- Harold J. Cook (2007). Matters of Exchange: Commerce, Medicine, and Science in the Dutch Golden Age. Yale University Press.
- Preface
- 1. Worldly Goods and the Transformations of Objectivity
- 2. An Information Economy (前半/後半)
- 3. Reformations Tempered: In Pursuit of Natural Facts(前半←いまここ/後半)
- 6. Medicine and Materialism(後半)
【要約】
英語圏では近代科学の勃興の原因をプロテスタンティズムに求めるウェーバー流の説明が多いが、ウェーバーの説には致命的な問題がある。宗教の呪縛から逃れるほうが明らかにより重要だった。以下では当時のナチュラリストが宗教的制約をどう逃れていったかを、クルシウスの生涯を通じて見ていく。
ネーデルラント南部の教養あるカトリック家庭で生まれたクルシウスは、当地の優れた教育システムにより古典教育を受けた。ルーヴェン大学で法学を修めるが、ドイツ留学時にメランヒトンに接近、植物学や医学への関心を抱く。モンペリエで魚類や植物の研究を行った後、ヤコブ・フッカーに伴ってイベリア半島を旅した。
帰郷後のクルシウスは、カトリック強化を図るハプスブルクへの反対運動に関与した。その動機は親カルヴァン派/反カトリック的というより、宗教・政治対立を避けるためだったと思われる(ファミリストだった可能性もある)。このころ、ガルシア・ダ・オルタの『インドの薬草と医薬品に関する対話』のラテン語版を編集・出版し、植物学者としての名声を確立する。ネーデルラントの政治・宗教的混乱の中、メヘレンに逃れたのち、ウィーンに脱出。「隠された質」を重視するマニエリストたちの間にいたが、イベリア半島やハンガリーの植物に関する著作では精確な記述に集中している。
【目次】
第3章 なだめられた改革:自然の事実の探求の中で
われわれのあいだで、このわたしがつねづね見てきたものといえば、天よりも高い考え方と、地面よりも低い生き方との、奇妙な一致なのであった。
(モンテーニュ「経験について」(『エセー』*1))
宗教改革と対抗宗教改革期、神が人間に望むことを知っていると確信していた神学者や哲学者はプロテスタント、カトリック問わずおり、世俗へ関心を強く非難していた。他方、ルネサンスの新たな知を吸収した多くの人々(エラスムス、ラブレー、モンテーニュら)にとって、神学者の確信は知性の傲慢さを証明するものにすぎなかった。こうした人びとは、低地諸国北部の新しい政治体制と、新設のライデン大学とに逃げ場を見出した。
[82-2] ネーデルラント連邦における新科学の勃興の原因を、プロテスタント(特にカルヴァン派)に求める歴史家がいる。[83-1] しかしより重要だったのは明らかに、宗教の知的呪縛から逃れることだった。実際、オランダの歴史家たちは、最も宗教要素を強調する人(Hooykaas)でさえ、新科学の台頭をエラスムス的人文主義と結びつける傾向がある。[83-2] 他方で英語圏では、いわゆるウェーバーのテーゼによって近代科学の勃興が説明されてきた。1930年代にはドロシー・スティムソン(Dorthy Stimsom)がこの種の説明を行い、その後マートンの論文が現れた*2。マートンはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」とマルクス主義を結びつけ、ピューリタンの禁欲主義が物質的利益の追求を促し、そこから近代科学が生まれたとする。[84-1] マートン以後の研究で重要なのは、禁欲主義ではなく終末論に注目したチャールズ・ウェブスター(Chalrels Webster)のもので、ピューリタンによる自然界の功利主義的探求はキリストの再臨に貢献する方法だったと論じられた*3。ただし、多くの歴史家はマートンの唯物論的な側面を忘れたか無視しており、「科学の発展を最も促した宗教的見解とは何か?」を検討している。
[84-2] しかし多くの人が指摘しているように、ウェーバーの仮説には致命的欠陥がある。一例を挙げると、ウェーバーの意味でのカルヴァン主義的倫理観に一致するカルヴァン主義神学の文献は、18世紀頃になるまで出てこない。*4プロテスタントの聖職者が資本主義や科学により好意的だったと考える理由はないのだ。宗教的な人々は、世俗への過度な集中は神についての学びと礼拝からの逸脱だと見ていた。様々な合理主義的教義の支配から逃れることこそが、新たな商業的価値観とともに、オランダ共和国における自然科学の発展を可能にしたのだ。
