えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ハットンとドリュックの地球の理論 Rudwick (2014)

  • Martin J. S. Rudwick (2014) Earth's deep history: how it was discovered and why it matters. Chicago: University of Chicago Press

【目次】

第3章 大きな絵を描く

循環する世界-機械?

[68] 数年後、まったく異なるタイプの地球の理論が現れた。提唱者はジェームズ・ハットン(Jamas Hutton, 1726–1797)。ヒュームやスミスらと共にエディンバラの啓蒙主義サークルに属した人物で、その『地球の理論』(Theory of the Earth, 1788/1795)もより大きな知的プロジェクトの一環だった。

 地球の形成について考察するさい、ハットンはビュフォンと同じ2つの原理を採用している。第一に、膨大な時間を想定すること。第二に、現在でも身近で見られるゆっくりとした自然のプロセスの観点から説明を行うべきだということ。これらの原理は18世紀後半にはよく知られており、ハットンが初めて独創的な適用を行わったわけではない。[69-1] したがって、ハットンを地質学の唯一重要な「父」と考える昨今の風潮は誤っている。

[69-2] ハットンはライデン大学で血液循環を研究して医学博士号を取り、スコットランドに戻って現代で言う水循環について論じた。これを踏まえると、地球それ自体を定常的な循環システムだと考えたのも驚きではない。[69-3] 人間は動植物に依存し、動植物は土壌に依存する。土壌は岩盤から生じ、川から海へと流されていく。すると、長い目で見れば陸地はなくなるはずだ。しかし、新しく陸地を形成するプロセスがあるかもしれない。海に流れた土壌は海底に堆積し、固まって岩石となり、それがゆっくりと押し上げられて新たな陸地を形成する。こうした「修繕」(renovating)の過程は、地球深部の熱の膨張力によるとハットンは考えた。[69-4] このダイナミックではあるが定常的な「居住可能な地球システム」(system of the habitable Earth)の究極目的は、地球を人間が居住可能な場所として永遠に保つことである。[70-1]このように、この理論は自然神学に基づいている。

[70-2] ハットンはこの定常説を発表(1785)した後に、自説の当否を確かめるべくスコットランドの大規模なフィールドワークを始めた。その結果、通常地層の最下部に見られる花崗岩は、実際のところ最も古いものではないと発見した。というのも花崗岩は、最初は熱い流体だったのが、岩盤の裂け目に入って冷却されて結晶性の固体になったようだからだ。このことは、地殻の下に超高温の流体が存在し、それが地殻の隆起を引き起こして新しい陸地を形成することの証拠だとハットンは考えた。ハットンは地球を「機械」と呼んだが、これは熱の膨張力を無限に反復するサイクルの一局面としている蒸気機関になぞらえたものだ。

[70-3] さらにハットンは、一つのサイクルで形成された岩石群と別のサイクルで形成された岩石群との接触面に注目した。海底で水平に堆積したある地層が隆起して陸地になり、それが雨や川に侵食されて海面下に下がっていくとする。そしてその上に第二の地層が堆積し、[71-1] また隆起して新たな陸地になるとする。このことは、2つの「居住可能な世界」が継起したことの証拠だとみなせる、とハットンは考えたのだ。ハットンの好んだ類比で言えば、地球のシステムは、太陽系の惑星と同様に反復的である。〔人間が居住可能な世界が複数継起するという点について〕、化石が否定的な証拠になるとハットンは考えなかった。有史以前に人間がいた化石記録は確かに存在しないが、動植物の化石がその記録の代用となると考えたからだ。[72-2]上述の究極目的を考えると、動植物だけが存在する「世界」は意味をなさなかったのだろう。


図3-5:2つの地層の湾曲接合(現在の用語では「不整合」)の図(スコットランド、ジェドバラ(Jedburgh)の渓谷)。下の地層はもともと水平に堆積したが、隆起して垂直になった。それが侵食を受け、その上に第二の若い地層が堆積し、また隆起して現在の陸地になった。その上には動物、植物、人間が住んでいる。2つの岩石群は、居住可能な「世界」が2つ継起したことを示す。

[72-1] したがって、地球の過去および未来の姿が、現在のそれと大きく異なると考える理由はない。つねにどこかに、人間の居住のための乾いた陸地が存在している。人間を支えるために賢くもデザインされた「システム」としての定常的地球は、ビュフォンの発展的地球より非歴史的である。

図3-6*1:『地球の理論』(1795)の最終パラグラフ。有名な最後の一文では、地球というシステムには始まりを示すサインも終わりを示すサインもないとされる。諸世界の継起(succession)は、惑星の継続的(succesive)な軌道と類比される。「知恵」、「意図」、「システム」などの表現は、ハットンの理神論的な神学の表れである。

[72-2] ハットンの理論はヨーロッパ中の学者に注目された。エラズマス・ダーウィンは、ハットンによれば「地球はこれまでも、これからも永遠である」と肯定的に述べている。[73-1] 他方で、地球の永遠性は嘲笑されもし、また柔らかい堆積物は硬い岩石に変化するはずだといった科学的主張にも批判があった。

[73-2] ハットンのシステムは決して無視されたわけではなかった。ただ、18世紀の終わりごろまでに、ハットンの理論はビュフォンの理論同様あまりにも思弁的にすぎると思われるようになり、「地球の理論」というジャンル一般がもはや役に立たないとみなされるようになっていった。ハットンの死後、新しい世紀の科学的趣味に合うようラッピングし直されなかったら、ハットンの理論も忘れ去られていたかもしれない。

古代世界と現代世界?

「地球の理論」というジャンルの変容と終焉を予感させるような著作を物した人物が、ハットンの最も鋭い批判者の中にいた。それが、ジャン-アンドレ・ドリュック(Jean-Andé Deluc/de Luc, 1727–1817)だ。ジュネーヴの市民で、30代でイギリスに渡ると、王立協会に入会、またジョージ3世の妻シャーロット王妃の助言者にも任命され、その後は西ヨーロッパを広く旅した。自らを啓蒙的哲学者だとみなしていたが、理神論者でも無神論者でもなく、「クリスチャンの哲学者」を自称していた。[74-1] ドリュックは聖書を歴史であると真剣に考えており、創造物語や大洪水が歴史として真実であることを示そうと心を砕いた(このために、今日では不当に否定的に評価されている)。

[74-2] ドリュックの最初の著作『地球と人間の歴史に関する書簡』(Lettres sur l’Histoire de la Terre et de l’Homme, 1778–79)全6巻は、ビュフォンともハットンとも異なる地球解釈を示している。その序文は、宇宙(universe)に関する理論を「宇宙論」(cosmology)と呼ぶように、地球(Earth)に関する理論を「地球論」(geology)と呼ぶことを暫定的に提案しており、この語は意味の変化を蒙りつつ結局〔「地質学」として〕定着した。後年、ドリュックは本書のアイデアをさらに練り上げてヨーロッパ中の科学雑誌で発表して知名度を高めた。また、ハットンよりはるかに大規模なフィールドワークを西ヨーロッパで行い、最近の地球史上で実際に起った重大な出来事の自然的証拠だと考えるものを記述して、それをノアの洪水と同定した。

[74-3] ドリュックはビュフォンやハットンと同じく、侵食や堆積といった現在でも働いているプロセスを研究し、それを「現在因」(present causes/causes actuelles)と呼んだ。だがビュフォンとは異なり、ドリュックはそれをフィールド上で研究しており、またハットンとは異なり、現在因は現在観察できるところで常に働いていたわけではないと主張した。フィールドでの調査によれば、現在因が現在の大陸に働き始めたのは比較的最近の一定の(finite)時点からだとドリュックは言う。

たとえば、大きな川の河口部には、上流で侵食されたものが堆積してデルタが形成される。そしてデルタの形成速度は、歴史的記録から推定できる。これは砂時計のようなもので、[75-1] ある時点で砂時計にたまっている砂の量は、ひっくり返されてから経過した時間の一定の長さを示しているのだ。デルタの大きさは一定なのだから、その形成も過去の一定の時点から始まったはずだ。こうした特徴のことをドリュックは「自然のクロノメーター」と呼んだ。このクロノメーターは、ジョン・ハリソンのクロノメーターと違ってまったく精確ではないが、とにかくこの類比によってドリュックは、現在の世界の開始時点は数千年以上前には遡れないと論じることができた。

