えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

米国とソビエトにおけるハエの大量生産 Endersby (2007)

https://www.hup.harvard.edu/books/9780674032279

【目次】

第6章 ドロソフィラ・メラノガスタ(キイロショウジョウバエ):バナナ、ビン、ボリシェビキ

[本章前半のあらすじ]
  • 1900年代初頭、コロンビア大学では、ウォルター・サットン(Walter Stanborough Sutton)がバッタを使って染色体と遺伝の研究をしていた。サットンは、メンデル理論を「再発見」したウィリアム・ベイトソンと会い、細胞分裂における染色体の振る舞いがメンデル理論における謎の遺伝要因の振る舞いに相当することに気づいた。
  • その後、コロンビア大学にロイド・モーガンが合流した。モーガンはド・フリース流の突然変異説を支持しており、環境激変が突然変異を起こすというアイデアを実証するためにショウジョウバエに注目した。モーガンは大規模なハエ交配実験を行うために、学部生であったアルフレッド・ヘンリー・スターテヴァント(Alfred Henry Sturtevant)とカルヴィン・ブリッジス(Calvin Blackman Bridges)の助けを得た。初期の実験ではド・フリースの想定するような劇的な突然変異体を生み出すことはできなかったが、他方、メンデル理論における隠された(=劣性の)遺伝要因の働きに気づいた。モーガンは突然変異説に懐疑的になり、メンデル理論を追求するようになった。
  • モーガンの研究室は、ハエの大量生産工場、ハエ部屋と化していった。ハエ生産ラインの効率化には、ブリッジスがその才を発揮した。この時期は、グリーンマン(Milton J. Greenman)が「科学的管理法」を応用してラットを標準化するなどして、実験室革命が強力に推進されていく時期でもあった。
  • 1909年、フランス・アルフォンス・ヤンセンス(Frans Alfons Janssens)が染色体における「組み換え」を発見した論文をモーガンは読んだ。モーガンは、染色体における遺伝要因の位置が近いほど、組み換えによるランダムな切断が起こりにくくなることから、交配実験によって染色体における遺伝要因の相対的な位置を明らかにできると気付いた。1914年までには、メンデル理論と染色体理論は同一のものであり、メンデルの言う遺伝要因は染色体上に実在することが明確になっていった。この理解の浸透とともに、この要因は「遺伝子」と呼ばれるようになっていった。
  • 染色体における遺伝子の位置を決定するためには、大量のハエが必要だった。1919年から23年のあいだに、モーガンのハエ部屋では1300万〜2000万匹のハエを数えた。実験を続けるうちに、野生のショウジョウバエから実験の邪魔になる遺伝子が取り除かれ、ハエは標準化されていった。これによりハエの道具としての価値が上昇した。ハエ研究者たちは自分たちのことをハエ人間(fly people)、ショウジョウバエ民(Drosophilists)と呼ぶようになっていった。
ハエあり、どこでも参上*1

 [195-3] ハエ部屋は世界中の関心を集めるようになった。[195-4] ハエ研究の大きな利点の一つは、ハエが持ち運び可能で、研究者に簡単に譲れるところにある。[196-1] このことは、キイロショウジョバエが標準生物になることに大いに寄与した。モーガンらはハエと共に関連する知識とテクニックを伝達していき、自由な情報共有はハエコミュニティの不文律となっていった。

