えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ハットンとドリュックの地球の理論 Rudwick (2014)

【目次】

第3章 大きな絵を描く

循環する世界-機械?

[68] 数年後、まったく異なるタイプの地球の理論が現れた。提唱者はジェームズ・ハットン(Jamas Hutton, 1726–1797)。ヒュームやスミスらと共にエディンバラの啓蒙主義サークルに属した人物で、その『地球の理論』(Theory of the Earth, 1788/1795)もより大きな知的プロジェクトの一環だった。

 地球の形成について考察するさい、ハットンはビュフォンと同じ2つの原理を採用している。第一に、膨大な時間を想定すること。第二に、現在でも身近で見られるゆっくりとした自然のプロセスの観点から説明を行うべきだということ。これらの原理は18世紀後半にはよく知られており、ハットンが初めて独創的な適用を行わったわけではない。[69-1] したがって、ハットンを地質学の唯一重要な「父」と考える昨今の風潮は誤っている。

[69-2] ハットンはライデン大学で血液循環を研究して医学博士号を取り、スコットランドに戻って現代で言う水循環について論じた。これを踏まえると、地球それ自体を定常的な循環システムだと考えたのも驚きではない。[69-3] 人間は動植物に依存し、動植物は土壌に依存する。土壌は岩盤から生じ、川から海へと流されていく。すると、長い目で見れば陸地はなくなるはずだ。しかし、新しく陸地を形成するプロセスがあるかもしれない。海に流れた土壌は海底に堆積し、固まって岩石となり、それがゆっくりと押し上げられて新たな陸地を形成する。こうした「修繕」(renovating)の過程は、地球深部の熱の膨張力によるとハットンは考えた。[69-4] このダイナミックではあるが定常的な「居住可能な地球システム」(system of the habitable Earth)の究極目的は、地球を人間が居住可能な場所として永遠に保つことである。[70-1]このように、この理論は自然神学に基づいている。

[70-2] ハットンはこの定常説を発表(1785)した後に、自説の当否を確かめるべくスコットランドの大規模なフィールドワークを始めた。その結果、通常地層の最下部に見られる花崗岩は、実際のところ最も古いものではないと発見した。というのも花崗岩は、最初は熱い流体だったのが、岩盤の裂け目に入って冷却されて結晶性の固体になったようだからだ。このことは、地殻の下に超高温の流体が存在し、それが地殻の隆起を引き起こして新しい陸地を形成することの証拠だとハットンは考えた。ハットンは地球を「機械」と呼んだが、これは熱の膨張力を無限に反復するサイクルの一局面としている蒸気機関になぞらえたものだ。

[70-3] さらにハットンは、一つのサイクルで形成された岩石群と別のサイクルで形成された岩石群との接触面に注目した。海底で水平に堆積したある地層が隆起して陸地になり、それが雨や川に侵食されて海面下に下がっていくとする。そしてその上に第二の地層が堆積し、[71-1] また隆起して新たな陸地になるとする。このことは、2つの「居住可能な世界」が継起したことの証拠だとみなせる、とハットンは考えたのだ。ハットンの好んだ類比で言えば、地球のシステムは、太陽系の惑星と同様に反復的である。〔人間が居住可能な世界が複数継起するという点について〕、化石が否定的な証拠になるとハットンは考えなかった。有史以前に人間がいた化石記録は確かに存在しないが、動植物の化石がその記録の代用となると考えたからだ。[72-2]上述の究極目的を考えると、動植物だけが存在する「世界」は意味をなさなかったのだろう。


図3-5:2つの地層の湾曲接合(現在の用語では「不整合」)の図(スコットランド、ジェドバラ(Jedburgh)の渓谷)。下の地層はもともと水平に堆積したが、隆起して垂直になった。それが侵食を受け、その上に第二の若い地層が堆積し、また隆起して現在の陸地になった。その上には動物、植物、人間が住んでいる。2つの岩石群は、居住可能な「世界」が2つ継起したことを示す。

[72-1] したがって、地球の過去および未来の姿が、現在のそれと大きく異なると考える理由はない。つねにどこかに、人間の居住のための乾いた陸地が存在している。人間を支えるために賢くもデザインされた「システム」としての定常的地球は、ビュフォンの発展的地球より非歴史的である。