[75-2] この概算値だけでも、ハットンの永遠性の主張を論駁するには十分だとドリュックは考えていた。またこの数千という桁は、洪水の日付にかんする年代学的計算とも合致していた。したがって、現在の世界は聖書記録と同定しうるような重大な自然的出来事によって始まったという主張が支持されるのである。ただし、ドリュックは聖書直解主義者ではなく、実際に起った出来事は陸と海の突如の反転だったと推測した。これは聖書の描くイメージとはかけ離れているが、現在の陸地に人間の化石が見られないことを説明できる。逆に、現在見られる海洋生物の化石は「以前の世界」の痕跡だと説明できる。[75-3] このようにドリュックは、唯一の大規模な自然的「革命」により、2つの対照的な「世界」が分けられる、という形で地球全史を再構成した。

ドリュックの目的はあくまで歴史であり、洪水物語にかすかに記録されている自然の出来事の歴史的実在性を確立することだった。そのため、この出来事の原因が何なのかは別問題とされており、わずかに地殻崩壊の可能性を示唆しているにすぎない。[76-1] また「以前の世界」のほうのタイムスケールは曖昧なままにしており、それが人間の基準からは途方もなく長いと強調している。つまりドリュックは「若い地球」論者ではなかった。同様に洪水物語の分析も文字通りではなく、同時代の聖書学の知見を取り入れている。このことは、洪水の宗教的意味を明確化するのに役立つとドリュックは考えていた。

[76-2] 後の著作でドリュックは、様々な岩石からなる大規模な地層(次章で扱う)に関する学者の意見を吸収し、それまで曖昧だった「以前の世界」とは、洪水以前の地球史に生じた一連の諸段階のことだと考えるようになった。洪水以前史は創造の(極めて長いものと解釈された)「日」という観点から解釈されたが、ビュフォンの「諸時期」とは異なり、各々の段階は創世記の描写と合致していない。洪水物語の場合と同様、重要なのは聖書の物語が単に保存されることではなくて、自然世界からの新たな情報によって、その意味が深められることだった。またビュフォンとは異なり、ドリュックの考える出来事の系列にはプログラムされた必然性はない。またハットンとも異なり、自然界の知的なデザインや永遠性もない。ドリュックの地球史は、その頂点である「現在世界」の人類史同様、偶然的なのだ。

[76-3] このように、ドリュックの理論は先行する地球の理論とは決定的に異なっている。地球の未来は原理的には予測可能であるという非歴史的な仮定を退けているのだ。その理論はラディカルに偶然的かつ歴史的であるが、同時に、[77-1]自然的原因の強調も緩めてはいない。この視点は紛れもなく現代的なものだが、その出処はあきらかにキリスト教的神学であった。

[77-2] 晩年のドリュックは19世紀を生きたが、理論の方は古びてしまった。この頃までには、「大きな絵」を描くというジャンルそのものが無用とみなされるようになったのだ。しかし、ビュフォン、ハットン、ドリュックの大理論のなかの個別の要素は、生き残るか復活して、新世紀の地質学を特徴づけるはるかに大規模な地球史の説明において、存分に用いられることになった。

しかし次章ではまだ19世紀に行かず18世紀後半にとどまり、本章の水面下にあった2つのテーマを取り扱う。第一に、地球史上の様々な出来事が配置されるタイムスケールが大幅に拡張したこと。第二に、ドリュックのような地球の歴史的解釈が発展し、地球の理論ほど野心的ではない仕事の中で活用されたことである。

*1:「こうして、我々の推論は最後まできた。実際にあるものから直接的な結論をさらに引き出すためのデータはもうない。だがこれで十分である。自然の中には知恵、体系、整合性があるとわかったことで我々は満足している。というのも、この地球の自然史のなかで諸世界が継起してきたということからは、自然の中にはシステムがあると結論することができるだろう。このことは、惑星の回転の観察から、そうした回転を継続させるよう意図されたシステムが存在すると結論するのと同じである。そして、諸世界の継起が自然のシステムによって打ち立てられているのであれば、地球の起源についてさらに高次のことを見出そうとしても無駄である。したがって我々のこの探求の結論はこうだ。始まりの痕跡は見つからずーー終わりの見込みもない。」(要約者訳)

生命倫理学における反省性(reflexivity)の必要 Ives and Dunn (2010)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1467-8519.2010.01809.x

2つの生命倫理学
  • プライベートな生命倫理学
    • 学術的議論に貢献することを意図した知的営み(an intellectual exercise intended to inform academic debate)
  • パブリックな生命倫理学
    • 公的政策や、科学者、医療者、患者、大衆の行動を形成・変容させることを狙った実践的営み(a practical exercise intended to shape and re-shape public policy and/or the behaviour of scientists, medical practitioners, patients or members of the public.)
生命倫理学と客観性のレトリック
  • いずれの形態の生命倫理学も、客観性というレトリックによって提示されている
    • だが、近年の客観性批判は生命倫理学へ拡張されるべきだ


  • 道徳哲学は不可避的に社会に埋め込まれている
    • 道徳的議論の中核には直観がある
    • 道徳的議論は、その直観に表現を与える
    • 道徳直観は、私たちの生活経験を通して形づくられる
生命倫理学の役割と義務
  • 生命倫理学者は、政策、大衆、研究計画、臨床規制等に影響を与える権力を持っている
    • このため、パブリックな生命倫理学の実践者には説明責任(accountability)があり、それを果たすことは義務(duty)である


  • こうした義務は、科学的知識が公的な場面に取り入れられるその他の文脈ではよく認識されている
    • 例:臨床試験を行う際には、研究の性格について反省的になり、利益相反の可能性を開示することで、透明性の向上が図られる


  • 同様の要請は生命倫理学にも当てはまる
    • 生命倫理学者は、自分の直観が道徳的議論や研究関心一般にどのような影響を与えているかを、オープンかつ明示的に考慮するべきである(反省性)
オートエスノグラフィーと告白物語
  • より責任ある哲学的生命倫理学を実現するために役立つ方法として、オートエスノグラフィー、とくに告白物語が役立つ
    • 先例として:Eva Kittay; Thomas Lacqueur


  • オートエスノグラフィー
    • 研究者自身の自伝的情報を、研究の社会・文化的前提の分析と解釈に用いる


  • 告白物語(the confessional tale)
    • 問題の分析過程における混乱、不確実性、ジレンマなどを吐露する個人的な表明。オートエスノグラフィーの一種(van Maanen 1988)。


  • オートエスノグラフィー的な反省性は、真なる結論を導いたり説得性を高めるという意味で、議論をより良くするわけではない。
    • そうではなく、説明責任と公開性の必要を認め、またそれに応えるためのもの
      • 透明性を高め、理想化を減らすことで、議論はよりよく理解され、また評価されるようになる
反省的生命倫理学のポイント
  • 反省性を実現するためには様々な方法がある。
    • オートエスノグラフィーがあらゆる場合に適しているわけではない。


  • しかし、反省的な生命倫理学実践はいくつかの共通要素をもつだろう
    • 1. 議論がどのように理解されるべきかについて、明確な方向づけがされている
      • 学術的議論を刺激するための思考実験なのか? それとも政策決定者・実践者に向けられたより実践的な提案なのか? 等々
    • 2. 議論の源泉が説明され、著者が目下の倫理的問題に対して立つ様々な立場が考慮される
      • 議題は著者の(どのような)個人的な関心に基づくのか? 自身、友人、家族などの経験に負っているか? 議論が真剣に受け止められること(taken seriously)に(どのような)関心を持つか? 等々
    • 3. 議論の中で、1. と2. が考慮されるような批判的・自己反省的な書きかたをする
      • 補論(appendix)や注をつける、本文の中に個人的語りを入れ込む、等々
反論と応答
  • 反論:反省性を求めることは哲学的生命倫理学の目的および方法と両立しない
    • 著者個人の経験に焦点を当てることは他人との関連性を失わせ、一般化された規範的主張をすることが難しくなるのではないか
  • 応答:議論の透明性を高めることで、公的な場でその議論の結論に依拠することはむしろ容易になる


