えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

カール・フォークトの生涯と著作 Gregory (1977)

【目次】

誕生〜学生時代(1817–1839)

ギーセン

 カール・フォークトは1817年ギーセン生まれ。1833年にギーセン大学に進学して医学を志し、同大の医学部に属す父が私的に開いた解剖学講義の中でゲオルク・ビューヒナーと知り合う。1834年、リービッヒの実験化学講義に参加し、化学の才能を現す。

 同34年、リベラル派だった父がフランクフルト議会占拠未遂事件(33年)への関与からギーセン大を解職、ベルン大医学部に請われたため家族はスイスへ移住する。フォークトは一人ギーセンに残り勉学を続けた。だが、積極的に参加はしていなかったものの急進的な学生団体に加入しており、活動的な学生を警察から匿ったとして35年に大学から追放、各地を転々として逃亡したのち、ベルンで家族に合流した。

ベルン

 1834年に新設されたベルン大学は、国からの賛同を得られず州が独自に設立した大学で、多くの外国人教師が招かれ自由な雰囲気が支配していた。ただし実験器具や指導者の不足から、フォークトは化学を続けることはできなかった。その代わり、ブレスラウから来た生理学教授ヴァレンティン(G. Valentin)のもとで解剖学・生理学・動物学を学ぶことにし、39年には医学の博士号を無事取得する。

 博士号取得の少し前、逃亡学生の避難所となっていたフォークト家に、ギーセンからエドゥアルト・デゾール(Eduard Desor)が来ていた。デゾールは以前はパリで翻訳の仕事をしており、地質学や古生物学に関心を持っていた。その折、ルイ・アガシがヌーシャテル大への帰路の途中でベルンに立ち寄り、語学の堪能な助手が必要だとフォークト父に相談する。父はデゾールを推薦すると同時に、博士号を取ったらフォークトも一緒に働けるように取り計らっていた。

ヌーシャテル:アガシとの研究(1839–1844)

研究成果をめぐる軋轢

 こうして1839年からの5年間、フォークトはヌーシャテル大のアガシのもとで研究を行なった。2人の間には、研究成果の出版の仕方をめぐって軋轢があったようだ。リービッヒのもとでフォークトが学んだやりかたは、学生が書いたものは学生の単著として印刷するというものだった。他方でアガシは、学生の研究成果を自分のもののように扱うことをいとわなかった。具体的には、アガシの『魚類化石の研究』(1833-44)において、フォークトの仕事がアガシの名前で出版されており、これがフォークトには不満だった。同様の不満はデゾールにもあり、こちらはのちに訴訟に発展した。

氷河

 ともあれ、摩擦が限界に達するまでには時間があった。フォークトは1840年にはアガシの代弁者として氷河説を擁護する講演を行い、その後フォン・ブーフとの論争を戦った。アガシは自ら氷河説を擁護することでフンボルトら高名な科学者と正面衝突することを避けたかったのだ。またフォークトは、1842年に『山の中、氷河の上』(Im Gebirg und auf den Gletschern)を初めての単著として出版した。これはヌーシャテル大のグループがスイスの氷河を探検した時の記録である。

 こうした探検には大きな費用がかかるためにアガシは常に困窮しており、金銭面での魅力もあって、1846年にアメリカはハーバードに渡ることになった。渡米にあたってアガシはフォークトを同行させなかったが、これは上述の出版の問題に加え、アガシの信仰心が増してきたことで、二人の関係が悪化していたからだとフォークトは述べている。

パリ時代(1844–47)〜ギーセン大着任(1847)

 アガシがすでに渡米を決めていたので、フォークトは1844年にはヌーシャテルを離れてパリに向かった。パリ到着ほどなく、コレラにかかったとされるバクーニンを助けるという一幕があり(実際は消化不良だった)、親交を結ぶ。パリでは科学記者として働き、アカデミーへの出席、講義の聴講(特に、高等鉱業学校でのエリー・ド・ボーモンの講義)、友人たちとの調査旅行などを行なった。この時期に得たAllgemeine Zeitung紙との知遇は『生理学書簡』(Physiologische Briefe, 1847)に、聴講経験は『地質学・岩石学教科書』(Lehrbuch der Geologie und Petrefactenkunde, 1846)に、研究旅行は『大洋と地中海』(Ocean und Mittelmeer, 1848)にそれぞれ結実する。

 パリ時代のフォークトを研究したヘルマン・ミステリは、パリ到着時のフォークトは政治的革新派でも科学的唯物論者でもなく、パリでの経験によって徐々に急進化していったと主張した(Misteli 1938)。以下ではこの時代のフォークトの著作を検討し、最後にミステリの主張を評価しよう。

