えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ヒュームの人種差別 Immerwahr (1992)

https://www.jstor.org/stable/2709889?seq=1

  • John Immerwahr (1992). Hume's Revised Racism. Journal of the History of Ideas, 53 (3): 481-486.

 デイヴィッド・ヒュームは、一般には偏見や不寛容と戦った哲学者として知られているが、人種差別の擁護者でもあった。

 ヒュームの人種差別は、エッセイ「国民性について」(On National Characters)に1753年に付け加えられた次の注により知られている。

わたしは、黒人と一般に他の人間種のすべて(4つか5つの異なる種が存在している)が生まれながらに白人より劣っていると思っている。白人以外に、どんな他の肌の色を持つ文明化された民族もまったく存在しなかったし、行動であれ思弁であれ、卓越した個人でさえもまったく存在しなかった。かれらのあいだには、どんな独創的な製品も、どんな芸術も、どんな科学も、決して存在しなかった。他方で、古代のゲルマン人や現在のタタール人のような、白人のうちでもっとも残酷で野蛮な人々でさえ、依然として、勇猛さ、統治形態、あるいは他の特別な何かにおいて、かれら[黒人と一般に他の人間種のすべて(4つか5つの異なる種が存在している)]よりも優れた何かをもっている。このような画一的で不変な相違は、もし自然が、これらの人間の種のあいだに始元的な区別をもうけなかったならば、これほど多くの国々と時代に生じることはできないであろう。われわれの植民地は言うに及ばず、ヨーロッパ中に黒人奴隷が散らばっているが、かれらの誰も、これまでどんな天才の兆候も全く発見されることはなかったのにたいして、かの無教育の下流の人々[白人のうちの]は、われわれのあいだで活動・働きを始めて、あらゆる職業で頭角を現すであろう。ジャマイカでは、確かに教養あるひとりの黒人について語られるが、しかし、これは、二、三語の言葉をはっきりとしゃべるオウムと同じように、かれがひじょうにわずかの業績を上げたとして賞賛されているのであろう。*1

 ここで、一行目の「他の人間種のすべて(4つか5つの異なる種が存在している)」という表現に注目しよう。当時、人種差別を説明・正当化する考えかたにはおおきく2種類のものがあった。一つは「退化説」と呼べるもので、白人も非白人も同じ人間であるが、環境、教育、神的な力などによって、非白人は退化(degenerate)しているとする理論だ。もう一つは「多元的創造説」(Polygenesis)として知られる理論で、白人と非白人はそもそも同じ人間ではなく、別々の種として創造されたというものだ。「退化説」では非白人の劣等性を治す可能性がありうるのに対し、「多元的創造説」によれば非白人の劣等性は恒久的で回復不可能だとされる。このため、奴隷肯定論者には「多元的創造説」が特に人気であった。ヒュームが直接「多元的創造説」を展開したことはなかったが、「他の人間種のすべて」という言いかたから考えるに、ヒュームは「多元的創造説」を「暗黙のうちに認めて」いたと、リチャード・ポプキン(Richard Popkin)はかつて指摘した(Popkin 1980)。

 ヒュームは名声と影響力の大きい人物だったため、この注は多くの人種差別主義者・奴隷制肯定論者によって肯定的に引用された。同時に、多くの反人種差別主義者の批判の的にもなってきた。

 上記の1753年の注をヒュームはのちに改定している(1777年の死後出版)。ところがこの改定は19世紀のヒューム著作集の編者(Thomas Hill Green & Thomas Hodge Grose)に見落とされてしまい、この見落としが発見され訂正されたのは最近のことだ(Eugene F. Miller, 1985)。このため、今日の研究者のほとんどは古い版を参照しているのである。では、ヒュームは最終的にどのように注を変えたのだろうか。最初の2文が、次のように改定されている〔削除箇所に打ち消し線、追記箇所に下線を引いた〕。

わたしは、黒人 と一般に他の人間種のすべて(4つか5つの異なる種が存在している) が生まれながらに白人より劣っていると思っている。白人以外に、どんな他の その肌の色を持つ文明化された民族 もまったく はほとんど存在しなかったし、行動であれ思弁であれ、卓越した個人でさえ もまったく ほとんど存在しなかった。