  • 反論:論理的議論などの既存の方法によって、すでに個人的直観の主観性の問題は克服されている
  • 応答:個人的直観は道徳的議論によっては決して対処できない。だからこそ、哲学者の個人的な語りを通してそれを議論の中に位置づけ、透明化する必要がある


  • 反論:反省性を求めることは煩わしく、混乱しており、また自己満足的(self-insulgent)である
  • 応答:反省性は社会科学において様々に批判されてきている。たしかに、オートエスノグラフィー、特に自己物語には、独善的で甘えだという批判が最も当てはまる。だがそうした批判は、反省性がどう実現されるべきかにかんする批判であって、反省的になる必要性それ自体に向けられたものではない。反省的分析をいかにうまく行うか、という問いが重要である。

17世紀の年代学と自然の歴史性 Rudwick (2014)

【目次】

第1章 歴史を学問にする

年代学という学問

 トーマス・ブラウン(Thomas Browne, 1605 - 1682)は、「時間は我々より5日だけ古い」と述べた。ガリレオやニュートンといった科学の巨人が登場する17世紀でも、人類と地球、さらに宇宙は、ほとんど同じ年齢だと考える人が多かった。たしかに『創世記』は、神は5日の準備のあと6日目に人間を作ったと教えている。しかし、この考えが人々に押し付けられていたというわけではない。[10]むしろ逆に、「世界は(僅かな準備期間を除いて)常に人間のいる世界だった」というのは明白な常識であり、だからこそ人々は、『創世記』の説明を受け入れることができたのだ。

 人類と地球の歴史がほぼ同じといっても、その歴史は非常に長いと思われていた。歴史はイエスの誕生から数える「紀元」を尺度に測られ、そこから現在までは16世紀以上の長さがある。さらに「紀元前」は、古代ギリシアや、聖書が伝える曖昧な時代へとさかのぼる。17世紀の歴史家は、創造〜現在の時間は受肉〜現在の時間の3倍近いと考えており、そうすると世界の歴史は合計で50〜60世紀という想像を超えた長さになる。

 [11]17世紀になると、アイルランドの歴史家ジェームズ・アッシャー(James Ussher)が、創造の日付を紀元前4004年の特定の日に同定した。アッシャーが示した具体的な日付には異論があったが、このように正確な日付が特定できるという考え自体はあまり批判されなかった。アッシャーのように「年代学」(Chronology)に取り組む学者はヨーロッパ中にいたのだ。年代学者たちは、様々なテキストを元にして、世界史の詳細で正確なタイムラインを構築しようとしていた。

 [12]アッシャーの『旧約年代記』(Annales Veteris Testamenti, 1650–54)は、創造(紀元前4004年)からエルサレム第二神殿の崩壊(紀元70年)に至る世界史上の出来事を年ごとにまとめたもので、当時の学問的営為の最高水準を体現した著作である。年代学は、まさしく歴史の「学問」(a historical science)だった。アッシャーは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語で書かれた古代のあらゆるテキストを厳格に分析していたし、また半世紀前の年代学者ヨセフ・スカリゲル(Joseph Scaliger)は、シリア語やアラビア語などのテキストをも考慮していた。こうした多様な文献から、大きな政変、支配者の治世期間、天文現象などの情報を抜き出して突き合わせることで、[13]出来事が年代順に配置されていく。[14] アッシャーが用いた証拠の多くは古代の世俗的記録であり、聖書は重要ではあるがソースの一つに過ぎなかった。ここから、アッシャーの第一目的があくまで詳細な世界史の編纂であったことがわかる。

世界史の年代を決定する

 アッシャーは、スカリゲルが考案した年代決定システム、「ユリウス通日」を採用していた*1。このシステムによって、様々な年代を比較対照する中立的な時間次元が得られる。さらにここでは、「時間」(time)と「歴史」(history)の区別が強調される。「時間」とは年単位で計測される抽象的な次元にすぎず、そのなかで生じるあらゆる実際の出来事が「歴史」である。すべての出来事はユリウス通日を基準に、AM(Anni Mundi; 創造から数えた年)、BCないしADで位置づけられる。年代学は量的精確さを求める時代の知的欲求に後押しされたもので、量的精確さの追求はティコやケプラーなどの天文学にも見られた。

 史料の不完全さや曖昧さゆえに、年代学は非常に論争の多い研究分野であった。[15]特に創造の日付については異論が多く、調べられた限りでは紀元前4103年〜3928年まで諸説ある。たとえばスカリゲルは紀元前3949年説、[16]ニュートンは紀元前3988年説を唱えている。

 このなかでアッシャーの紀元前4004年説が英語圏で有名になったのは歴史的偶然による。[17]紀元前4004年説は、『欽定訳聖書』(KJV)の1701年版(William Lloyd版)に編注として書き込まれたのだ。この説は教会や国家が公認したわけではなかったが、編注は結局1885年に『改訂版聖書』(RV)が出るまで残り続けたのだった。なお他言語の聖書には欄外の日付は通常見られない。

世界史の諸時代

 アッシャーたち年代学者が量的精確さを追求したのには重要な目的があった。それは、人類史を有意味な諸時期に精確に分割することだった。伝統的な紀元前/後の区別は受肉を境に人類史を抜本的に分割するが、これは有意味な分割の一つに過ぎない。紀元前はさらに、決定的な出来事に由来する諸「時代」に分割される。アッシャーの場合、創造と受肉の間に5つの重要な転換点を見出し(ノアの洪水、アブラム、出エジプト、神殿建設、バビロン捕囚)、世界史は7つの時代に区分される。7つ時代は創造の7日と象徴的に対応し、世界史の全体がキリスト教な意味に満ちる。

 [19] さらに重要なことがある。諸時代の系列として把握された歴史の全体は、神の自己開示つまり「啓示」が累積していく単一の過程であり、そしてそれはおおむね人類の歴史であった。これに対し自然界は、人間のわざと神の導きが展開する舞台、ほぼ不変の背景でしかない。宗教的にも世俗的にも、人類史のなかで自然の出来事がおおきく取り上げられることは稀だった(モーセの海割り、ヨシュアを助けた「太陽の静止」、イエスの誕生と死を示す新星と地震)。ただし、聖なる物語の中で自然界が非常に重要になる部分が2つある。創造それ自体とノアの洪水だ。17世紀にこれらの箇所につけられた歴史的注釈のなかには、自然からとった素材によってテキスト研究を拡張するものも現れた。

 「ヘキサメロン」(hexahemeral, hexameral:「6日」の意)と呼ばれるタイプの注釈は、自然界における主要な特徴の出現を、創造の6「日」ないし段階を枠組みとして、実際に時間の中で生じた歴史的な出来事として捉える。ここでは自然界に、異なる時期(「日」)をもつ固有の歴史が与えられており、近代的な意味で自然「史」(history)と言える説明がなされている。[20]こうした世界史の捉えかたは、タイムスケールこそ大幅に異なるが、地球の太古の歴史に関する近代的な見方と極めて類似している。『創世記』の物語によってヨーロッパ文化は、地球や生命を歴史的に捉える思考の準備ができていた(前適応していた/pre-adapted)と言える。

歴史としてのノアの洪水

 ノアの洪水はさらにはっきりと歴史的出来事として扱われた。年代学者の計算では、これは人間のドラマが始まってから1500年以上経過したあとに生じた。創造とは異なり、ノアの洪水は人間の記録や記憶によってモーセまで*2伝わった可能性があるため、学者はこれを詳細に分析しその実態を明らかにしようとした。洪水の唯一真正な歴史的記録を含むのは『創世記』だと考えられたため、分析は聖書をベースに行われた(その他の古代の洪水記録は、聖書を元にした二次的なものか、後代の局所的な洪水の記録だと考えられていた)。

