- Sidgwick, H. (1880). On historical psychology, Nineteenth Century, 7, pp. 353–360.
以下は、シジウィックの論考「歴史的心理学について」の全訳です。発表年は1880年で、『倫理学の諸方法』第二版(1877)と第三版(1884)に挟まれています。なお「歴史的」(historical)は現代的な言い方では「発生的」くらいの意味で、特定の観念ないし精神自体がどのように発生するかを研究するタイプの心理学が検討対象になっています。シジウィックは、このタイプの心理学は哲学や倫理学にはあまり関係がないと論じています(つまり、この論考はいわゆる発生論的誤謬を扱っていると言えます)。この主張は、私の知る限り、すでに『諸方法』第一版序文(1874)でも簡単に示唆されています。
[353] 精神の起源や原始状態について、あるいは精神の諸観念・能力の「生得性」ないし派生性についての探求は、ロックの有名な論考以降、今日に至るまで、近代西洋哲学の大きな部分を占めている。とくにイングランドでは、ミル、ベイン、スペンサー、ルイス(George Henry Lewes)ら主流派の著述家の影響の元、形而上学と倫理学にとって根本的に重要な結論を得るためには、様々な種類の心的現象が経験的に現れてくる身体的・精神的条件の研究が不可欠だと考えられている。実際、「観念連合」や「能力の進化」についての見解次第で、存在、知識、義務に関する深遠な問題に対する回答が変わってくることは、現在の論争の中では当然のことだと思われている。このよくある想定には実際のところ根拠がないと示すことが、この論文の目的である。ある種の心的現象が生み出される条件の探求が、思弁的にも実践的にも興味深いものであることは間違いない。精神の歴史は、その他の歴史と同等、あるいはそれ以上に研究されなければならないし、教育という技芸や、倫理学の中でも自己陶冶に関わる重要な部分は、精神の歴史の探求に基づかなければならない。しかし精神の歴史の探求は、我々が哲学と呼んでいる高貴で体系的な研究に属するものではなく、むしろ、経験科学の一分野としての心理学に属している。ここで私は、精神の起源に関する知識の中で根本的な哲学的重要性をもつものは何もないとなど言いたいわけではない。たとえば、精神は誕生時ないしそれ以前に〔神によって〕直接的に創造されたとか、永遠の過去から存在し続けていたなどと証明されたり、あるいはそうした永遠の存在や超越論的な起源をもっていたものとは一体何なのかを確定できたとすれば、形而上学や倫理学の探求はまったく新たな出発点を得ることになるだろう。だが、このような成果は、精神全般や何らかの心的要素・属性の起源にかんして科学的に到達可能だと想定できる結論からは出てきそうにない、と私は言いたい。
[354] 心的事実の起源に関する理論について論じることが非常に重要だと考えられてきた哲学的問いを、三つに分けてみるのがよいだろう。第一、現実の全体を構成すると通常考えられている二種類の存在、すなわち精神と物質の本性と相互関係に関する根本的な問い。第二、数学や合理的〔=理論〕物理学において究極的な仮定とされる公理や普遍命題の妥当性に関する論理的ないし「メタ論理的」問い(同様の問いは、少なくとも演繹的段階に達したすべての科学で一定程度生じる)。第三、第二のものと同じように、通常の道徳推論すべてにおいて仮定されている普遍規則や義務原理の妥当性に関する同様の問い。これら三つの問いは、哲学的説明と論争の中で非常に密接に結びついている。明らかに、第二の問いと第三の問いは同じ方法で検討され、答えられるものだろう。また、これらの問いにどう答えるかは、第一の存在論的な問いに対して哲学者がどのような見解をとるか、すなわち「唯物論」か「観念論」か、という点と密接に結びつくとよく考えられている。それどころか、まさにこの結びつきがあるがゆえに、第二の問いが現在もっとも広く関心を持たれていると言ってもよいくらいである。実際、物理科学の以前の段階では、公理の証拠にかんしてアプリオリな見解をとるか「経験的」見解をとるかという問題が、科学的方法の決定にとって実践的な重要性をもった、あるいは、もつと思われていた。物理法則の知識を得るためにどうすべきかという点で、人は本当に対立していたのである。だが現在、このような実践的重要性は、少なくとも教授やマニュアルが存在するような確立した堂々たる科学については消えてしまった。