- Harold J. Cook (2007). Matters of Exchange: Commerce, Medicine, and Science in the Dutch Golden Age. Yale University Press.
- Preface
- 1. Worldly Goods and the Transformations of Objectivity
- 2. An Information Economy (前半/後半)
- 3. Reformations Tempered: In Pursuit of Natural Facts(前半/後半←いまここ)
- 6. Medicine and Materialism(後半)
【要約】
ライデン大学は1575年に設置された。当初はオラニエ公ウィレムの政策もあり、特定の信仰(カルヴァン派を含む)からの自由を重視する学風をそなえていた。だが1548年のウィレム暗殺後、カルヴァン派の影響力が学内でも増し、自由が脅かされる雰囲気が高まってきた。
自然研究の砦とした残ったのは医学部だった。大学当局は医学部敷設植物園の設立計画を進め、ピーテル・パウがその監督にあたった。パウは公開解剖にも熱心な人物で、常設の解剖劇場の設置も進められることになる。植物園園長としてクルシウスが招聘されたが健康問題があり、実際にはディルク・クルイト(クルティウス)の設計・植栽のもとで1594年に完成した。
この時期、インドから帰国したリンスホーテンの情報をもとに、オランダは東インド貿易に乗り出した。この貿易はオランダに富だけでなく様々な標本をもたらし、コレクションが拡大した。
新しい自然哲学者には、幅広い経験と優れた言語能力を基盤とした、事物自体の徹底した観察が求められた。こうした価値観は商業の中で生まれたものであり、また商業は良心の自由を支えることで、自然研究の継続を可能にした。この時代をまさに体現する人物が、クルシウスだった。
【目次】
新しい大学と自然研究
ライデン大学の設立
1573年にウィーンに逃れたクルシウスは、20年後、ライデン大学医学部に務めるためネーデルラントに戻ってきた。ライデン大学はどういう大学だったか。
1574年4月から10月3日にかけて、ライデンはハプスブルク軍に包囲された。何千人もの住民が餓死したが、オラニエ公ウィレム軍の到着までなんとか持ちこたえた。ライデン解放によりハプスブルク家は打撃をうけ、和平交渉を余儀なくされた。交渉を有利にすべく、ウィレムとホラント州およびゼーラント州は新大学の設立を決定した。[104-3] これは主権の行使であり、二州の新たな独立を世界に示す意味があった。加えて、近隣の大学(ケルン、ルーヴェン、ドゥエー)は [105-1] カトリックの牙城であり、地元の若者たちに自由な人文主義的探究の価値を教える大学が必要だった。そこで、オラニエ派のために勇敢に戦ったことへの報奨の意味も込めて、ライデンに大学を設立することになった。
[105-2] 大学の当初の目標は、単にカルヴァン派の聖職者を育成することではなく、むしろ宗教の自由を維持しつつ新世代の指導者を教育することだった。オラニエ公のために戦った人々は確かにカルヴァン派が多かったが、公自身はあくまで良心の自由および当地の権利と特権の保護を掲げていた。この大義は、ハプスブルク家には反対だが他の信条の持ち主を迫害する気はない〔いわば穏健派カトリックの〕人々と、カルヴァン派を広めカトリックを根絶したい人々との、妥協点となっていた。両者の対立は激しかったが、少なくとも一時的には、あらゆる厳格なイデオロギーに反対するという古い理想がオラニエ派の政策を支配した。そしてこの理想はライデン大学に体現されることになる。
[105-3] [106-1] 1575年1月6日、オランダ州とゼーラント州は、フェリペ2世の名において大学を認可した。初代学長のヤン・ファン・デル・ドース(Jan van der Does/Dousa)も、自由、それも身体と財産の自由だけでなく、良心の自由、そして(場合によっては)言論の自由を重視する人物だった。[106-2] 急進派は大学をカルヴァン派の教義に従わせようとしたが、抵抗に遭った。結局、ひとたび宗教官僚の支配から解放されると、多くの人々(多くの都市で人口の半数以上)は特定の信仰を告白することを拒んでいた。ライデン市当局も厳格にカルヴァン主義的ではなく、カルヴァン派神学者が大学を地元の長老会(Consistory)*1 の管轄に置こうとした際には「宗教裁判的」だと応戦した。75年6月に大学の運営体制を承認したオラニエ公も、専門の宗教者に監督権を与えなかった。78年以降は入学時の宗教試験も廃止された。
