えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

機能的自律 vs. 消去途中なだけ McClelland (1942)

https://psycnet.apa.org/record/1942-03524-001

  • D. C. McClelland (1942). Functional Autonomy of Motives as an Extinction Phenomenon. Psychological Review, 49(3), 272-283.

 G. W. オルポートは、本来消えるはずの道具的行為が消えないという現象から、機能的自律という概念を提唱した。しかし、道具的行為が消えるはずだという前提は十分に吟味されていない。以下で見るように、道具的行為の消去は多様な仕方で遅延することがありうる。そこで、機能的自律に見える現象は、想定よりも消去が遅延しているだけの事例だと解釈できる。従って、以下で指摘するような要因が操作されてもなお消去が生じないという実験的証拠がない限り、機能的自律概念は不必要である。

 ある道具的行為が消えると考えられる条件には次の3つがある。

  • (1) 引き金(instigation)が失われた
  • (2) よりよい道具的行為にとって代わられた
  • (3) 報酬の除去

しかし各条件について、次のような要因により消去が(即座に)起こらない場合がある。

(1) 引き金が失われた

  • (1-a) 引き金は内的事象なので、それが本当に失われているかどうかを確かめるのは難しい。本当は失われていないのかもしれない。
  • (1-b) 仮に一つの引き金が失われていたとしても、その道具的行動には他にも引き金があり、そちらは失われていないかもしれない
  • (1-c) 刺激を取り除いても、刺激の予期が引き金になっているかもしれない
  • (1-d)条件付けが強力な場合、無条件刺激が取り除かれた後でもしばらくのあいだ、条件刺激は条件反応を喚起する。

(2) よりよい道具的行為にとって代わられた

経験的事実の問題として、この条件で道具的行為が消えるという事実は確立されていない。通常の実験パラダイムでは既存の道具的行為と新しい道具的行為は二者択一的だが、両者が非両立でない場合には、新しい道具的行為と並んで既存の道具的行為も生じるかもしれない。

(3) 報酬の除去

 これは通常の消去にあたる。消去は通常の実験条件でも即座には生じないが、それがさらに遅延する要因がいくつもある。

  • (3-a) 道具的行為をしたが報酬がなかったという事態の頻度が小さい場合。日常生活ではありがち。
  • (3-b) 学習のさい道具的行為に報酬が毎回伴うとは限らなかった場合。日常生活ではありがち。
  • (3-c) 報酬がなくなっていることに即座に気づけない場合。また、報酬に付随していた別の刺激が派生的に報酬になっている場合
  • (3-d) 旧来の道具的行為に報酬がなくなっても、類似の道具的行為が強化されている場合(強化は一般化するため)

ウェルビーイングの本来的幸せ説 Sumner (1996)

Welfare, Happiness, and Ethics

Welfare, Happiness, and Ethics

  • L. W. Sumner (1996). Welfare, Happiness and Ethics. Oxford: Oxford University Press.
  • 第六章 福利と幸福

 福利(Welfare)は主観的だが、快楽説も欲求説も適切な理論ではない。そこで、経験の要請を守れる快楽説から再出発し、新たな説を構築していこう。快楽説には3つの特徴があった。

  • (1) 福利と幸せの同一視
  • (2) 幸せを快へ還元
  • (3) 快の本性にかんする心的状態説

このうち(3)は快の本性の説明として適切である。しかし快楽主義は、(1)・(2)によって福利を純粋に心的状態の問題としてしまったために、幻覚や欺きの問題が生じたのだった。

 たしかに福利と幸せには重要な関係がありそうだが、[139]それを(1)・(2)のような単なる同一視とは違うしかたで理論化したい。すなわち、福利とは「本来的な幸せ」である。ここでいう幸せ(Happiness)とは、主体が自分の人生の状態ないし人生経験を満足なもの(satisfying or fulfilling)として認めている状態である。そしてそうした承認(endorsement)が本来的であるためには、情報と自律という条件が必要である。幸せは経験の問題であるから、この説は「経験の要請」を満たしている。しかし本来性は主体と世界の関係なので、この説は〔福利の〕心的状態説ではない。ではこの説を目的地として議論を進めていこう。まず幸せの本性について扱う。

6.1 人生満足

 古典的快楽主義者は、幸せを快と同一視していた。ところで4章で見たように、快には2タイプの捉え方がある。1つ目のものは、快を、特殊な感覚だとするものだ。[141]しかしこのモデルに従うと、快と幸せのつながりは薄弱なものになる。快を欠いた禁欲主義的人生が幸せではないとは言い難いからだ。ここからわかるように、感覚としての快がどれだけ幸せに寄与するかは、私達がそこに付与する重要性に依存している。同じことは痛みについても言える。

 [142]ベンサム以外の古典的快楽主義者は以上の点に同意しており、快のモデルとして2つ目のものを採用していた。すなわち快とは、経験を、その感じられる性質の点で私たちが好むとき、その好むという態度のことを言う。しかしこの態度を表現するのに、「快」という語を使い続けるのはミスリーディングなので、「楽しさ/つらさ」(enjoyment/suffering)という語を使うことにする。では、楽しさと幸せにはどのような関係があるのだろうか。[143] 自分の人生の状態に対して肯定的な態度を持つとき、私たちは幸せである。これはおおむね正しい。「おおむね」というのは、「幸せ」という語には体系的な曖昧さがあるからだ。以下では4つ意味を取りあげる。

  • [a] 満足している(Being happy with or about something)

幸せは志向対象を取る場合がある。この場合の志向対象は自身の経験とは限らない。これはおおむね、何かに満足している(satisfired or content)と同じことである。

  • [b] ハッピーだ(Feeling happy)

 この意味での幸せは、人生と世界全体の見え方を彩る楽天的なムードであり、完全だという感覚を伴う。これは、現に生じている(occurent)感じにかかわっており、また志向対象を取らない点で、[a]と対照的である。ある種の判断的な次元が含まれるかもしれないが、それは「いま・ここ」と結びついており、人生〔全体〕に対する安定した(settled)判断ではない。

  • [c] おめでたい人である(Having a happy disposition/personality)

[145][b]のムードになりやすい安定した傾向をもつ人もいる。こうした人も幸せだと言える。

  • [d] 幸せである/幸せな人生を送っている(being happy/having a happy life)

 本書で主に検討しているのはこの意味である。幸せであるとは、人生に対して特定の肯定的な態度を向けていることであり、その態度は、完全な形態においては、認知的要素と感情的要素の両方を含んでいる。認知的要素とは、人生のすべて/一部の重要な側面について、自分自身の基準に照らして、それを肯定しているということだ。[146]感情的要素とは、自分の人生に満足しているという感覚である(いわゆる幸福感(sense of well-being))。[a][b][c]の意味での幸せと、[d]の意味での幸せのあいだには、単純な関係はない。

 [147]以上を踏まえて、あらためて「楽しさ/つらさ」と「幸せ/不幸せ」の関係を見ていこう。
[a:満足]楽しさの対象は自分の経験に限られるが、満足はそうではない。従って、何かを楽しんでいるならそれに満足しているだろうが、逆は成り立たない。[b:ハッピー感情]他方でハッピー感情は、自分の経験への応答として生じる。もしハッピーならば、自分自身を楽しんでいるとは言えるだろう。また楽しさという概念は、さまざまなハッピー感情を捉える(capture)ことができる。しかし、最高潮のハッピー感情を「楽しい」と言うのは生ぬるいだろう。また、極端なアンハッピーさでなければ本当の「つらさ」とは呼べないだろう。従って、ハッピー感情と楽しさはやはり異なっている。[c]おめでたい性格については、問題はハッピー感情に還元される。

 [d][148]では、楽しさと幸せな人生との関係はどうなっているか。古典的功利主義者が言うように、できる限り苦しまずできる限り楽しい人生が、幸せな人生なのだろうか。楽しみ/苦しみは、快苦ほどではないが、やはり特定の活動ないし状況とあまりに結びついているため、幸せ/不幸せと同一視することはできない。また、楽しみ/苦しみの強さと持続から、人がどれだけ幸せかを決定するアルゴリズムも存在しない。楽しみ/苦しみは、快苦と同様、また欲求充足とも同様に、幸せの典型的な源泉ではあるが、唯一の源泉ではない。楽しさの対象が人生全体になる場合、楽しさと幸せは一致に近づく。だが完全には一致しない。まず楽しさは、幸せの判断的次元を完全には含んでいない。また感情的次元についても、[149]「幸福感」は単なる安堵から深い充実感までを射程に収めるのに対し、「楽しさ」は強い感情をカバーできない(逆に、「不幸」が広い射程を持つのに対して、「苦しさ」は弱い感情(なんとなくの不満感やアンニュイさ)をカバーできない)。

 人生全体を対象とする態度として、「楽しさ」ではなく「満足」を考えてみよう。これは、欲求説の章で見た、欲求の満足に対する「本人の満足」に対応する概念であり、「人生満足」とも呼べる。幸せとは人生満足だという見解は、幸福を測定しようとする多くの社会心理学者、および経済学者、政治家の暗黙の前提になってきている。実際近年、経済的福祉(5.1も参照)概念への反発から、幸福の測定がブームになっているのだ。これまで経済者は、社会福祉を一人当たりの国民所得などと同一視してきた。[150]しかし70年以降、経済成長が社会福祉につながっていないのではという懐疑が広まった結果、経済的福祉は個人にとっても社会にとても全体的福祉の一部でしかないという基本的な真理が認識されるようになった。これを受けて、経済的説明をより洗練させるいう動きもあったが、お金を単位とした測定法の制約からは逃れられていない。

 ここで、「社会指標運動」と呼ばれる運動に触れなければならない。[151] 社会指標とは、人の福祉と信頼可能な形で相関した統計的証拠のことだ。この指標にも主観的なものと客観的なものがあり、経済的指標は後者にあたる。経済指標をその他の客観的指標(消費、栄養状態、平均寿命、自殺率など)で補うアプローチは、多くの政府や国際組織によってとられてきたが、そうした指標は人生の質に関する個々人の認識とあまり相関しないという問題がある。この状況を受けて一部の社会科学者は、個々人の報告をより洗練された方法で集める方向へ向かった。[152] そうして、質問紙法やインタビューによって測定される主観的指標が「人生満足」である。一番単純な場合、被験者は自分の人生全体に対する評価をリッカート尺度で答えるが、[153]人生の特定の領域(家庭、結婚、近所付き合い、仕事)などについて質問される場合もある。

 福利を評価する手段として客観的指標から主観的指標へ重心が移動したことは、多くの(暗黙の)前提を反映している。たとえば、

  • (i)福利は主観的なものである
  • (ii)福利は幸せと同一であるか、密接に関連している
  • (iii)幸さは人生満足に存する
  • (iv)人々が自分の人生にどのくらい満足しているかにかんして最も信頼できる測定法は自己評価である

 本書のここまでの議論から、(i)と(iii)は正しそうだ。しかし(iv)はどうか。人々は問いを正しく理解せず、人生満足ではなく美的、完成主義的、また倫理的な観点から見た人生の良さなどを答えてしまうかもしれない。これらの次元が互いに一定のレベルで相関するということはない。また、不誠実な回答の問題もある。実際人は、自分の人生満足について体系的に過剰評価していると示唆する研究もある(Matlin and Stang 1978, Chs. 9 and 10)。[155]さらに、人生満足にかんする主観的報告は、その時のムードによって変化してしまう。これらの点を踏まえると、自己評価は問いにきちんと関連し、誠実で、反省的であればよい。また自己評価を補うものとして、行動指標や二人称的評価を参考にすることもできる。すべてのバイアスを取り除くことはできないが、しかし私たちの自己評価は、おおむね信頼できるといえるだろう。

 哲学的に重要な問題はむしろ(ii)にある。人生満足ないし幸せの測定は、福利も測定しているのだろうか?