たとえば、運動法則への信念の根拠についての議論が関心を引くかどうかは、その議論によって物質世界の一般的事実を知るに至る精神の構造が解明されると期待できるかどうかに依存する。他方で、エネルギー保存則がアプリオリな基盤によって確立されようと、あるいはそれが経験からの一般化にすぎないとされようと、物理学者は研究と推論をまったく同じように続けるだろうと我々は皆わかっている。実際、観念論と感覚主義ないし経験主義の戦いの具体的な舞台が何であろうとも、結局重要な問題は精神が物質にどの程度依存しているかという点なのだと普通は考えられている。「観念論」という言葉で哲学者が何を意味していようと、常識的にはこの言葉は、人間はその身体以上の何かであるという素朴な確信を体系的にしたものを意味しているのだ。
さて、考えてみよう。精神(全体でもいいし部分でも良い)の起源の探求は、精神と物質の結びつきという問いにどうかかわってくるのか。
精神と物質の結びつきには、一見まったく異なる二種類のものがあることをまず確認しなければならない。(1)生理学によれば、[355] 有機的物質における粒子の運動が、あらゆる心的過程の原因であるか、あるいはその過程の普遍的な付随物である。他方の見解によれば、(2)あらゆる物質は、我々が認識と呼ぶ心的過程の対象であり、そのような対象としての物質を論理的に分析してみると、多数の異なる質があらわれ、それらの質は複雑な仕方で関係しあって、我々が感覚と呼ぶ心的現象になっている。さて、こうした二種類の結びつきは、一部の知覚理論の中では分離しがたいまでに混同されているようにみえるが、両者を区別することはまったく容易である。というのも、どんな知覚作用においても、被知覚者ないし対象となっている物質は通常は知覚者である有機体の外側にあり、またそれはいかなる場合でも、心的〔過程としての〕知覚に直接的に先行ないし随伴する神経物質の運動とは、まったく異なったものだからだ。二種類の結びつきをきちんと区別しておくことは議論の明確さにとって極めて重要である。というのも、唯物論者は精神が物質に依存すると主張するが、この主張は実際のところ、観念論者が行おうとしている物質の精神への分析の影響をうけるものではないからだ。どういうことか。すべての物質、あるいは我々に知られているか知られうるすべての物質が、感情、思考、あるいは何らかの種の精神的要素に分析できると認めたとしよう。それでも、我々の個々の精神と個々の身体がどのように結びついているかという問題全体はもとのまま残り続け、少し異なる言葉で表現する必要が出てくるにすぎない。つまり、私の思考、感情、意志と呼ばれる精神の様相と、私の身体の固定的・流動的粒子運動と呼ばれる非常に複雑な精神の様相とは、どのように関係しているか、と問わなければならないのだろう。後者の現象が前者の現象の不可欠な先行者だとする唯物論的な議論は、新たな言葉遣いに投げ込まれたところで、その実質的な力をまったく失わないのだ。そこで目下我々としては、いかに形而上学的に興味深い問題を提起するものであるとしても、通常の物質概念の観念論的分析にかかわる必要はないと思われる。というのも、(私の知る限り)どんな観念論者も、物理的宇宙全体がその観念論者自身や誰か他の人の個別の精神と分かちがたく結びついているなどと主張したことはないからだ。そして、科学的探求が可能だと考えられてきたのは、このような個別の精神の起源だけなのである。
では、個別の精神と有機的物質の結びつきに話を限るとしよう。ここで根本的な問題はもちろんこうである——個々の精神は個々の有機体の一定の体制から生じており、その体制が崩壊すると精神も終焉するのだろうか。この点こそ、常識的に考えて、形而上学のほぼすべての関心が集中する場所である。この問いに形而上学者が「そうだ」と答えるか、「違う」と答えるか、「まだ証明されていない」と答えるか、これが普通の人にとっての「結局のトコロ」(der langen Rede kurzer Sinn)なのだ。
