- Martin J. S. Rudwick (2014) Earth's deep history: how it was discovered and why it matters. Chicago: University of Chicago Press
- Introduction(ウミガメの頃)
- Chapter 1. Making History a Science, pp. 9–30. ←いまここ
- Chapter 3. Sketching Big Pictures (後半), pp. 68–77.
- Chapter 4. Expanding Time and History(後半)(ウミガメの頃)
- Chapter 6. Worlds Before Adam(ウミガメの頃)
- Chapter 7. Disturbing a Consensus (1/2/3)
- Chapter 9. Eventful Deep History(前半)(ウミガメの頃)
- Chapter 12. Conclusion, pp. 293–308
- Appendix. Creationists out of Their Depth(ウミガメの頃)
【目次】
第1章 歴史を学問にする
年代学という学問
トーマス・ブラウン(Thomas Browne, 1605 - 1682)は、「時間は我々より5日だけ古い」と述べた。ガリレオやニュートンといった科学の巨人が登場する17世紀でも、人類と地球、さらに宇宙は、ほとんど同じ年齢だと考える人が多かった。たしかに『創世記』は、神は5日の準備のあと6日目に人間を作ったと教えている。しかし、この考えが人々に押し付けられていたというわけではない。[10]むしろ逆に、「世界は(僅かな準備期間を除いて)常に人間のいる世界だった」というのは明白な常識であり、だからこそ人々は、『創世記』の説明を受け入れることができたのだ。
人類と地球の歴史がほぼ同じといっても、その歴史は非常に長いと思われていた。歴史はイエスの誕生から数える「紀元」を尺度に測られ、そこから現在までは16世紀以上の長さがある。さらに「紀元前」は、古代ギリシアや、聖書が伝える曖昧な時代へとさかのぼる。17世紀の歴史家は、創造〜現在の時間は受肉〜現在の時間の3倍近いと考えており、そうすると世界の歴史は合計で50〜60世紀という想像を超えた長さになる。
[11]17世紀になると、アイルランドの歴史家ジェームズ・アッシャー(James Ussher)が、創造の日付を紀元前4004年の特定の日に同定した。アッシャーが示した具体的な日付には異論があったが、このように正確な日付が特定できるという考え自体はあまり批判されなかった。アッシャーのように「年代学」(Chronology)に取り組む学者はヨーロッパ中にいたのだ。年代学者たちは、様々なテキストを元にして、世界史の詳細で正確なタイムラインを構築しようとしていた。
[12]アッシャーの『旧約年代記』(Annales Veteris Testamenti, 1650–54)は、創造(紀元前4004年)からエルサレム第二神殿の崩壊(紀元70年)に至る世界史上の出来事を年ごとにまとめたもので、当時の学問的営為の最高水準を体現した著作である。年代学は、まさしく歴史の「学問」(a historical science)だった。アッシャーは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語で書かれた古代のあらゆるテキストを厳格に分析していたし、また半世紀前の年代学者ヨセフ・スカリゲル(Joseph Scaliger)は、シリア語やアラビア語などのテキストをも考慮していた。こうした多様な文献から、大きな政変、支配者の治世期間、天文現象などの情報を抜き出して突き合わせることで、[13]出来事が年代順に配置されていく。[14] アッシャーが用いた証拠の多くは古代の世俗的記録であり、聖書は重要ではあるがソースの一つに過ぎなかった。ここから、アッシャーの第一目的があくまで詳細な世界史の編纂であったことがわかる。
世界史の年代を決定する
