えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

オランダの経済発展と商業・知識・徳の一致 Cook (2007)

yalebooks.yale.edu

【要約】
 1580年代に形成されたネーデルラント連邦(オランダ)は、近代経済の最初の中心地となった。多くの人々が国債を買い、これが共通の利益となって国家が安定した。商人は権力者を兼ねるようになる。そのような中、アジアでの行動をより効率的にすべく東インド会社(VOC)が設立される。1620年までに多くの拠点を確保、利益の再投資により中長期的計画の遂行が可能になり、事業を拡大した。商品としては香辛料の他、薬用の品々も多かった。また珍しい物品や美しい物品とその関連知識も重宝され、これをよく表している出来事がチューリップバブルだった。こうして商人の間で培われた価値観が科学の底流になっていると自覚する同時代人もいた。たとえばカスパルス・バルラエウスは、商業は知識や徳と調和しないとする聖書や古代哲学に逆らって、商業活動は知識を生むし、またそれ自体として有徳な活動だと弁護した。

【目次】

商人たちの国

ネーデルラント連邦株式会社*1

八十年戦争が生じるとネーデルラント南部の州は荒廃し、商業の中心は北上してアムステムダムに移った。1580年代に北部七州が形成したネーデルラント連邦は、[58] 最初の近代経済の中心地となり、例えばアムステルダムでは1585年から1620年の間に商人の数が3倍に増加している(約500人から約1,500人)。連邦はこうした都市商人の寡頭制によって運営されていたと言える。各州は依然として主権を維持しており、最も影響力があったのは有力商人とその妻たちだった。こうした人物は市政や市民慈善団体理事会で活動しており、政治的職位を持つ場合は特に「統治者たち」(レヘンテン)(regenten)と呼ばれた。

この複雑な政治システムが機能したのは、究極的には全員に共通の利害が存在したからだ。[59] 連邦の人民を最も強固に結びつけていたのは国債だった。連邦は低金利の貸付のかたちで現金を調達し、軍隊、武器、要塞、船などの費用にあてた。返済は税収から少しづつ行われた。事業投資よりもはるかにリスクが少なかったため、多くの人が参加した。

人々は融資期間中は国家が破綻しないことを期待し、またそうならないよう国家を支援した。国家の支払いから利益を得ていたので、非常に高い税にも(しぶしぶ)従い、財政危機も生じなかった。[60] このように、国債が広く共有され適切に管理されたことが、八十年戦争成功の秘訣だった。課税免除者はほぼおらず税収は安定しており、国家歳入に対する期待は年々高まった。国家歳入が党派間の交渉の議題となり、国家予算の原型となった。

こうして1630年代には、オランダ商人は「ネーデルラント連邦株式会社」と呼べるような国家を作り上げていた。商人は世界、とくにアジアに乗り出し、国家を築いたり戦争をしかけたりした。これはオランダ東インド会社(VOC)に最もよく示されている。

オランダ東インド会社(VOC)

[61] 一世紀前、オランダ人はゴアに合流するポルトガル艦隊を避け、直接東南アジア諸島に向かった。はじめは公正な取引慣行と良好な政治関係に頼っており、現地ではポルトガル人のライバルとして歓迎されることも多かった。1590年代後半に最初の貿易事業が成功を収めたが、組織運営上の課題も浮上してきた。[62] 各船団は出資者が異なるため競合関係にあり、共通の脅威に対して協力できず、収益も減少していた。そこで1600年から1602年にかけて、連邦の有力者オルデンバルファネト(Johan van Oldenbarnevelt)の監視とマウリッツ王子の介入のもとで話し合いが行われ、1602年3月にVOCが設立された。これまで東インド事業を行っていた会社は各本部所在地における「商館」となり、取締役会(「十七人会」)に参加する代表者が割り当てられた。VOCの役員は連邦総督に忠誠を誓い、アジアでの出来事を報告する義務と、戦時の供出義務が課せられたが、見返りとして、喜望峰より東において主権者として行動する権限が与えられた。VOCはオランダ連邦の営利目的の半独立部門だった。

VOC設立により、アジアでのより効果的な行動が可能になった。1603年に始まったポルトガル主要拠点(モザンビーク、ゴア)への攻撃は失敗したものの、香辛料生産地へと標的を変え、[63] 1605年にはインドネシア、アンボン島のポルトガル要塞を占領した。これを皮切りに、1620年代までに多くの拠点が確保された。

こうした初期の成功を支えたのは、中長期的な計画遂行を可能にするVOCの構造だった。[64] VOCでは、人々が航海に投資して終了後に利益を受け取るという旧来の形式はとられておらず、事業全体への投資から配当を受け取る形式が取られていた。投資家への還元は即時的なものではなく、利益は会社に再投資されて事業が継続された。また、元々の投資家以外に新規株式が提供されることはほとんどなく、その株は高値で売れたため、VOCへの投資が継続された。有力な投資家は十七人会メンバー、また市、州、国の議員に選出され、ビジネス力と政治権力を兼ね揃えた。

