのだと考えた。[266-1] 善悪の知識は脇に置き、自然の促すままに行動すれば、死すべき命がながらえているあいだに楽園の門が再び開かれ、健康と繁栄が目の前にやってくるかもしれないのだ。これは革命的な見解であり、後にニュートンが天と地を統合したのと同じくらい深遠な意義を持っていた。このように考えた人々は、百年後に北米にあらわれる自身の継承者たちのことも完全に理解していた。英国への反乱は、生命と自由とそして幸福追求の防衛とされたのだから。

*1:要約者注:「イエスのみこころ」。十字架上で貫かれた(とされる)イエスの心臓に対する特別な信心のこと。11世紀頃からシトー会などを中心に広がり、デカルトの時代にはイエズス会やジャン・ユード(John Eudes)のもとで盛んだった。なおこの個所の参考文献(Santing, “De Affectibus”)は対抗宗教改革期における聖遺物としての心臓と解剖学の関係について論じているが、デカルトとの関係は論じていない。

*2:要約者注:未確認だが、おそらくKambouchner, L’homme des passions からの引用(原注121)。

*3:要約者注:オランダの神学者アルミニウスに端を発する運動。名称は1610年にオランダ政府に提出された声明「反対意見書」(Remonstrantie)による。カルヴァン派の正統的な神学よりも人間の自由意志に大きな役割を認めており、救いは万人に開かれている、救いの恵みを自由意志で拒否できるなどの主張により大きな宗教的-政治的動揺を引き起こした。

*4:要約者注:以下の人物が挙げられている:ヨハネス・デ・ライ(Johannes de Raey)、アブラハム・ヘイダヌス(Abraham Heidanus)、ヨハネス・クラウベルク(Johannes Clauberg)、クリストファー・ウィッティヒ(Christopher Wittich)、ランベルト・ファン・フェルトハイゼン(Lambert van Velthuysen)、フランス・ブルマン(Frans Burman)。

*5:要約者注:第二章参照

*6:要約者注:実際、この箇所の下敷きとなっているCook "Body and Passions" の論理はこの解釈に近い。同論文の議論の焦点はむしろ「自然=本性」にあたっていて、デカルトはまだ精神が情念を支配すると考えていたが、スピノザにとっては精神と情念は同一で等しく自然の表現であり、しかも自然は善いものとされているから、「情動はすべて善い」という考えがデカルトやド・ラ・クール以上に強くなっている、という理屈になっている。

*7:要約者注:ギスベルトゥス・ヴォエティウス/ヴート(Gysbertus Voetius/Gjsbert Voet)の一派。オラニエ派と結びつきの強い敬虔主義的なカルヴァン派

*8:要約者注:本書 pp. 165-6参照