アッシャーは、スカリゲルが考案した年代決定システム、「ユリウス通日」を採用していた*1。このシステムによって、様々な年代を比較対照する中立的な時間次元が得られる。さらにここでは、「時間」(time)と「歴史」(history)の区別が強調される。「時間」とは年単位で計測される抽象的な次元にすぎず、そのなかで生じるあらゆる実際の出来事が「歴史」である。すべての出来事はユリウス通日を基準に、AM(Anni Mundi; 創造から数えた年)、BCないしADで位置づけられる。年代学は量的精確さを求める時代の知的欲求に後押しされたもので、量的精確さの追求はティコやケプラーなどの天文学にも見られた。
史料の不完全さや曖昧さゆえに、年代学は非常に論争の多い研究分野であった。[15]特に創造の日付については異論が多く、調べられた限りでは紀元前4103年〜3928年まで諸説ある。たとえばスカリゲルは紀元前3949年説、[16]ニュートンは紀元前3988年説を唱えている。
このなかでアッシャーの紀元前4004年説が英語圏で有名になったのは歴史的偶然による。[17]紀元前4004年説は、『欽定訳聖書』(KJV)の1701年版(William Lloyd版)に編注として書き込まれたのだ。この説は教会や国家が公認したわけではなかったが、編注は結局1885年に『改訂版聖書』(RV)が出るまで残り続けたのだった。なお他言語の聖書には欄外の日付は通常見られない。
世界史の諸時代
アッシャーたち年代学者が量的精確さを追求したのには重要な目的があった。それは、人類史を有意味な諸時期に精確に分割することだった。伝統的な紀元前/後の区別は受肉を境に人類史を抜本的に分割するが、これは有意味な分割の一つに過ぎない。紀元前はさらに、決定的な出来事に由来する諸「時代」に分割される。アッシャーの場合、創造と受肉の間に5つの重要な転換点を見出し(ノアの洪水、アブラム、出エジプト、神殿建設、バビロン捕囚)、世界史は7つの時代に区分される。7つ時代は創造の7日と象徴的に対応し、世界史の全体がキリスト教な意味に満ちる。
[19] さらに重要なことがある。諸時代の系列として把握された歴史の全体は、神の自己開示つまり「啓示」が累積していく単一の過程であり、そしてそれはおおむね人類の歴史であった。これに対し自然界は、人間のわざと神の導きが展開する舞台、ほぼ不変の背景でしかない。宗教的にも世俗的にも、人類史のなかで自然の出来事がおおきく取り上げられることは稀だった(モーセの海割り、ヨシュアを助けた「太陽の静止」、イエスの誕生と死を示す新星と地震)。ただし、聖なる物語の中で自然界が非常に重要になる部分が2つある。創造それ自体とノアの洪水だ。17世紀にこれらの箇所につけられた歴史的注釈のなかには、自然からとった素材によってテキスト研究を拡張するものも現れた。
「ヘキサメロン」(hexahemeral, hexameral:「6日」の意)と呼ばれるタイプの注釈は、自然界における主要な特徴の出現を、創造の6「日」ないし段階を枠組みとして、実際に時間の中で生じた歴史的な出来事として捉える。ここでは自然界に、異なる時期(「日」)をもつ固有の歴史が与えられており、近代的な意味で自然「史」(history)と言える説明がなされている。[20]こうした世界史の捉えかたは、タイムスケールこそ大幅に異なるが、地球の太古の歴史に関する近代的な見方と極めて類似している。『創世記』の物語によってヨーロッパ文化は、地球や生命を歴史的に捉える思考の準備ができていた(前適応していた/pre-adapted)と言える。
歴史としてのノアの洪水
ノアの洪水はさらにはっきりと歴史的出来事として扱われた。年代学者の計算では、これは人間のドラマが始まってから1500年以上経過したあとに生じた。創造とは異なり、ノアの洪水は人間の記録や記憶によってモーセまで*2伝わった可能性があるため、学者はこれを詳細に分析しその実態を明らかにしようとした。洪水の唯一真正な歴史的記録を含むのは『創世記』だと考えられたため、分析は聖書をベースに行われた(その他の古代の洪水記録は、聖書を元にした二次的なものか、後代の局所的な洪水の記録だと考えられていた)。