6.2 本来性と自律性

 幸せ、ないし人生満足とは、主体が自分の人生の状態に対して抱く肯定的な認知的および感情的応答である。では、幸せと福利はどう関係するのだろうか。もっとも単純な関係は同一性だが、ここには二つの深刻な問題がある。

 第一の問題は、事実の誤りに基づいた幸せは福利と同一視できないという点だ。[159]この問題に対処するため、幸せを構成する肯定的評価の条件として、その評価が真なる信念に基づいているという条件を課す方法がある。この方法は多くの哲学者に支持されているが、正しいとは全く思えない。というのも、信念の誤りに気付いた人は過去の幸せを再評価するだろうが、しかしその過去の時点で幸せだったことを否定しているわけではないからだ。[158] 従って、幸せはやはり純粋に心的状態なのだと思われる。幸せに真理という条件を加えたくなるのは、幸せと福利を同一視しているからだろう。そこでむしろ、同一視をやめて幸せの心的状態説を維持し、認識論的な条件は福利概念の方の一部だと考える方が良い。

 では、具体的にどのような条件を課すのがいいか。「現実要請」(人生の状態かんする全く誤りのない認識を要求する)は強すぎる。〔現実要請によれば、事実の誤りが減れば減るほど、幸せは福利に近づくことになる〕。しかし私たちはこのような基準で過去の福利を再評価しない。より良い認識的条件に立ったうえでも、過去の人生をどう評価するべきかは、[159]私たち次第(up to us)の問題であるはずだ。この「私たち次第」という点は、より弱い「正当化要請」(人生の状態かんする正当化された認識を要求する)をとっても改善しない。ここでもやはり、あるべき評価が理想的認識論的条件からの偏差のみ決定されているからだ。

 別のアプローチを取ろう。5章2節で、欲求充足説において選好は知悉的でなければならないが、この要請を欲求充足説の内部からは根拠づけられない、という論点に触れた。しかし話が本人の満足(人生の状態の承認)になっている今は、[160]この承認に対して知悉性の要請をかける根拠がある。というのも、そもそも福利の主観説は、福利を決定するにあたって当人の視点が権威を持つものだった。そしてこの「視点」とは、人生の状態に対する「本人の」承認だと解釈された。しかし承認が誤りに基づくなら、当人の権威も失われてしまう。従って、本来的な承認は知悉を要請する。しかしながら、情報には福利にとって重要なものとそうでないものがある。主観説にとって情報は、その人の価値観に照らして、人生の状態に対する当人の感情的反応に違いを生み出す限りにおいてしか福利に関係しないのだ。[161] 他方で現実要請や正当化要請は、情報が減るほど、全ての人に等しい形で、幸せの福利に対する重要性を低減させてしまう。そこで、人生の自己評価が本来的であるためには、それは撤回可能(defeasible)でなければならないと言おう。その意味は、「自己評価は本人の深い価値観を反映していないと考える理由がない限りは本来的である」ということだ。自己評価が知悉的でないことは、本来性を疑うひとつの理由となりうる。

 本来性を疑う理由は、知悉性の欠如だけではない。幸せと福利の同一視に対する第二の問題に移ろう。3章3節でセンは、福利と効用を同一視できない理由として、選好が社会的条件などの外的要因にあまりに左右されがちであること(選好の展性(malleability))を挙げていた。[162]この批判は全ての主観説にとって重大であり、目下の見解も例外ではない。というのも明らかに、いくら承認が経験的事実に関して知悉的であっても、人が自分の人生を判断する基準それ自体に対する社会的影響を除外することはできないからだ。

 [164]センの批判に対して、多くの哲学者は主観説と客観説のハイブリッドを展開した。例えば、何かが福利に寄与するのは、主体がそれに満足しており、かつそれは満足とは独立に価値がある場合に限られる(「価値要請」)、といった形で。[165] こうした説の支持者には、古くはアリストテレス、ミル、そしてヌスバウム、ラズ、ドゥオーキン、またグリフィンがいる。この価値要請は、事実を問題にしていた「現実要請」の価値版だといえる。しかしこちらの要請のほうがさらに問題が大きい。まず、経験的真理に対応する評価的真理が存在すると仮定されている。さらに、「独立に価値がある」と言うときの価値の種類の問題がある。循環を避けるため、これは慎慮的(prudential)価値以外の価値でなければならないが、倫理、美、自己実現、いずれだとも考え難い。そしていずれにせよ、幸せが福利にどう関連するかをすべての人に一様に押し付けるという点で問題がある。[166]価値要請が強すぎるならば、より弱い正当化要請ではどうか。しかし結局話は変わらない。事実・価値とわず、現実/価値要請も正当化要請も、あまりに上から目線で厳格主義すぎるのだ。むしろ必要なのは、情報〔知悉性〕要請の対応物だ。教化や搾取によって自己評価が歪められている人に対する治療は、その人が自分自身に対する期待を形成するさいの条件を正してやることである。こうした人々の問題は、価値観が客観的に誤っていることではなく、自分自身の価値を形成する機会がなかったということ、自律の欠如なのだ。
 
 [167]そこで、(自己評価された)幸せないし人生満足が福利に数え入れられるのは、それが自律的な場合に限られる、と言おう。しかしそれは具体的にどういう場合か? 人が自律的なのは、その人の信念、価値、目的、決定などが、自分自身のものである場合だ。そこで、自律性の核には本来性(Authenticity)があるといえるのだが、[168]本来性をどう解明するかには諸説がある。一つのアプローチは、同一化(identification)に訴えるものだ。同一化は目的に対する批判的反省を要求するが、この反省は欲求の階層という形で表現されることが多い。しかし、高階の反省的プロセスで用いられている価値ないし基準が、自律的に獲得されていないかもしれないという問題がここで生じる。[169]これを防ぐためにさらに高階のプロセスを要求すると、無限後退に陥ってしまう。

 そこで別のアプローチは、選好がどのように獲得されたかという歴史的プロセスに注目する(John Christman)。[170]この説は、「操作的」な選好形成過程と「通常の」選好形成過程を区別する方法を必要としている。直観的には、操作的な選好形成過程とは、その過程と帰結に関する反省的批判の機会を奪う過程だ、といえるだろう。しかしこの時、主体には階層モデルが提示しているような反省能力が要求されている。また、非自律的に形成された選好を後に自律的に受容するということが考えられるため、選好が形成された最初の歴史だけでは自律の説明に十分ではない。

 従って、既存の自律理論はどれも自足的ではない。[171]同一化を重視する説では、選好形成過程の自律性を前提せねばならず、逆に選好形成過程を重視する説は、批判的評価能力を前提せねばらならい。しかし、ここまでの検討が目下の説に対して持つ含意は明らかである。幸せの自己評価が疑わしいものとなるのは、それが自律性を奪う社会的条件付けのメカニズムによって影響を受けていると考える良い理由がある場合である。そうしたメカニズムには、教化、洗脳、考えや役割の植え付け、などが含まれる。

 まとめ。主観説は人の福利の究極的な権威を当人におく。ただし、当人の報告が非本来的な場合は例外である。本来性の条件は、知悉性と自律性として説明された。

6.3 福利の理論

 本書のここまでの議論をまとめていこう。[172]この6章では、福利と幸せの関係を扱っていた。まず、幸せは人生満足と同一視された。ただし、幸せは福利と同一ではない。人生に対する自己評価が本来的でない、すなわち知悉性と自律性を欠いている可能性があるからだ。この「本来的幸せ」としての福利理論は、福利を本人の態度に依存させているので、あきらかに主観説である。2章2節で見た任意の主観説の4変数に対応させて言えば、人生の状態が当人を益するのは、(1)その人生の状態を、(3)当の主体が、(4)本来的に、(2)承認しているときである。[173]すると今や、福利(精確には、内在的に利益であるという性質)は二次性質だと考える良い理由がある。すなわち福利とは、私たちの人生の状態が持つ力能ないし傾向性で、私たちに適切な肯定的態度を喚起するものなのだ、と(これは道徳的性質に関する感受性説に近づいている)。

 しかし、知覚的性質の主観説は、(3)参照すべき主体群と(4)通常の条件、が特定できないと批判されてきた。[174]同じ批判が福利の主観説にもあてはまるのではないか? すなわち、主体はいつ知悉的で自律的なのか。この問いに対して、主体が承認しているものが、当人にとって本当に慎慮的価値がある場合だと答えてはまずい。というのも、「価値がある」が「価値があると承認されている」よりも論理的に優先されることになり、循環が発生するからだ。しかし、本来の幸福説には循環を避けるリソースがある。というのも、情報と自律の要求は、本来性というより基本的な要求から出てきており、本来性は主観性から出てきているのだった。したがって、誰が標準的観察者で何が標準的条件なのかの特定化は、主観性の本性の中に含まれているのだ。〔つまり、観察者・条件が標準的なのはいつかという問いに対して、それが自分自身(のもの)である場合だ、と答えられる〕。

 4章では、主観説を二種類に分けていた。すなわち、心的状態にのみ基づく説と、[175]世界の状態も問題にするものだ。前者には古典的快楽説、後者には欲求充足説が含まれる。幸福説は、経験の要請を受け入れる点で古典的快楽説に似ているが、本来性の条件の中に情報要請を組みこんでいるために世界の状態も問題となり、この点では欲求説に与する。両者の中間に位置しているといえる。


 幸せ説が快楽説や欲求説より優れていることを確かめるため、記述的妥当性(1章2節)を見てみよう。記述的に妥当であるためには、まず通常の福利概念および経験に忠実であることが求められる。幸せ説は、まずは主観説の一種として、福利の主体相対性を適切に認めている。[176]さらに、快楽説がエピソード的な感じに偏りすぎ、かつ心的状態中心主義という欠点を抱えていたのに対し、幸せ説はよりグローバルな態度や情報要請の導入によってこれらの欠点を解消している。また、欲求説は経験の要請を満たさないという問題があったが、幸せ説ならこれも満たしている。さらに幸せ説は、心理的利己主義の否定という点でも常識に忠実である。快楽説は、心理的利己主義から慎慮に関する結論を引き出す傾向があり、また欲求説においては、全ての合理的行為が自己利益に基づくものに定義上なっている恐れがある。他方で幸せ説ならば、自律的行為者が自分の利益に基づいた行為をしないことがありうる。というのも、幸せの自己評価は慎慮的価値にしか基づいていないので(「関連性条件」)、[177]行為者は自身の福利に反してその他の価値を認める余地がある。