[106-3] 大学教育は慣例に従っており、神法医哲の四学部方式だった。[107-1] 奨学金つきで州立カレッジ(States College)*2 に住んだ神学部生を除き、学生は街で下宿したため、宗教や政治に関する規則もなかった。初期の学生にはカトリックが多かった。学長以下運営陣は大学を教派的なものにせず、知的な自由と厳格さのための場所にしようと努力したが、フェリペ2世は1582年にライデン大学への入学を禁じ、1603年には教皇クレメンス8世がライデンの学生を破門するに至った。フランスのアンリ4世やルイ13世が認めた例があったが、結局オランダ共和国が1624年に正式に独立するまで、ライデン大学の学位はほとんどの地域で認められなかった。このため、オランダの裕福な学生は外国で学位を取得することが多かった。
[107-2] 運営陣は、著名な教授を宗教的偏見なしに引き入れるよう多大な努力を払った。最初の成功例はリプシウスで、1578年に法学部の教授となると、後に歴史も教え、哲学部の発展に深く関わった。リプシウスは以前はカトリックとして、さらに前はルター派として活動しており、「愛の家族」とも関わりを持っていたが、ライデンでは名目上はカルヴァン派となった。[108-1] 他に当時有名だった学者として、1581年にボナヴェントゥラ・ウルカヌス(Bonaventure Vulcanus)(ギリシャ語・ラテン語)と、1584年にトマス・ソシウス(Thomas Sosius)(ローマ法)が着任した。どちらも、カトリックを放棄する必要はなかった。1585年、プランタンがライデンに来て大学出版局を設立した。その手紙によれば、大学メンバーは市当局に従えば良く、カルヴァン派に改宗する必要はなかった。リプシウスの後任はヨセフ・ユストゥス・スカリゲルで(ラテン語、西洋古典、歴史学)、カトリックと衝突していたが、独断的な人物ではなかった。
自由の陰り
[108-2] さて、特定教義を持たない自由主義者たちは、ネーデルラント北部の独立だけで十分と考えていたが、カルヴァン派はあくまで全域を奪還しようとしていた。結局、1579年のユトレヒト同盟により北部7州が統合され、ネーデルラント「連邦」(United Province)あるいは「オランダ」が誕生した。他方、南部はハプスブルク勢力により徐々に取り返されていった。しかし1584年にウィレムが暗殺されると、カルヴァン派が改めて活気づいてくる。エリザベス女王がカルヴァン派を支援して英西戦争が勃発し、エリザベスが派遣したレスター伯をネーデルラント側は総督として迎え入れた。
[108-3] しかし、南部奪還に積極的ではないオランダの商人貴族たちと、レスター伯およびその支持者であるカルヴァン派との間には軋轢が生じた。ユトレヒトは急進的カルヴァン派の牙城となり、[109-1] ライデン大学では急進派のアドリアヌス・サラビア(Adrianus Saravia)がレスター伯によって学長に任命された(1586年)。サラビアにはライデン大学をユトレヒトに移転させる計画があったが、ライデン市当局が抗議して阻止された。その後、レスター伯はオランダへのクーデターを計画するも不発に終わり、結局イングランドに帰国した。陰謀に関わったサラビアもイングランドに逃亡した。こうして、自由主義者による指揮が当面は維持されることとなった。