[356] この問いに対して、精神の起源に関する探求はどの程度光を当てているか。この点を確認するために、肯定的回答および否定的回答を促す主な考慮事由を手短にまとめてみよう。肯定派は次の点を指摘する。(1)身体を持つ精神が変化を経験するとき、それと同時に一定の物質的変化が生じていることは、ほぼ確実である。(2)個別の精神が身体を離れて存在することについて、確立した証拠が存在しない。(3)心的過程の個々の種類や質と、個々の有機的作用や条件との間に、完全ではないが多くの複雑な対応関係が確立されている。次に否定派の言い分。物理現象と心理現象には乖離*1があり、両者の結びつきは一見すると任意である。神経粒子の運動がなぜ感情を生み出さなければならないのかはさっぱりわからない一方で、我々の意識を構成する一連の状態の全体が、物理的先行者・随伴者なしでも継続していくさまは、容易に考えることができる。ここから、物理的なものは意識の真の原因ではありえない、と推論される。この議論の説得力はたいしたものではないが、しかし結びつきの隠秘性(occultness)を考えると多少説得性が増すかもしれない。つまり、心的現象に直接的に先行・随伴する物質の運動について、我々はそれを観察したり決定的に推論するような方法を持ち合わせていないのである。さて、ここまで言及してこなかったが、否定派には倫理的な議論もある。正義を実現するため、徳と幸福の間に求められる結びつきを実現するため、あるいは、存在し続けたいというよくある欲求や期待に基づく曖昧な推論から言って、来たるべき世が存在している必要がある、とする議論である。だがこうした議論には、何らかの価値はあるのかもしれないが、身体的有機体とは独立に個別の意志が存在することを証明する議論という点ではほとんど資するものがない。たしかに、多くの人はこうした考慮事由によって、精神が身体から独立しているという結論を支持するに至っている。しかし、(私見だが)あらゆるキリスト教会の正統的信念は、霊魂不滅は身体の奇跡的復活を通してしか実現しないというものである*2。
さて、精神の起源に関して、科学が認める証拠が支持している見解は、こうした「賛成論」・「反対論」にどの程度影響しうるだろうか。これをきちんと検証するために、我々としては、歴史的心理学者のなかでも最も独断的な手合いが言うだろうすべてのこと、いや、それ以上のことまでも、正しいと認めてやることにしよう。精神の発達の中で、各種の精神現象が現れてくる通常の順番は、おおむね確定できたとする。各種の感覚、各段階の意欲、また粗野から洗練まで様々な段階の情動、これらの歴史的位置は確定されており、また思考における根本的概念や基本的判断の歴史的位置も確定されている。[357] またいずれの精神現象についても、その重要な心理的および物理的先行者はわかっているものとする。以上を認めたとしても、心理的事実と物理的事実の結びつきの実際の緊密さや普遍性に訴える〔肯定的〕議論、身体が精神を変様させる影響力に訴える〔肯定的〕議論、また逆方向の議論、つまり結びつきの任意性、隠秘性、思考上での分離可能性に訴える〔否定的〕議論、これらいずれの説得力も、私の見るところでははっきりとした影響をまったく被らない。しかし、このように辿ってきた精神の変化過程が完全に漸進的で連続的なものであると仮定し、過程を過去に遡って精神が完全に消滅するところまで行くと、「連続性からの論証」とでも呼べる別の議論が浮上してくる。有機的存在の持つ最も高次で明らかに心的な現象が、微小な差異の途切れない連鎖によって、最も低次の現象(普通は「心的」・「精神的」と言葉を使わない現象)に、さらには、無機物質的な現象につながっているとすれば、独立存在としての精神が存在しはじめる瞬間というものはない、と論じられるのだ。動物における進化論と自然淘汰の理論が反唯物論者に与えた警戒感のかなりの部分は、この議論に由来するのだろう。人間が猿から、猿が魚から、といった風に徐々に発展してきたとするならば、精神は物質から独立したものではありえないと考えられてきたのだ。ところで、 この警鐘はいずれにせよ行きすぎだろう。というのも、人はその親の体の一部から徐々に発達してきたのであり、その部分が魚と同じく精神的存在ではなかったことは否定できない事実なのだから、これだけでもう十分な反論(と言うほどでもないが)になっていると思われる。したがって、人という種がこれ〔つまり個体発生〕と同じような変化の過程を経てきたと認めても、失われるものはほとんどないのである。話を戻して、私は、精神の独立存在に関する連続性からの論証全体の妥当性に異議を唱えることができると思う。私の理解する限り、この議論は、新しいものがまったく漸進的に存在するようになったと信じることは難しいという点を根拠にしている。私としても、本当に新しい事実がどのようにはじまるかを理解するのは難しいという点は認める。しかしながら、個人の精神の場合には、現代のあらゆる学派はこの難しさをすでに克服していると思われる。というのも一方で、個別の精神はどれも新しい事実であるということは否定できない(「精神」という言葉で、我々が直接経験する、束の間の意識、志向、感情、意欲の流れ以上のものは意味しないとする)。