洪水物語を分析した17世紀の歴史家の好例が[21]、アタナシウス・キルヒャーだ。キルヒャーの『地下世界』(Mundus Subterraneus, 1668[5?])は、当時の幅広い自然学的知識をもとに、地球を複雑なシステムとして描き出した著作である。そのシステムは、動的ではあるものの歴史をもっておらず、[22]創造以来なにか大きな変化があったとはされていない。ところが、その大きな例外が洪水である。[23]『ノアの箱舟』(Arca Noë, 1675)でキルヒャーは、聖書のあらゆる古代の版を利用しながら、洪水を歴史的に分析している。すなわち、ノアが方舟をどう建造したか、方舟はどう流されたか、洪水後の人間世界はどう復興したかを推測し、また『創世記』の記述を元に方舟を復元、図解し、すべての動物の番を収容できたことを示そうとした。さらに、世界規模の海面上昇に必要な水量を計算し、その水がどこから来てどこへ行ったのかも推測している。
目下の文脈で一番重要なのは、洪水の前後で大陸と海のかたちが違ったかもしれないという推測である。ここでキルヒャーは、人類の歴史と並行して地球にも真の歴史があると事実上主張していることになる。ただしキルヒャーの分析の主眼はあくまでノアと方舟であり、洪水の物理的影響は二次的なものだった。アッシャーのような年代学者の考えと同じく、歴史は主として人類の歴史であり、その長さは近代の基準から見れば短いものだった。
有限の宇宙(コスモス)
ユリウス通日がカバーする期間は十分に長いため、もっともらしい創造および終末の日付のどれであっても、この期間の中に位置づけることができる。[24]これは年代学にとって便利な点だったが、しかし今日の目から見ると、当時の年代学の最も不可解な特徴を浮かび上がらせるものでもある。すなわち、世界史は過去にも未来にも有限だとされているのだ。これは、宇宙が空間的な意味で「閉じた世界」だとみなされていたことと酷似している。
アッシャーおよび同時代人の多くは、自分たちは世界の七番目の、そして最後の時代に生きていると考えていた。終末は間近か、少なくともそう遠くない未来に迫っている。一般的には、終末は創造からちょうど6000年後だとされていた。この見解は、受肉が創造のちょうど4000年後に来る紀元前4004年創造説とうまく調和し*3、この説の魅力を高めていた。実際、この説はアッシャー以前にも以後に提案されていた。
アッシャーは自説に自信を持っていたが、反論がありうることも十分認識していた。実際、別の日付が提案されていただけでなく、日付の確定は不可能だと考える年代学者もいた。『創世記』によれば太陽は4日目まで創造されていないため、7日の「日」とは24時間のことではないという指摘は昔からあった。「日」とは、預言者の言う「主の日」(the Day of the Lord)のように、重要な「とき」のことなのかもしれない。この場合、創造の「週」の長さは[25]確定できない。聖書のテキストには解釈が必要なのである。
こうした認識に導かれ、年代学者や歴史家は本文批判(textual criticism)の方法を発展させた。そしてそれは今日でも歴史研究(聖書研究も含む)の根底にありつづけている。17世紀の学者の解釈は今日から見るとあまりに字義的(literal)だが、その理由の一つは、聖書を真剣に歴史記録として扱ったからだ。また、聖書読解におけるこうした「直解主義」(literalism)は新たな発明だった。これ以前の時代には、聖書のその他の意味の層(象徴的意味、教訓的意味など)のほうが、字義通りの意味よりも価値あるものとされていたのだ。『創世記』の場合、最終的に重要なのは日付でも「日」の長さでもなく、万物が唯一の神によって創造され、良しとされたこと等々だとされていた。
[26] また世界史の年代決定には、創造の日付以外にも未解決の問題があった。古代ギリシアの記録によると、エジプトの初期の王朝は創造よりも前に存在していたことになっているのだ。ここではエジプト側の記録がフィクションだとして退けられたが、同じ問題はイエズス会士が伝えた中国の記録や、古代ギリシア人が伝えるバビロニアの記録などでも生じていた。
さらに最も動揺を生じさせたのは、アッシャーの『年代記』の直後に匿名で出版された『アダム以前の人類』(Prae-Adamitae, 1655)かもしれない。この本は新約聖書を巧妙に解釈することで、アダムの物語がもともと語っていたのは最初のユダヤ人のことであって、最初の人間のことではないと主張していた。これは人類史の出発点をアダムに置くすべての見解を疑問視するものだ。