 洪水物語を分析した17世紀の歴史家の好例が[21]、アタナシウス・キルヒャーだ。キルヒャーの『地下世界』(Mundus Subterraneus, 1668[5?])は、当時の幅広い自然学的知識をもとに、地球を複雑なシステムとして描き出した著作である。そのシステムは、動的ではあるものの歴史をもっておらず、[22]創造以来なにか大きな変化があったとはされていない。ところが、その大きな例外が洪水である。[23]『ノアの箱舟』(Arca Noë, 1675)でキルヒャーは、聖書のあらゆる古代の版を利用しながら、洪水を歴史的に分析している。すなわち、ノアが方舟をどう建造したか、方舟はどう流されたか、洪水後の人間世界はどう復興したかを推測し、また『創世記』の記述を元に方舟を復元、図解し、すべての動物の番を収容できたことを示そうとした。さらに、世界規模の海面上昇に必要な水量を計算し、その水がどこから来てどこへ行ったのかも推測している。

 目下の文脈で一番重要なのは、洪水の前後で大陸と海のかたちが違ったかもしれないという推測である。ここでキルヒャーは、人類の歴史と並行して地球にも真の歴史があると事実上主張していることになる。ただしキルヒャーの分析の主眼はあくまでノアと方舟であり、洪水の物理的影響は二次的なものだった。アッシャーのような年代学者の考えと同じく、歴史は主として人類の歴史であり、その長さは近代の基準から見れば短いものだった。

有限の宇宙(コスモス)

 ユリウス通日がカバーする期間は十分に長いため、もっともらしい創造および終末の日付のどれであっても、この期間の中に位置づけることができる。[24]これは年代学にとって便利な点だったが、しかし今日の目から見ると、当時の年代学の最も不可解な特徴を浮かび上がらせるものでもある。すなわち、世界史は過去にも未来にも有限だとされているのだ。これは、宇宙が空間的な意味で「閉じた世界」だとみなされていたことと酷似している。

 アッシャーおよび同時代人の多くは、自分たちは世界の七番目の、そして最後の時代に生きていると考えていた。終末は間近か、少なくともそう遠くない未来に迫っている。一般的には、終末は創造からちょうど6000年後だとされていた。この見解は、受肉が創造のちょうど4000年後に来る紀元前4004年創造説とうまく調和し*3、この説の魅力を高めていた。実際、この説はアッシャー以前にも以後に提案されていた。

 アッシャーは自説に自信を持っていたが、反論がありうることも十分認識していた。実際、別の日付が提案されていただけでなく、日付の確定は不可能だと考える年代学者もいた。『創世記』によれば太陽は4日目まで創造されていないため、7日の「日」とは24時間のことではないという指摘は昔からあった。「日」とは、預言者の言う「主の日」(the Day of the Lord)のように、重要な「とき」のことなのかもしれない。この場合、創造の「週」の長さは[25]確定できない。聖書のテキストには解釈が必要なのである。

 こうした認識に導かれ、年代学者や歴史家は本文批判(textual criticism)の方法を発展させた。そしてそれは今日でも歴史研究(聖書研究も含む)の根底にありつづけている。17世紀の学者の解釈は今日から見るとあまりに字義的(literal)だが、その理由の一つは、聖書を真剣に歴史記録として扱ったからだ。また、聖書読解におけるこうした「直解主義」(literalism)は新たな発明だった。これ以前の時代には、聖書のその他の意味の層(象徴的意味、教訓的意味など)のほうが、字義通りの意味よりも価値あるものとされていたのだ。『創世記』の場合、最終的に重要なのは日付でも「日」の長さでもなく、万物が唯一の神によって創造され、良しとされたこと等々だとされていた。

 [26] また世界史の年代決定には、創造の日付以外にも未解決の問題があった。古代ギリシアの記録によると、エジプトの初期の王朝は創造よりも前に存在していたことになっているのだ。ここではエジプト側の記録がフィクションだとして退けられたが、同じ問題はイエズス会士が伝えた中国の記録や、古代ギリシア人が伝えるバビロニアの記録などでも生じていた。

 さらに最も動揺を生じさせたのは、アッシャーの『年代記』の直後に匿名で出版された『アダム以前の人類』(Prae-Adamitae, 1655)かもしれない。この本は新約聖書を巧妙に解釈することで、アダムの物語がもともと語っていたのは最初のユダヤ人のことであって、最初の人間のことではないと主張していた。これは人類史の出発点をアダムに置くすべての見解を疑問視するものだ。

 なお『アダム以前の人類』の説には利点があり、この時代のヨーロッパ人がようやく十分に認識した人種の多様性と広がりをうまく説明することができた。[27]ただしこれは同時に、一部の人々をキリスト教的な救済のドラマの埒外においてしまうという欠点にもなった。匿名著者の正体がフランスの学者イザーク・ラ・ペイレール(Issac La Peyrére)だと判明するとカトリック当局とひと悶着あったが、ラ・ペイレールは少なくとも名目上は自説を撤回し、余生を平和に過ごした。

永遠主義の恐怖

 それはともかく、今の文脈で「アダム以前」という観念が重要なのは、それが古代エジプト、中国、バビロニアの記録とされるものの影響力を高めたからだ。これらの記録に従えば、人類の歴史は西洋の従来の年代学の許容範囲よりもはるかに長く、想定より何万年も遡る可能性がある。この可能性は従来の思考にとっては恐るべきものだった。なぜならそれは、創造の日付や聖書の権威を疑問に付すことはもちろん、それ以上に、はるかにラディカルな思考への扉を開くものだったからだ。つまり、宇宙、地球そして人類には始まりも終わりもなく文字通り永遠に存在しているという、古代ギリシャの哲学者たちの考えが正しかったのかもしれないのである。この考えは、人間が何らかの意味で創造されており、従って創造主に対して道義的責任を負うという考えを否定し、道徳と社会を根本から脅かすものだと思われた。

 この「永遠主義」は一見、地球の歴史についての近代的な見方を先取りしているように見えるかもしれない。しかしそれは大きな誤解である。実際のところ、17世紀にあった2つの選択肢、「若い地球」と「永遠の地球」は、どちらも等しく近代的ではない。[28]なぜならどちらも、人間が宇宙にとって本質的であったしこれからもあり続けると想定しているからだ。永遠の地球には、人類も常に存在していたのだ。

 とはいえ17世紀に戻れば、永遠主義は、支配的だった宇宙像に対してラディカルな対案を与えるものだった。永遠主義は社会、政治、宗教を転覆させるものだと広く考えられていたから、一部の人々が「若い地球」を頑なに守ろうとしたことも頷ける。しかし逆に永遠主義者のほうも、自身の懐疑的さらに無神論的な方針を喧伝しようとしていた。つまりこれは決して啓蒙的理性と宗教的ドグマの戦いなどではなく、どちらの側にも強烈に「イデオロギー的」論点があったのだ。

 しかし西洋を離れて全世界規模で見れば、人類が無限に続くという考えはむしろ標準的であった。多くの前近代社会では、時間、あるいはむしろ時間の中で展開する「歴史」は、反復的ないし循環的であると考えられていた。[29]この仮定の根本には、人は世代から世代へ生まれては死ぬという普遍的な経験があり、四季のめぐりがそれをより強固にした。ここから、文化、地球、そして宇宙全体も同じように循環的あるいは「定常的」だという見方が育まれた。これを背景にしてみれば、唯一の出発点をもち直線的で一方的な「歴史」という観念、ユダヤ教に発しキリスト教とイスラム教が受け継いだこの観念のほうが、むしろ異質なものとして浮かび上がってくる。 

 この強烈な歴史感覚はユダヤ-キリスト教的伝統の基底構造であり、そしてそれは、地球の太古の歴史にかんする近代的な見方と酷似している。つまり後者も、地球の歴史を有限かつ方向性を持つものとして見る。より具体的に言えば、人類の歴史を量的精確さをもって位置づけ、それを質的に有意味な諸時代に分ける年代学と同じことを、近代科学である「地質年代学」は地球の太古の歴史を対象に行っている。これが偶然の一致にすぎないのか否か、この問いは本書の残りの部分で検討されるだろう。

 西洋の伝統的理解では、近代の理解と比べて、宇宙、地球、人間の歴史は非常に短いものだった。だがこの違いは比較的些細なものである。より重要なことは、アッシャーのような年代学者に代表される歴史学が、もっぱらテキストによる証拠に基づいていたという点だ。[30]しかし同じ17世紀、地球の歴史にかんする議論に自然の証拠をとりいれはじめる学者がいた。この動きを次章ではとりあげる。

*1:要約者注:ユリウス暦を紀元前4713年1月1日まで遡って適用することで日数を数える方法

*2:要約者注:モーセ五書の著者は伝統的にモーセだとされていた。

*3:要約者注:イエスの誕生が紀元前4年だというのは当時も広く認められていたため、創造が紀元前4004年だとすると受肉はちょうど4000年後にあたる。

機械の中の幽霊(ライル『心の概念』書評) Mace (1949)

  • Cecil Alec Mace (1949), "Review: Ryle, G., The Concept of Mind", Listener, 42, p. 1015.