つまり、精神がそれに先行・随伴するあらゆる物理的事実とは異なるという点は否定できない。また、精神は先在する思考、情動などからなっており、それが新たな関係で再配置されるのだなどと今更言う人もいない。他方で、この新しい事実は、経験的に知られる限り、一定の短い時間内に実際に存在しはじめるということも、同様に認めなければならない。この点が認められるなら、完全に漸進的始まりのほうが突然の始まりより受け入れがたいなどとは思えないのである。その逆に、[358] 私としてはむしろ漸進的に始まるほうが明らかに受け入れやすいと言わざるをえない。事物の始原を想像の中でたどるときに、無限に小さい変化の系列をたどって始原に到達しなければならないとすれば、これを想像するのに一定の難しさがあることは確かだ。だがこれは、単にアキレスと亀に関するゼノンの古いパラドックスを逆向きにして、無限に分割可能な変化からなる有限量の終わりではなく始まりに適用したものにすぎない。そして、この古代のパラドクスに悩まなくても良いと、我々は前々から合意しているはずである。
ここまで、全体としてみた精神(あるいは、一般的にみた心的現象)について語ってきた。だが、精神と身体の関係についての議論では、様々な種類の心的事実を区別することが根本的に重要だと考える人もいる。こうした人々は、「感情」、「感覚」、「感覚知覚」といった種類の事実が有機的物質の運動によって完全に引き起こされると認めるにやぶさかではないが、その他の精神現象の場合には話が違うとする。例外とされるのは、統一性、永続性、意識的自己の同一性、算術や幾何学の公理、といった直接的知識、あるいは抽象概念一般などである。こうした区別については様々な論争がなされ、いまだに多くの人が、感覚は有機的物質過程から引き出せないという主張以上に、「一般観念」や「原始的判断」などは感覚から引き出せないと主張しようとしているようだ。だがこれはまさしく、ブヨに労してらくだを通すというものだ*3。私とて、様々な種類の心的現象のあいだの相違を過小評価するつもりはない。特に、感情と、感情から派生するとされる認識のあいだには大きな相違がある。しかしこの種の違いは、心的事実一般と、生理学がそこに結びつけるよう導く物理的事実との相違には、まったく及ばないと思われる。したがって、物質の粒子の運動が最も基本的な感情の原因として適切であると認めるのであれば、そうした運動が最も洗練され複雑な思考の適切な原因ではありえないとする議論には十分な根拠が見いだせないのである。
様々な種類の認識の起源の違い(とされるもの)に大きな重要性が与えられる特殊事例として、数学および物理学上の公理の妥当性をめぐる前述した論争に由来するものがある。「二本の直線が空間を囲むことはできない」のような普遍的に真である命題が、我々(さらには祖先)の個別の身体が動く個別の空間の経験から導出されることは不可能だと考えられることが多い。実際このことを、公理に関する有名な論争の両サイドが反対の方法で利用してきた。一方では、数学者たちが認める普遍的妥当性を考慮すると、こうした公理が経験的起源を持つことはありえないと主張する者がいる。[359] しかし他方で、公理がどうやって経験から出てくるかを示すことは可能なため、こうした公理は普遍的妥当性をもちえない、と主張する者もいるのだ。公理が妥当なのは我々の空間に関してのみであり、空間一般に関してではない、というわけだ。さて、私自身としては、物質の個別的部分(たとえば私の四肢、筋肉、神経粒子)の運動がどうやって私の精神に「二本の直線が空間を囲むことはできない」という信念を生じさせるのか、自分では説明できないと率直に認めたい。また、仮に因果関係が確立されたとしても、それが信念の真しさを保証するわけではないとも認める。だが、私にとっての困難はもっと手前にある。私はそもそも、何らかの物質粒子の運動が「二直線が実際に空間を囲まない」という信念を生みだすとしなければならないのは何故なのかが説明できないのである。また繰り返しになるが、この認識が〔起源の点で〕特別であることそれ自体が、この認識を真として受け入れる理由になるとは思えないのである。たしかに私は、自分が慣れ親しんでいる空間に関しては、二直線が空間を囲まないといくらでも肯定する用意がある。また、何度肯定しても矛盾は生じないし、他人の似たような肯定とも一致しているため、この肯定への信頼は常に強まっている。しかしながら、空間の普遍的関係に関する信念に関しても、私はまったく同じ無反省的な確信と、まったく同じ種の裏付けを持っている。もし、こうした源泉からくる確信では普遍的空間に関する哲学的懐疑論を十分に防げないとするのならば、親しんだ空間の場合でも事情は同じである。またいずれにせよ私は、有機的物質の運動がどちらか一方の信念をより生み出しやすいというアプリオリな知識を持っていない。まして、どちらの信念を生み出すにしても、その信念を真とするような仕方で生み出せるというアプリオリな知識もない。確かに言えることは、問題の信念の歴史を経験的に探求したところでこのような知識を得ることはできないということだ。