学術的な人文主義と自然史
クルシウスとネーデルラントの教育事情*5
ナチュラリストが宗教教義の制約からどう逃れたかは、ネーデルラントで最も有名なナチュラリストの一人、シャルル・ド・レクリューズ(Charles de l’Escluse)、ラテン語名カロルス・クルシウス(Carolus Clusius)の生涯を見ればよくわかる。[85-1] クルシウスは1526年にアルトワ(Artois)地方のアラス(Arras)で生まれ、非常に教養ある家庭で育った。宗教、文学、ラテン語の初頭教育を数年間受けた後、14歳で叔父の修道院に附設された評判の高い学校に通った(1540年)。*6
[85-2] 低地諸国には、昔から多くの優れた学校が存在していた。もともと14世紀初頭からエックハルトの神秘主義的著作の影響が強い地域だったが、世紀後半には「デヴォーチオ・モデルナ(新しい敬虔)」運動が起こり、すべての人に謙虚、勤勉、神への絶えざる献身を求めた。こうした神秘主義の流行の現れの一つとして、ネーデルラント地方全体にベギン会とベガルド会が誕生した。前者は女性、後者は男性から構成される世俗共同体で、内面の敬虔さを養うために聖書やその他の神聖な文献が読まれた。これらの運動との関連で、文法学校も設立された。一例をあげると、俗世にとどまりながら共同生活を営む「共同生活兄弟会」は数多くの学校を設立し、その一部は質の高い教育で評判を得た。エラスムスも共同生活兄弟会の教育を受けた一人である。また、地元の小教区、中教区、市当局も学校教育を推進し、比較的貧しい子供でも数年間は小学校に通い、母語で読み書きと歌を学ぶことができた。さらに勉強を望む8歳以上の子供には、ラテン語を教える文法学校があった。
[86-1] 1543年に叔父が亡くなると、クルシウスは古典語教育で名高い、ヘントのホーチャート(エウカリウス)のラテン語学校*7に入学した。
このころまでにネーデルラントの多くの大都市では、複数の文法学校を「大学校」(great school)に統合するなどして、人文主義に伴う新しい言語研究を奨励していた。[86-2] また、低地地方の多くの都市には「修辞学の部屋」(Chambers of rhetoric/rederijkerskamers)と呼ばれる団体があり、様々な職業や背景を持つ男性(時に女性)が古典を学んでいた。この団体はもともとは、中世後期に、市や謝肉祭、受難節の終わりなどに神秘劇*8を演じる同好会だった。16世紀には、古典的な寓話や、特に宗教改革最盛期には新・旧約聖書の物語を主題とした独自の劇や詩を上演、出版するようになっていた(最も有名な詩人に、アントウェルペンの「部屋」に参加していたアンナ・ビンズ(Anna Bijns/Byns)がいる*9)。より公的な役割としては、式典などにラテン語の標語や演説を提供していた。また、修辞学の部屋同士の公開討論会も開催され、提示された問いに対する優れた回答を競い合った。修辞学の部屋が上演した劇には福音主義に共鳴するものもあり、〔カトリックの当局から〕疑いの的になった一方で、カルヴァン派の聖職者からも自由思想の温床として嫌われていた。しかしこの団体は17世紀初頭にもまだ活発で、会員と聴衆にとって教育の重要な源泉になっていた。
[87-1] 三年後、クルシウスはヘブライ語の授業があるルーヴェン大学の三言語カレッジ(Collegium Trilingue)に進学した(1546年)。父の希望で法学を専攻し、48年に学士号を得た。人文主義によるローマ法の復興は低地諸国の法手続きに大きく影響しており、法学生は人文主義の最初期の受益者だった。
ドイツ時代
[87-2] 同年秋、クルシウスは著名なドイツの法学者ヨハネス・オルデンドルプ(Johannes Oldendorp)に師事すべく、友人のヨハネス・エディングス(Johannes Edingus)とともにルター派のマールブルク大学への旅行に出た。しかし、オルデンドルプはシュマルカンデン戦争をうけた条約会議に出席するために不在だっため*10、クルシウスはルター派神学者のアンドレアス・ハイペリウス(Andreas Hyperius)のもとに滞在した。
- [図 p. 88] 初期近代のヨーロッパ〔省略〕