以下は上記書評の翻訳です。

   ◇   ◇   ◇

機械の中の幽霊

ギルバート・ライル『心の概念』、ハチンソン、12シリング6ペンス

オックスフォード大学の形而上学的哲学ウェインフリート教授によって書かれた本書は、「機械の中の幽霊」という名の奇妙な物語の最終回として読まれるべき一冊だ。この回で、「物」(Thing)は祓い清められることになる。この結末を理解するためには、まずストーリーがどう始まったのかを思い出さなければならない。

いま中高年の人々は、人間は二つの部分からなると教え育てられてきた。この二部分は、日曜には「肉」(The Flesh)と「霊」(The Spirit)と呼ばれ、他の日には「体」(Body)と「心」(Mind)と呼ばれる。この理論のポイントは、二つの部分は極めて、極めて異なる種類のもの(stuff)からなるという点にある。体は物質からなり、物質については物理学者と化学者が言うことがすべてだ。他方で心は、これもまた一種のものではあるが、まったく別種の物で、物質では考えられない性質や能力を持っている。

こうした考えには非常に長い歴史があるが、それを素晴らしく巧みな形而上学体系に仕立てあげたのが、17世紀フランスの哲学者デカルトだった。ライルは不遜にも「デカルトの神話」と言っているが、これは形而上学体系としては驚くほど成功した。通常、一般の人は哲学的プロパガンダにはほぼ完璧な耐性をもっているようで、形而上学的イデオロギーには寛容な微笑みを返すだけだ。しかし「デカルトの神話」は一気に丸呑みされてしまった。デカルト以降3世紀にわたり、子どもたちはこの神話をこれ以上ない常識だと信じきって育ってきた。プロパガンダが驚異的に成功したのには理由がある。このアイデアが真っ先に売り込まれたのは、スコラ的理論にうんざりしていた時期の自然科学者だったのだ。自然科学者がこれを受け入れたのも不思議ではなかった。話の半分は、デカルトがガリレオから仕入れたもので、科学者はまさにそれを欲していたのだ。もう半分についても、あまり興味がなかったので、快く引き受けた。

二元論者のキャンペーンはあまりにも成功しすぎて、あとから問題が生じてきた。たしかに物質世界にかんするガリレオ-デカルト式の説明は、科学者が説明したかった多くのことを説明してくれ、さらに様々なかたちで有用でもあった。科学者は、機械を理解し作れるようになったのだ。そしてついには、心のはたらきだと言われていたことのほとんどすべてを行える機械が発明できるようになった。つまり、正確な識別、計算と推論、経験による学習、長所と短所を比較して決定を下すこと、などだ。電子工学の専門家は、もし需要があれば、基本的なエチケットや道徳を守る機械を作ることもできるだろう。そうした機械は例えば、女性が使うときには自動的に蓋が開いたり、あるいは貧乏な子供にだけ板チョコレートを配ったりするかもしれない。ともあれ、そうすると、人間の脳も実はこうした機械なのだという考えには説得力がある。人間の脳がその他の機械と違うのは、工学によって作られたのではなくて、自然淘汰によって作られたという点だけだ。

しかし「デカルトの神話」によると、もう一つ違いがあるのだった。つまり、人間機械は幽霊に取り憑かれている。もうすこし哲学的な言いかたをすると、人間機械は精神の「座」なのだ。だがここで疑問が出てくる。定義から言って、機械は自動的に動くものだ。そうだとすれば、幽霊には何ができるのだろうか? 幽霊は機械の計算に干渉することもできないし、機械の進行を寸分たりとも変えられない。ここで幽霊は、極めて奇妙な苦境に立たされている。これが、ストーリーの始まりだった。では、『心の概念』を手にとって、続きを読んでみよう。

幽霊が何もできないのはなぜか、ライル教授によれば簡単に説明できる。幽霊なんて本当は存在しなかったのだ。あの入念な理論構成全体が大失敗だったのである。だが、一つの謎が解かれたときに生まれる別の謎を突きとめることが哲学者の責務だ。幽霊が存在しないのだとすると、どうして私たちはそれが存在すると信じていたのだろうか。良い哲学的議論というのは、間違いを明らかにするだけでなく、なぜその間違いが生じたのかを説明し、誤ちが繰り返されないように話を整理する。これこそ、『心の概念』が取り組んでいる課題である。手短に言うと、ライル教授の考えはこうだ。幽霊を信じることは、「カテゴリー-ミステイク」である。これはつまり、大学を構成するすべてのカレッジを見たあとで、大学そのものを見たいと言うような間違い、あるいは、「平均的な人」というのを一人の市民だと思ってその人の住所を尋ねるような間違いである。

ライル教授は本書のある箇所で、この誤りの起源についてこう言っている。デカルトは一方でガリレオの証拠を尊重したが、他方で教会を尊重した、この衝突から誤りが生じたのだ、と。しかしこれは心理的な説明であって、私たちが欲しい説明とは少し違っている。「非物質的世界」の存在を信じたくなる誘惑は、教会の教説について考えるときに生じるのではない。そうではなく、私たちの夢や感情や感覚にかんする事実について、単純かつ十分なしかたで述べようとする時に生じてくるのだ。この誤りは、記述の仕方という点で生じる手続き上の誤りであるように思われる。この点にはライル教授も同意してくれるだろう。というのも、本書の中で最も重厚かつ説得力のある部分は、まさにこうした問題を扱っているからだ。そしてそこにこそ、著者のもっとも大きな貢献がある。ライル教授の他にも幽霊の実在を疑った人はいた。しかし無邪気な哲学者や心理学者がひっかかってしまう純粋に言語的な罠を避けようと、ここまで踏みこんだ人はなかなかいない。

本書は主に哲学者向けに書かれた本だが、専門用語とか、技術的に難しい部分はまったくない。「カテゴリー-ミステイク」(category-mistakes)、「カテゴリー-習慣」(category-habits)、「雑種-カテゴリー」(mongrel-categories)*1、「心的-行動形容詞」(mental-conduct epithets)などの表現があるが、これは専門用語ではなく、言葉遊びの類である。文体上多少のハイフンがあっても、「身-心」(Body-Mind)から形而上学的ハイフンを抜きとれるなら安いものだ。
 
たしかに、哲学者のための本だ。しかし、ロックの『人間知性論』やヒュームの『人間知性研究』と同様、一般読者でも読め、あまりにも-よく-ある(all-too-common)幻想をほとんど苦もなく払いのけることができるだろう。

*1:訳注:正確にはmongrel-categoricals

福利のハイブリッド理論 Woodard (2016)

  • Woodard, Christopher (2016). Hybrid Theories. In G. Fletcher (ed.), Routledge Handbook of Philosophy of Well-Being, pp. 161–74.