[109-2] だが、このような情勢は危機的な雰囲気を生み出していた。リプシウスの『恒心論』(De constantia, 1584)はストア的な慰めについての著作だが、フォルトゥーナについて語る一方でキリスト教の神についてほとんど言及していないと非難された。レスター伯のクーデターが失敗したさいリプシウスは退官を決意したが、大学運営陣との交渉と数か月の病気休暇により事態はひとまず収拾した。だが次の著書『政治学』(Politica, 1589)も、キリスト教文献よりもセネカやタキトゥスに依拠していた点、臣民は政治的に従順であるべきだと説いた点で、大論争を巻き起こした。オランダは大学に勧告を行う委員会の設置を迫られ、1591年の勧告ではすべての教授が「真のキリスト教」であるカルヴァン派でなければならないとされた。オランダ当局は結局この勧告を採用しなかったのだが、リプシウスはカトリックのルーヴェンへ去っていった。
庭園と解剖学
ライデン大学最初期の医学部
自然研究の砦として残った場所の一つが医学部だった。ライデン大学設立の助言者としてルーヴェンから派遣されたギヨーム・ド・フーゲレ(Guillaume de Feugeray/Ferugeraeus)は、医学部は神学部や法学部とはやや違った方法で教育を行うべきだとして、動植物や鉱物の検討や解剖、また学問的な医師の元での実地訓練を推奨していた。
[110-2] 大学設置時の医学部教授は、フォレストゥス(Pieter van Foreest/Forestus)とボンティウス(Geraerdt de Bont/Bontius)だった。だが、最初の数年間はほとんど活動がなかった。そもそも学生が1578年まで誰もおらず、また、フォレストゥスは講義を行わなかったようだ。1581年に、ヨハンネス・ファン・フュルネ(Johannes van Heurne)が常勤教員となっており、講義が定期的に開かれた証拠があるのは1580年代後半である。[111-1][111-2] ライデン学派は、一貫して実践的かつ記述的な気風だった。教授は二人とも新たなヒポクラテス主義への傾倒を明確にしていた(70年代までに、ヒポクラテスはガレノスよりもはるかに多く出版されていた)。一例として、医学博士号取得時の試験にはヒポクラテスの格言に関する議論が含まれていた。ヒポクラテスの実践的・観察的な傾向は、医学研究の一環としての自然誌研究を促した。
植物園設立計画
大学運営陣は、医学部敷設の植物園の設立を推進していく。また、この過程のなかで解剖劇場も取得されることになる。そもそも、学長やその関係者の多くは自然誌に熱心な園芸家で、リプシウスも庭園を持っていた。そこで、大学庭園の責任者の任命が最優先課題となった。1582年、大学にドドエンスが招かれたが、[112-1] 85年初頭に死んでしまう。
しかし1587年には、新校舎に隣接する空き地の取得に成功する。また、ボンティウスを昇給させて薬草学と人体解剖学を講義させるが、おそらく多忙により庭園にはほとんど関与しなかった。その後、リプシウスはクルシウスに庭園の責任者を打診するが、高齢を理由に断られてしまう。そこで1589年、アムステルダムの有力「統治者」の甥で、ボンティウスの最初の生徒の一人でもあったピーテル・パウ(Pieter Pauw/Pavius)が、臨時の植物学教授に任命された。
パウと公開解剖
[112-2] パウは庭園設立だけでなく、解剖学教育の導入にも尽力した。当時、解剖学講義への一般の関心は高かった。多くの外科医ギルドでは親方になるために人体解剖を学ぶ必要があった。アーネム(Arnhem)、アムステルダム、ライデン、[113-1] デルフト(フォレストゥスの病院)で公開解剖が行われており、パドヴァのヴェサリウスの業績は知識人の間では知れ渡っていた。
[113-2] パウは、ヴェサリウスの後継者の一人ファブリキウスとも交流があり、北ネーデルラントに最新の医学知識を導入したいと考えていた。ライデン到着後すぐの1589年の冬に早くも公開解剖を行っている(解剖が冬に行われたのは、遺体が比較的腐敗しにくという理由と、謝肉祭の時期には過激な行為が容認されやすいという理由があった)。以前は大学の校舎だった旧教会のうち空いていた礼拝堂で、パウは毎年冬に公開解剖を行った。[113-3] 1592年に正規教授になると、パウは同所に劇場形式のより良い施設を整備する取り組みを進め、1597年末に完成した。同年、ホラント州議会は、冬に処刑される犯罪者の遺体をライデン大学に引き渡すよう命じた。この常設の解剖劇場では、真ん中に回転台が設置され、周りを取り囲む円には6段の段差がつけられた。[114-1] 最前列は教授、運営陣、市長、その他の高官用で、次の2列は外科医と医学部生用に、外側3列は他の学生を含む一般の人々に開放された。[115-1] 観覧者からは入場料が徴収され、解剖の費用に充当された。