図3-6*1:『地球の理論』(1795)の最終パラグラフ。有名な最後の一文では、地球というシステムには始まりを示すサインも終わりを示すサインもないとされる。諸世界の継起(succession)は、惑星の継続的(succesive)な軌道と類比される。「知恵」、「意図」、「システム」などの表現は、ハットンの理神論的な神学の表れである。

[72-2] ハットンの理論はヨーロッパ中の学者に注目された。エラズマス・ダーウィンは、ハットンによれば「地球はこれまでも、これからも永遠である」と肯定的に述べている。[73-1] 他方で、地球の永遠性は嘲笑されもし、また柔らかい堆積物は硬い岩石に変化するはずだといった科学的主張にも批判があった。

[73-2] ハットンのシステムは決して無視されたわけではなかった。ただ、18世紀の終わりごろまでに、ハットンの理論はビュフォンの理論同様あまりにも思弁的にすぎると思われるようになり、「地球の理論」というジャンル一般がもはや役に立たないとみなされるようになっていった。ハットンの死後、新しい世紀の科学的趣味に合うようラッピングし直されなかったら、ハットンの理論も忘れ去られていたかもしれない。

古代世界と現代世界?

「地球の理論」というジャンルの変容と終焉を予感させるような著作を物した人物が、ハットンの最も鋭い批判者の中にいた。それが、ジャン-アンドレ・ドリュック(Jean-Andé Deluc/de Luc, 1727–1817)だ。ジュネーヴの市民で、30代でイギリスに渡ると、王立協会に入会、またジョージ3世の妻シャーロット王妃の助言者にも任命され、その後は西ヨーロッパを広く旅した。自らを啓蒙的哲学者だとみなしていたが、理神論者でも無神論者でもなく、「クリスチャンの哲学者」を自称していた。[74-1] ドリュックは聖書を歴史であると真剣に考えており、創造物語や大洪水が歴史として真実であることを示そうと心を砕いた(このために、今日では不当に否定的に評価されている)。

[74-2] ドリュックの最初の著作『地球と人間の歴史に関する書簡』(Lettres sur l’Histoire de la Terre et de l’Homme, 1778–79)全6巻は、ビュフォンともハットンとも異なる地球解釈を示している。その序文は、宇宙(universe)に関する理論を「宇宙論」(cosmology)と呼ぶように、地球(Earth)に関する理論を「地球論」(geology)と呼ぶことを暫定的に提案しており、この語は意味の変化を蒙りつつ結局〔「地質学」として〕定着した。後年、ドリュックは本書のアイデアをさらに練り上げてヨーロッパ中の科学雑誌で発表して知名度を高めた。また、ハットンよりはるかに大規模なフィールドワークを西ヨーロッパで行い、最近の地球史上で実際に起った重大な出来事の自然的証拠だと考えるものを記述して、それをノアの洪水と同定した。

[74-3] ドリュックはビュフォンやハットンと同じく、侵食や堆積といった現在でも働いているプロセスを研究し、それを「現在因」(present causes/causes actuelles)と呼んだ。だがビュフォンとは異なり、ドリュックはそれをフィールド上で研究しており、またハットンとは異なり、現在因は現在観察できるところで常に働いていたわけではないと主張した。フィールドでの調査によれば、現在因が現在の大陸に働き始めたのは比較的最近の一定の(finite)時点からだとドリュックは言う。

たとえば、大きな川の河口部には、上流で侵食されたものが堆積してデルタが形成される。そしてデルタの形成速度は、歴史的記録から推定できる。これは砂時計のようなもので、[75-1] ある時点で砂時計にたまっている砂の量は、ひっくり返されてから経過した時間の一定の長さを示しているのだ。デルタの大きさは一定なのだから、その形成も過去の一定の時点から始まったはずだ。こうした特徴のことをドリュックは「自然のクロノメーター」と呼んだ。このクロノメーターは、ジョン・ハリソンのクロノメーターと違ってまったく精確ではないが、とにかくこの類比によってドリュックは、現在の世界の開始時点は数千年以上前には遡れないと論じることができた。