同様に、倫理的推論の前提や、それに関わる認識能力について考えてみても、「良心の権威」がその起源の検討によって何らかの影響を受けるとは思われない。ここで私は次のように仮定している。ほとんど、あるいはすべての人の精神の中には、何らかの倫理的前提(それ自体として見た行為、もしくは何らかのさらなる目的との関係で見た行為の、正しさや不正さに関する究極的な信念)が存在していることは皆が認めるところだ、と。もしこの仮定が否定される場合、心理学的探求はまったく異なる性格を帯びてくる。つまり、起源が探求されるのはそもそも(言葉の普通の意味での)「良心」ではなく、何か他の心的現象だということになる。たとえば、「良心」という言葉で、単に「道徳感情」と呼ぶべきものしか理解していない人がいる。つまり、特定の人間の行為や性格に対して感じる好き嫌いである。これは、人の顔や体つき、服装、風景などに対して感じる好き嫌いと同じようなものだ。我々にこうした道徳的好悪があるというのは否定できないことだ。しかしながら、もしそれが道徳意識の現象のすべてを尽くしているのであれば、[360] 道徳意識の起源と、道徳意識の命令や肯定の妥当性との関係に関しては、いかなる疑問の余地もないことも同じくらい明らかだろう。というのも、そもそも論じるに値する命令や肯定など実際には存在しないことになるからだ。妥当、非妥当というのは、単なる好き嫌いの属性ではまったくないのだ。もちろん、こうした好悪が当人や社会の良さないし福利をどの程度促進するかを理解するためには、好悪の起源を突き止めることも重要である。だがこの場合こうした感情は、福祉ないし福利と呼ばれるさらなる目的のためにとりうる手段だと考えられている。そして、妥当性の見極めが非常に重要になる倫理的前提、宣言、指示というのは、人間や共同体のある種の「存在」様式は「福利」・「善」であるからそれを促進すべきだ、と暗黙に言っている命題なのである。人間存在における「良」(well)ないし「悪」(ill)とは何かというこの究極公理について、我々の見解が正しいかどうかがその源泉の探求によって影響を受けるなどと主張した人は、私の知る限り一人もいない。
また、良心の悩みや満足とは、ある種の行動の結果として他人から来るだろう罰や報酬にかんする予測(その明確さについての意見は様々だが)にすぎないのだと考える人もいる。この場合、良心の権威に関して二つの顕著な問題が出てくるだろう。第一に、苦痛や快楽に関するその予測・予想は、将来の現実を正しく表象しているかどうか。第二に、我々の行為を合理的に決定すべきものが、このような特定の快楽や苦痛の予測であってよいのかどうか。しかしいずれの点についても、良心の歴史を探求したところで決着がつくとは思われない。ある行為に対して、私の共同体が報酬を与えそうか、罰を与えそうかを知るためには、現存する人間のやりかたや習慣を研究するのが当然である。過去の人間の傾向に関する知識も、結論を下すのにある程度役立つことは間違いないだろうが、あくまで二次的、補助的なものである。しかしながら、合理的行為者がこうした苦痛や快楽をどのように評価するか、その他の好ましい・好ましくない感情よりも重視・軽視されるときにどのような原理がはたらいているか、比較の基準は純粋に量的なものか、質も考慮するか、などなどの問いを立てる時、これは明らかに精神や社会の歴史の理論とはまったく関係のない話をしている。また、倫理的議論がより広範囲におよび、目指すのが合理的な対象は快楽や苦痛だけなのか、そうでないとすれば他にどんな対象があるのか、その他の対象の実際の価値を快楽と苦痛の量とどのように比較できるか、などが問われるのであれば、歴史は関係ないことがますます明らかである。このような問題への満足のいく回答をどこに求めればよいか、ここでは検討しないが、歴史的心理学研究の中に見つからないことはまったく確かだと思われる。