- [図 p. 114] 旧教会の内部再現図(省略)
[115-2] パウはその他にも、ケルススの『医学について』の最初の4巻への注釈の執筆、ヒポクラテスの傷に関する見解の再考、ヴェサリウスの『人体構造論抄』の改訂版の出版、さらに、より完全な人間骨格の研究などの活動をした。19年間で、子供を含む60体以上の人体解剖を行い、動物や犬の胎児の肢体および生体解剖も行った。
パルダヌスの獲得失敗
このような中でも、大学運営陣は植物園のために著名な常任教授を呼ぶことを諦めていなかった。1591年には、ベレント・テン・ブロッケ(Berent ten Broecke)、筆名ベルナルドゥス・パルダヌス(Bernardus Paludanus)にオファーを出す。
パルダヌスは1550年ステーンウェイク(Steenwijk)生まれと目される。おそらく60年代後半の反乱に巻き込まれ、70年代後半から遍歴を開始。ドイツ、ポーランド、リトアニアを経由し、今度は南下して(77年にはウィーンでクルシウスに会っている)78年にイタリアのパドヴァ大学に入学。さらにヴェネツィアから船出して、シリア、パレスチナ、エジプトへ向かい、1579年に帰国した。イタリア内を旅行しつつ80年7月に哲学と医学の博士号を取得すると今度は北上し、オーストリアを経由してドイツのヴァルデンブルクへ。宮廷侍医として務めた後、[116-1] ドイツ国内を旅し、最終的にハンブルクから低地諸国に戻った。まずズウォレ(Zwolle)、次にエンクホイゼン(Enkhuizen)に住み、いずれでも市の公医をつとめた。
[116-2] これらの旅の中で、パルダヌスは慎重な観察、人脈形成、情報・書籍の収集を熱心に行い、驚異の部屋にも複数訪問した。自身でも収集に値する物品を探し回り、最終的には北ネーデルラント随一の収集家として知られるようになっていた。
[116-3] ライデン大学運営陣は、パルダヌスを医学部に招けば、コレクションを寄贈してもらえ、大学の評判が高まると期待していた。[117-1] だが、パルダヌスはこの誘いを断る。本人は妻が移住を望まなかったと言っているが、おそらくは、リプシウスを退任させた宗教対立の後での教授職は、大商業都市エンクホイゼンの公医よりも見劣りのする選択肢だったのだろう。
[117-2] 大学運営陣はなおも人事を模索する。パウを植物学と解剖学の正教授に昇進させたうえ、フォレストゥスの親族・友人であったディルク・アウトゲルス・クルイト(Dirk Outgers Cluyt/Clutius)を植物園の責任者に採用した。クルイトは、薬草学に優れた精力的な人物で、総合的な医療庭園の計画を立て始めた。
クルシウスの採用と植物園の完成
大学運営陣は次に、クルシウスに改めて接近した。クルシウスは以前より、運営陣の秘書官であったヨハン・ファン・ホーヘランデ(Johan van Hogelande)と文通して庭園について語りあっていた。同じく庭園への関心を共有していた文通相手に、シメイ公妃マリー・ド・ブリム(Marie de Brimeu)がいた。ブリムは当時政治難民としてオランダに来ており、ライデン大学の行政にも関与していた。1591年12月、ホーヘランデは植物園園長職をクルシウスにオファーし、ブリムもこれを強く勧めた。
[118-1] 植物園園長は医学部で教える必要があった。法学者・植物学者であったクルシウスはこれをためらい、大学運営陣に授業義務の免除を要求した。この場合大学は名誉教授を招くだけということになるが、しかしクルシウスには神聖ローマ皇帝の植物園を整備した実績があり、ライデンの園芸家や職員に知識を伝え、また貴重な植物コレクションを持ってきてくれるはずだ。検討の末、大学側はこの要求を受諾。クルシウスもライデンへの移動の準備をはじめた。ところが、この間にクルシウスは大きな転落事故に見舞われて足に障害を負い、庭園の管理は難しくなってしまった。その後1593年10月、クルシウスはライデンに到着した。