 記述的妥当性のより特殊な基準として、一般性、形式性、中立性があった。順番に取り上げよう。まず一般性について。主体が一定のレベルの福利にあることも、それが増減することも、幸せ理論は十分に表現できる。また、日常的な福利評価は個人間比較を含む。これは客観説より主観説の方が不利だと考えられてきたポイントだが、こうした比較は現在の「主観的指標」派の人生満足研究ではよく見られるものである。[178]ただし、異なる文化の人々や、深刻な障害を持った人々、さらには異なる種の生物との比較は、情報が薄いために、難しくなってくるだろう。中心的な福利主体と辺縁的主体を区切る根拠についてはどうか。幸せ説の場合、人間のように複雑な認知能力がなくても、ベースラインとなるのは自身の人生を肯定できる/できない[agreeable]ものとして経験する能力である。その最も原始的な形は、楽しみ/苦しみないし快苦の能力だ。この能力を感性(sentience)と呼ぶならば、幸せ説における主要な福利主体は全ての感性的生物だと言える。この線引きによると、周辺事例に相当するのは非-感性的生物(植物など)や、痛みや快を感じるに至っていない段階の人間の胚、[179]意識を恒久的に失った人間などにあたる。これらの存在には、卓越性や完成はありうるかもしれないが、福利はもたない(3章4節)。なおこの基準によって、幸せ説は欲求説とは異なり、死者にいかなる福利も認めない。ここで言う死者には、意識の能力を失った脳死・植物状態の人も含まれる。また、集団の福利も認められない。

 [180]形式性の基準に移ろう。幸せ説が説明しているのは、福利の源泉は具体的に何かではなく、具体的な何かが福利の源泉となるのはどういう場合かであり、これは形式性をきちんと満たしている。福利は主観に相対化されてはいるが、私たちが通常満足だと感じる人生の状態を一般化することはできる、すなわち、健康、享楽、達成、知識、人間関係、自由、自己肯定感、休息などが、標準的な「人間的善」として挙げられるだろう。私たちはこれらに対して、それ自体のための関心を、ある程度は向けており、[181]したがってこれらが存在すると人生はある程度満足なものとなる。なぜそうなのかという問いに対しては、私たちはそういう生物なのだとしか答えられないだろう。今挙げられた項目は客観説が挙げるのと重なっているが、主観説は形式的であるため、なぜこうした項目が挙がるのかを説明できるという利点がある。また、各項目の相対的重要性が個人によって違うことも説明できる。さらに、その他の主観説が項目のうち一つを重視しすぎるのに対し、幸せ説であればすべての善の重要性を説明する一般的説明を与えることができる。

 最後に中立性。客観説と比べ、主観説はこの制約を守りやすい。しかし、標準条件のなかに予め定まった善を組み込んでしまう危険性がある。しかし幸せ説は、情報と自律の条件を本来性要求から、そして本来性要求を主観性それ自体から導出しているため、この危険を逃れている。幸せ説は中立的なので、理論上は、いかにどうでもよく低劣な人生の状態でも当人にとって慎慮的価値をもちうる。とはいえ、実際のところそんなことはめったにないと考える経験的理由は十分にある。

 [183]まとめ。ほとんどの点で、幸せ説は他の説に比べて記述的妥当性に優れており、福利に関する最善の描像を与えていると言える。

本当にみんなそんなに経験機械に入りたくないのか? 調べてみた De Brigard (2010)

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/09515080903532290

  • Felipe De Brigard (2010). If you like it, does it matter if it’s real? Philosophical Psychology, 23(1): 43–57.

 ノージックの経験機械の思考実験に対して、機械の完璧な挙動という想定は現実離れしすぎており想定困難だという指摘がある(Sumner 1996)。この問題のために、経験機械につながれたくないという反応が本当に現実性への選好を反映しているのか、疑問の余地が残ってしまう。現実性への選好のみに基づく判断を可能にするひとつの方法は、既にこの人生が経験機械によって生み出されていると想定し、現実に戻りたいかどうかを訊くことだろう。このとき、ひとは本当に現実に戻りたがるのだろうか。4つのシナリオを使用して実際に調査してみた。

  • 【ポジティヴ】現実の人生はいまの人生よりよい、という情報を与える
    • 戻りたい50% - 今のままでいい50%
  • 【ネガティヴ】現実の人生はいまの人生よりわるい、という情報を与える
    • 戻りたい13% - 今のままでいい87%
  • 【中立1】現実の人生については何も言わない。
    • 戻りたい54% - 今のままでいい46%
  • 【中立2】現実の人生はいまの人生とは異なる、という情報を与える。どう異なるかは言わない。
    • 戻りたい41% - 今のままでいい59%

このように、経験機械につながれたままでいいという人が相当数いる。ここから、ノージックが想定していたほどには、人は現実性への選好を強く持っていないことがわかる。やはり経験も重要なようだ。
 しかしさらに、今のままでいいという選択は、現状維持バイアスによっても説明できる。人によって、現実に戻ることがどの程度リスクだと知覚されるかが異なるために、回答にばらつきが生じるのだろう。
 現状維持バイアスによる説明は、ノージックのオリジナルの事例にも当てはまる。経験機械に繋がれたくないという反応は、現実性への選好を反映しているのではなく、現状維持傾向の産物なのかもしれない。

欲求充足説に対する自己犠牲論証 Overvold (1980)

https://www.jstor.org/stable/40231134

  • Mark Carl Overvold (1980). Self-Interest and the Concept of Self-Sacrifice. Canadian Journal of Philosophy. 10(1): 105-118.
I & II

 自己利益(効用、福利)を、全てを考慮したうえで当人が欲するものと同一視するアプローチが近年流行している。たとえばブラントは、「合理的行為」を完全情報下での行為と同一視し、そうした行為を行為者の自己利益にかなう(in the agent’s self-interest)な行為と同一視している(Brandt 1972)。この場合「自己利益」はかなり広く解釈されている。例えば、他人の幸福を求める欲求が充足された場合も、それは当人の自己利益を増す。従って、「多くの一見自己犠牲的な行為も、行為者の自己利益にかなうことになる」。しかしこの帰結は反直観的であり、ブラントは自己利益を適切に説明していない。

III

 ブラントの説明の欠点を明確にするために、自己犠牲の概念を分析しよう。自己犠牲には3つの条件がある。まず2つ。

  • (1) 自己利益の損失が予期されている
  • (2) 意志的である

第三の条件として必要なのは、自己犠牲を、損切りから区別する条件だ。損切りは、たしかに損失が予期される行為を意志的に行うものだが、それはより大きな損失を回避するためであり、これが自己犠牲だとは言い難い。そこで、次はどうか。

  • (3) 行為は行為者の〔総体としての〕自己利益に反している

しかし(3)には問題がある。(3)は、自己利益をより増す選択肢の存在を要請するが、その選択肢に行為者が気づいていることを要求していない。ここで行為者のどのような気づきを要請するかに注意が必要だ。人は自己犠牲するさい、他の選択肢がより自己利益を増すと意識的に考えたりはしていない。したがって、意識的な思考を要件として課すことはできない。そこで、次の条件はどうか。

  • (3*)行為の時点で、次のような他の選択肢が少なくとも一つ行為者にはある
    • (a)その選択肢には(自己利益と関係する限りで)実際にどのような特徴や帰結があるかについて、行為者は正確に査定してる
    • (b)その選択肢は、実際に行為者が行なった行為よりも、行為者の自己利益を増す

これは、行為者が(実際に)自己利益を増す選択肢に気づいていることだけを要請しており、その選択肢について意識的に自己利益的の観点から考えることは要請していない。しかし別の問題がある。(a)の「正確な査定」というのが、知識はおろか、真なる信念だとしても強すぎるという点だ。例えば、友人のために命を投げ出した人物がいるとする。この人は、命までいかず軽傷で済む選択肢もあると信じていたとしよう。しかしこの信念は誤りで、実際のところは軽傷すら負わなくて済む選択肢があったとする。しかしそうだとしても、この事例は自己犠牲的だと言えるだろう。では、行為者の査定はどのくらい正確ならいいのか、この問いは簡単ではない。そこで、アプローチを変えよう。

  • (3**)行為の時点で、次のような他の選択肢が少なくとも一つ行為者にはある
    • (a)その選択肢の帰結が、行為者が予想した通りに生じたなら、それは行為者が実際に行なった行為よりも、行為者の自己利益にかなう
    • (b)もし行為者がその選択肢を選んだなら、それは客観的に言っても、行為者が実際に行なった行為より、行為者の自己利益にかなう

(3**)は、(3)より強い。(3**b)が満たされていれば自動的に(3)は満たされるからだ。また、選択肢に行為者が気づいていることを要請してはいるが、(3*)とは異なって、どのくらい正確に選択肢の帰結を査定していればいいのかという問いを回避できている。

IV

 以上の分析を踏まえると、ブラントの説明では自己犠牲が論理的に不可能であることがわかる。というのも、(1)と(2)を満たす行為は、ブラントの意味で自己利益にかなう行為であるため、(3**b)を満たさなくなるからだ。いま、仮に(3**b)だけに注目するならば、ブラントの説明のもとでの真の自己犠牲は、行為者が自身の行為の帰結について無知であるときのみ可能になる。しかしこうした無知は(3**a)により除外されている〔。(3a)がなければ、自己犠牲的な行為者は別の選択肢に気づいていなくてもいいということになってしまうのだった〕。

 道徳的生活の中で賞賛されるべき多くのものが自己犠牲を含むことを考えると、自己犠牲にかんする言説を整合的にするような自己利益の説明を選ぶほうが良い。

バトラーの「石論証」と「穴論証」 Zellner (1999)

http://www.jstor.org/stable/27744815

  • H. M. Zellner (1999). Passing Butler's Stone. History of Philosophy Quarterly, 16(2): 193-202.

バトラーの「石論証」とは、次のような論証である。

(a) あらゆる個別の欲や情念は、外的なもの自体に向けられており、もの自体はそこから生じてくる快楽とは別のものである。このことは、次のことから明らかだ。(b) 快楽に先立って、対象と情念のあいだに適切な関係がなければ、快楽は存在しえない。(c)あるものより別のものに対する欲や情愛がなければ、一方を他方より楽しむないし好むこと、石を飲みこむことよりご飯を食べることを楽しむことはありえない。

ここで攻撃されているのは、「すべての欲求は快楽を求めているため、個別の欲や情念は存在しない」という見解だと思われる。だとすればバトラーは、(a)で「あらゆる」とまで言う必要はなく、「ある」と言えばよかった。実際、別の箇所でバトラーも快楽への欲求は認めており、自己愛がそれにあたる(「すべての人は自分の幸福を対象とする一般的欲求を持っている」)。従って、バトラーにとっての論点は快楽への欲求があるか否かではなく、快楽ではないものへの欲求があるか否か、である。

 ところで、石論証のすぐあとに、次の論証も述べられている。

(d)幸せないし満足とは、その本性によって私たちのいくつかの個別の欲、情念、情愛に適した対象を楽しむことに存する。そこで、(e)もし私たちが全面的に自己愛に没しており、その他の原理にはいかなる余地もないとすれば、いかなる種類の幸せや楽しみもまったくもってありえないことになる。なぜなら、(f)幸せは個別の情念の満足に存しており、その満足が生じるためには情念が持たれなければならないからだ。

 これは、(g)「私たちは楽しむ」を隠れた前提とし、(E)もし人間に快楽への欲求しかないならば、生に楽しみはなかったはずだ(人生は穴/どん底(Pits)だったはずだ)、と論じている。これを「穴論証」(the Pits Argument)と名付ける。