ハイブリッド理論とは

  • 福利(well-being)のハイブリッド理論とは、複数の福利理論の要素を組み合わせた理論である。
  • 通常この語は、「主観的要素」と「客観的要素」を組み合わせた(主観/客観ハイブリッド)、次のような説を意味することが多い。

【連帯必要説】......主観/客観ハイブリッドの代表例

  • 【連帯必要説】(joint necessity view): 福利は、(a)主観的条件と(b)客観的条件の両方が一緒に満たされていることに存する
    • Kagan 2009: (b)客観的に良いものをもち、(a)それを楽しむ
    • Adams 1999: (b)卓越したものを(a)享受(enjoy)する
    • Kraut 1994: (b)愛するに値するものを(a)愛する
    • Raz 1986: (b)追求する価値があるものを(a)成功裡に追求する
  • (a)と(b)の間にどのような関係が必要かによって、各説は更に複雑化しうる

その他のハイブリッド理論

  • しかし、主観/客観ハイブリッド以外のハイブリッド理論も色々ありうる。
    • 【主観/主観ハイブリッド】
      • Hawkins 2010: ポジティヴな情動状態と選好充足の両方が必要
    • 【客観/客観ハイブリッド】
      • 例:福利は、「有徳な」「友情」に存する

【連帯必要説】への反論

  • 反論:制約が強すぎる:一方の条件は不必要なのでは?
    • 価値のないものに向けられていても、快楽はやはり福利に影響するのでは?(Delanery 2018)
    • 当人が楽しんでいないとしても、客観的に良いものはやはり福利に影響するのでは?(Sarch 2012)
    • Launiger (2013), Hooker (2015)......
  • 【連帯必要説】の派生元となる親理論の側から見ると、【連帯必要説】の2条件のうち片方は必ず不必要に見えてしまう。
    • 個別に反論に対応することもできるが、【連帯必要説】以外の形式のハイブリッド理論に注目する価値もある。

全体論

  • ハイブリッド理論は、全体論的である点で、多元主義的理論(pluralist theory)とは区別される
    • 多元主義の場合、たとえば、価値あるものを持つこととその享受とは、互いに独立に福利に貢献する
    • 他方でハイブリッド理論では、一方がどれだけ福利に貢献するかは、他方がどの程度存在しているかに依存する(Kagan 2009)
      • =全体論(Parfit 1987, pp. 501–2)
  • ただし【連帯必要説】の場合、一方の要素が存在しなければ、他方の要素は福利に全く貢献しない
    • この特徴により、上で見た反論が出てきてしまう
    • だがこの特徴はあくまで【連帯必要説】のものであり、全体論から帰結するものではない。
全体論的なハイブリッド説の別例
  • 【増幅説】
    • 例:享受はそれ自体で福利に貢献する。その貢献分は、享受されるものに価値があるほど増幅する。
    • 例:友情はそれ自体で福利に貢献する。その貢献分は、友情が有徳なものであるほど増幅する。
  • こうした形式のハイブリッド説はより柔軟であり、【連帯必要説】への反論をかわせる(Sarch 2012)

今後の課題

  • 【連帯必要説】の課題
    • 主観的条件・客観的条件とは具体的に何なのか。またそれらの間の適切な関係は何か。
  • 様々な形態のハイブリッドの可能性
    • 主観/客観ハイブリッドだけでなく、主観/主観ハイブリッド、客観/客観ハイブリッド、また2条件以上のハイブリッドについて更に論じられるべき
  • 【連帯必要】構造を持たない理論の可能性
    • 多元主義からハイブリッド説を区別するのは全体論であり、複数の条件が【連帯で必要】という点ではない。複数条件間の別の関係も更に検討されるべき(Kagan 2009, pp. 264–70; Sarch 2012)。
  • 悪い生
    • 福利をめぐる議論では、悪い生は良い生の単なる鏡写しだと考えられがちである(Kagan 2014)。だがこの点についてもハイブリッドな視点からの検討は少ない(Kagan 2009)。

まとめ

  • ハイブリッド理論には、互いに非常に異なる様々な形式がありうる。
  • 今後は「ハイブリッド理論」全体としてではなく、個別の理論に注目して議論を進めたほうが良いかもしれない。

イタリア、ポルトガル、スペイン文学における自然描写 Humboldt (1847)[1849]

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※注はすべて要約者による

【目次】

初期イタリア詩人の自然描写

ダンテ

 [418-1] 古代世界が過ぎ去った後、新しい時代の偉大な創設者であるダンテ(1265–1321)のなかに、自然の魅力に対する感受性をときおり見出すことができる。

 『煉獄篇』には、朝の雰囲気や海にきらめく光の描写*1、わきたつ雲と川の増水の描写があり*2、また地上の楽園への入り口の木立は、ラヴェンナ近郊の松林を思い起こさせるものとして描かれる*3。この箇所の描写の現実への忠実さは、『天国篇』でのフィクショナルなきらめく川の描写と対照的である*4。[419-1] だがこの『天国篇』の光景も、輝く波しぶきが水面に広がって海をきらめく星の海に変える現象を念頭に書かれているように思われる。

ペトラルカ、ボイアルド、コロンナ、フラカストロ

 [419-2] イタリアでダンテについで挙げられるのは、ヴォクリューズの渓谷の印象を描写しているペトラルカ(1304–1374)のソネット、ボイアルド(1441–1494)の小さな詩、ヴィットリア・コロンナ(1492–1457)のスタンツァである。

 注:ボイアルドには「鬱蒼とした森よ、私の悲しみを聞いてくれ」とはじまるソネットがある*5。コロンナには、「千の花と香りに/飾られた地を見る時」とはじまる美しいスタンツァがある。またジローラモ・フラカストロ(1479–1553)は、ヴェローナ近郊の別荘の景色を素晴らしく描写し、また教訓詩の中でイタリアのレモン栽培についての心地よい節も残している。なおペトラルカは、ヴァントゥー山登攀のときも欧州各地への旅のときも、目の前の景色というよりはキケロやローマ詩人の作品の追憶の中に生きており、これは非常に残念である*6

ベンボ枢機卿

 [420-1] ギリシア人との交流によって古典文学は更に普及したが、その優れた精神の最も早いあらわれを、ピエトロ・ベンボ枢機卿(1470–1547)に見出すことができる。若いときに書かれた『エトナ対話』(1495)では、シチリアの豊かな穀物畑から雪に覆われたクレーターに至るまで、エトナ山の斜面の植生が生き生きと描写されている。壮年期の作品『ヴェネツィアの歴史』(1551)には、新大陸の気候や植生の更に絵画的な描写がある。

コロンブスの自然描写

熱帯世界の発見

  [420-2] この時期、人間の想像力は、突如広がった世界の境界と、それと同時に生じた人間の力の拡大という、偉大なイメージで満たされることになった。すなわちアメリカの発見が、十字軍に続く第二の、そしてより強力な影響をヨーロッパ諸民族に与えた。熱帯世界の平野の豊かな植物相、山脈の多種多様な生物、メキシコ、ヌエバ・グラナダ、キトなどの高地の北方を思わせる気候などが、ヨーロッパ人の目にはじめて映った。

 コロンブス(1451–1506)やヴェスプッチ(1454–1512)による自然描写のなかでは、二人の偉業を助けたであろう想像力が独特の魅力を放っている。オノリコ川はエデンの園から発していると信じたコロンブスには深く真摯な宗教感覚があった。[421-1]そしてそれは年を追うごとに、コロンブスが受けた仕打ちの影響もあって、憂鬱で病的な熱狂へと変わっていった。[420-2]またヴェスプッチのブラジルの描写は、古今の詩人への通暁を証ししている。

 [421-2] ポルトガルやカステリアを遠洋航海に駆り立てたのは黄金だけでなく、より一般的な冒険精神であった。遥か彼方の土地についての物語が若者の心を捉え、また近代文明が地球上のあらゆる箇所を接近可能にしたことも、遠洋航海へのあこがれを膨らませた。北方に発する自然研究への情熱はすべての人の胸に輝き、知識の増大をもたらす一方で、この時代特有の詩的・感傷的な感覚は、これまでにない形式の文学作品を生み出した。