『地質学・岩石学教科書』(1846)

 本書は基本的にはド・ボーモンの見解を踏襲したものだが、氷河の問題についてはヌーシャテル大の見解を取っている。当時のパリの地質学サークルの大きな関心は激変説の当否にあり、フォークトもこの論争をAllgemeine Zeitung紙への寄稿で伝えるとともに、自身では激変説を擁護していた。フォークトの激変説にはアガシの影響が色濃い〔つまり、急激な気温低下に訴えるものだ〕が、アガシが激変説に与えていた宗教的意味合いはフォークトにはまったく伝わらなかった。『教科書』に曰く、「有機体の漸次的な完全化、すなわち不完全なタイプが次々と破滅してより完全なタイプが現れてくるというのは、人格的な創造主の存在にむしろ反対する最大の証拠のように思われる」。ただし、信仰者に対する態度は後に比べればはるかに寛容で、創造主の仮定を認めたい人は認めれば良いとも述べている。

『生理学書簡』(1845–47)

 本書は45年・46年・47年に書かれた3セットの書簡群から構成される。ヘルマン・ミステリの解釈では、この3年の過程の中でフォークトは徐々に唯物論へ傾倒していったが、47年時点でもまだ唯物論的世界観を完全には受容していない(Misteli 1938)。この解釈は、以下のような論理によっている。唯物論的世界観の完全な受容は、決定論的枠組みの採用を意味するはずだ。しかし決定論的枠組みは、政治的な急進主義を正当化する根拠を掘り崩してしまう(これこそ、マルクスが弁証法的唯物論によって乗り越えようとしたジレンマだった)。フォークトはたしかに一方で、フランスの唯物論の影響を受け唯物論に傾倒していった(『生理学書簡』)。しかし同時に、パリや研究旅行先でバクーニン、ヘルゼン、ヘルヴェークらの影響を受け、政治的左派にも関与していった〔。そしてこの後者の側面が残っている限り、唯物論的世界観の完全な受容には至っていない、というのがミステリの議論である〕。この相反する2側面は、しかし既成の規範に激しく反対するという点で共通している。この革命のレトリックによって、フォークトはあたかも一つの統一的立場を取っているように自らを欺くことができた。

 では書簡の内容に立ち入って、唯物論がどのように現れているかを見てみよう。45年の書簡群では、唯物論的な部分は2箇所しかない。第一の箇所では、有機体は無機物の中にある力を特殊な形で使用するにすぎず、別種の特殊な力を展開するわけではないとしている。第二の箇所ではよりはっきりと、生気を信じている人を非難している。46年の書簡群はより大胆になっており、カバニスの主張を修正した有名な喩えが出てくるのもここだ。曰く、「わずかでも一貫した思考をする自然科学者なら、精神活動という言葉で理解されるすべての能力は、脳という物質の機能に過ぎないという見解に達すると思う。あるいは少し乱暴に言えば、思考と脳の関係は、胆汁と肝臓の関係、尿と腎臓の関係に等しい」。この乱暴な発言は、唯物論の批判者はもちろん、ビューヒナーからも批判された。最後の47年に書簡群では唯物論的主張はさらに多くなっている。

 これらの書簡はあくまで生理学の普及のために書かれたもので、哲学な分析を行うものではなかった。フォークトはむしろ哲学を毛嫌いしていた。フォークトはあくまで自然科学の世界の住人であり、その聴衆は民衆だった。実際、フォークトはこの本(の悪評)によって民衆に知られるようになっていった。

『大洋と地中海』(1848)とギーセン大学就任演説(1847)

 パリ時代、フォークトは2回の研究旅行を行っている。一回目は1845年の8〜9月、バクーニンおよびヘルヴェークと共にブルターニュとノルマンディーの海岸を訪れ、海辺の下等動物の研究を行った。二回目は1846年12月〜47年3月、ヘルヴェークと共に今度は地中海を目的としてニースまで行った。道中ジェノヴァでは民主主義の指導者ジェームズ・ファジ(James Fazy)とも出会っている。帰路、リービッヒからの手紙によりギーセン大に新設された動物学のポストに招かれたため、同年4月には12年ぶりに故郷に戻ることになる。