 穴論証は、すべての欲求の対象が快楽ならば、快楽はなくなると論じる。他方で石論証は、快楽があるならば、快楽ではないものを対象にした欲求が存在する、と論じている。一方は他方の変種である。

 「石論証」も「穴論証」も、最終的に依拠しているのは、あらゆる楽しみ・快楽・幸せ(バトラーはこれらを分けていない)が個別欲求の充足から生じるという前提((c)(f))だ。しかし、経験の中には内在的に快いものがある。ただしこの点については次のように議論できるかもしれない。快楽のほとんどは欲求充足によって生じるのだから、もし快楽への欲求しかないならば、私たちの快楽の総量は実際よりかなり少ないことになってしまう、と。

ジョセフ・バトラーの倫理理論 Broad (1930)

Five Types of Ethical Theory (International Library of Philosophy Book 2) (English Edition)

Five Types of Ethical Theory (International Library of Philosophy Book 2) (English Edition)

  • Charlie Dunbar Broad (1930). Five Types of Ethical Theory. London: Routledge & Kegan Paul.
    • Chapter III Butler

 バトラーの倫理理論は『人間本性にかんする説教』と『徳の本性にかんする論考』に収められている。前者の説教はロンドンのロール協会で述べられたもので、後者の論考は有名な『宗教の類推』の補論として書かれたものだ。バトラーの考えはスピノザと正反対で、著名な書き手の中でこの二人ほど似ていない人物を見つけることはできない域に達している。逆に、本書で扱う中でバトラーに最も似ているのはカントで、またヒュームも、バトラーによる心理的利己主義の論駁を受け入れ高く買っている。バトラーはもちろん、カントのような巨大な形而上学者ではないが、かわりに明晰さとバランス感覚に優れていた。カントは小綺麗な論理的分類に妄執し道徳にも狂信的だったために、その著作が損なわれてしまっている。これに対してバトラーは、18世紀の僧正らしいしっかりとした常識と清々しい分別を備えていた。彼は、私たちが誰でも熟知している事実を、誰でも理解できる言語で書き示すことができた。だからその著作は、倫理学の全方面をカバーしたものには見えないが、しかし既存の主題に対する最善の導入になっているのだ。

 さてはじめに、バトラーが生きた時代の倫理的及び宗教的な雰囲気について一言述べておこう。バトラーの議論は、こうした雰囲気に大きく影響されながら定式化されているからだ。当時のキリスト教は休眠期のひとつにあたっており、イングランドでは歴史上ほぼ最低調であった。もちろんバトラーの時代以降、キリスト教に対する深刻な攻撃は数多くあったが、(外部からの観察者として言わせていただくと、)キリスト教は当時よりも今のほうがはるかに活発である。17世紀の神学的興奮も過ぎ去り、宗教は休眠期にあって、18世紀後半に起こる再興の時を待っている、そんな状況だった。『類推』の冒頭でバトラーは言っている。

キリスト教はほとんど探求に値する対象ではない。そんなことが、多くの人々のあいだで常識になってきています。今日、キリスト教はほとんどにせものであることが明らかだ、と思われているのです。このことは、ものの分かった現代人なら誰もが同意するかのようにみなされており、残っているものといえば、キリスト教を笑いと冷やかしの種にすることだけ。長いあいだこの世の快楽を妨げてきた報いを受けている、というわけです。

ひるがえって現代、「ものの分かった」人が宗教とくにキリスト教に対して向ける態度は、バトラーが述べたようなものではまったくない。たしかにそういう手合いを見かけることもあるが、そういう人は古臭くて珍妙な18世紀の生き残り、自分は勇敢な進歩思想家だなどと芯から信じており思わず笑ってしまうような方々だ。

 バトラーの時代にはまた、無私の行為を否定することも流行していた。こうした否定はホッブズによって思弁的な原理にもなっていたが、とにかく常に一定の支持を得てきた。なるほど、表面上はそれなりに正しく見えないこともないし、自分自身の利己性に哲学的な弁解を与えたい悪徳人にも、また自分の徳にいささか恥ずかしさを感じており普通だと思われたい立派な人にも、人気がでるのは自然だ。この否定をもっともらしく見せている言葉の曖昧さを明確かつ決定的に指摘したのが、バトラーの偉大な功績の一つである。無私の行為の否定は、心理にかんする説としては、バトラーによって殺されてしまった。とはいえそれは、私の見るところでは、ブックメーカーのあいだに、また若くて賢しらなビジネスマンのあいだにも広まっている。こうした人々は、世界の暗い側面に精通することで世界を知ったなどと主張しているわけだ。この理論はバトラーの時代には、社会的により上流で知的なサークルの人々に影響していたため、哲学者も今日よりも遥かに真剣にこれに取りくまねばならなかった。当時と今の状況の変化は、おおむねバトラーの著作に由来している。彼はこの説をあまりに徹底的に殺してしまったので、現代の目から見るとまるで死人にムチを打っているように感じられることさえある。しかし様々な誤りは死後しぶとくもアメリカに渡り、当地の教授方の最新の発見として息を吹き返すようになってしまった。そこで、バトラーによる論駁を常に手元においておくことは、いつでも役に立つのだ。

 このあたりの前置きを踏まえて、バトラーの理論全体の検討に入っていこう。バトラーの主な美点は、道徳心理学者としての側面にある。優れた人々がどのように感じ、行為し、判断するか、本人ではうまく言うことができないその原理を、バトラーはこれ以上なく明晰に述べる。そして論述の中で、常識に自然と生じることはないが、学ある人にそそのかされると常識のみでは対処できないような様々なもっともらしい誤りが論駁されていく。バトラーの根本的な教説は、人間精神とは様々に異なる性向と原理が組織化されたシステムであるというものだ。ただし、様々な性向と原理を列挙するだけでは十分でなく、それらの関係まで述べることが必要である。時計を見て、それがぜんまい、歯車、針などから成ると言っただけでは、時計を適切に記述したことにはならないだろう。また英国の体制について、それが王、貴族、人民から成ると言っただけでは適切な記述ではないだろう。時計の本性を理解するためには、ゼンマイによって歯車が回り、歯車をテン輪がコントロールしており、そしてそうした配置全体の目的は時間を測ることだ、などと知らなければならない。同様に、英国の体制を理解するには、王、貴族、人民の正確な役割と相互の関係を知らなければならない。

 人間本性を時計や政体と比較したのはバトラー自身だ。人間本性はなんのためにあるのか、そして様々な原理と性向それぞれの機能と相互の関係を理解しなければ、人間本性を理解したことにはならない。バトラーによれば、こうした原理・性向のうち内在的に悪なものは一つもない。悪行はつねに、何らかの行為の原理の過剰ないし不適切なはたらきによって生じるのであり、そうした原理も適切な場所で適切な程度用いられれば正しいものとなる。悪行とは、ゼンマイの力がテン輪に対して強すぎる時計や、あるいは、一つの身分が他の身分の機能を不当に奪っている体制に似ている。そこで、道徳的存在としての人間にとって本質的なことは、それが様々な傾向が階層的に配置された複雑な全体だということだ。そうした傾向には、一定の適切な割合と、適切な支配関係がある。しかし、時計や政体にうまくはたらかない場合があるように、人間にもうまくいかない場合がある。そこで重要なのは、様々な傾向の実際の相対的な強さと、あるべき強さとを区別することだ。後者を「道徳的権威」と呼べるだろう。ときには、より高次の道徳的権威を持った原理が、より低い権威しか持たない原理に、心理的な意味での力の強さで負けてしまう。そのとき人は、不正な行為をしてしまうだろう。行為、さらには意図の正しさと不正は、それを要因として含む体系全体との関係で見たとき初めて判断できる。例えば私たちは、同じ行為や意図について、それが子供のものか、狂人のものか、正気な大人のものかで、非常に異なった判断をくだす。また私たちは、時計に生じていたら時計が台無しになってしまうような不規則性が自動車に生じたとしても、それで自動車を責めたりしない。というのは、時計と自動車とは全く異なる機能を持った別のシステムだからだ。現実の自動車にかんする判断は、その挙動を理想的自動車の挙動と比較することでくだされなければならないのであり、このことは現実の時計と理想的な時計の場合も言える。

 こうした考えかたはプラトンの『国家』にまで遡れるが、ともかくバトラーの考えが非常に健全で理解しやすいということはすぐに分かると思う。ところで理論の表現という点でいうとバトラー自身は、徳とは人の本性に従った行為に存し、悪徳は本性に反する行為に存する、という言い方を選んでいる。だが、「本性」(自然)・「本性に反する」(不自然)という言葉の使用はあまり好ましくないと思う。というのも、こうした言葉はあまりに曖昧で、個人的な好き・嫌いに道徳的権威をまとわせようとする人々によってよく用いられているからだ。もちろんバトラーも、自然という言葉に曖昧さがあることはよく理解しており、ある意味では、人は自分の本性に反して行為することはできないと認めている。さて、私の考えでは、バトラーの理論は次のように表現したほうがよい。すなわち、徳とは人の理想的本性に従った行為に存し、悪徳は理想的本性に反する行為に存する。実際の人の本性はどれも理想的本性ではないが、このことは特段の問題ではない。というのも、現実の時計はどれも完璧ではないが、完璧な時計というものを概念的に思考することは可能だからだ。実際、科学というのはそうした理想化された概念を多用している。たとえば、完全に真っ直ぐな線、完全な円、完全な気体〔理想気体〕といったもので、こうしたものはもちろん自然の中には存在しない。

 理想的人間本性という概念が妥当ないし有用であるかどうかを確かめるためには、そもそもこうした理想的概念がどうやって獲得されるかを検討しなくてはならない。こうした概念を獲得する方法は2つあると考えられる。〔まず1つ目。〕完全な時計という概念を形成するにあたって、私たちはまず時計とはなんのためにあるのかについての知識から出発する。時計とは、時間を告げるためにある。そこで完全な時計とは、完璧な正確さで時間を告げる時計であろう。この基準が人間にも適用できるかのようにバトラーは語ることが多いのだが、それが正しいとは私には思えない。人間がなんのためにあるのか、という問いは、それが神によって一定の目的で創造されたと仮定しない限り意味を成さないだろう。また、仮に神による創造は確かだとしても、事態は改善しない。というのも私たちはその目的が何なのか知らないからである。そこで理想的概念に至る第二の方法であるが、これは完全な円や直線の例によって示される。いま、ケーキ、ビスケット、硬貨といったものが目の前にあるとしよう。この光景に反省を加えてみると、ケーキ、ビスケット、硬貨というのは一つの系列をなしており、ある特定の属性がこの順でますます完全に実現されていることに気がつく。そしてこの系列の理想的極限として、完全な円という概念が形成されるのだ。このように、系列をなす不完全な事例たちに反省を加えることで、円や直線といった理想的極限の概念を得ることができる。そしてここでは、ある対象がなんのためにあるのか、などということを知る必要はない。理想的時計と理想的円の中間にあり、バトラーの議論上必要なものに〔理想的円よりも〕近いのは、理想的馬やウサギといった生物学者の概念だろう。現実の馬は、どれもが様々な点でまた様々な程度で欠けたところがあるが、様々な馬を比較対照することで、理想的馬の概念を手に入れることができる。自然は常にこうした理念を求めているが常にその理念的極限にいくらか届いていない、という言は、たしかに擬人的で文字通り受け取るべきではないのだが、しかし何らかの仕方で重要な事実に対応している。