とはいえ、VOCの事業拡大は容易ではなかった。必要な計画は数多く、また航海の時間を考慮すると、計画は二年サイクルで、しかもかなり前から立てておく必要があった。[65] 東方での情報を得るのにも多くの時間と準備が必要だった。こうした複雑な業務を遂行するために様々な会合が開かれ、やがてパターン化した。年一の主要会議は、船団が帰還する秋に3~4週間開催される。ここで十七人会は次シーズンの船に関する決定を行う。春には、前回の競売に基づき財政計画が固められる。夏にはアジアからの通信を検討し、十七人会が注文書を作成して、船団と共に送り出す。会議では各商館の財務状況も検討される。商館は船の建造も引き受けており、特にアムステルダムの造船所は大いに賑わった。

十七人会の注文書を見ると、やはり香辛料が目を引くが、薬用品も輸入されていたことがわかる。注文書の一例を示す。

  • コショウ:70,000~100.000包(薬用および料理用)
  • クローブ:できる限り多く (薬用および料理用) [66]
  • ナツメグ:1,000樽 (薬用および料理用)
  • メース、300バレル(薬用および料理用)
  • ロングペッパー:5,000ポンド(薬用および料理用)
  • ガランガル:6,000ポンド(薬用および料理用)
  • ショウガおよびシナモン:スペースが許す限り (薬用および料理用)
  • 沈香:最上級品6,000ポンド(薬用および料理用)
  • インドゴム:30,000ポンド
  • ボルネオ産樟脳:6,000ポンド(薬用および料理用)
  • サルトリイバラ:新鮮で臭いのないもの30,000ポンド(薬用)
  • ベンジャミン:最高級品20,000ポンド (薬用)
  • ムスク:「なし」
  • ドラゴンズブラッド:追加注文があるまでなし(着色および薬用)
  • 蝋:200,000ポンド
  • カシア・フィスチュラ:3,000ポンド(薬用および料理用)
  • カンショウ;5,000オンス(薬用および料理用)
  • ヒッチョウカ:十分な量 (薬用および料理用)
  • 生ホウ砂、5000ポンド(石鹸、陶芸用)

他の注文書では、カルダモンと砂糖(薬用および料理用)、琥珀、藍、ベゾアール石(解毒作用があるとされた)が求められている。後には茶(日本および中国産)やコーヒーなども競売に現れている([67] いずれもはじめは薬として紹介された)。硝石、綿織物、銅、生糸、絨毯、高級磁器などもVOCの重要な商品だった。[68] ヨーロッパ船の喜望峰航海(大半はVOC)によって、1620年代までに陸上キャラバン貿易は完全に衰退したという推定もある。

  • [図 p. 67] アムステルダムに捧げものをする四大陸。『アムステルダム史』(Jacob van Meurs (1663). Historische beschryvinghe van Amsterdam)の扉絵。*2

自己利益からくる知恵

バルラエウスのアテネウム創立記念講演

商業の価値観が新科学の根底にあることは同時代人にも自覚されていた。最も良い例はカスパルス・バルラエウス(Casparus Barlaeus)である。

1632年、アムステルダムに、ほぼ大学同様の学校であるアテネウムが設置された。教授となったバルラエウスは、創立記念講演で知恵と商業の融合というテーマを取り上げた。[69] バルラエウスはマルティアヌス・カペラ(Marthianus Cappla)の『メルクリウスとフィロロギアの結婚』(Mercurii et Philologiae Nuptiae)をとりあげ、メルクリウスをメルカトゥーラ(交易)に、フィロロギアをサピエンティア(知恵)に代えることで、アムステルダムにふさわしい新たな神話を作りあげた。この二つの結びつけは大胆なもので、というのも、聖書も古典哲学も、商業は徳や知恵の追求と対立するとしていたのだ

たしかに、オランダの知識人には両者の和解へ踏み出したものもいた。たとえば、ディルク・フォルケルツゾーン・コールンヘルト(Dirk Volckertsz. Coornhert)の [70] 対話劇『商人』(Coopman, 1580)は、得られた利益を慈善事業や(ネーデルラントの)「反乱」といった善い目的に使うのならば、富と徳は両立しうるとした(これは改革派教会の一般的な路線でもあった)。だがこの考えには根本的な問題があった。対話者の一人も指摘しているように、富を使うことでしか道徳的になれないのであれば、そもそも商人は富を求めようなどと思わないのではないか? 同じ疑問は他の人にも生じていた。たとえば、オランダの利益のために西インド会社を支援するよう呼びかけていた改革派牧師ウィレム・ウセリンクス(Willem Usselincx)は、投資家を引き付けるには結局当人への利益が必要だと認めざるを得なかった。これはつまり、強欲のような不道徳な衝動から、全体的な善が生まれることもある、と認めることだ。