 2回の研究旅行から生まれた著作が『大洋と地中海』(1848)だ。この著作は特に唯物論的なものではなく、その強調点はむしろ「新しい科学」にあった。生理学はいま転換点にあるとフォークトは考えており、化学と物理学を生理学に合流させることが必要だと説く。そして、そうした改革への情熱を科学界の老害たちが邪魔していると怒りの声を上げる。フォークトは、自身がプロの研究の世界、とくにフランスの科学界の中にうまく入りこめないことに憤っていた。曰く、自然の中では老いたものは当然動けなくなるが、人間について同じことを指摘するとなぜか反対の声が上がるのである。

 こうした、人間にかんする推論のために自然を利用するという手法は、政治的目的のためにはさらに大々的に使われた。フォークトがこうした手法を徐々に発展させていったことは、45年に書かれた『大洋と地中海』一巻と、47年に書かれた二巻を比べればはっきりわかる。第一巻では、共産主義は自然の秩序に基づくとするバクーニンの説がアイロニカルに紹介されていたが、二巻では、自然を支配階級になぞらえ、自らを「科学の自由なプロレタリアン」と称するに至っている。

 1847年春、ギーセン大に着任したフォークトは就任演説を行ったが、そこではよりはっきりと、革命的イデオロギーを正当化するために自然が持ち出されている。すなわちその結論部では、ビュフォン、キュビエ、フォン・ブーフ、ド・ボーモンといった激変説の支持者を引き合いに出しながら、一つの段階から次の段階への移行は革命によって生じるとする。曰く「革命の原理は、無機的自然においても有機的自然においても、あらゆる発展に共通である」。

 同年秋、フォークトは『大洋と地中海』の序文を書いた。その中でフォークトは、自らが唯物論者であると明言し、唯物論は残念ながら生理学の不可避の結果だと述べている。このように、フォークトはパリ時代の終わり、つまり1848年以前の段階で唯物論を確立している。後の科学的唯物論の批判者は、科学的唯物論の運動は1848年以降の反動の時代の産物と評したが、フォークトに関してはこの見方は一面的である。フォークトは唯物論に傾くのと同時に革命的な政治変革にも向かい、かつ、そうした革命は科学によっても支持されうると考えるようになっていった。

 上述したように、ヘルマン・ミステリの解釈では、唯物論と政治的急進主義は互いに矛盾する。したがって、このあとフォークトが最終的に大学に落ち着く1852年までは、フォークトは唯物論を完全には受容していないとミステリは主張している。しかしこうした主張は、唯物論に、そしてフォークトに多くのものを求めすぎている。唯物論は論理的にもっとルーズなものだったし、フォークトは哲学者ではなかった。やはり『生理学書簡』最終巻の時点で、フォークトはすでに唯物論者だったと考えるべきだ。

48年革命とニース滞在(1850–51)

革命と挫折

 政治的に急進的なフォークトはギーセン大当局には不評だったが、学生の人気は高かった。48年革命時には、ギーセンの代表としてフランクフルト国民議会の選挙に出馬し当選、活発に活動した。しかし議会の頓挫を受けてシュトゥットガルトに逃亡、今度は当地のランプ議会のリーダーの一人となったが、これも結局は崩壊した。

ニースへ

 こうして再びドイツを追われ職を失ったフォークトは、一旦ベルンの実家に戻って左派の活動に関与したのち、50年秋には研究のために2度目のニース滞在を行う。この時期に書かれた『動物国家の研究』(Untersuchungen uber die Thierstaaten, 1851)はアナーキズム擁護の著作で、特にドイツの大学システムに厳しい。革命鎮圧後に書かれた本書では、唯物論的な決定論が公然と主張されている。また、ベルンに戻ったときから取り組んでいた、チェンバーズの『創造の自然史の痕跡』(Vestiges of the Natural History of Creation, 1844) の独訳を出版した (1851)。本の内容というよりは、本書が英国で大きな反感と騒動をもたらした点に共感したようだ。さらに科学研究にも戻り、イカの交尾の仕組みを解明している。

 加えて、Gegenwart紙へ生理学に関する長編の記事を寄稿した。この記事では生理学が、物理科学の助けを借りながら、迷信的視点からいかに解放されてきたかが語られている。また、生理学の応用としての栄養学にも注目しており、その議論は、影響関係は不明だが、モレスコットのそれと酷似している。ジャガイモを単体で食べると気力が衰えるので豆を食べろというアドバイスも共通だ。

『動物学書簡』(1851)