 さて、こうした理想的極限について、3点指摘しておきたい。

  • 1. 一般に、こうした系列の下の方の極限はない。つまり、完璧な直線という概念は存在するが、完璧に曲がった線という概念は存在しない。
  • 2. 理想的極限の概念を形成するさい、それが分析可能なときとそうでないときがある。「丸さ」(circularity)というのは定義可能だが、「真っ直ぐさ」(straightness)というのは定義できない。それでも、両者の意味を私たちは等しく理解することができる。
  • 3. 理想的極限の概念を手に入れるためには、私たちは系列に対して反省を加え、その系列の要素が高次になるにつれて、常に不完全にではあるがますます適切に実現される特徴があることを認識できなくてはならない。

 以上の3点は、理想的人間本性という概念の形成にあたっても全く同じように当てはまると思われる。

  • 1. 完璧に曲がった線という概念がないように、完璧に悪い人という概念は存在しない。
  • 2. 現実の人間を一系列に並べて反省を加えると、誰も正確には実現してはいない理想にしかし徐々に近似していくことがわかるだろう。ただしそれは、その理想を完全に分析し定義できるということではない。私の考えでは、バトラーなら次のように言うだろう。私たちは理念の大まかな輪郭を示すことはできるが、正確な細部を示すことはできない。この理念には、諸々の特殊な衝動を賢慮や仁愛といったより一般的な原理に充足させることがたしかに含まれるだろう。またそうした一般的原理を、良心という最高原理に従属させることも含まれる、と。しかしながら、理想的人間の中で衝動がどのていど自由に生じるのか、賢慮と仁愛が衝突したときどうやって折り合いをつけるのか、といった点についてバトラーは何も語っていない。おそらく、誰もそれを言うことはできないのであろう。しかし、こうした細部の曖昧さは、理想的人間という概念を理解不可能で役立たずのものにしてしまうわけではない。
  • 3. 行為や性格について反省し、それを道徳的価値の観点から比較することができないならば、私たちが理想的人間という概念を形成することはないとバトラーは言うだろう。道徳的価値は、あきらかに、非常に特異な性質であり、〔倫理学〕以外の科学によって考察されるものではない。そこで、物理学における理想気体や、幾何学における理想的な円を「純粋に実証的な理念」とよび、倫理学で考察される理想的人間本性と対比することができる。道徳的価値という特異な性質を認識する能力というのは、しかし私たちがふつうにもっており、いつも使っているものだ。これはバトラーの言う良心の認知的側面にあたる。

 以上の説明を踏まえたうえで私は、理想的人間本性というバトラーの考え方は健全であるし、また、徳は人間本性にしたがって行為するところに存し、悪徳はそれに反して行為するところに存する、というのも真理であると思われる。

 それでは、人間本性の成り立ちについてバトラーがどう考えていたのか、さらに詳細に検討していこう。人間の中には、4種類の性向ないし行為への弾み(spring)があるという。

  • 1. 「特殊な情念ないし感情(passions or affections)」。これは、特定の種類の対象へ向かう衝動、ないしそれを避ける嫌悪とも呼ぶべきものだ。例として、空腹、性欲、怒り、嫉妬、同情などを挙げることができる。このなかにはあきらかに主に本人を益するものと他人を益するものの双方があるが、前者を自愛に、後者を仁愛に還元することはできない。これはバトラーの非常に重要な考え方なので、後でより詳しく扱う。
  • 2. 冷静な自愛の原理。この言葉でバトラーが意味しているのは、人生の全体にわたって、自分にとっての最大幸福を追求しようとする傾向のことだ。これは本質的には合理的な計算の原理であり、個別の衝動をチェックして、長期的に見た全体的幸福を最大化するように調節するものである。
  • 3. 仁愛という一般原理。これもまた合理的な計算の原理であり、苦境にある人を見たときに感じる衝動的な同情とははっきり区別しなければならない。個々人の顔を見ることなく、合理的な図式にのっとって一般的幸福を最大化するのがこの原理だ。ロンドン慈善組織協会はバトラーの意味で仁愛〔=慈善〕的な団体だと言っていいと思う。
  • 4. 良心の原理。権威の点でその他すべてに優越する原理である。理想的人間本性においては、良心が自愛と仁愛に優越している。つまり、後者2原理がどの程度適用されるべきかを定めているのが良心である。翻って、自愛と仁愛は個々の衝動に優越している。つまり、衝動がいつ、どの程度満たされるべきかを定めている。現実の人間の場合、自愛が良心を上回ってしまい、仁愛が犠牲になってしまう場合がある。この時私たちは冷たく利己的な人間になる。他方で、仁愛が良心を上回ってしまい、適切な賢慮を犠牲にしてしまう場合もある。このとき人は、自身の文化を否定したり、全体的な福利を得るために当然もってよいはずの健康や幸福のことを気にかけなくなってしまう。この両方が不正に当たるとバトラーは考えている。実際問題としては、私たちは原則的に後者を前者のようには責めないが、冷静に反省した上でならやはり後者も一定程度は責めている。愚かにも慈悲深い人を冷淡に利己的である人よりも責めない理由の一部は、それがあまり生じないからであり、また、十分仁愛的でない人が多い中では仁愛的過ぎる人がある程度いたほうがおそらく社会の利益になるからだろう。この点はバトラー自身が述べたものではないが、彼はおそらく同意してくれると思う。というのも、個人の誤った行動が全体の善のために管区によって抑制されることもあると彼は考えていたからだ。

 個別の衝動も、自愛、仁愛、ないし両者に対して、強くなりすぎる場合がある。たとえば復讐心は、自愛にも仁愛にも適わない行為に人を駆り立てることがあるし、歯止めのない同情も同じことをもたらすだろう。後者の場合、人は自分の情動たまたま訴えかけてきた事例に対してあるべき以上のものを過剰に与えてしまい、と同時に、あまり目立たないが本来はもっと与えられてしかるべき事例を無視することになり、その分賢慮をおろそかにしてしまう。バトラーは、世界には自愛があまりにも少なすぎるという極めて正しい見解を残している。必要なのは、自愛を減らすことではなく、仁愛を増やすことなのだ。自愛は、プライド、嫉妬心、怒りといった個別の衝動によって絶えず上回られており、これは個々人の幸せにとっても、社会全体の福利にとっても破滅的である。実のところ、自愛とは行為の適切な原理ではない。しかし、少なくとも一応は合理的で整合的である。人々の行為が一貫して自愛に従い、同情や感激の快について適切に考慮し、これをプライド、怒り、色欲に対して適切に重みづけてやれば、人々の外的な行為は仁愛が命じるだろうものとそう大きくは違ってこないだろう。この見解は私には完全に正しいと思われる。他人に対してもっとも破滅的な行為というのは、ほとんどの場合、自分の幸福を最大化しようと冷静に考える人であれば、夢にも思わないものばかりなのだ。この論点をほぼ完ぺきに例示してくれるものとして、フランスが1914年から18年の戦争〔第一次世界大戦〕以来ドイツに向けた態度を挙げることができる。ここでフランスは明らかに、両国にとって最大の不便をもたらすように動いていた。もしフランスが、悪意と盲目の恐怖ではなく、筋の通った自己利益のためだけに行為していたとしたら、両国とも、またその他すべての国も、現在もっとよい状態にあったはずだ。

 ということで理想的人間本性では、個々の衝動が自愛と仁愛にきちんと従属しており、自愛と仁愛は良心という最高原理にきちんと従属している。この考えは、ひとまずのところでは完璧に正しいと私は考える。そこでここからは、人間本性を構成する個々の要素についてより詳細に見ていくことにしよう。

1. 個別の衝動

 バトラーの最初の課題は、個別の衝動は自愛には還元できないと示すことにあった。バトラー以前も以後も、こうした還元が可能だと考えるものは多い。しかし、この点でバトラーの方が正しいことを理解するのは簡単だ。自愛の対象は、人生全体にわたる自身の最大の幸せである。これに対して復讐心の対象は、自分を傷つけたと考えられる人を痛い目に合わせることであり、また同情の対象は、他の人に快を与えるところにある。こうした個別の衝動はそれぞれ個別の対象を持っているのだが、自愛には自身の最大の幸せという一般的な対象があるのだ。繰り返しになるが、個別の衝動は自愛と衝突することがよくあり、このことは私たちが称賛しがちな人にも非難しがちな人にも起こる。またこれは単に知性の問題、すなわち、何が私たちを幸せにするのかを間違えることから生じるというものでもない。激怒や親心といった強烈な個別衝動のもとにある人は、自分でも賢明ではないと分かっている行為をしてしまうものだからだ。

 バトラーはある注のなかで、ホッブズによる「憐み」の定義を検討している。すなわち「憐み」とは、「他人の苦痛を見たとき自身に感じられる不安」だとされる。この定義に対する論駁はあまりに短すぎるが非常に破壊的なので、哲学的な推論の一つのモデルとして、実質を補うかたちで提示してみよう。バトラーは次の点を指摘している。

  • 1. ホッブズの定義によると、同情的な人とは、事実上、自身の安全に対して神経質な人であるから、人は同情的になればなるほど臆病になる。これは明らかに事実に反している。
  • 2. 苦痛に対して同情的な人を私たちは称賛するが、自分の安全に対して神経質なほど不安がりな人を称賛することは決してない。しかしホッブズが正しいなら、同情に対する称賛が臆病さに対する称賛を含むことになってしまう。
  • 3. 私たちは友人の問題についてはとりわけ同情しがちだという事実をホッブズはとりあげ、これを説明しようとしている。しかしホッブズの定義によればこの事実が意味するのは、私たちは友人の苦痛を見ると自分たちの方でもより神経質になるということだ。しかしそもそも、苦痛を感じている友人を見るときの方が同じ状況にある見知らぬ人を見る時よりも神経質になるかどうかは全く明らかなことではない。他方で、見知らぬ人の苦痛より他人の苦痛により同情するというのはきわめて確かである。したがって、同情はホッブズの言うようなものではありえない。バトラー自身の考えでは、苦しんでいる人を見るとき私たちの心の状態は3つの状態が混交したものである。第一は、本物の同情、すなわち、その人の痛みを和らげたいという直接的衝動である。第二は、自分の幸運と相手の不運の差に対するありがたさ。そして第三が、ホッブズが言ったような、自分の今後に対する不安の感じである。これら3つは場合によって様々な程度で混ざりあっており、場合によっては完全に欠けているときもある。だが、人が「同情」ないし「憐み」という語で意味しているのは、第一の要素だけなのだ。

 ホッブズの憐み理論に対して、バトラーは全く正しい意見を述べている。バトラーによれば、この種の誤りは哲学者特有のものだ。ホッブズは、全ての行為は必然的に利己的でしかありえないという一般的な哲学的理論を持っているために、例外に見える憐みを理論の方に合わせていく必要に迫られた。そしてここで、常識との明らかな衝突が発生してしまうのである。ただし、衝突それ自体は、哲学よりも常識を支持する理由にはならない、と私としては言っておかなければならない。もちろん、常識が正しく哲学者が誤っているということはある。しかし常識は、ホッブズが間違っていると感じるだけであって、なぜ間違っているのかを言うことは全くできない。せいぜい相手を中傷するのが関の山だろう。悪い哲学に対する治療法は良い哲学しかない。単に常識に戻るだけでは手当にはならないのだ。