バルラエウスはさらに踏み込んだ。バルラエウスによれば、商業はそれ自体として人間における最善の活動でありうるのである。当時、同様の議論をしている人は他にもいた。例えばフランスでは、人間の行動の原動力として自己愛に注目する新手の道徳的著作が現れていた。またグロティウスも、[71] 自然界における最も基本的な法則が自己保存であることから、その次に基本的な権利は自己利益だと主張した(『自由海論』)。グロティウスもバルラエウスも、自己利益を追求する人びとが必要を満たすために互いに結びつくと考える。そしてそれによって、神の意志が実現される。バルラエウスは、神は偉大な「ファクター」、つまり貿易拠点の責任者だとも言っている。

バルラエウスによると、偉大な学問の時代と偉大な富の時代は共に歩んできたのであり、アムステルダムもその一例である。では、このような学問と世俗活動の結合のどこに徳があるのか。バルラエウスは第一に、活動的生活は観照的生活より徳が高いという点に訴える。これは、ルネサンス期イタリアの都市国家で確立した見方だった。第二の論拠は新しい歴史解釈に基づく。この時期、現代の物質的進歩が芸術や学問の繁栄を支えているという主張が様々な場所でなされていたのだ [72](典型例としてベーコンがいる)。

さらにバルラエウスは、知識と商業は同じ徳という源泉から生じたと論じる。賢人も商人も、その目的を達するためには自然的徳に従わなければならない。欲望をおさえて謙虚になり、何事にも誠実になり、目標へ向けたあらゆる手段を重視しなければならないのだ。このような知識と徳の結びつきを指す新たな言葉が、イタリア語の「ヴィルトゥオーゾ」、オランダ語では「Liefhebber」(内なる徳を示すものを厳選して愛する人の意)、フランス語では「アマチュア」である。徳のような個人の善と物的な財(goods)の深い結び付きを示すこれらの言葉は、すぐに収集家を指すようにもなった。バルラエウスは、こうした収集家こそ現代の知恵の体現者だと見ていたようで、商業が促進する「思弁哲学」として、地理学、自然誌、[73] 天文学、言語学、そして民族の研究などを挙げている。ここでバルラエウスは暗に、行動より観想を重視する哲学者や、神の計画に従って生きるよう説く人びとを否定していた。謙虚さや誠実さなどの徳や自然の真理は、教義から来るものではなく、自然の客観的調査から来る。そしてこうした調査は交易の一側面でもあるのだ。

チューリップバブル

オランダの「統治者たち」は珍しい品々や美しい品々およびその関連知識も重視していた。このことを示す最もわかりやすい例がいわゆるチューリップバブルだ

低地諸国にはオスマン帝国領から多くの新しい植物がもたらされていた。トルコ人は多くのチューリップを栽培してターバンによく挿しており(「チューリップ」という名前の由来)、写実的な芸術作品に描いた。 ヨーロッパ人に初めてチューリップを紹介したのは、1540年代後半にレバント地方を旅したピエール・ベロン(Pierre Belon)だった。また、フランドル出身の神聖ローマ皇帝のコンスタンティノープル駐在大使オジエ・ギゼリン・ド・ブスベック(Ogier Ghiselin de Busbecq)もチューリップに注目した人物の一人だった。ブスベックと侍医のウィレム・クアッケルベーン(Willem Quackelbeen)は多くの植物をヨーロッパに紹介し、[74] 園芸に革命を生じさせた。

  • [図 p. 74] チューリップ、ヒヤシンス、カーネーションが描かれたトルコの皿(省略)

[75] ヨーロッパでのチューリップ栽培の最初の記録は、1559年にゲスナーがアウクスブルク参事会員ヨハネス・ハインリヒ・ヘルヴァルト(Johannes Heinrich Herwart)の庭園を訪れたときに目にしたものだ。おそらく数年後、後の著名な博物学者カルロス・クルシウスもチューリップを目にし、多くの品種を栽培して知人に広めていった。