[75-2] この概算値だけでも、ハットンの永遠性の主張を論駁するには十分だとドリュックは考えていた。またこの数千という桁は、洪水の日付にかんする年代学的計算とも合致していた。したがって、現在の世界は聖書記録と同定しうるような重大な自然的出来事によって始まったという主張が支持されるのである。ただし、ドリュックは聖書直解主義者ではなく、実際に起った出来事は陸と海の突如の反転だったと推測した。これは聖書の描くイメージとはかけ離れているが、現在の陸地に人間の化石が見られないことを説明できる。逆に、現在見られる海洋生物の化石は「以前の世界」の痕跡だと説明できる。[75-3] このようにドリュックは、唯一の大規模な自然的「革命」により、2つの対照的な「世界」が分けられる、という形で地球全史を再構成した。

ドリュックの目的はあくまで歴史であり、洪水物語にかすかに記録されている自然の出来事の歴史的実在性を確立することだった。そのため、この出来事の原因が何なのかは別問題とされており、わずかに地殻崩壊の可能性を示唆しているにすぎない。[76-1] また「以前の世界」のほうのタイムスケールは曖昧なままにしており、それが人間の基準からは途方もなく長いと強調している。つまりドリュックは「若い地球」論者ではなかった。同様に洪水物語の分析も文字通りではなく、同時代の聖書学の知見を取り入れている。このことは、洪水の宗教的意味を明確化するのに役立つとドリュックは考えていた。

[76-2] 後の著作でドリュックは、様々な岩石からなる大規模な地層(次章で扱う)に関する学者の意見を吸収し、それまで曖昧だった「以前の世界」とは、洪水以前の地球史に生じた一連の諸段階のことだと考えるようになった。洪水以前史は創造の(極めて長いものと解釈された)「日」という観点から解釈されたが、ビュフォンの「諸時期」とは異なり、各々の段階は創世記の描写と合致していない。洪水物語の場合と同様、重要なのは聖書の物語が単に保存されることではなくて、自然世界からの新たな情報によって、その意味が深められることだった。またビュフォンとは異なり、ドリュックの考える出来事の系列にはプログラムされた必然性はない。またハットンとも異なり、自然界の知的なデザインや永遠性もない。ドリュックの地球史は、その頂点である「現在世界」の人類史同様、偶然的なのだ。

[76-3] このように、ドリュックの理論は先行する地球の理論とは決定的に異なっている。地球の未来は原理的には予測可能であるという非歴史的な仮定を退けているのだ。その理論はラディカルに偶然的かつ歴史的であるが、同時に、[77-1]自然的原因の強調も緩めてはいない。この視点は紛れもなく現代的なものだが、その出処はあきらかにキリスト教的神学であった。

[77-2] 晩年のドリュックは19世紀を生きたが、理論の方は古びてしまった。この頃までには、「大きな絵」を描くというジャンルそのものが無用とみなされるようになったのだ。しかし、ビュフォン、ハットン、ドリュックの大理論のなかの個別の要素は、生き残るか復活して、新世紀の地質学を特徴づけるはるかに大規模な地球史の説明において、存分に用いられることになった。

しかし次章ではまだ19世紀に行かず18世紀後半にとどまり、本章の水面下にあった2つのテーマを取り扱う。第一に、地球史上の様々な出来事が配置されるタイムスケールが大幅に拡張したこと。第二に、ドリュックのような地球の歴史的解釈が発展し、地球の理論ほど野心的ではない仕事の中で活用されたことである。

*1:「こうして、我々の推論は最後まできた。実際にあるものから直接的な結論をさらに引き出すためのデータはもうない。だがこれで十分である。自然の中には知恵、体系、整合性があるとわかったことで我々は満足している。というのも、この地球の自然史のなかで諸世界が継起してきたということからは、自然の中にはシステムがあると結論することができるだろう。このことは、惑星の回転の観察から、そうした回転を継続させるよう意図されたシステムが存在すると結論するのと同じである。そして、諸世界の継起が自然のシステムによって打ち立てられているのであれば、地球の起源についてさらに高次のことを見出そうとしても無駄である。したがって我々のこの探求の結論はこうだ。始まりの痕跡は見つからずーー終わりの見込みもない。」(要約者訳)