コロンブスの自然描写

 [421-2] こうした現代的感覚を生み出した偉大な発見を振り返ってみると、コロンブスによる自然描写が特に注目される。コロンブスが自然に対して抱いた感覚、その描写、また[422-1]当時の言語に精通していないとわからない表現の美しさや簡潔さについては、すでに別の著作でも示そうとした(Examen Critique, iii)。

 [422-2] キューバ島の海岸でコロンブスの関心を引いたのは、 植物の相貌や形態、「どの葉、花がどの枝についているのかわからない」ほど入り組んだ茂み、バラ色のフラミンゴなどだった。先に進めば進むほど土地はどんどん美しくなっていくように感じられ、その甘美な印象を適切な言葉にできないとコロンブスはしばしば悔やんでいる。コロンブスは植物学には通じていなかったが、自然への愛に導かれ、未知の様々な形態を区別していった。たとえば、キューバ島だけで7〜8種類のヤシを区別している。

 [422-3] 〔以下、第一回の航海日誌から引用。*7〕「この土地の美しさは、コルドバのカンピーニャとも比べ物にならない。辺りの木々は青々としていて、草は高く伸びて花咲き乱れ、果実が一杯になっている。空気はカスティリャの四月のように暖かく、うぐいすが、ことばにできないほど美しい旋律で歌っている。夜にはまた、小鳥がやさしくさえずり、コオロギやカエルの鳴き声が聞こえる」。「ある入り江に入っていったが、[423-1] そこは非常に深い湾で、山は見たこと無い高さにそびえ、そこからは清流がいく筋も流れ落ちていた。どの山も、松の木や美しい花を咲かせる幾多の種類の木々におおわれていた」。「湾に注ぐ川を遡上すると、すがすがしい木立、すきとおった水、数々の鳥の声に驚かされた。まことに立ち去り難い思いで、ここで見た全てを報告するには舌が千枚あっても十分ではなく、またこれをそのまま記述する腕も持ち合わせていない、全く魔法にでもかかっているようだ」。

 [423-2] この無教養な船乗りの日誌から、個別に様々な形態をとる自然の美しさが、感受性の強い心にいかに強く影響を及ぼすかを学ぶことができる。感情が言葉を高貴にするのだ。コロンブスの文体は、とくにヴェラグアの海岸で夢を語る時(4回目航海)、雄弁とは言えないまでも、同じ時期の様々な牧歌*8より興味深い。

牧歌の退屈さ

 残念ながら、スペインとイタリア文学では、哀愁を帯びた牧歌的要素があまりにも長い間支配的であった。いかに偉大な詩人に書かれようとも、牧歌的ロマンスは本質的につめたく退屈である。個別的な観察だけが、自然に忠実な表現を生み出せるのだ*9。だからたとえばタッソー(1544–1595)の『イェルサレム解放』(1581)で最も優れた描写は、詩人がかつて身をおいたソレントの美しい光景を思い出している部分にある。

カモンイスの『ルジアダス』における自然描写

 [424-2] 観察された個別のものを忠実に描写する力は、ポルトガルの偉大な国民的叙事詩、ルイス・デ・カモンイス(1524–1580)の『ウズ・ルジアダス』(1572)で最も豊かに発揮されている。ここで、フリードリヒ・シュレーゲルの大胆な言、「カモンイスの『ルジアダス』は色彩と空想の豊かさでアリオストを遥かにしのぐ」をあえて裏付けようなどとは思わない。だが自然観察者の一人として付け加えるならば、カモンイスの熱意、修辞、メランコリックな調子は、物理現象の精確な描写を妨げるどころか、むしろ活き活きした感覚や描写の真実性を高めていると言える。

 カモンイスはまさに「海の画家」というべきで、『ルジアダス』には海の様々な様子の描写が豊富にある。一方には穏やかな波間にきらめく水面が描かれ*10、他方で荒々しく恐ろしい嵐の描写もある*11

 [425-1] カモンイスは兵士として、モロッコ帝国、アトラス山脈の麓、紅海、ペルシャ湾で闘い、喜望峰を二度回って*12、自然への深い愛から、インドおよび中国の海岸で現象を観察し続けた。たとえば、「船乗りが/神聖なものとする生きた光」*13であるセントエルモの火*14や、水上竜巻(ウォータースパウト)など*15。詩人の次の言葉は、現代にも当てはまるだろう。「この世界の隠された秘密を、書物で学ぶ人に説明させてみよ。この手合は理性と科学のみを信じて、経験のみを導き手とする船乗りの口から聞いたことを、すぐに誤りだと断言するのだから」*16

 [425-2] 詩人は個別の現象の描写に優れているだけなく、大規模な事象を一目で理解させる点でも際立っている。例えば『ルジアダス』の第三巻では、わずか数連のうちに、酷寒の北方から[426-1] 「ルシタニアの地、そしてヘラクレスが最後の功業なす海峡」*17に至るヨーロッパ全体の姿を、そこに住む諸民族の習俗や文明に絶えず言及しつつ描き出している。

 第十巻ではさらに視野が広がり、女神テテュスの導きで山に登ったヴァスコ・ダ・ガマは、〔天地創造の際に用いられた「世界の雛形」を眼にし、〕世界の仕組みや(プトレマイオスに従った)惑星の運行について知る*18。さらに、ヨーロッパだけでなく地球上の全ての部分が眺められ、セントクロスの島(ブラジル)やマゼランが見つけた海岸なども言及されている*19

 カモンイスは陸上の生命にはあまり関心がなかったようで、熱帯の植物[427-1]についての言及はほとんどない。この点コロンブスとは対照的である。ただし、コロンブスの日誌がその日その日の鮮やかな印象を書き留めたものであるのに対して、『ルジアダス』はあくまでポルトガル人の偉大な功績を称えるために書かれたという点を忘れてはいけない。音の調和を重視する詩人は、原住民から奇妙な植物名を借用したり、それを風景描写に織り込むことには乗り気ではなかったのだろう。

エルシーリャの『アラウカーナ』における自然描写

 [427-2] カモンイスと並び称されるスペインの兵士にして詩人がドン・アロンソ・エルシーリャ(1533-–1594)だ。その叙事詩『ラ・アラウカーナ』では、たしかに永遠の雪に覆われる火山、灼熱の渓谷、陸地に深く切り込む湾などが描かれているのだが、それらの描写はあまり視覚的ではない。

 セルバンテスはエルシーリャをおおげさに賞賛しているが、これはスペインとイタリアの文学上の対立から生じたものにすぎず、ヴォルテールを含む現代の批評家はそれに騙されていると思われる。『アラウカーナ』はたしかに崇高な民族的感情に貫かれた作品ではあるものの、[428-1]文体はなめらかでも簡素でもなく、固有名が多すぎ、詩的情熱にかけている(注:たとえば27歌には、8行からなる1スタンツァのなかに27もの固有名が出現している箇所がある*20)。

カルデロン

スペイン文学における詩的情熱

 だが、エルシーリャに欠けている詩的情熱を、〔スペイン文学では〕たとえばアウグスティン・デュランの編纂による『18世紀以前の騎士道ロマンスと歴史ロマンス』や、ルイス・デ・レオン(1527–1591)の著作にみることができる。(注:前者には、「あざやかな鳥も/黙り、大地が/川の音聞くとき」と始まる素晴らしい節がある)。[429–1] 後者は、美しい一夜に星空の永遠の光をたたえている。

カルデロン

 またそうした情熱はカルデロン(1600–1681)の著作にも見いだせる。ティークも述べるように、「スペイン喜劇の最盛期、カルデロンと同時代人の叙情的でロマネスクな詩のなかには、海、山、庭、森、渓谷などの目もくらむような美しい描写がしばしばある」。

 たとえば『人生は夢』(1635)では、囚われの身となったセヒスムンド王子が、その不幸を有機的自然の自由さと対比させている。すなわち「広い空を素早く羽ばたきゆく」鳥たちや、「砂泥から生じるや大洋を求め、その大胆な航路には海の無辺すら足りないかのごとき」魚たち。小川でさえも、草原を自由に進むことができる。そして王子は嘆く。「これらより大きな生気と自由な精神をもつ私が、しかしより小さな自由に甘んじなければならないとは!」。文体では劣るが、『不屈の王子』(1636)にも同様の表現がある。