 ホッブズの話はこのくらいにして、 個別の衝動と自愛の関係という一般的な問題の方に戻ろう。空腹、復讐心、同情といった個別の衝動を自愛に還元するのがもっともらしく見えるのはなぜなのだろうか。バトラーの指摘によれば、原因は2つの混乱である。

  • 1.衝動の対象と所有者の混乱。全ての衝動は、その対象が何であれ、私たちがもつ衝動である。衝動はすべて、自己に属している。このことは、他人に向けられた衝動である同情についても言えるし、自分の状態を変化させることに向けられた空腹についても言える。
  • 2. さらに、どの衝動の充足も私の充足である。私がもつ欲求が貪欲であろうと悪意であろうと哀れみであろうと、それが充足されたならば私は快を得る。

 全ての衝動はある自己に属しており、衝動が発散されればその自己に快をもたらす。これは全く正しい。しかし、全ての衝動が、その所有者の状態を対象としているというのは正しくない。同情も悪意も、その向かう先は、それらを持つ自己の幸せを生み出すことではない。同情は他人の幸せを生み出すことに向けられているのであり、悪意は他人の不幸せを生み出すことに向けられているのだ。したがって、衝動と自愛のあいだに本質的な反対関係は存在しない。私の衝動の充足は私に快をもたらすから、それは私の全体的幸せに関連する一要因であり、そして私の全体的幸せこそ自愛の向かうものである。そして自愛が自身の目標を達成するためにできることは、様々な特殊な衝動が行為に至るのを許可してやることしかない。しかしながら、逆に、いかなる衝動も自愛と同一視することはできない。個別の衝動と自愛との関係は、手段と目的の関係であり、あるいは素材と完成品の関係である。

 以上の論点は全て正しくまた重要である。しかし、議論をより十分なものにするためには、バトラーが指摘していないいくつかの区別をさらに設けることが必要だと私には思われる。すなわちまず、(i)事前に存在していた欲求の充足に存する快と、そうではない快だ。一定の感覚は内在的に快い(スミレの匂いや砂糖の味など)が、別の感覚は内在的に不快である(硫化水素の匂いや焼けただれた感じなど)。つまりここで、内在的な快苦と、衝動の充足・未充足に起因する快苦を区別しなければならない。あらゆる衝動の充足は、少なくともその充足の瞬間は快であり、どの衝動もその未充足が続くと不快である。この種の快苦は、衝動の対象とはまったく独立に生じる。そこで、今区別した二種の快と苦はさまざまなかたちで組み合わされうる。たとえば、おなかがすいていたところで、とてもおいしいものを食べたとしよう。ここで私は、味の持つ内在的に快い感覚と、空腹が満たされたことによる快の、両方を得る。船が難破して〔岸に打ち上げられた〕乗組員は、腐った肉を見つけたりキャビンボーイを食べたりすることで、空腹が満たされた快を得るが、味の点では内在的に不快な感覚がそこに伴ってくる。長い夕食の時間を終えようとしている美食家は、セイボリーから内在的に快い味の感覚を得るかもしれないが、もう満腹なので空腹が満たされた快は得ないだろう。

 (ii)第二に、衝動の対象、衝動を駆り立てた原因、実際に衝動を充足させるもの、充足に付随する効果、を区別するべきだ。バトラーは、空腹と同情を一緒に扱って、前者の対象は食べ物であり、後者の対象は仲間の苦痛だ、と論じている。しかし、まず「空腹」(hunger)というのは曖昧な言葉である。食べ物がないことによっておおむね引き起こされる一定の体内感覚のことを意味する場合もあれば、そうした感覚を通常ともなう、食べようという衝動のことを意味する場合もある。バトラーは明らかに後者の意味で使っている。しかしそうだとしても、空腹の対象が食べ物だという言い方は正確ではないように私には思われる。この言い方は、市場に行く肉屋の目的は食べ物だ、と言うのと同じ程度には正しいだろうが、だからといって肉屋のおなかがすいているとは限らないからだ。むしろ、空腹の目的は、食べ物を食べることだ。そして、肉屋の目的は、食べ物をできるだけ安く買いできるだけ高く売ることである。実際のところ、衝動の目的は、厳密にいえば、物や人だったりはしない。衝動は常に、ある人や物の状態を変化させたり維持したりしようとしているのである。衝動の対象ないし目的についてはこのあたりにしておこう。

 さて、私たちが食べ物を食べるとき、空腹衝動はすこしづつ満たされていき、それは快いことだ。おなかがすいているのにずっと何も食べられない場合、この衝動の継続的な未充足は不快である。そして、空腹衝動を満たす過程は、その付随効果として、味の感覚を生み出すが、この感覚は食べているものと本人の好みに応じて内在的に快だったり不快だったりする。このことを次のように言うことができる。空腹衝動を駆り立てた原因は食べ物の欠如であり、この衝動には一般に一定の特徴的な身体感覚が付随している。空腹衝動の対象ないし目的は食べ物を食べることであり、付随する効果として味覚の感覚がある。また、食べ物が手に入るか否かに応じて、充足か未充足が付随する。同じように憐みについて考察してみよう。憐みをかきたてる原因は、他人、とくに友人や家族が苦しんでいるのを見ることだ。憐みの目的ないし対象は、その苦しみを取り除くことにある。憐みが発散された場合の付随効果としては、実際にその苦痛が緩和されたり、相手の心の中に感謝の気持ちが生まれたり、などがある。そして、衝動を発散出来た場合には、私たちの精神は満足する。それができなかった場合には、未充足からくる不快な感覚が生じる。

 以上のような区別を心にとどめておくことは、個々の衝動と自愛および仁愛の一般原理との関係について考察するさいに非常に重要になってくる。バトラーによれば、個々の衝動の中には、自愛により密接に結びついているものと、仁愛により密接に結びついているものがある。この点について彼は例を挙げはするのだが、それ以上の分析を行っていない。この点について今や私たちは、より十分にまた明確に、次のように述べることができる。

  • 1. 衝動を掻き立てる原因は、行為者のうちにあったり、無生物対象にあったり、他の人にあったりする。空腹は自分自身の食物の不足と、そこに付随する身体感覚によって掻き立てられる。強欲さは、たとえば本や絵を見たときに掻き立てられ、哀れみは他人の苦痛を見たときに掻き立てられる。
  • 2. 衝動の目的は、行為者自身に一定の結果をもたらすことにあったり、他人に一定の結果をもたらすことであったり、無生物対象に一定の結果をもたらすことだったりする。たとえば、空腹は本人の食事へと向けられている。憐れみは他人の苦痛の緩和に向けられている。見境ない激怒は食器や家具に当たり散らすことに向けられたりもする。
  • 3. 衝動を満たすことの付随効果は、行為者自身に生じる場合も、他人に生じる場合も、また両者に生じる場合もある。おそらく、行為者自身にはつねに付随効果があり、他者にもほぼ常にあると言えるだろう。ただし場合によっては、行為者自身への効果が支配的だったり、他人への効果の方がはるかに重要だったりする。たとえば、空腹が満たされたことの付随効果は、通常の状況であれば、ほぼ完全に行為者自身にしか発生しない。憐れみの発散の付随効果は、たしかにつねに行為者自身にもいくらかは発生するが、苦しんでいる当人と傍観者にとってのほうが大きい。野心の付随効果は、自己と他者に等しく分かれている。そして、衝動が満たされた快ないし満たされない苦痛が発生するのは、当然だが、衝動の所有者に限られる。

 行為者自身の状態を生み出したり変えたりする個別的衝動や、付随作用が主に行為者に限定的に生じる個別的衝動が、自愛にとって特に関心となるのはあきらかだ。典型例が空腹である。他方で、他人の状態を生み出したり変えたりする個別的衝動や、付随作用が主に他人に限定的に生じる個別的衝動は、仁愛にとってより重要になる。同情や反感が典型例だ。自愛と仁愛の両方に等しくかかわる衝動もあるだろう。主に他人の状態を生み出すのに向けられているが、付随作用が主に行為者のうちに生じるものや、その逆のものだ。自分で痛めつけられない者に対する怒りは、他人に向けられてはいるが、主に自分自身に影響する。以上の点に比して、衝動をかきたてる原因がどこにあるかという点は、目下の議論ではあまり重要性を持たない。ただし、行為者自身のうちに原因を持つ衝動の大部分は、おそらく、行為者自身の状態を変化させることに向けられているだろう。満足の快と不満の苦痛は自愛のみにかかわる。これらは行為者当人にしか感じられないからだ。

 さて、ここで指摘しておきたいのは。もともと個別の衝動からなされていた行為が、自愛や仁愛によって行われるようになる可能性だ。幼児のころ私たちは、単にお腹がすいたから食べ、喉が渇いたから飲んでいた。しかし時を経て私たちは、飢えや渇きを満たすことの快さに気付き、また、一定の食物を食べたり一定のワインを飲むことに付随する感覚が内在的に快いと気付いた。このとき自愛は、私たちに激しい運動をさせてお腹ペコペコ喉カラカラの状態にしたうえでレストランへ赴かせ、空腹と渇きが満たされる快い(agreeable)経験にくわえて、内在的に快い(pleasant)感覚を与えると分かっている料理とワインだけを注文させる、などということがあるかもしれない。また、子供は単に好きだからクリケットをしているが、成長して試合それ自体にはとくに熱心さを失ってしまい、別のことをしたほうが楽しめるとしても、しかし仁愛から、半ドンの日にはボーイスカウトの子供たちとクリケットをして過ごすということもあるだろう。

 ところでバトラーは野心と空腹は憐みや悪意と同様に無私だと述べている。これはおかしな見解に聞こえる。だがバトラーは無私(disinterested)という言葉を独自の、しかし非常に重要な意味で使っており、その限りではこの見解は完全に正しい。というのもたしかに、野心も空腹も自分自身の幸せを目指しているものではないからだ。前者の対象は権力であり、後者の対象は食べ物を食べることだ。たしかにどちらの充足も私の充足ではある。しかしそれは憐みや悪意についても同じだ。「無私」を「自分の幸せを全体として最大化するという動機と無関係」という意味で使うならば、あきらかに空腹や野心も無私の行為につながるだろう。バトラーの見解のなかにある一見した矛盾は、先ほど引いた区別に基づけばきちんと説明できる。野心と空腹が、憐みと悪意よりも自己愛に近いというのは確かに正しい。というのも前者は、自身の最大幸福を目指していないとはいえ、自分自身の状態の産出と変容を目指している。他方で後者は、他人の状態の産出と変容を目指しており、その付随効果もおおむね他人に限局されているからだ。したがって、ここではバトラーも常識もどちらも正しく、意見の相違に見えたものは、見逃しがちな区別をはっきり立ててやれば消えてしまう。