[118-2] 前年夏から、パウの監督下でクライトが庭園の設計を進めていたが、合流したクルシウスはほとんど作業ができなかった。また、著名な教授を呼んでおきながら授業がないというので、学生も小規模な反乱を起こした。だが、クルシウスはライデン到着後も植物愛好家たちと忙しいやり取りを続け、情報や標本を提供すると同時に、自身でも熱心に収集を続けた。植物学上の友人の育成、私設庭園の整備、そして執筆に大きなエネルギーが注がれた。また、著名な画家ジャック・ド・ゲイン2世(Jacques de Gheyn II)との協力で花の水彩画シリーズを作成し、これはオランダ花画の発展を刺激した。
[118-3] こういう事情で、結局クルイトが庭園の設計・植栽を担当し、[119-1] 1594年9月末までに庭園の整備は完了した。庭園は4つの区画に分けられ、3区画には16の花壇、残り1区画には12の花壇を配置、最大で1,400の植物が植えられる設計になった。目録には約1,060種が記載されている。標本の約3分の1は医療目的で、残りは外来種や観賞用だった。

- [図 p. 119] ライデン大学植物園(1610年)。イラスト下部に、展示されていた自然標本が描かれている点に注目(〔後述〕)。
[120-1][120-2] 大学は庭園にさまざまな自然物の標本を収集し、これは自然誌の教育にも活用された。クルイトとその息子アウトガートは、私蔵する約4,000点の植物図版コレクションを使って講義を行った。1598年にクルイトが死ぬと、パウとボンティウスが庭園での教育にあたった。パウが主に実演を担当し、ボンティウスはディオスコリデスと、その当時最大の解釈者ピエトロ・アンドレア・マッティオリ(Pietro Andrea Mattioli)について講義した。一方クルシウスは、植物学書の改版や友人の支援に勤しみつつ、球根を食べるネズミや私庭の植物を盗む輩とも闘いながら、晩年を過ごした。
東インドからの自然誌
リンスホーテンの帰還
また晩年のクルシウスは、オランダに届くアジアの情報も熱心に収集していた。
1580年代後半、多くの商人がネーデルラント北部へ逃れており、フェリペ2世に激しい憎悪を抱えていた。そのなかで、アジアとの香料貿易への参入が魅力的な選択肢になった。単に利益を拡大できるだけでなく、ハプスブルク家の財源を断つことにもつながるからだ。アジア航海のために重要な情報は、パルダヌスのいたエンクホイゼンに蓄積していた。エンクホイゼンはアムステルダム以北で安全な港の一つで、北海、バルト海、低地諸国北部の諸都市を繋ぐ、北西ヨーロッパの最重要商業拠点になっていた。
[121-2] インド帰りのヤン・ホイヘン・ファン・リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten)が到着したのもエンクホイゼンだった。リンスホーテンは1563年ごろハールレムに生まれ、1570年代初頭に戦争を避けて家族ごとエンクホイゼンに移住した。長じてイベリア半島ではたらき、新任の大司教としてゴアへ向かうヴィンセンテ・ダ・フォンセカ([Vicente da Fonseca])の随行員となり、1583年に同地に到着する。大司教に非常に信頼され、大司教がポルトガルに一時帰国するさいには、ゴアの宮殿と事務の責任者に任命された。だが、この帰国中に大司教は死亡してしまい、リンスホーテンもポルトガルに戻る。このなかでリンスホーテンは故郷に帰ることに決め、結局1592年にエンクホイゼンに戻ってきた。帰国時のリンスホーテンは、ポルトガル植民地に関する膨大な情報に加え、極楽鳥の毛皮や、[122-1] 中国の漢字テキスト、アジアの自然標本など、様々なものをオランダに携えてきた。
[122-2] エンクホイゼンは今や安全な場所どころか、独立を戦う連合州の重要都市となっていた。リンスホーテンの到着直後、莫大な富を積んだポルトガル・スペイン船がイギリスに拿捕されたことが話題となっており、リンスホーテンの持つ情報はオランダにとってタイムリーなものとなった。オラニエ公や政府自らもリンスホーテンに報告を求めた。
北東航路