なお『アダム以前の人類』の説には利点があり、この時代のヨーロッパ人がようやく十分に認識した人種の多様性と広がりをうまく説明することができた。[27]ただしこれは同時に、一部の人々をキリスト教的な救済のドラマの埒外においてしまうという欠点にもなった。匿名著者の正体がフランスの学者イザーク・ラ・ペイレール(Issac La Peyrére)だと判明するとカトリック当局とひと悶着あったが、ラ・ペイレールは少なくとも名目上は自説を撤回し、余生を平和に過ごした。
永遠主義の恐怖
それはともかく、今の文脈で「アダム以前」という観念が重要なのは、それが古代エジプト、中国、バビロニアの記録とされるものの影響力を高めたからだ。これらの記録に従えば、人類の歴史は西洋の従来の年代学の許容範囲よりもはるかに長く、想定より何万年も遡る可能性がある。この可能性は従来の思考にとっては恐るべきものだった。なぜならそれは、創造の日付や聖書の権威を疑問に付すことはもちろん、それ以上に、はるかにラディカルな思考への扉を開くものだったからだ。つまり、宇宙、地球そして人類には始まりも終わりもなく文字通り永遠に存在しているという、古代ギリシャの哲学者たちの考えが正しかったのかもしれないのである。この考えは、人間が何らかの意味で創造されており、従って創造主に対して道義的責任を負うという考えを否定し、道徳と社会を根本から脅かすものだと思われた。
この「永遠主義」は一見、地球の歴史についての近代的な見方を先取りしているように見えるかもしれない。しかしそれは大きな誤解である。実際のところ、17世紀にあった2つの選択肢、「若い地球」と「永遠の地球」は、どちらも等しく近代的ではない。[28]なぜならどちらも、人間が宇宙にとって本質的であったしこれからもあり続けると想定しているからだ。永遠の地球には、人類も常に存在していたのだ。
とはいえ17世紀に戻れば、永遠主義は、支配的だった宇宙像に対してラディカルな対案を与えるものだった。永遠主義は社会、政治、宗教を転覆させるものだと広く考えられていたから、一部の人々が「若い地球」を頑なに守ろうとしたことも頷ける。しかし逆に永遠主義者のほうも、自身の懐疑的さらに無神論的な方針を喧伝しようとしていた。つまりこれは決して啓蒙的理性と宗教的ドグマの戦いなどではなく、どちらの側にも強烈に「イデオロギー的」論点があったのだ。
しかし西洋を離れて全世界規模で見れば、人類が無限に続くという考えはむしろ標準的であった。多くの前近代社会では、時間、あるいはむしろ時間の中で展開する「歴史」は、反復的ないし循環的であると考えられていた。[29]この仮定の根本には、人は世代から世代へ生まれては死ぬという普遍的な経験があり、四季のめぐりがそれをより強固にした。ここから、文化、地球、そして宇宙全体も同じように循環的あるいは「定常的」だという見方が育まれた。これを背景にしてみれば、唯一の出発点をもち直線的で一方的な「歴史」という観念、ユダヤ教に発しキリスト教とイスラム教が受け継いだこの観念のほうが、むしろ異質なものとして浮かび上がってくる。
この強烈な歴史感覚はユダヤ-キリスト教的伝統の基底構造であり、そしてそれは、地球の太古の歴史にかんする近代的な見方と酷似している。つまり後者も、地球の歴史を有限かつ方向性を持つものとして見る。より具体的に言えば、人類の歴史を量的精確さをもって位置づけ、それを質的に有意味な諸時代に分ける年代学と同じことを、近代科学である「地質年代学」は地球の太古の歴史を対象に行っている。これが偶然の一致にすぎないのか否か、この問いは本書の残りの部分で検討されるだろう。
西洋の伝統的理解では、近代の理解と比べて、宇宙、地球、人間の歴史は非常に短いものだった。だがこの違いは比較的些細なものである。より重要なことは、アッシャーのような年代学者に代表される歴史学が、もっぱらテキストによる証拠に基づいていたという点だ。[30]しかし同じ17世紀、地球の歴史にかんする議論に自然の証拠をとりいれはじめる学者がいた。この動きを次章ではとりあげる。