 この改定からは3つのことが言える。まず、ヒュームは「多元的創造説」的な言葉遣いをやめている。また第二に、卓越した文明や個人が「まったく」存在しないとう主張から、「ほとんど」存在しないという主張へと、主張を弱めている。第三に、劣等性を主張する対象を、非白人全体から黒人のみに絞っている。

 この改定を踏まえると、既存の理解とは異なるヒューム像が見えてくる。上で見たように、ポプキンはヒュームが「多元的創造説」を暗黙のうちに認めていたと指摘した。しかし改定版では「多元的創造説」的な言葉遣いがなくなっており、ヒュームは多元的創造説にそう深くは肩入れしていなかったか、あるいは全く肩入れしていなかったことがわかる。

 さらに、範囲を絞ったにせよ、改定を経ても人種差別的見解がなお存続している点も重要である。初期のポプキンは、ヒューム自身はこの注を深く考えずに(casual)書いてしまったのであり、後の人が人種差別の拠り所として祭り上げたのだという風に解釈していた(Popkin 1980)。しかし、改訂版でも人種差別的見解が残っていることを考えると、ヒュームはよく考えた上で真剣に人種差別に肩入れしていたことがわかる。

 実際、近年の研究によって、「深く考えていなかった」という解釈は無理筋であることがわかってきている。たとえば、ヒュームの近辺には十分な教育を受けた才能ある黒人が相当数いたことがわかっている(Gates 1987)。つまり、ヒュームの主張に反する証拠は自身のまわりに豊富にあったのだ。こうした都合の悪い事実を認めず自説に固執している点で、ヒュームは「お粗末な経験科学者」であり、「自分の主張と反対の事実を認識しないようにしている」「不誠実な研究者」である(Popkin 1992)。

 ところで、なぜヒュームはこのような改定を行ったのだろうか。それは、ジェームズ・ビーティ(James Beattie)による批判に応じたのだと考えられる*2。ビーティは、『真理の本性と不易についての試論』(An Essay on the Nature and Immutability of Truth in opposition to Sophystry and Sceptisism)(1777)のなかで、卓越した非白人の文明や個人は「まったく」存在しないというヒュームの主張に対して、インカ帝国やアステカ帝国、またアフリカやアメリカの先住民の芸術を引き合いに出して反論した。ヒュームがこの本に気づいており、改定の際に反論を企図していたことは書簡からうかがえる。ビーティの反論が引き合いに出す例はほとんどがアメリカ大陸の先住民のもので、黒人の例は少なかった。そこでヒュームは、自身の人種差別的主張のターゲットを黒人にのみ絞ることで、ビーティの批判をかわそうとしたのだと思われる。ただし、これはヒュームにとっては大きな譲歩ではなかった。すでに1753年版の時点から、ヒュームの標的が黒人であることは明らかであり、改定は黒人に対する攻撃をさらに先鋭化するものであった。

引用文献
  • Popkin, R. 1980. Hume's Racism. In Richard A, Watson and James E. Force (eds.), The High Road to Pyrrhonism (San Diego).
  • Popkin, R. 1992. Hume's Racism Reconsidered. In his The Third Force in Seventeenth-century Thought (Leiden).
  • Gates, H. L. Jr. 1987. Figures in Black: Words, Signs, and the "Racial Self"(Oxford).
参考
  • Garrett, A. 2000. Hume's Revised Racism Revisited. Hume Studies, 26 (1): 171-177.
  • 高田紘二 (1992a). ヒュームと人種主義思想. 『奈良県立大学研究季報』, 12 (3-4): 89-94.(https://ci.nii.ac.jp/naid/110000587550
  • 高田紘二 (1992b). ヒュームと人種主義思想(2). 『奈良県立大学研究季報』, 13 (2): 9-13.(https://ci.nii.ac.jp/naid/110000040404

*1:邦訳は高田 (1992a) による

*2:ただし、著者が以下で参照する書簡の扱いには問題があり、注の改定にビーティが与えた影響はないという異論もある(Garrett 2000)