[122-3] ネーデルラント北部に逃れてきた人物の一人に、カルヴァン派牧師ペトルス・プランシウス(Petrus Plancius)がいた。プランシウスは、ゲンマ・フリシウス(Gemma Frisius)やメルカトルに発する地図作製技術をものにしており [123-1] 、オランダの政治当局者や商人たちとインド航海計画を練り上げていった。プランシウスおよびリンスホーテンの情報によると、どうやら中国へは北回りでもたどりつけるようだった。そこで、プランシウスの知り合いでモスクワ貿易に深く関与していたバルタザル・デ・ムシェロン(Balthasar de Moucheron)が、全国議会とオラニエ公の支援のもと、新航路の開拓のための船団を組織した。
[123-2] 1594年6月、3隻の船が北東航路を目指して出航。うち1隻はエンクホイゼンの船で、リンスホーテン自身も乗船した。北東の彼方で陸と氷の隙間を発見したが、帰還を余儀なくされた。翌年再び出航するも、前年より前の地点で断念。さらに翌年ウィレム・ヴァレンツ(WIllem Barentsz)が3度目の試みを行ったが、ノヴァヤ・ゼムリャ*3での越冬を強いられ多くの乗組員が死亡した(多くが北極熊との戦いで死んだ)。
[123-3] 他方で、アムステルダムの有力商人9名が「遠国会社」(Compagnie van Verre)を設立。リンスホーテンの情報をもとに、[124-1] ポルトガルと対面することなくモルッカ諸島に直接航海する計画を立て、1595年に出向した。
リンスホーテンとパルダヌスの『案内記』
[124-2] 1596年、リンスホーテンは東洋に関する一般向け書籍『案内記』(Intinario)を出版、すぐに多くの言語に翻訳され、市民の関心をさらに高めた。この本は3部構成で、第一部が自身の航海記〔『東方案内記』〕、第二部がスペイン語・ポルトガル語から翻訳されたインド、東洋の海、アメリカ沿岸の航海案内、第三部が他の著者の記述に基づくアメリカおよびアフリカの記述、となっている。特に評判になったのは第一部で、モザンビークから日本に至る様々な地域が言及されている。また、インドを中心とした人々とその習俗や、植物と動物の詳細な記述も含まれている。
- [図 p.125] アジアのオランダ拠点(省略)
[124-3] 本書の執筆に当たり、リンスホーテンはパルダヌスの協力を得た。パルダヌスは事実上の共著者というべきで、『案内記』を単なる旅行記から最新の自然史研究の水準での東インド誌へと変貌させた。パルダヌスは模範とすべき書籍として [126-1] アコスタ(Joseph de Acosta)の『新大陸自然文化史』を示し、リンスホーテンはこれを第三部の基礎資料とした他、オランダ語訳も手掛けた。パルダヌスはアフリカに関する著作も提供している。
[126-2] パルダヌスの記述はリンスホーテンの原文に注としてつけられている。例えば中国磁器の製造方法についての記述(23章)の注では、従来のジョゼフ・スカリゲルによる説明を要約したうえで、リンスホーテンの説明の方が信頼できると結論づけられている。第一部後半のインドの自然誌の部分、とくに植物については、パルダヌスの注が原文と同じくらい長いものもある。[128-1] パルダヌスの記述は、アラビア語からラテン語訳された医師の著作(アヴィセンナ、セラピオン(Serapion)、ラーゼス(アル・ラズィー))、そしてクルシウス版のオルタに多くを負っている。
- [図 p.127] パルダヌスの肖像画(省略)
[128-2] さて、前述した、アジアへの直接航海を試みた最初の船団は、1597年に帰還した。乗組員は3分の1しか生存せず、利益も小さかったが、多くの経験が得られ、すぐに匿名の航海記録が印刷された。北東航路探検の記録もすぐに出版された。これらの著作では、動植物の詳細な描写よりも出来事の記述のほうが優先されていた。たとえば、ウィレム・ローデウェイクスゾーン(Willem Lodewycksz.)の『第一の書』(D'eerste boeck, 1598)は、火の中に住むマダガスカルのサラマンダーなどの創作を含む一方、ジャワに関する記述の多くはリンスホーテンの本やポルトガル語資料から引用されている。
航海とコレクションの拡大