 さらに同時期には、唯物論的な一般向け生物学本を2冊公刊している。一冊目は、2巻1359ページからなる大著『動物学書簡』(Zoologische Briefe, 1851)。フォークトは本書で、比較解剖学、比較生理学、自然史、古生物学、動物地理学などの新知識を相互に関連づけることを狙っており、内容の9割以上が様々な動物の純粋な記述にあてられている。ただし、ドイツの大学への批判や、革命が科学に与える影響に触れることも忘れてはいない。すなわちフランス革命がキュヴィエを助けたように、48年革命は新しい動物学を加速させるだろう。

『図解動物誌』(1852)

 翌1852年の『図解動物誌』(Bilder aus dem Thierleben, 1852)は、ニースでの自身の研究・経験に基づいたよりインフォーマルな著作だ。本書は科学の大衆化だけでなく、科学界から教会や国家といった権威への服従を取り除くことをも目的としている。マグロの習性や海洋生物の生殖、海の絶滅動物などの紹介の中に、無からの創造への批判が組み込まれているという具合だ。フォークトは、創造主を信じている科学者の代表例としてゲッティンゲン大学のルドルフ・ヴァーグナー(Rudolph Wagner)の名をことさらに挙げている。実際本書の一部の節は、ワーグナーが以前にAllgemeine Zeitung紙に書いていた記事への応答になっており、これは2人の論争の第一ラウンドを締めくくりつつ今後の展開を暗示するものになっている。

ジュネーヴ大着任と唯物論論争(1852–1858)

 1852年、ジュネーブ大から植物学の教授ポストを打診され、専門外だとして断ったが、大学側の粘りもあって、結局同大の地質学・古生物学の教授に着任した。フォークトはこの先ジュネーヴで一生を過ごすことになる。

 『図解』出版後、ヴァーグナーがAllgemeine Zeitung紙に書く反唯物論的な記事は、その矛先をフォークトに集中させてきた。ヴァーグナーはフォークトの誤りをその政治的見解に求め、フォークト自身の『生理学書簡』やロッツェの『医学的生理学』を参照しながらフォークトの唯物論的意識理解を攻撃し、さらにはこれ以上反論する価値がないと宣言した。フォークトの側もAllgemeine Zeitung紙に反論を送ったが、一部しか紙面に掲載されなかったこともあり、事態は一旦沈静化した。

ヴァーグナーの講演

 しかし1854年秋、ゲッティンゲンで開催されたドイツ科学者・医学者協会の大会で、ヴァーグナーは「人類の起源と霊的実体」と題する公演を行う。ここでヴァーグナーは、全人類が単一の祖先に由来することや、人間の霊魂が不死であることを主張し、一方でこれらの主張は自然科学では証明も反証もできないとしつつも、他方でこれらの主張は自然科学とは整合的だとした。フォークトによると、ヴァーグナーは仮病を使って、フォークトがいない時間と場所を狙って講演を行なったらしい(ヴァーグナー側は否定している)。

 大会直前、フォークトはAllgemeine Zeitung紙への通信の中でヴァーグナーの『神経学研究』(Neurologische Untersuchungen, 1854)の一節を引用し、その箇所は自滅的だと指摘していた。すなわちそこでヴァーグナーは、霊魂が必要なのは道徳的世界秩序の中の話であり、生理学では霊魂を仮定する必要はないと述べていたのだ。こうした「二重帳簿」的なアプローチには、フォークトのようなリベラル派だけでなく保守派からも批判があった。これに対して自説を擁護するためにヴァーグナーはパンフレット『知と信』(Ueber Wissen und Glauben, 1854)をすぐさま公刊した。

『盲信と学問』(1855)

 こうしたヴァーグナーの一連の動きに堪忍袋の尾が切れたフォークトは、1855年1月に『盲信と学問』(Köhlerglaube und Wissenschaft)を出版、第一部の大半でヴァーグナーに対する悪意ある個人攻撃を公然と展開した。人類の単一起源と霊魂不滅にも当然反対したが、自然的手段で知りえないものをことごとく否定したために、意識に関する認識論的難問を完全に無視することになってしまった。

論争の重要性

 フォークトとヴァーグナーとの論争はいくつかの点で非常に重要だった。第一に、フォークトはヴァーグナーという権威ある相手を引き出したことで、大きな注目を集めることができた。第二に、『盲信と学問』はその他の科学的唯物論者の著作と出版時期が重なっており、科学的唯物論勢力による正面攻撃の一環として機能した。第三に、心と身体の関係という古い問題が、もはや無視も独断的回答も許されないかたちで噴出した。

60年代の活動(1859–1869)