シェイクスピア、ミルトン、トムソン

 カルデロンの例が示すように、[430-1]主に出来事、感情、性格を扱う劇詩においては、自然描写は人物の特性や感情を反映するものに過ぎない。実際、シェイクスピアもこの例にもれない。『真夏の夜の夢』には森での生活が、『ヴェニスの商人』の最後には夏の夜を照らす月光があるが、それらは直接的に描写されているわけではないのだ。

 ただし、ティークは次のように言っている*21。「しかし『リア王』には真の自然描写がある。気が触れていると思われるエドガーが盲目の父に対して、平原にいながらも、「自分たちはドーバーの崖っぷちに登っている」と告げる場面だ*22。眼下にみえる谷の深さの描写は、実際めまいをおぼえさせる」。[430-2]シェイクスピアでは、感情の内なる動きと言葉の偉大な簡潔さにより、自然表現に活き活きした真実と個性があたえられたのかもしれない。

 またミルトンの『失楽園』では、自然描写は絵画的というよりも壮大だが、楽園の豊かな描写に多くの想像力が注ぎ込まれている。しかし一般的に言えば、たとえばジェームズ・トムソン(1700–1748)の教訓詩『四季』(1739)のように、植物はより一般的であいまい形でしか描かれていなかった。なお同じく四季を主題に1500年以上前に古代インドで書かれたカーリダーサの『リトゥサンハーラ』(『四季のめぐり』)では、熱帯地域の豊富な植生を個別的に、また鮮やかに描いている。ただしトムソンの作品に見れるような、北部地域特有の季節のはっきりした変化からくる魅力は欠けている。

*1:「先へと逃げる未明に/夜明けは打ち勝っていき、とうとう遠くに/海のきらめきが見えた」(i,115, 原訳)

*2:「君もよく知るように、/あの湿った水蒸気が待機中に集まって/寒気がそれを取り込む高みの昇るや、すぐ水に戻ります。」(v. 109–111, 原訳)

*3:天国篇 xxvi, 1–24

*4:「すると私には、川の姿をした光が/赤みがかった黄金に輝き、驚くべき春の情景に/彩られた両岸に挟まれているのが見えた。/この川から生命の火花が飛び散り、/そして両岸で花々の中に飛び込むと、/さながら黄金に囲まれた紅玉のようだった/その後で、まるで香りに酔わされてしまったかかのように、/驚嘆すべき渦の流れの中に再び沈み込んでいく。/しかも、あるものが中に入っていっては別のものが外へと飛び出していく。」(xxx, 61–69, 原訳)

*5:Amorum Libri Tres〔『愛について、三篇』〕, 1499, ii, 47.

*6:ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの思想』はこのペトラルカ評価を批判している

*7:引用は日誌の12/13、11/25、11/27の記述をかなり自由に組み合わせたものになっており、描写されている場所は実際には3箇所である。ここではそれぞれの日に対応するように引用を3つに分割し、基本的には林屋訳に従いつつ、フンボルトの記述が大きく異なる部分のみ新たに訳した

*8:ボッカチオ、ヤコポ・サンナツァロ(Sannazaro)の『アーケイディア』 、フィリップ・シドニーの『アーケイディア』、ガルシラソ・ラ・ベガ(Garcilasso)の『サリーチオとネモローソ』(Salicio y Nemoroso)、ホルヘ・デ・モンタマヨールの『ディアナ物語』が挙げられている。

*9:牧歌はたしかに田園の様子を描くが、その姿は高度に理想化されている場合が多く、この点にフンボルトは不満を感じているのだと考えられる。

*10:「すでにかれらは大洋を渡っていった。/たちさわぐ波濤を左右に分けながら、/風は穏やかに呼吸していた。/へこんだ船の帆を膨らませながら、/海は白い泡で覆われていた。/そこを神聖な海水をきりつつ/へさきが突きすすんでいく、水面を/プロテウスの海獣がきっている。」(i. 19、小林、池上、岡村訳)

*11:vi, 71–82

*12:1550年と1553年に出国を希望する公文書が残っていることからの記述だと思われる。しかし実際は1550年には出国しておらず、カモンイスが喜望峰を回ったのは一度のみである。

*13:v, 18、小林、池上、岡村訳。

*14:悪天候時にマストの先が発光する現象。コロナ放電によるもの。

*15:iii, 7–21

*16:この引用はv. 22とv. 17を合成したものであるため、フンボルト自身の言葉に従って翻訳した。

*17:「そして〜」以下は独訳者Donnerがiii, 18につけた注からの引用。なおこの海峡はジブラルタル海峡のこと。

*18:「なか空に、一個の球体が見られ、/明るい光がそれを貫いていた〔......〕一様で完全に自立していて、/創造なされた原型と同じだ。〔......〕女神はかれにいった:ーー「わたしはここで/世界の雛形をおんみの目の前に/示します。おんみが今と将来/行くところ、望むものを知るために。/これが世界の大きなからくりなのだ。/これはエーテルと四大でできており、/始めもなければ終わりもない高くて/深い「知恵」によって作られたものだ。」」(x, 77–80、小林、池上、岡村訳)

*19:「だがいちばん広いところにおんみらも/朱木で知られる国をもつだろう。/それにサンタ・クルスの名をつけるだろう。/おんみらの最初の船が見付けるのだ。/おんみらのものとなるこの海べぞいに/さらに遠国を探しにゆくだろう、/マゼランが、まことにポルトガル人だ、/事業では、忠義ではその名にそむくが。」(x, 140、小林、池上、岡村訳)。なおこの箇所はポルトガル人が達成する偉業についての女神の予言になっており、ポルトガル人のブラジルへの到達はこの詩で描かれるガマの第一回航海よりも後である。

*20:固有名詞数は26だが、おそらく次の箇所だと思われる。「見よボニア、プロシア、リトゥアニア、/サマゴシア、ポドリアそしてロシアを。/ポロニア、シレシアとエルマニア。/モラビア、ボヘミア、アウストリア、ハンガリー、/コルバシア、モルダビア、トランシルバニア、/バラキア、ブルガリア、エスクラボニア、/マケドニア、ギリシア、モレア、/カンディア、キプロス、ロダスとイウデア」(吉田秀太郎訳、p. 216)

*21:未公刊の書簡から引用

*22:4幕6場

ケアードのトレンデレンブルク批判 Caird (1889)

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  • Edward Caird (1889). The Critical Philosophy of Immanuel Kant. Vol. 1. Glasgow: James Maclehose & Sons
    • 第1巻 純粋理性批判
      • 第2章 感性論
        • カントのジレンマを抜け出そうとするトレンデレンブルクの試み(pp. 306-307)

 トレンデレンブルクは、空間と時間は精神のアプリオリな性質である(主観的であると同時に、それは(現象だけでなく)物自体についてもあてはまる(客観的である)と指摘し、カントがこの可能性を見逃していると論じている。

 だがカントは、この「第三の道」を見逃しているのではなく、むしろ議論の必然性によって排除しているである。

 カントの議論は次のように進んでいる

  • 仮定:個々の対象はそれがもたらす感官の変容を通して与えられる。
  • 議論1:時間や空間は、対象がもたらす感官の変容ではなくて、感官自体の本性に由来する。
  • 議論2:こうした時空のアプリオリな主観性によってのみ、対象への普遍的で必然的な法則の適用が可能になる。

 もし時空が物自体に属する(超越論的に実在的)場合、それについての知識は、実際に知覚されている個物にしか当てはまらないことになる。つまり、普遍的・必然的な知覚の原理ではなくなってしまう。時空の超越論的実在性は、時空の経験的観念性を含意してしまうのだ。

 トレンデレンブルクが主張するように、時空が超越論的に実在的であるだけでなく経験的にも実在的だとすると、物自体のありかたとそれが知覚される主観的形式に予定調和が成立していることになる。だが、この主張は意識の範囲を超えており無意味である(『プロレゴメナ』§13, 注2)。