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- Helmut Thielicke (1953). Das Gebet, das die Welt umspannt. Reden über das Vaterunser, Quell-Verlag, Stuttgart.(ティーリケ (1962). 『主の祈り:世界をつつむ祈り』, 大崎節郎訳, 新教出版社)
- 7. わたしたちに負債のあるものをゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください(I)
人はみな罪人であり、神に負債を負っている。この「負債」とはなにか。「一般に、福音書では、「負債」や「負い目」と言う時、神の戒めに対する能動的な違反ではなく、むしろ、ほんとうになすべきことをしないままになっているもの、おろそかにしたもの、怠ったものなどを指している(マタイ十八・二十四、ルカ十六・五など)」(一二七頁)。具体的には、隣人が空腹であったり、孤独であったり、助けや祝福が必要なときに、それをしないということだ。
自殺のようなおおごとが生じると、我々はその人に何があったのか知らなかった、気づかなかった、などと言う。しかしその理由は、知識が足りなかったからではない。その人を愛していなかったからだ。「愛は、誰かが困っているのを知った時にはじめて、助けの手を差し伸べるのではなく、むしろ逆に、そうした困窮を見つけ出させるものだからである。人間は、ゲーテがかつて言ったように、愛する者のみを理解することができるのである」(一二九頁)。
神は人間の心のうちにあるものを見透かしているとよく言われる。だがこれは「いわゆる「全知」といった理論的な神の属性、それからは何者も逃れ得ない天の巨大な知識という恐るべき怪物、を相手にしているのではなく、そこでは、神がそのように極みまでわれわれを愛してい給うことが、問題となっている」(一三一頁)。
他人の傷、不安、絶望を見過ごしている時、我々はそれに何も感じるところがない。むしろ、積極的に悪いことをしているわけではないといい気になってすらいる。このような「何者も恐れる必要はない」状態というのは本当に恐ろしいものであり、積極的に悪いことをしている方がマシなくらいである(黙:三・一五)。最後の審判のときには、我々が見向きもしなかった人たちが我々を告発し、我々はそんなことは知らなかったと言うだろうが、これは弁明にはならない。主は我々に愛がなかったことを指摘するだろう。
この無感覚・冷淡が現在*1特に生じている。あまりにも多くの死と苦難とを前に、我々はその酷さを感じなくなり、人が死んでも少し悲しむだけですぐ日常に戻っていく。これは、愛があまりに多くのものを求め、我々を極度に苦しませる状況に対する自己防衛的な反応であり、どんなに敬虔な信仰者でももはや愛を行うことができないまでになっている。
このような状況においても一つ一つの苦痛をあえて見つめるように愛は求めている、と思うかもしれないが、それはするべきことではない。心が病んでしまうだけだ。本当にするべきことは、イエスの苦難を思うことである。イエスは愛をもってすべての人々のそばでその苦しみを見聞きし、共に苦しんでいる(イザヤ五三・一–一二、ヘブ四・一五)。イエスの苦難を思う時、我々はすべての人の苦難のことをおぼえているのであり、またイエスにすること/しないことを、隣人にもする/しない。このようなかたちでイエスは、我々の不作為の罪を助ける。
「われわれは、自分の固く冷え切った心を主の御許に携えてゆくことが許されている。主は、それをほぐし、やわらげ給う。われわれは、己の冷たくひえきった愛を、主の御許に携えてゆくことが許されている。主は、われわれに代わって、愛し給う。しかし、まさにかくの如くし給うことによって、主は、われわれをご自身の愛の中に引き入れ、われわれの愛に点火し、燃えさせ給う」(一四一頁)。
*1:要約者注:この説教は第二次世界大戦末期になされた