[87-3] 修道院付属学校やカトリック大学で育った若者がルター派大学で学ぶことは、当時はまだ容易だった。ネーデルラント都市部の有力者たちは、平和を乱さないかぎりで様々な宗教的見解に寛容な態度を示していたからだ。だが、この態度は政治当局との対立を招くことにもなった。1540年代にカール5世が異端取締を強化した際にも、反カトリックではないがローマが押し付ける宗教裁判や教義には反対する人びとまで取り締まることには、多くの判事が抵抗した。[89-1][89-2] だが判事たちも、自らの法的優位を損なうことは容認できなかったため、神学上の教義を至上のものとする宗教改革者たちを嫌った。
異端者に対する最初の公開焚刑は1523年夏にブリュッセルで実施される。その後30年あまりで1,300人以上が逮捕され、その多くが処刑された。最も悪名高かったのは再洗礼派で、世俗的な統治体制を打破して聖なる秩序を確立すると公然と主張していた。これと同規模の集団はほぼ存在しなかったが、個人や小規模集団はあった。例えば、低地諸国南部生まれのカルヴァンの宗教的見解は、当初は社会秩序を脅かすほどのものには見えなかった。カルヴァンのミサに関する見解は近隣地域に急速に広まり、1541年以降はジュネーヴで神政政治を主導するにまで至っていた。だが低地諸国では、急進派がカルヴァンの旗印を掲げたのは1560年代以降だったので、〔クルシウスが大学生だった1540年代後半ごろには、当地の〕判事は表面上の礼節が保たれている限り良心の取り締まりはしなかった。
[89-3] こういう事情があったため、クルシウスはハイペリウスの講義に楽しく参加できたようだ。[90-1] また、ハイペリウスと地元の植物相を調べたと後の著作で語られており、これはクルシウスが植物学を学んだことを示す最初の証拠である。1549年夏、クルシウスはエディングスと共に今度はヴィッテンブルクに向かい、メランヒトンのサークルに参加した。メランヒトンは『自然哲学序説』(Initia doctrinae physicae, 1549)を出版したばかりで、実際の調査だけが神の摂理を明らかにするという見解をクルシウスも学んだ。多くの人文主義的自然哲学者同様、メランヒトンも医学と自然史が自然哲学における新たな議論の中心だと認識していた。
[90-2] このように、クルシウスの植物学や博物学への関心は1540年代後半のドイツで生じたと考えられるため、これをルター派との接触によるとする見方もある。ドイツ語圏での植物学への情熱はよくプロテスタントと結びつけられており、確かにオットー・ブルンゲルス(Otho Brunfels)、フックス、ゲスナーらはプロテスタントだった。ルター自身にも、アウグスティヌスの自然神学や自然誌への関心が見られる。「アダムの堕落によって失われたあらゆる被造物についての知識を、いま私たちは得ようとしはじめている」*11。だがこうした発言は独自の神学的見解の表明ではなく、むしろ当時の自然誌への興奮に信仰の枠組みをあてはめただけだろう。同様のことはメランヒトンにも言えるため、クルシウスの植物学への接近を安易に神学的立場に帰するべきではない。

- [図 p. 91] フックス『植物誌』(De historia stirpium, 1542)から、巻末に置かれた挿絵画家の自画像。〔左、ハインリヒ・フュルマウラー(Heinrich Füllmaurer,)。右、アルブレヒト・メイヤー(Albrecht Meyer)〕
フランス時代
[90-3] ヴィッテンブルク滞在後、クルシウスとエディングスはフランスで医学研究を始めると決め、クルシウスは人文主義や自然誌研究で名高いモンペリエ大学の医学部に向かった。モンペリエでは、後に自然誌の大家となるギヨーム・ロンドレ(Guillaume Roundelet)の『海の魚』(Libri de piscibus marinis)の執筆を支援する。ロンドレは地元漁師の協力で標本を集め、生きた魚は水道から水をひいた大型水槽で観察した。クルシウスは情報収集とラテン語翻訳を助けた。[92-1] また、南フランスを旅しながら植物研究も続けた。

- [図 p. 92] ギヨーム・ロンドレ『海の魚』(1554-55年)から、エイ
[92-2] 1554年初頭に『海の魚』の最終校正が印刷業者にわたると、クルシウスは低地諸国に戻った。この帰国は、カール5世とフランス王アンリ2世との戦争がきっかけであった可能性が高い。[93-1] 終戦から数ヵ月後の1560年、クルシウスはパリに向かい再び医学を学んだ。家庭教師や助言者として生活したのち、カトリック都市であるケルンとアウグスブルクを訪れ、フッガー家の息子ヤコブの家庭教師として雇われた。1564年から、クルシウスはヤコブと共に1年以上かけてイベリア半島を旅し、植物の研究をさらに深めた。