[128-3] 初回航海の成功を受け、投資の急増と情報収集競争が生じた。「遠国会社」は合併により「旧会社」(Oude Compagnie)となり、1598年にさらに8隻の船を派遣した。同年、ロッテルダムとゼーラントもそれぞれ2隻の小型船を派遣、ロッテルダム船は西回り航路を取り、インドにはつけなかったが、うち一隻リーフデ号は1600年に日本に漂着した。ゼーラント船と旧会社の艦隊はアフリカ回りの航路をとって無事到着し、[129-1] 後者は驚異の利率400%を叩き出した。これを機に他の事業も次々と続いた。
[129-2] ナチュラリストも東インドのニュースと標本に熱中した。ライデン大学のクルシウスとパウは、1599年の第四航海への投資家たちに、珍しい植物の収集と記述を依頼した。この時は担当者が航海中死亡してしまったが、クルシウスは今度は新設のVOCに依頼、前向きな回答を得た。[129-3] パルダヌスはこのころ既存のコレクションを売却、海外の珍奇物のコレクションを開始した。数年後には、アジア、アフリカ、新大陸の様々な標本からなる以前以上のコレクション構築に成功した。ヨーロッパ中から人々が見学に訪れ、冬王フリードリヒ五世夫妻がオラニエ公モーリッツの廷臣とともに訪問したこともあった。訪問者名簿には約1,900名が記載されており、その多くは貴族や外交官、学者(クルシウス、ドース、〔ライデンの歴史家・詩人〕ヤン・ファン・ハウト(Jan van Hout)、スカリゲル、〔フランスの天文学者〕ニコラ-クロード・ファブリ・ド・ペーレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc)、〔デンマークの医師〕オーレ・ヴォーム(Ole Worm))などの著名人だった。パルダヌスの死後もコレクションは引き続きエンクホイゼンに保存され、最終的にデンマーク王室コレクションに吸収されて、一部は現在でもコペンハーゲンで見ることができる。 [130-2] クルシウスが死去する10年前には、遠方の情報と標本がライデンにも流入してきていた。上掲のライデン植物園の版画には、亀の甲羅、ワニの剥製、ホッキョクグマの顎骨が描かれている。これらはすべて、自然標本が保管されていた植物園の回廊で閲覧できた。パルダヌスやライデン大学のコレクションに体現されている知識は、学生や知識人、また良家の人々のみならず、エリート商人や裁判官、親方、さらには一般市民にも評価されていた。
再びクルシウス:宗教対立の中での自然研究
[130-3] クルシウスは1609年に83歳で死去した。旅のなかで多くの知識を蓄積し、精緻な図版を伴う記述植物学の著作を出版した。多くの植物学書をラテン語に、あるいはフランス語に翻訳するなかでも、自身の発見を付け加えた。また、様々な旅行記や航海記もラテン語に翻訳していた。[131-1] 古典語だけでなく、フランス南北の俗語、スペイン語、ポルトガル語、またドイツ語諸方言(オランダ、ラインラント、ヴィッテンベルク、ウィーン)、さらには英語もある程度操った。これにより、植物の情報と標本を、多くの人との会話や書簡から得ることができ、国際的な園芸ネットワークが構築された。また、外来種をヨーロッパの庭園に適応させるのにも尽力した。有用性と美しさの両方に注目し、ジャガイモを宣伝する一方で、チューリップのみなたず新種のアイリスやユリ、アネモネなども導入した。一流の植物研究者であると同時に、上流の人々とも、ハーブ売りの女性、庭師、宿屋の女主人とも交流する、旅する人文主義者でもあった。
[131-2] 同時代の新しい自然哲学の提唱者たちによれば、自然に関する真の知識を得るための条件とは、広い経験、言語力、記憶力、明晰な頭脳、徳の涵養が、事物自体の徹底的な調査と結びつくことだった。これはまさにクルシウスにあてはまる。こうした価値観は、世界観の変化から生まれたわけではなく、世界の事物への注意深い観察から生まれたもので、その観察は、商業と自由の世界と結びついていた。最も重要だったのは、一般原理についての議論ではなく、個物だったのだ。
[131-3] ネーデルラントでは、宗教・政治対立のなかでも、ルネサンス的な客観性への関心が残り続けた。これを可能にした良心の自由への共感は、教義ではなく敬虔さを重んじる文化、優れた教育機関、そして活発な商業活動によって支えられた。また、具体的な被造物へ注目する傾向が、宗教的強制への抵抗にもなった。クルシウスは、この時代の人文主義的自然研究者を代表する人物だが、あくまでその一人にすぎない。