 [196-2] ハエ部屋を訪れた研究者の一人に、コロンビア大学理学部の修士課程学生だったハーマン・ジョセフ・マラー(Hermann Joseph Muller)がいた。[196-3] マラーは移民の金属工の孫としてニューヨークに生まれた。勤勉な学生で、奨学金をとりコロンビア大学に進学するとすぐ生物学に魅了された。自ら組織した生物学クラブを通じてスターテバントとブリッジスと知り合いハエ研究者を志したが、 [197-1] モーガンの研究室では居場所がなかった。[197-2] 遅れての参加に加え、性格面での不一致があった。気楽な性格のモーガン、スターテヴァント、ブリッジスに対して、マラーは生真面目であった。またモーガンが人道主義的な中道保守であったのに対し、マラーは急進派で、マルクス主義や共産主義思想に魅力を感じていた。やがてマラーは自分の仕事が無視されていると思うようになっていった。出版物に名前がクレジットされるのは実験を行った人物のみというルールは、自分から正当な評価を奪うためのものだと感じられた。だがこの苦悩は、マラーが頭は早いが手は着実なタイプだったことによるのだろう。マラーが複雑で高度な実験を几帳面に行っているあいだ、他の研究者はマラーのアイデアを利用した仕事を先に終わらせていたのだ。マラーは結局、モーガンが自分のキャリアを邪魔したと恨むようになっていった。[197-3] 南部の古い家系に生まれやや貴族的なモーガンとそのお気に入りのスターテバントに対して、ブリッジスはマラーの恨みの矢面に立たなかった。ブリッジスも(表面的にだが)共産主義シンパだったからだ。またマラーはブリッジスを、ショウジョウバエ工場で搾取される労働者とみなしていたようだ。実際、ブリッジスはハエのストックを管理する役割を担う一方で、スターテバントは色盲で突然変異を見分けるのが苦手だったために、理論家としての側面を強くしていった。

 [198-1] ハエ研究全盛期の1917年、ロシア革命により世界初の社会主義国家が誕生した。革命に心を奪われたマラーは、1922にソビエト連邦を訪問することにした。[198-2] 当時のソ連は内戦と飢饉から立ち直ろうとする脆弱な国家で、あらゆるものが不足していた。マラーは32本のハエ瓶を携えて訪ソし、当地の生物学者に歓迎された。レーニン政権は科学、とくに生物学に大きな関心を抱いており、ボリシェビキは動植物の品種改良に大きな資金を投入していた。

 [198-3] マラーのアイデアに最大の関心を示したのが、ニコライ・コルツォフ(Nikolai Kol’tov)だった。革命以前、コルツォフはツァーリの政権に対する批判によりモスクワ大学を解職されていたが、19世紀の科学的達成を、メンデル主義、生物測定学(biometrics)、化学における最新のアイデアと組み合わせるという新たな生物学の構想により鉄道富豪を説得し、「実験生物学研究所」(後のコルツォフ研究所)を設立していた。[199-1] 実験室革命に触発され、学生に実験技術の修得を推奨しつつも、野外での生物観察を行わせるという珍しい一面もあった。[199-2] コルツォフはアメリカのショウジョウバエ研究に関する講演をマラーに依頼し、その原稿を露訳して出版した。マラーは「研究所」のためにハエのストックを残したが、「研究所」には昆虫の専門家がいなかったため、コルツォフはモスクワ大学時代の旧友、昆虫学者のセルゲイ・チェトヴェリコフ(Sergei Chertverikov)を招いた。

 [199-3] 遺伝学研究のチーフとしては、チェトヴェリコフはありえない人選だったはずだ。
遺伝学については何も知らず、反メンデル主義の強い生物測定学を教えており、実験家ですらないフィールド昆虫学者だったからだ。だがコルツォフにとっては昆虫に詳しいだけで十分であり、生物測定学への関心もむしろ新しいアイデアへのオープンな姿勢と捉えれられた。[199-4] 実際、チェトヴェリコフは勉強熱心で、同僚とともに、最新の遺伝学論文を直接読むことで英語を勉強した。ロシアのハエ研究者もグループを作り、「ドロズ・ソ・オル」(Droz-So-or)として知られるようになった("Droz-So-or"は”sovmestnoe oranie drozofil’shchikov”(ハエ学者の合わさった不協和音)の略で、当時のソ連官僚がやたらと作っていた造語を皮肉ったものである)。このグループはモーガンのグループと非常に似ていたが、1/3が女性という点には大きな違いがあった。