マルクスとの論争

 1859年、Allgemeine Zeitung紙は、フォークトがフランスから資金を得て反オーストリア活動を支援しているというロンドンからの情報を報じた。フォークトはこの情報は亡命中のマルクスの党によるものだと指摘、この疑惑をめぐってマルクスと論争になった(本書の第9章200頁以下参照)。

ダーウィンと『人間についての講義』(1863)

 1860年代初頭はフォークトにとって充実した時期だった。61年にはノルウェーを経由して北極圏を訪れることができた。科学方面では、ダーウィンの影響もあって古生物学や人類学に注力し、多くの論文のほか、ヌーシャテルでの公開講義を元にした最後の一般向け著作『人間についての講義』(Vorlesungen über den Menschen, 1863)を著した。この講義でフォークトは、ダーウィンの影響により、種の固定性と激変の重要性に関する見解を完全に変えた。この点で本書は、最初期の親ダーウィン的ドイツ語テキストの一つであり、さらに、ダーウィンのアイデアを人間に応用している点でもごく初期の試みである。

反軍国主義

 政治方面ではプロイセンの軍国主義に徹底的に反対し、大ドイツ主義者からの反感を買った。曰く、「前代未聞の野蛮の時代である」。フォークトはとにかく戦争嫌いで、70年にビスマルクがフランスに勝利した時にもその姿勢を崩さず、アルザスの併合にも反対、フランスは侵略国ではなかったと公言し、ドイツ軍を嘲笑する詩を書くなどして、ドイツ人の激しい怒りを買うことになった。

フィルヒョウ、マイヤーとの衝突

 60年代にも他の科学者との論争はなくならず、ドイツの著名な科学者であったフィルヒョウやマイヤーと小競り合いをすることになる。フィルヒョウとのあいだで問題となったのは、小頭症の扱いだった。フォークトは、胚の発達が途中で妨げられることで、猿と人間の移行的状態に留まったものが小頭症だというアイデアを『人間についての講義』で述べていた。これに対しフィルヒョウは、小頭症はそうした先祖返り的状態ではなくて、むしろ病理的なものだと反論した。この反論およびチュービンゲンの解剖学者ルシュカ(Hubert Luschka)の研究を受けて、フォークトは1872年には自説を撤回した。

 マイヤーとの衝突はやはり科学と宗教を巡るものだった。1869年秋にインスブルックで開催されたドイツ科学者・医学者協会の大会で、マイヤーは脳と心を同一視する見解に反対し、精神は物理学者や解剖学者の研究対象ではないとした。そして、主観的世界と客観的世界の間には神が打ち立てた永遠の調和があるという言葉で講演を締めくくった。大会に参加していたフォークトは後日その様子を新聞記事にまとめ、マイヤーの講演には明晰さと論理性が欠けるなどと厳しく批判した。

晩年(1870–1895)

リベラル・人道主義者として

 1870年ごろから、フォークトは元来のドイツ的なリベラル、人道主義者としての側面をあからさまにしていった。スイスではすでに50年代から政治家として活動を始め、60年代初頭に一時中断していたものの、70年代には再びジュネーヴ州の大会議や全州議会(上院)に参加、70年代後半から80年代にかけては国民議会(下院)にも参加した。無政府主義者として政治的に独自の立場にあったが、ドイツ自由党にもっとも馴染んでいた。

 前述した反軍国主義に加え、晩年にはトライチュケおよび反ユダヤ主義に対しても声高に反対した。人道主義者としては、科学界の視点から社会を批判した。国家的紛争に対する科学の中立性を擁護し、1871年にボローニャで行われた国際会議では各国の調整役を果たした。英国での反生体解剖法の復活に反対し、ロマン主義に傾くドイツの大学生に対して科学教育の重要性を訴えた。また個人的なレベルでは、信仰を持つよう促す手紙も丁重に断っていた。

80年代の活動

 1880年代にもフォークトは旅をし、論文を発表し、翻訳をし、他の人と協力して科学書を書き続けた。82年にはレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエに叙せられた。87年に70歳になってからは小説でドイツ社会を批判するようになり、3つの作品を残した。

 最晩年には再び科学研究に戻った。「私は魚ではじめ、魚で終わるでしょう」。

 1895年5月5日、カール・フォークトはジュネーヴに77歳で没した。多くの科学者と文通した生涯だったが、その中には意外にも家族についての言及がほとんどない。エンゲルスがマルクスに宛てた手紙によれば、労働者の友・貴族の敵だったフォークトも、農民の女中だった妻との階級差を克服できなかった、とされている。玄関先まで困難に取り巻かれた人生であった。

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