宗教戦争と植物学上の成功
反ハプスブルク活動
ネーデルラントに戻ったクルシウスは宗教・政治的緊張の高まりを眼にし、反ハプスブルク勢力に関わるようになる。トレント公会議終了(1563年夏)後、ハプスブルク家はネーデルラントのカトリック教会を強化するために新たな人事や財政政策を行い、大きな反発を引き起こしていた。首席大臣アントワーヌ・ペルノ・ド・グランヴェル(Antoine Perrenot de Granvelle)が [94-1] フェリぺ2世に召還されたが不満は収まらず、66年4月には執政であるパルマ公妃マルハレータに多くの人々が請願を行った。クルシウスは手紙のなかでこれを「我々の問題」とし、請願をラテン語訳してドイツの友人たちに回覧した。同年5月頃、クルシウスはおそらく足を刺されて深手を負い、8月中旬まで寝たきりを余儀なくされる。だがこの頃には聖画像破壊運動が低地諸国を席巻しており、クルシウスは事態が収拾不可能になるのではないかと悲観し、野外集会や再洗礼派の広がりを懸念していた。
[94-2] 20世紀初頭の伝記作家フンガー(F. W. T. Hunger)は、この時期のクルシウスはカルヴァン派のために動いているとし、反カトリック的解釈を出している。*12 だが、おそらくクルシウスは立憲保守主義者であり、ハプスブルク家の政策やトレント公会議の新教義には反対したが、カトリック自体には反対してなかった。さらに、クルシウスは「愛の家族」(Huis des Liefde)のメンバー(ファミリスト)だったのかもしれない。*13
「愛の家族」は聖霊の導きを重視する一派で、キリストの再臨は近いと考えていた。再臨時にはあらゆる信仰の人々が調和して暮らすとされ、それまでの間は政治当局が要求する宗教を告白すればよいと認めていた。多くのファミリストは、宗教対立が商業に悪影響をもたらすと理解していた裕福で教養のある商人や、[95-1] エラスムスの伝統を支持する人々だった。したがって愛の家族は、カトリックのなかで一定の聖霊主義的伝統を守りつつも、不寛容な部分には対抗する運動だったと言える。[95-2] とはいえ、ファミリストは改革派にはより強く反対した。創始者のヘンドリック・ニクラエス(Hendrik Niclaes)は、神の助けがあれば人は自らの救済に貢献できると教えており、これは「信仰のみ」や二重予定説に反していた。1560年代半ばには、著名なファミリストの多くはアントウェルペンにおり、暴動の平和的解決に向けて動いていた。たとえば1566年の請願は、ファミリストであるルイス・ペレス(Luís Pérez)の兄弟の家で完成された(ペレスはマラーノでもあった)。
[95-3] クルシウスがファミリストだったと断言はできないが、その可能性は高い。クルシウスの著作を出版したクリストフ・プランタン(Cristophe Plantin)、協力者であった地図製作者アブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius)、友人であったリプシウスやブリュッセル宮廷のベニート・アリアス・モンターノ(Benito Arias Montano)は、みなファミリストである。クルシウスの属していた、プランタンとモンターノを中心とするグループは、宗教的普遍主義者のギヨーム・ポステルとも密接に交流していた。晩年のクルシウスが普遍主義の探求を支援するオーストリア・ハプスブルク家のもとウィーンで過ごしたことも、ファミリストの計画に沿うものだったのかもしれない。いずれにせよクルシウスが、宗教・政治的対立に巻き込まれないことを好み、細かい教義よりも他のことに関心を持つ大きな集団に属していたことは確かである。
オルタ『対話』とその翻訳
[96-2] この政治対立の時代に、植物学者としてのクルシウスの名声は確立した。1567年、クルシウスは、ガルシア・ダ・オルタ(Garcia da Orta)がポルトガル語で著した『インドの薬草と医薬品に関する対話』(Collóquios dos simples e drogas e cousas mediçinais da India, 1563)をラテン語に翻訳した。