  • [図 p. 76] ジョン・ジェラード(John Gerard)の『本草書』(Herball, 1633)から、チューリップ

チューリップの魅力のひとつはその多様な形や大きさで、新しい品種が次々と生み出された。中でも人気だった品種が「センペル・アウグストゥス」だった。1624年には、球根1個あたりの値段は1,200フローリン(熟練労働者の年収の約4倍)になり、[77] バブルが最高潮に達した1636年から1637年では、10,000フローリンの価値があったと言われている。この品種を所有していた人物がアドリアン・パウ(Adriaan Pauw)だ。パウ一家は有力な商人・政治家一家で、VOCへの初期の投資家が何人もいた(ライデン大学のピーテル・パウ(Pieter Pauw)はいとこに当たる*3)。アドリアン・パウはハーレマーメール湖(当時)近辺の邸宅にセンペル・アウグストゥスを植えており、1624年時点でオランダ国内にあった12球の球根はすべてパウのものだった。パウは花を多く見せるために鏡張りのあずまやを建築するなど庭園の整備に多くの資源を投入した。同じような感性や判断力を持つ人々と共有できる形で自然を造形することにパウは審美眼を発揮した。これは同時に、知識や趣味に関連する道徳的な審美眼でもあった。

センペル・アウグストゥスが価値を持ったのは、人々がそれを見たときに一定の快い感覚を経験したり、あるいはそれを経験できるよう(さらには経験しているふりをするように)教わったりしていたからだ。愛好家たちは言葉や身振りを通じて花の評価を共有した。またチューリップの格付けリストを作製し、良い趣味と識別眼を持つ専門家として活躍した。このリストはさらに、手描きの挿絵入りの小冊子や、より大衆向けの木版画へと展開していった。[78] これらが流通することで、品種の美しさに関するコンセンサスが形成されていった。

センペル・アウグストゥスには商業的な価値もあった。チューリップの球根は長期間保存が効き、また美しい「割れた」模様は種子には伝わらないため球根から株を増やすしかなかった。庭園や花に高い価値を置く文化と特定の花の希少性により、球根は交換可能な貨幣やコインのような存在になっていった。

[79] チューリップに価値を置いていたのはパウのような富裕な愛好家だけではなかった。普通の人々であっても、地位の高い人が花を鑑賞するときのルールについて学ぶことができた。チューリップは特に裕福でない人でも育て、交換し、金銭を得られるものだったから、球根はしだいに多くの人々の手にわたるようになり、ネーデルラントだけでなくフランスやドイツなどでも園芸植物の市場が急速に拡大していった。球根には名前がつけられ、計量され、保管されるようになり、売り手も買い手も自分がどんな球根を手にしているのか理解できるようになった。球根は公開オークションにかけられることも多かったため、投資家たちは高い品種についてのコンセンサスを測定できる、さらには将来の価格を予想できると合理的に期待できた。

球根市場は常に上昇するという感覚により、投機市場が活気づいた。球根は約束手形によって取引されたので、投資家は球根に触れる必要さえなかった。[80] つまり球根市場は、アムステルダムの新(証券)取引所などで大商人たちが行っていた他の取引とほとんど同じようなものだったのだ。大きな違いは、(少なくとも当初は)参入にあたって必要な資金がはるかに少ないということだった。一般の人々の投資が増大するにつれ、「から取引」(windhandel)という風刺も盛んになった。しかし球根の価格は高騰し、1634年から37年にかけて前代未聞のレベルにまで上昇した。1637年2月5日、アルクマール(Alkmaar)のオークションでは1個あたりの平均価格が16,000スタイバー(800ギルダー)にまで高騰し、これはVOCの下級の商人の1年の稼ぎに相当していた。しかし、おそらく球根が高額になりすぎたために、バブルはすぐに崩壊した。多くの一般市民が投資額のほとんどすべてを失い、弁護士や裁判官が何年もかけて事態の収束をはかることになった。

球根市場を支えていたのは、手形ベースの先物取引をはじめとする最先端の社会経済取引だった。[81] チューリップの需要が上昇し続ける限りは、誰もが利益を得ることができた。そのために必要なのは、未来に対する期待に自信を持つこと、そして、自分が扱う品物の属性をしっかりと理解することだったのだ。

本章のまとめ

いわゆる科学革命は、世界の中での人々の移動、人々の中での物の移動から生じた。こうした移動が、自然物に関する「事実」を解明し、その情報の正確さを確かめる努力をもたらしたのだ。物と同様に「事実」も移動し、ローカルな知識が普遍的真理へと変化していった。情報の収集、蓄積、交換を支えたのが、謙虚さと勤勉さから生まれる信頼と、平易な表現および法の支配だった。これらを重視する価値観は商人だけでなくナチュラリストや医師にも共有されており、オランダ共和国の基盤ともなった。客観性は世界との関わりのなかに深く根付いていたのだ。

*1:要約者注:以下、節内の小見出しは要約者による

*2:要約者注:上段中央がアフリカ(ライオン)、右がアジア(ターバン、ラクダ、振り香炉)、中段左がアムステルダム、右がヨーロッパ(豊穣の角、馬)、下段左がアメリカ(羽つき帽子)、右がアムステルダムの川の神、をそれぞれ象徴する

*3:要約者注:第三章参照