2. 自愛と仁愛

 では続いて、自愛と仁愛という2つの一般的原理に移ろう。自愛に比べると、仁愛についてのバトラーの説明は明晰さで劣ると私には思われる。そこで私は次のように仮定したい。バトラーは、自愛とは自分自身の全体的幸せの最大化を導く一般原理であるとはっきり考えている。これと同じように、仁愛とは、個々の人々に関心を払うのではなく人類全体(humanity)の幸福を最大化するよう促す一般原理だとバトラーは考えていた、と。これがバトラーの見解だと思うのだが、彼は仁愛が自愛と並ぶ一般原理だということを忘れ、あたかもそれが一つの個別的衝動にすぎないかのように語る傾向がある。たとえば「第一説教」では、仁愛は明らかに存在し自愛と両立すると述べられているのだが、具体的に挙げられている事例は特定の人の利益を目指した個別の衝動、つまり親子の愛情になってしまっている。親子の愛情が存在すると認めるならば、仁愛の存在を認めなければならない、と論じられているのだ。だがこれは誤りである。これが正しいならば、空腹を認めるならば自愛も認めなければならない、と言えたはずである。実際のところは、空腹は個別の衝動に過ぎないのだから自愛とは同一視できず、同じことが親の愛情と仁愛にも言える。バトラーがこんなにもあからさまな間違いを犯してしまったのは、私の考えでは、仁愛が個別の衝動にもそして自愛にも反しないことを示そうと躍起になっていたことに由来する。バトラーは、仁愛の原理の充足は空腹や復讐心といった個別衝動の充足に劣らず行為者に快をもたらすと示している。なるほど、仁愛の行きすぎた発揮は自愛と衝突するだろう。しかし、それは渇きや怒りのような個別衝動についても言える。それどころか、仁愛と自愛の関係は、個別衝動と自愛の関係と全く同じである。ここまでは、バトラーは完全に正しい。しかしこの関係の同一視によってバトラーは、一般原理である仁愛と、愛国心や親の愛情のように特定の人(々)の幸せを生み出すことを目指した個別衝動のあいだの内在的な違いを見落としてしまったのだ。

 私は、仁愛という一般原理は明らかに存在していると思うし、バトラーも明確ではないときこそあれそう考えていたと思う。仁愛の主要な働きは、個別的衝動のなかでも他人に変化をもたらすことを狙うものや付随効果が主に他人のうちにおこるものを制御、組織化することにある。たとえば、哀れみ、反感、親の愛情などに関係する。他方で自愛の主要な働きは、個別的衝動の中でも自分にある状態を生み出すことを狙うものや、不随効果がおおむね自身のうちに起こるものの制御、組織化である。自愛の観点からいえば、仁愛とは空腹、反感などとならぶ一つの衝動に過ぎない。しかし逆に仁愛の観点からいえば、自愛の方こそ一つの衝動に過ぎない。賢明な人は、盲目な怒りにとらわれていないか、過食していないかをチェックするのと同様に、人類一般に対する仁愛が行き過ぎていないかをチェックするだろう。慈悲深い人は平静を失っていないかをチェックするのと同様、行き過ぎた賢しら心をチェックするだろう。

 しかし私には、自愛と仁愛が釣り合いを保っていない点が少なくとも2つあると思われる。良心は自愛と仁愛の両方を、適切な割合で認める。しかし、良心が自愛よりも仁愛を高く評価することは明らかだと思われる。良心は、多すぎる仁愛を持つ頃は可能だが容易ではないのに対して、多すぎる自愛を持つのは全く容易だと考えるだろう(実際には人々は自愛を持たなすぎなのだが)。さらに、純粋に心理学的な観点から言うと、自愛と仁愛はそこまで協調していない。仁愛を含む任意の傾向を行為に移すことは、それ自体として行為者にとって快であり、その分だけ自愛に役立つ。しかし、自分自身の欲求傾向を行為に移すことは、それ自体としては他人の幸福の源泉ではない。たしかに行為によって発散される衝動の本性によっては、他人も快苦どちらかのしかたで影響を被ることはあろう。しかし私は、行為の対象が何なのか、付随効果が自分にとって快い感覚なのか否かに関わらず、単に欲求が充足したという事実だけで、一定量の快を得る。したがって、付随効果があまりにも不快なので冷静な自愛ならば許さない行為でさえも、自愛に完全に背いているわけではない。そのような行為は存在しないのだ。これに対して、多くの衝動の充足は仁愛に完全に背きうる。私が平静を失いカッとなって人を殴ったとしよう。この行為が将来的にもたらす帰結はおそらく非常に不快なので、冷静な自愛であればこれを禁じるであろう。しかしそれでも、自愛にはこの行為から得るものがある。すなわち、衝動を充足したという一瞬の満足感を得ることはできるのだ。これに対し、この行為から仁愛が得るものは何もない。この行為は仁愛に完全に背いているのだ。
 すでに述べたが、バトラーは純粋な自愛と純粋な仁愛はほぼ同じ外的行為を導くと考えていた。というのは、ほとんどの行為の付随効果は実際のところ自分と他人両方の幸せに同じくらい関わっているからだ。この点について、バトラーは2つの根本的に正しく重要な観察を残している。(i)もしあなたが自分を出来る限り幸せにしたいと思うならば、幸せという対象については常に心の外に置いておくことが重要だ。最も幸せな人とは、誇りを持て有益だと感じられるような何らかの活動に専心し、一定の成功を収めている人である。もっともみじめな人生を送る人は、いつも自分の幸せとそれを手に入れる計画のことしか考えていない人だ。熟慮の末追及された幸せは概して結局は満足いかないものであり、自己意識的な利己主義者は持っていないものを欲し持っているものを否定することにばかり時間を割いている。(ii)第二のポイント。自愛と仁愛に避けがたい衝突があるというよくある見解は誤りであり、この誤りは楽しみそれ自体と楽しみの手段の混同というよくある原因に基づいている。私が一定額のお金をもっているとすれば、それを自分のために使えば使うほど他人のために使えなくなるし、逆も然りだ。そこで、一見すると自愛と仁愛は必然的にぶつかりあうように見える。しかし、バトラーが言っているように、お金やその他の財はそれ自体としては幸せではない。それを一定の仕方で使うことで幸せを生み出すことができる物質的対象に過ぎない。そして、お金を自分に使っても他人に使っても私には幸せが生じるだろう。もし私が自分自身にもう十分お金を使っているならば、あえてさらに自分に使って幸せを失うよりはむしろ他人に使ってより多くの幸せを得るだろう。このことは確かに正しいのだ。バトラーが指摘する幸せと幸せの手段の混同は、非常によくなされてしまう。守銭奴はこの間違いを典型的にまた誇張した形で示しているが、ほぼ誰もがこの混同をある程度はなしてしまう。
 自愛に導かれる行為と仁愛に導かれる行為の実質的同一性というバトラーの理論に批判すべき点があるとすれば、それは1点しかない。すなわちこの同一性を主張するときバトラーが念頭に置いている人物というのは、仁愛と自愛に従った人々からなる社会のなかにいる純粋に利己的な人だという点だ。たしかにこの場合この人は、仁愛の原理が支持するような行為を行うとたしかにペイする。他方で、まったく仁愛を欠いた人々の共同体の中でこのような行為を行うときペイするかどうかは全く明らかではない。私たちが言えるのは、そういった〔利己的な〕社会がありうるとして、その世界では誰もがおそらく悲惨であろうということだ。しかしそうした社会の中で、外面上は慈善的な行為をすることによって悲惨さが緩和されるかどうかは、簡単には答えられない。しかしながらバトラーの言いたいことが、実際の人々および人々が作ってきた制度が問題であれば、十分情報を与えられた自己関心が命じる行為は仁愛が命じる行為とあまり変わらないということであれば、バトラーは正しいであろう。もちろんこのとき、ある行為がどれだけ仁愛に由来しどれだけ自愛に由来するのかを明言することは難しい。確かなのは、両方の原理が存在しており、一方の原理のみにもっぱら負う行為は極めて稀だということだ。ときにはどちらの原理が優勢なのかかなりはっきりわかる場合もあるが、それが限界である。これと全く同じ困難は、自愛と個別衝動についても生じるとバトラーは指摘している。ある行為が自愛に由来するのか、それとも権力やお金を狙う個別の衝動に由来するのか、言い当てるのが困難な不可能な場合がよくある。確かなのは、自愛と仁愛両方の原理が存在しており、あらゆる割合で混ざり合うということだけだ。ときには、傍観者のほうが支配的な原理をより正確に言えることもある。傍観者のほうがバイアスから逃れやすいからだ。

3. 良心

 最後に、バトラーにおける最高原理である良心をみていこう。バトラーによれば、良心には2つの側面がある。すなわち、純粋に認知的な側面と、権威的な側面である。加えて、私の考えでは、良心は活動的な原理だとも言わねばならないと思う。すなわち、この原理は行為を実際に引き起こしたしチェックしたり変容させたりする。認知的な側面においては、良心は反省の原理である。反省の主題は行為、性格、意図である。ただし反省には特定の観点がある。ある意味で私達はすでになされた行為を単に思い出し、あああれは結局はうまくいったな、これはダメだったななどと反省することもある。しかしこうした反省は良心の働きとは言い難く、むしろ回顧の働きというべきだろう。良心の特異性は、それが行為を正しさと不正さという観点から反省するところにある。「正しい」「不正」「義務」などの語を私たちが使うというこの事実からして、こうした語で名指されているものを認識する知的能力が私たちのなかにあることを示している。そうでなければ、こうした語は無意味に、先天性の色盲の人に「黒」や「白」が無意味なのとおなじようなことになってしまうだろう。しかし幸運にも私たちは、正しい行為とうまく行った(fortunately)行為をしっかり区別することができるし、不正な行為とうまく行かなかった行為をはっきり分けることもできる。また、意図せず人を傷つけてしまうこととと熟慮の上でなされた加害を区別することもできる。良心は前者には無関心だが後者を糾弾するものだ。そして最後に良心は、不正な行い・正しい行いにたいし、どの程度の苦痛・幸福が適切かを認識する。つまり、真価(merit or desert)を認識する。人が痛めつけられてるを見たとき、その人は無実だと考えるか、それとも悪い行為をして罰を受けていると考えるかに応じて、私たちはその状況について全く異なる判断をするだろう。
 
 そこで認知的側面における良心とは、善悪という特定の観点から、性格、行為、意図について反省する能力だと言える。また最後につけくわておくと、良心は行為ないし意図をそれ単独で評価するのではなく、行為者の理想的本性を参照しながら判断する。子供や狂人の理想的本性は、正常な大人の理想的本性とは異なっているので、それぞれの人が同じ行為をしたとしても、良心はそれらに対して異なる見解を持つだろう。しかしバトラーは適切にも、全ての大人の理想的本性は同一だと仮定している。実際上、これを仮定しなければならないことは明らかだ。ただし、あまりに厳密に取りすぎることもできないと思われる。というのは、成熟・未成熟や正常・狂気のあいだに、完璧に明確な線を引くことはむずかしいからだ。
 