オルタは、スペインからポルトガルに移住した新キリスト教徒の家系に生まれた。スペインで大学に通った後にポルトガルに戻ったが、宗教裁判所の設立により生活が困難になると、1534年にゴアに渡った。そのまま定住し、有力者の個人医師として、また商業から、[97-1] 大きな富を得た。1568年の死までカトリックとして振る舞ったが、死後は家族とともにユダヤ人として異端審問の対象になり、69年には一人の姉妹が焚刑、80年にはオルタの死体が掘り起こされ焚刑に処されている。
[97-2] 1563年出版の『対話』は、オルタと架空人物ルアーノ博士との対話からなるが、「ルアーノ」(Ruano)という名前には言葉遊びが含まれる。オルタはスペイン時代にエリオ・アントニオ・デ・ネブリハ(Elio Antonio de Nebrija or Lebrija)から学んでいた。ネブリハは熱心な人文主義者で、フランスの人文学者ジャン・ド・ラ・リュエル(Jean de la Ruelle)がラテン語訳したディオスコリデスの『薬物誌』(1516年)を入手し、注釈とスペイン語用語集をつけて出版した(1518年)。オルタはその校訂に携わっており、「ルアーノ」(スペイン語で「通りの」)は「リュエル」(フランス語で「狭い通りの」)にかけている。
[97-3] 対話はルアーノの問いかけにオルタが答える形で進む。ルアーノが古典やイスラム文献を引用するのに対し、オルタは新しい自然誌研究者の役割を担っており、事物それ自体の知識に基づいて回答する。例としてカルダモンに関する章を見てみよう。ルアーノは「現在のヨーロッパでの大小のカルダモンの使用法は、ガレノス、プリニウス、ディオスコリデスの教えに一致していない、なぜか」と問う。これに対してオルタは [98-1] まずアラビア語文献に言及し、インドにおけるカルダモンの名称をあげた後、古代ギリシャ人もラテン人も〔本物の〕カルダモンを知らなかったと説明する。また、中世の翻訳者クレモナのジェラルドのせいで混乱がさらに進んだとする。そして「ひとつ見ていただこう」と、「少年」に庭園から黒いカルダモンをもってこさせる。このように、オルタが証拠を示すことで各権威を認めたり反証したりする形で議論は進む。
ここからわかるように、オルタは文献も大いに活用した。オルタはアラビア語文献のラテン語訳を多く知っており、自身でアラビア語を学ぶ機会もあった。またオルタは自分で見たことを書くことを好んだが、それが不可能な場合には、学識あるヒンドゥー教徒やイスラム教徒など、信頼できると思われる人々との対話から得た情報にも頼った。こうしてオルタは、直接経験を利用して他の「専門家」と対決していった。
[98-2] 『対話』はゴアで印刷されたためヨーロッパでは入手困難だったが、クルシウスはヤコブ・フッガーとポルトガルを旅するあいだにこれを入手しており、1565年から66年に翻訳と編集を始めた。注釈では、クルシウス自身の観察の付加や、関連文献すべての引用など、優れた人文主義的技量を発揮し、[99-1] 1567年4月に出版されるとクルシウスの名声は確立した。すぐに他言語にも翻訳され、原著にアクセスできなかった人びと(クリストヴァン・ダ・コスタ(Christovão da Costa)など)にも利用可能になった。後にクルシウスは、『対話』に加えてダ・コスタやニコラス・モナルデス(Nicholá Monardes)の著作をまとめ、『異国生物十書』(Exoticorum libri decem, 1605)を出版している。*14
- [図 p. 100] オルタ『対話』見返しへのクルシウスの書き込み(省略)
メヘレン時代
[99-2] クルシウス版の『対話』が印刷された頃、フェリペ2世はネーデルラントの反乱を武力で鎮圧しようと、総督としてアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドと精鋭部隊を送り込んだ。抵抗する町全体の虐殺を伴う残忍な活動のなか、クルシウスは宮廷の友人ジャン・ド・ブランシオン(Jean de Brancion)に庇護を求め、その邸宅と庭園があったメヘレン(Mechelen/Malines)に逃れた。[99-3] この時期の低地諸国の庭園はエキゾチックな植物に熱をあげていたため、メヘレン時代はクルシウスには幸運なものだった。
アントウェルペンでは、1548年頃には、薬屋のピーテル・ファン・コーデンベルヘ(Pieter van Coudenberghe)の庭園が数百種類の植物を栽培していると評判になっていた。1558年には400種、1568年には600種の外来種が栽培されていたと報告されている。 1561年にフェリペ2世がアランフェス王宮の花壇などを建設する際には、フランドル人庭師と低地諸国の植物が送り込まれており、[100][101-1] イングランドも庭園や新しい農作物の情報の多くを低地諸国から得ていた。