 [200-1–201-1] チェトヴェリコフは実験室研究が野生種に関連性を持つかやや懐疑的で、モーガンらが突き止めた微小変異(small mutations)が野生群にも見られるかを検討することにした。20世紀初頭には、「対立遺伝子」のほか、「ホモ接合体」(honozygous)、ヘテロ接合体(heterozygous)などの用語が考案され、両者を区別するためにはホモ接合体をもつ個体と交配させればいいこもとわかっていた。そこでチェトヴェリコフらは、劣性(潜性)遺伝子のホモ接合体をもつとわかっている実験室のハエと野生のハエを交配させることで、野生バエの劣性遺伝子を明らかにしていった。遺伝子のわかっている実験室のハエは、未知の物質の化学組成を調べる試薬のような役割を果たしたのである。その結果、野生バエは遺伝的に途方もなく多様であり、あらゆる劣勢遺伝子をもつことがわかった。

 [201-1] ただし、野生バエと実験室バエを同じように扱うことはできなかった。交配がコントロールされている実験室バエは遺伝子の正確な組みあわせを計算することができるが、野生個体ではそうはいかない。そこでチェトヴェリコフは、生物測定学から学んだ数学的テクニックを応用しはじめた。すなわち、採取したハエの遺伝的組成を実験室で決定した後、その結果を統計的手法によって野生に外挿していったのだ。キイロショウジョウバエ野生群が各種の劣性形質をもつ頻度を計算し、ある遺伝子を持つハエが自然淘汰により増えたり減ったりするのはいつかを推測した。

 [201-2] 1926年、チェトヴェリコフはグループの最初の結果を「現代遺伝学の見地から見た進化過程の一定の特徴について」(On Certain Features of the Evolutionary Process from the Viewpoint of Modern Genetics)として発表した。この平凡なタイトルには非常に重要なことが隠されていた。これまで対立するものとされていた、生物測定学者たちの理解するダーウィンの自然選択と、モーガンらの理解するメンデルの遺伝学とが、はじめて相補的なものとして提示されたのである。チェトヴェリコフが正しければ、ド・フリースが探していた道、進化を思弁の領域から研究室にもってくる道は見つかったことになる。だが、この研究は当時ソ連以外ではほとんど知られなかった。

マツヨイグサの終わり

 [202-1] そのころ、アメリカ人もさらなる発見をしていた。1918年、モーガンはド・フリースに手紙を送り、論文の草稿へのコメントを求めた。ハエの生命機能を担う遺伝子が変異し、生命機能がまったく働かなくなる場合があることを、マラーが見つけたのである。この変異をヘテロ接合でもつ場合には問題ないが、ホモ接合でもつハエは死ぬ。マラーが見つけたのはこのタイプの遺伝子が2つあるハエで、話がさらに複雑である。ある遺伝子にA(働く)とa(働かない)があり、別の遺伝子にもBとbがあるとする。この場合、生きられる個体はAABB、AABb、AaBB、AaBbに限られ、aaかbbを持つそれ以外の個体は死ぬ。致死性の劣性遺伝子の検出は難しい問題だった。マラーが交雑実験から得られたハエを数えようとしたところ、隠れた劣性遺伝子をもつハエを示すはずのメンデル比が崩壊していたのだ。何が起こっているかを理解するのに、マラーは多大な労力を要した。

 問題が解決したのち、マラーはこの「平衡致死要因」(balanced lethal factors)がド・フリースの育てているオオマツヨイグサにもあるはずだと気づき、実際にそうだと判明した。[203-1] この説によると、交配させても劣性形質が出てこない(死ぬため)のでホモ接合的に見えるが、実際はヘテロ接合(隠れた致死的対立遺伝子をもつ)の植物が現れる。ド・フリースが見つけたと思っていた「新種」は、実際には極めて稀な雑種だったのだ。こうした事例は、ハエ部屋による大量生産以前には検出することができなかった。