 良心は最高の権威だということでバトラーが意味しているのは、私たちは良心の宣言を単に興味深かったりどうでもよかったりする事実の表明とみなすのではなく、またその他の理由と釣り合いを取るべきひとつの理由とみなすのでもなく、むしろ、その宣言にかかわる行為をする・しない決定的な理由とみなすということだ。良心がある行為を不正だと宣言したという事実は、たしかに、その行為に反対する一つの動機である。しかしこのことは、自愛が賢くないと糾弾したという事実や、仁愛が全体の幸せを減らしそうだと糾弾したという事実についても言える。この点で見れば、良心、自愛、仁愛はすべて等しい。このどれもが、行為を行う、ないし行わない動機を与えることができる。違いがあるのは、それぞれの権威である。すなわち、それらをどのくらいの強さでもつべきであるか、理想的な人間ならどのくらいの強さでもつはずであるかという点の違いだ。自愛と仁愛がある行為の仕方をめぐって対立している場合には、どちらの原理の本性から言えば、一方が他方に対してより権威を持つということはない。ある時には自愛が譲る方が正しいだろうし、別の時には逆である。しかし、良心とはこのようなものではない。理想的人間において、良心は単に仁愛や自愛と交代で出てくるのではない。良心が仁愛や自愛と衝突した際には、道を譲らなければいけないのはかならず後者であり、決して良心ではない。さらに、仁愛と自愛が衝突している場合には、良心のみが、決定を下す権利を持つ。もちろん現実の人間の場合には、良心が自愛や仁愛に負けてしまうことはよくある。それは、自愛や仁愛が個別衝動に負けてしまいがちなのと同じだ。しかし私たちは、良心が必要な心理的力を備えていない場合ですら、その道徳的権利が最上だということは認識している。
 
 私たちの生活のあらゆる細部までもが良心の法廷で厳粛に議論されなければならないとは、バトラーは考えていなかったと思う。それはちょうど、自分自身の幸せの最大化を目指す人がその目的を達成するためには幸せの最大化についてはいちいち考えないほうがいいのと同じで、いつも良心にしたがって行為したい人は良心に従うことを明確な動機として掲げないほうがだいたい上手くいく。私たちが直接の衝動、自愛、仁愛から行為した場合でも、その行為がもし注意深く熟慮すれば良心が賛同するであろう行為であるかぎり、良心の最上性は保たれている。例えば、良心は適当な程度の親の愛情を肯定する。しかし、この愛情は、良心によって親に義務として課せられるよりも、直接的に感じ取られるいいだろう。実際のところ、良心の主要な機能は統制的なものだ。善ないし悪なる素材が、個別衝動によって与えられる。それらは自愛と仁愛によって組織立てられるが、自愛と仁愛は良心によって協調、規制させられている。こうした組織化は、氏も育ちもよい人であれば、その多くの部分が習慣化しており、99%の場合、当の行為は正しいのか、またその理由は何なのか、などと考える必要なしに、正しい行為をすることができる。良心に直接聞かなければならないほど当惑させるないし魅力的な状況というのは100のうちほとんどない。

 さて最後にバトラーの理論の中にある興味深いが難しいポイントを2つ指摘しておこう。(1)バトラーは絶えず良心の最上性を主張しているが、自愛と良心が協調すると考えているらしき部分が数か所ある。そのうち1か所では、適当な自愛かあるいは良心のどちらか一方に背いている行為は人間の本性と合致していないと言っている。また別の有名な箇所では、冷静に反省すれば幸せに背くような行為を正当化することはできないと認めているように見える。前者の箇所については私にはいかんともしがたい。純粋に不整合であるように見える。ただし後者については、良心と十分な情報を得た自己愛のあいだには真の衝突はないということを論敵に対して証明しようとする議論の中であらわれているという点に注目しよう。このことは、バトラーがここでは自分自身の見解を述べているのではなく、想定上の反論者に対して仮定上譲歩しているという文脈から明らかだと思う。バトラーの議論はこうだ。仮に、自分自身の最大の幸せに反することは決して正しくないとしよう。しかしそれでも、良心と自愛が一見衝突しているように見える場合には良心に従わなくてはならない。というのも、現世においてすら、いったい何があなたに最大の幸せをもたらしてくれるのかを言うのは非常に難しく、また来世が存在する可能性が常にありうる。これに対して、良心の命令はいつもきわめて明確である。そこで、何が自分にとって究極的な利益なのかよりも、何が正しいのかの方が、はるかに確かなことなのだ。したがって、自愛と良心に衝突があるように見えたら、良心に従うべきだ。というのも、良心に従った行為が、私たちの利益にかなわないと確かに言うことはできないのだから。
 
 したがってバトラーはおそらく、良心が自愛に優越するかそれとも両者は協調するのかという問いは単なる理論上の重要性しかない、と答えるのだろう。しかしこの回答は受け入れがたい。そもそも、私たちは道徳理論家(moralist)としては、良心と自愛の相対的な配分がどの程度であるべきかを知りたい。これに対して、それは実践的重要性を持たない、と言われても、問いに対する答えは得られていない。第二に、確かにバトラーの言う通り、何が自分自身の究極的利益になるはには極端な不確実性があるというのは認めてもよいかもしれないが、良心の声のほうもほとんどの場合バトラーが言うほど確実でも明確でも全くない。仮にそうだとしても、自分自身の利益へのよりよい指針が、問題について直接反省してたどりついた最善の選択肢よりも良心だというのはなぜなのか、全く明らかではない。

 (2)バトラーの見解で疑わしい第二の点は、幸せの価値にかかわる。ある箇所でバトラーは、人間あるいは全ての被造物にとって唯一重要なのは幸せだというkとおは明らかだと述べる。さらに、一般的な徳ないし悪徳は全て、仁愛とその欠如に由来すると述べる。最後に、同じ説教の中で、仁愛は厳密な意味ではあらゆる善いものと価値あるものを含んでいる、と述べる。さて、これらの言明を額面通り受け取ると、バトラーは功利主義者だということになってしまう。つまり、幸せが唯一の内在的善であり、徳とは幸せの促進に存する、と考えていることになる。だがここで注意すべきなのは、こうした発言は隣人愛にかんする説教の中にあらわれるもので、ここでのバトラーの主要な関心は、哀れにも仁愛を描いた人々にそれを推奨することにあるということだ。しかも、この文脈においてですら、バトラーは脚注で明確にこう述べている。すなわち、一定の行為や傾向は、それが一般的幸せにもたらすだろう効果を別としても、肯定されるものだ、と。このことは後のより体系的な著作『徳の本性にかんする論考』ではさらにはっきりと述べられている。そこで私としては、バトラーの熟慮の上での見解は功利主義に反したものだと考える。

 私たちが功利主義者だと考える理由はないにしても、神は功利主義者かもしれないという興味深い見解が、『人間本性にかんする説教』にも『徳の本性にかんする論考』にも見られる。つまり、神の唯一の究極的動機は、宇宙における幸せの総量を最大化することかもしれない、というのだ。これが神が目的として賛同できる唯一のものであったとしても、しかし神は人間を、仁愛以外の傾向にも直接的に賛同を示すように創られた。たとえば、正義や誠実(truth-telling)である。また神は、私たちに良心の能力をあたえ、この能力が私たちに告げるところによれば、一般的幸せにつながりそうに見えるか否かとは関係なく、正義や誠実といった原理にしたがって行為することこそが義務である。なぜ神は正義や誠実に対する直接の賛同を私たちに与えたのか。それは、ご自身がそれに直接的に賛同しているからではなく、むしろ、私たちが自分や他人への帰結として何が起こりそうか考えて行為するよりも、それとは無関係にとにかく正義の振る舞いをし真実を言うほうが、実際のところ全体としての最大の幸せにつながる、と知っておられたからだというのは全くありそうな話だ。もしそうだとすると、全体の幸せについて考えることは神の仕事であり私たちの仕事ではない。私たちのすべきことは、良心に従って行為し、良心が賛同する手段によってのみ全体の幸せを促進することである。時には、嘘をついたり贔屓した方が全体の幸せにつながりそうだと考えかもしれないが、それは関係ない。もし神が、私たちの良心的行為を制御し、良心に従った行為が最大の幸福をもたらすように私たちには思えないがそれでも実際にはそうなるようにしているならば、それはそれで良いことである。いずれにせよ〔そう思えるにせよ思えないにせよ〕、私たちの義務は同じ〔良心に従うこと〕である。

 さて、倫理学にかんする完全な論考であれば当然扱うべき様々な問いをバトラーが論じていないのは明らかである。たとえば、私たちが正不正の基準として使えるような、あらゆる正しい行為に共通の特徴はあるのだろうか。同じ良心が異なる時に、あるいは異なる良心が同じ時に、相対立する命令を発しているように見える場合に、どちらが真正でどちらが疑わしいかをどうやって知ればいいのだろうか。こうした問いにバトラーは答えようとしていない。功利主義者とカントはこれらの問いに対して全く異なる答えをあたえていたのだった。たしかに、バトラーの体系は不完全である。しかしそれは、道徳経験の事実に忠実だと主張できるあらゆる倫理体系のためのプロレゴメナを含んでいるようにみえる。

機能的自律もない Oppenheimer (1947)

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00224545.1947.9918895

  • Oskar Oppenheimer (1947). The Functional Autonomy of Motives. The Journal of Social Psychology, 25(2): 171-179.

 G. W. オルポートは、動機の「機能的自律」の理論を提唱した(Allport 1937)。様々な動機は、はじめは本能に機能的に依存している。しかし、そうした動機が充足される状況に偶然付随している要素が、次第に重要性を獲得するようになり、最終的にその動機は本能から機能的に自律するに至るという。

 この現象の例として、オルポートは元船乗りの例を出している。船乗りはもともとは稼ぎの手段として海を愛していたが、稼ぎの心配がなくなって船乗りを引退したあとでも、海への愛が残りつづけている、という例だ。しかし、海は元船乗りの別の本能を満たしているのかもしれない。たとえば、引退後の生活は退屈で、海を眺めることで冒険心を慰めてくれるなど。このとき、海への愛という新しい動機は、状況の偶然の要素から生じてきたわけでもなければ、本能から機能的に切り離されているわけでもない。オルポートの他の例でも同じことが言える。たとえば職人は、しだいにお金や名誉とは関係なしにいい仕事をしようとするようになる、とオルポートは述べる。しかしこの事例も、問題の動機を支える動機が別のものに移行した例に過ぎない(174)。すなわち、自己保存や社会的承認への動機が、自尊への動機に変化している。

 実験からの証拠とされるものもやはり薄弱である。まず、幼児の反復行動("circular reflex")。オルポートはこれが背景となる動機無しで生じると言う。しかしそうだとすればこうした行動は私達の人生のなかでもっと起こっていていいはずだし、何らかの強い動機が満たされるから同じ行動を反復していると考えるほうが尤もらしい。幼児は声を発するのを楽しんでいて何度も繰り返すのかもしれない。また、未達成の課題はそれ自体がニーズになるとオルポートは言う("conative perseveration"、ツァイガルニク効果など)。しかしこうした現象は自己主張や対抗意識の動機によって説明できる。

 また習慣形成についても、「多くの場合、習慣は私達に安全だという幻想を与えるだろう。すなわち、人生がこのまま無限に続くだろうという観念を。そしてこの場合、習慣にしたがって行為することにって自己保存の動機が満たされていると考えられる」(178)。しかしその一部では、たしかにオルポートの言うような機能的自律があるだろう。

 こうしたごく一部の現象にしかあてはまらない説をオルポートが動機一般にあてはめてしまったのは、人格のユニークさという彼の学説に由来する。たしかに、あらゆる動機をごく少数の本能によって説明するタイプの本能心理学を批判する点でオルポートは正しい。しかし、現代の多くの心理学者の考えでは、本能は多数あり、そのなかには人生のあとのほうにあらわれるものもあるし、また一部の人々しかもっていない本能もある。こうした様々な本能から、二次的動機が生じる。二次的動機は機能的には自律していないが、その数は非常に多く、人格の相対的なユニークさを説明するのには十分だ。フロイトが本能を重視しすぎていたが、オルポートは軽視しすぎている。