当時メヘレン市の公医は『草木誌』(Cruydebook, 1554)の著者レムベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens)で、このことはクルシウスの自然誌への関心を高めたかもしれない。*15 さらに、おそらくクルシウスはメヘレンで初めてチューリップと出会った。60年代初頭、アントウェルペンに入ってきたチューリップの球根はほとんどが玉ねぎと誤認されて食べられたが、畑に植えられた一部をメヘレンの商人ヨリス・レイ(Jorie Reye)が救い出したーーという話をクルシウス自身が語っており、本人ないしフラシオンがレイの球根を持っていた可能性が高い。
[101-2] アルバ公により反乱は表面上は収まった。しかし水面下では、貴族、兵士、船乗り、そしてオラニエ公ウィレムに率いられ自ら「乞食」と名乗る暴徒らからなる一団が、イングランドの港を含む北海沿岸においやられ恨みを蓄積していた。
1571年、クルシウスは二度目の渡英を行うと(一度目は家庭教師として1561年)、多くの薬師や植物学者と出会い、外来種であるサツマイモを入手している。しかし帰国のさい、大量の金・銀貨を秘密裏に持ち込もうとして逮捕され、没収と罰金で釈放された。クルシウスはこの時も政治活動をしていたのかもしれない。[101-3] 帰国時のネーデルラントでは新たな税が導入され、多くの事業が閉鎖に追い込まれており、またすぐ大規模な暴動が生じた。
1572年、イングランド港から追放された「乞食」の武装船団はゼーラント州を占領し、[102-1] そこからオラニエ公の支持者たちは北西部州ゼーラントとホラントを奪還し始めた。メヘレンはマース川以南で最初にオラニエ公側に寝返った都市だったため、同年10月にアルバ公がメヘレンに現れると、町の略奪と虐殺を許可した。
ウィーン時代
この混乱を生き延びたクルシウスは、1573年の父親の死をきっかけに、外交官ブスベック*16を通じてウィーン宮廷と連絡を取り、11月にはウィーンに到着した。[102-2] クルシウスは皇帝マクシミリアン2世の薬草園と植物園の設立を任され、低地オーストリアとハンガリーを旅し、画家を雇ったり、オスマン帝国からチューリップを入手することもできた。79年にイギリス、80年と81年に低地諸国へ旅をした他は、長くウィーンに留まった。
[102-3] ウィーンでクルシウスは、マニエリストの学者、芸術家にかこまれて過ごした。マニエリストたちは、隠れた力の記号となる、物質の細部を重視していた。
マニエリスムを示す典型例はおそらく寓意画集(エムブレムブック)で、暗示的な文章を伴う図像によって、隠された対応関係を洞察力ある人物に明かしていた。ここでは、事物とその表現が言葉よりも優先される。このことの一例として、マニエリストの画家ヨリス・ホフナーゲル(Joris Hoefnagel)は、ゲオルグ・ボクスカイ(Georg Bocskay)が制作したカリグラフィー集(1561–62)に対して、[103-1] 様々な自然物のイラストを付け加えた。当時の自然誌には「エンブレム的要素」*17があり、「事物を精神の領域まで高める」*18ものだった。クルシウスの英語圏の知人の多くも似た考えを持っていた(フィリップ・シドニー(Philip Siidney)、ウォルター・ローリー卿(SIr Walter Raleigh)、ジョン・ディーなど)。

- [図 p. 103] ボクスカイの『驚異のカリグラフィー集』(Mira calligraphiae monumenta, 1591–1562)に対するホフナーゲルの加筆(1591–1596)から、「イトトンボ、フランスローズ、ヨーロッパ栗、クモ」。
ただし少なくとも公の場では、クルシウスは事物の正確な記述を重視した。イベリア半島(1576年)とハンガリー(1583年)の植物についての書籍を出版したが、これは植物各部位の正確な報告を与える一方で、共感その他の原因どころか熱冷乾湿への言及もない。*19
*1:要約者注:『エセー』第三巻、十三(宮下志朗訳、『エセー 7』(白水社)、三三九頁)。
*2:Science, Technology and Society in 17th-Century England, 1938.