 [203-2] ド・フリースへの手紙でモーガンは「思い切って考えてみるに、マツヨイグサの変異の問題は、平衡致死要因説によって幸福な解決を見るかもしれない」と結んでいる。ド・フリースは送られてきた論文の余白に「不幸」と書きつけている。[203-3] だが、最悪の事態がまだ待っていた。ハエの研究が進むにつれ、新種を一気に生み出す大変異という考えはますますありそうにないと思われてきた。マツヨイグサの染色体の振る舞いは極めて異常であり、通常のメンデルの法則が完全に崩壊していることが、複数の国の研究者により発見されたのだ。植物の染色体の研究者の中にレジナルド・ラグルス・ゲイツ(Reginald Ruggles Gates)がいた。ゲイツはメンデルの理論の信奉者だったが、その破滅に重要な役割を担うことになった。1906年、ゲイツとアンナ・メイ・ルッツ(Anna Mae Lutz)はマツヨイグサの巨大変異体(ド・フリースが見つけた「新種」)が、通常のオオマツヨイグサ(Oenothera lamarckiana)の2倍の染色体を持つことを発見した。その後数年で、これはオオマツヨイグサによく見られることで、多くの変異体が異常な染色体数を持つことがわかった。[203-4] こうした事例は減数分裂がうまく機能しなかったことに由来する。こうした染色体の重複は動物では稀だが植物ではよくあり、「倍数体(polyploidy)」として知られている。

 [204-1] マツヨイグサは倍数植物として初めて同定されたものの一つである。マツヨイグサは有名だったため多くの研究者がこれにとりくみ、倍数体の重要性を明らかにするのに貢献した。雑種の場合、染色体が一致しないためにペアを形成することができない。典型例はラバで(ロバが62本、ウマが64本)、丈夫で頑丈だが不妊になる。だが、減数分裂がうまくいかず、花粉ないし卵の形成過程で既に染色体が複製されている植物の場合、受精卵のなかに各染色体のコピーが2つ存在するため、各染色体はパートナーを見つけることができる。[204-2] その結果、新しい雑種が誕生し、これは同じく倍数体の雑種と交配した場合のみ稔性をもつ。この雑種は親とは非常に異なる外見を持つことが多く、親とは交配できないので、新種に見える。これがド・フリースが見つけたものだった(類似の現象が多くの種のヤナギタンポポでも見られるため、メンデルを困惑させていた)。

 [204-3] 倍数体はハエ研究者の別の発見にも関連していた。メンデルの実験では豆の緑色・黄色という明確な対立特徴が用いられていたため、20世紀のメンデル主義者たちは遺伝子をオン・オフスイッチのようなものとして考える傾向があった。だが、ハエの研究によって話はより複雑だとわかってきた。ある遺伝子は別の遺伝子の振る舞いにも影響するのだ。たとえば、乗換えのさいに一部の染色体が二重化すると、ある遺伝子の2つのコピーを持つハエが生じる。[205-1] そしてこの2つの遺伝子は、1つの遺伝子の効果を倍化することがある。これは倍数植物でも起き、その結果として巨大「変異体」が生じたのである。またコムギ(common wheat)は6セット以上の染色体を蓄積しており、その結果より大きくて栄養ある種を生み出すことができる。[205-2] さらにバナナの現在の栽培品種はすべて染色体を2セットではなく3セットもっており、このために大きくて種がない(ラバと同じく不稔)果実を生じさせる。

私を愛したハエ*2

 [205-3] ショウジョウバエは研究室という生態学的ニッチをいまでも活用し続けている。ただし、科学の流行に対応していく必要はあった。第二次世界大戦後、より小さく単純な生物が好まれたことで、ハエの時代が終わると思われたこともあったのだ。[206-1] だがハエの個体数はその後急速に回復し、1970年代には新種の遺伝的研究が可能になったことで新たな脚光を浴びた(後述)。今日も、世界中の研究室でハエは飛び回り続けている。[206-2] ハエにより染色体と遺伝の精確な関係を解き明かされたのに影響され、多くの研究者があらゆる動植物の染色体を研究し始めた。その結果、連続的な変異と断続的な変化の間の鋭く思えた区別が崩壊することになった(次章)。