*3:Great Instauration, Duckworth, 1975.
*4:van Stuijvenberg, J.H. (1975). ‘The’ Weber thesis: an attempt at interpretation. In: Acta Historiae Neerlandicae, 8. Springer, Dordrecht. https://doi.org/10.1007/978-94-011-5951-7_3
*5:要約者注:以下、節内の小見出しは要約者による
*6:要約者注:本章は、クルシウスの生涯と関連情報を交互に語る構成になっている。後者の部分にはインデントを付けた。
*7:要約者注:Eligius Houcarius/Euchariusはヘントの司祭で、同学校の校長を務めた。自らラテン語詩をものす人文主義者としても知られ、以下に登場するアンナ・ビンズのオランダ語詩をラテン語に翻訳して出版している(Apologia rythmica Annae Bynsiae, 1529)。https://www.dbnl.org/tekst/aa__001biog10_01/aa__001biog10_01_0829.php.
*8:要約者注:キリストの降誕、受難、復活を題材にした演劇のこと。
*9:要約者注:アンナは女性だったために正式なメンバーではなかった。
*10:要約者注:原文「absent at Augsburg」はMarburgの誤記と思われる。また、オルデンドルプの君主はヘッセン方伯フィリップ1世、通称「フィリップ寛大公」(Philipp der Großmütige)だが、原文は「フィリップ豪胆公」(Philip the Bold)としており、これはブルゴーニュ公フィリップ2世(1342–1404)の通称なので、誤記と思われる。
*11:要約者注:WA, Tr Nr 1160。もう少し長い引用:「私たちはすでに未来の命の夜明けにいる。なぜなら、アダムの堕落によって失われたあらゆる被造物についての知識を、いま私たちは得ようとしはじめているからだ。教皇制のもとにあった時よりも、今の私たちは被造世界についてより深く洞察している。エラスムスは、胎児が母の胎でどのように形成されるかに関心を持たず、結婚の尊厳も知らない。だが私たちは、神の恵みによって、小さな花の観察からでさえ、神の偉大な御業、神がいかに全能で善であるかを、知りはじめている」。
*12:Charles de L’Escluse: Carolus Clusius, Nederlandsche kruidkundige, 1526–1609 (2 vols), Hague Martinus Nijhoff, 1927–1942.
*13:Mout, N. (1981). The Family of Love (Huis der Liefde) and the Dutch Revolt. In: Duke, A.C., Tamse, C.A. (eds) Britain and The Netherlands. Springer, Dordrecht. https://doi.org/10.1007/978-94-009-7695-5_4
*14:要約者注:ダ・コスタの著作は『東インドの薬品について』(Tractado de las drogas y medicinas de las Indias orientales, 1587)。モナルデスの著作は『我らが西インドの薬物誌』(Historia medicinal de las cosas que se traen de nuestras Indias Occidentales, 1565–1569)。いずれもスペイン語著作で、クルシウスは一部をラテン語に翻訳して『異国生物十書』にまとめた。
*15:要約者注:何故か触れられていないが、クルシウスの最初の著作はドドエンスの『草木誌』のフランス語訳である(Histoire des Plantes, 1557)。
*16:要約者注:オジェール・ギゼリン・ド・ブスベック(Ogier Ghiselin de Busbecq)。フランドル出身でオスマン帝国に長期間滞在。ヨーロッパで初めてチューリップに注目した一人(本書p. 73参照)。
*17:Ashworth, W. B. Jr. (1990). Natural history and the emblematic world view, In D. C. Lindberg and R. S. Westman (ed.), Reappraisals of the Scientific Revolution, Cambridge University Press, pp. 303-32.
*18:Goldthwaite, R. A. (1993). Wealth and the Demand for Art in Italy. Johns Hopkins University Press.
*19:要約者注:『ヒスパニア希少植物誌』(Rariorum aliquot stirpium per Hispanias observatarum historia, 1576); 『パンノニア希少植物誌』(Rariorum stirpium per Pannonias observatorum Historiae, 1583)