 [205-4] 1915年、モーガンと学生は自らの発見をまとめた『メンデル的遺伝のメカニズム』The Mechanism of Mendelian Heredity)を出版した。モーガンらは遺伝粒子が染色体上にあると考えていたが、ハエの繁殖ペースの速さのお陰で、この主張を裏付ける大量の証拠を集めるのには数年しかかからなかった。同じ主張は以前にもなされていたが、モーガンたちはより優れた証拠を出すことができた。その説得性は、研究成果が実験室実験に由来すること、[207-1] また結果を確認したい人にはハエのストックを喜んで送っていたことによって、非常に高かった。とはいえ、英国ではベイトソンが抵抗しており、このためにハエの英国進出は長年遅れた。メンデル的染色体理論への最も強力な反対は、予想されるように、ナチュラリストとフィールドワーカー、とくに生物測定学者たちから出てきた。牛乳ビンでの繁殖はハエにストレスを与えて変異させるため、実験結果は野生のハエには関係ないとされたのだ。モーガンはこうした批判を軽蔑しており、「真の対立は自然の不自然な取り扱いと自然な取り扱いの間にあるのではなく、コントロールされ検証可能なデータと、抑制のない一般化との間にあるのだ」と論じた。

 [207-2] とはいえ、最も同情的なナチュラリストであっても、ハエ部屋での発見が野生での進化にどう応用できるのかよくわからなかった。チェトヴェリコフの研究を知っていればすぐに理解できたはずだが、チェトヴェリコフは自身のアイデアを発展させるために必要な実験を完遂できなかった。スターリンが政権を握った後に逮捕・粛清された数百万人のうちにチェトヴェリコフもいた。[208-1] 1929年にチェトヴェリコフは国内追放となり、モスクワとレニングラードへの出入りを禁止され、学校教師として生きることを余儀なくされた。殺されなかったのは幸運だったが、遺伝学についてはそれ以上発表することはできなかった。

 [208-2] チェトヴェリコフの学生がその仕事をしばらくは続けていたが、ルイセンコがソビエトの生物学の支配権を握ると、ドロズ・ソ・オルは壊滅させられた。ルイセンコは一種のラマルキズムを支持して正統派遺伝学を退け、アメリカ遺伝学とのつながりが明白なブルジョア「ハエ愛好家」たちより自身の見解のほうがマルクス主義的だと主張していた。1930年代の飢饉のさい、迅速な解決を約束していたルイセンコを指導部が支持し始め、最終的にルイセンコはメンデル遺伝学を非合法化するまでの権力を得て、多くの遺伝学者が出奔、逮捕、処刑されたのだった。[208-3] チェトヴェリコフが逮捕されドロズ・ソ・オルが離散したとあっては、その研究もソ連外では知られないままでもおかしくなかった。だが、何人かがそれを西側で出版した。そのうちの一人が、英国の生物学者J. B. S. ホールデンだった。ホールデンは〔マラーと同じく〕左派シンパで、やはり1920年代にソビエトを訪問し、国家による科学の援助の手厚さに非常に感銘を受けていた。数年後、ホールデンは国際遺伝学会でチェトヴェリコフと会い、いくつかのロシア語の仕事の英訳を手配し、英国の学生に読むよう勧めた。ホールデンは生物測定学の道具立てを遺伝学に応用する可能性に興奮したが、そのための方法を解明するにはさらに多くの数学と、そしてモルモットが必要だった。

*1:[要約者注] Have flies, will travel、“Have gun, will travel”のもじり。

*2: [要約者注] The fly who loved me、「007/私を愛したスパイ」(The Spy Who Loved Me)のもじり。同作にソ連のスパイが登場することにもかけている。