えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

現象的意識と道徳的地位の関係 Shepherd (2022)

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/21507740.2022.2148770

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現象的意識と道徳的地位の関係について、6つの立場を分類することができる。〔要約者注:以下、「意識」は現象的意識を指す〕

  • 1: 意識は道徳的地位の必要条件である。だが、十分条件ではない。
    • 意識に加えて、より高次の認知能力が必要とする立場や、有感性(快・不快を感じる能力)を必要とする立場など
  • 2: 意識は必要十分条件である。だが、道徳的地位の高低を決める要因が他にもある。
    • 意識だけでも一定レベルの道徳的地位を持てるが、高次の認知能力をもつものはより高いレベルの道徳的地位にある、といった立場
  • 3: 意識は必要十分条件である。そして、道徳的地位の高低を決める要因は他にはない。
    • 福利に関する経験主義(Experimentalist)の立場
  • 4: 意識は関係ない
    • 現象的意識は錯覚であるという見解(幻想主義)と親和的
  • 5: 意識は必要条件でも十分条件でもない。だが、道徳的地位の高低を決める要因かもしれない。
    • リスト説のうち、意識とその他の要因の共存を挙げるものなどがありうる(実際に提唱している人はいない)
  • 6: 意識は必要条件ではない。だが、十分条件かもしれない。
    • 意識の必要性を否定する場合に最もよくある立場。現象的意識が道徳的に重要であることは認めるが、危害や欲求充足などは現象的意識とは無関係であり、前者があれば道徳的地位をもつには十分だとされる(Carruthers 1999; Levy 2014; Shevlin 2020; Sinnott-Armstrong & Conitzer 2021)。

 1-3は「意識が道徳的地位の必要条件である」という判断(必要性判断)を共有しており、「意識ベースのアプローチ」と呼べる。このアプローチは、ゾンビに関する直観を引き合いに出して支持されることが多い(Siewert 1998)。すなわち、現象的意識を欠く哲学的ゾンビの利害関心は、道徳的に重要ではないと思われる。

 ゾンビは現実的な政策問題とは関係ないものの、意識ベースのアプローチが正しければ、非人間(AIや動物)が意識を持つかどうかが重要な問題になる。

意識は道徳的地位の必要条件か?

 「意識が道徳的地位の必要条件である」という必要性判断は、しかしそこまで強固なものではない。ここでは3つの反論を示し、必要性判断の信頼性を低下させることを目指す。

1. 幻想主義による議論

 まず、現象的意識については上述した幻想主義が正しいのかもしれない。このとき必要条件判断の処遇については2つの選択肢がある。

  • (a)必要性判断は正しい。だが、現象的意識はこの世界には存在しないので(幻想主義)、道徳的地位を持つ存在もこの世界には存在しない。
  • (b)必要性判断も幻想である。道徳的地位には本当は別の根拠がある。

 (a)はここでは扱わない。(b)の場合、「ではなぜ人は必要性判断を行ってしまうのか」を説明する必要がある。これは内観の信頼性の低さによって説明できるだろう。すなわち、我々は、真に道徳的重要性を持つ特徴と、それに付随するように思われる現象的性質とを、明確に区別できないのである、と。

2. 無知による議論

 現象的意識を欠いた心に道徳的重要性があるかどうかを考える場合、私達はまず自分自身の心について考え、そこで重要だと思われるものが、現象的意識を欠く存在にもあるかどうかを考える。
 しかし、内観は心の意識的側面しか捉えられない。そこで、もし非意識的な特徴が道徳的重要性を持つとしても、私達はそのことを知ることができないかもしれない。ここで「心の無意識的な側面には道徳的重要性がない」という反論が想定されるが、これは疑わしい。

3. 積極的善による議論

 福利の客観的リスト説は、欲求充足、達成、知識などが福利に寄与すると認める。人間の場合、これらには様々な仕方で意識が伴う。だが、その意識こそが福利に寄与するものだ、というのはまた別の主張である。
 ここで、現象的意識をもたないが、欲求充足や知識の獲得が可能な、比較的洗練された心をもつ存在を考えてみる。「意識ベースのアプローチ」によれば、これらの生物は石や木と等しい存在であり、人間の便宜のために駆除しても構わないことになる。
 だが、これらの存在の目標や計画の達成は、そこに付随する意識とは無関係に、その存在の生を価値あるものとするように思われる。そしてその場合、目標・計画の追求は妨げられるべきでない。これはつまり、その存在は何らかの道徳的地位を持つということだ。
 以上の「積極的善による議論」は、心の価値ある特徴のうちには、意識に依存しないものがあることを示す。

信頼性と妥協

 「意識ベースのアプローチ」はたしかに非常にもっともらしい。だが、もし以上の指摘によって必要性判断の信頼性が低下したならば、次のような選択肢がありうる。すなわち、道徳的地位について暫定的には意識ベースの見解を取りつつも、政策的問題については、より自由度の高いアプローチを取る、というものである。
 哲学的立場を現実問題に適用するさいには、妥協が必要となることが多い。「多くの人に受け入れられる」見解を選ぶことが望ましいが、それは単なる多数決の話ではない。一般に、ある見解に確信を持てない場合、また間違っていた場合の損失(つまり掛け金)が大きい場合には、より妥協すべきであろう。
 ただし、どの程度信頼性が低ければ妥協するべきかを決めるのは難しい。この論文の目的はただ、生命倫理学者や政策立案者に、意識以外の特徴が価値を生む可能性について再考を促すだけである。
 またさらに難しいのは、意識以外の具体的に何が、道徳的地位にとっての十分条件なのかを決定することだ。よく使われる「洗練された認知」といった概念はあまりにも曖昧である。それ自体として道徳的価値のある特徴は何なのかを考えたり、欲求充足や知識の獲得に必要な能力は何なのかについて考えたほうが良い。

実践的帰結

 必要性判断の信頼が低下するとどのような実践的含意があるか。ここでは二つの具体例を示す。
 まず、近年、動物の意識にかんする不確実性を前にして、動物の道徳的地位について予防原則を用いることが提案されている(Birch 2017)。だが必然性判断の信頼性が低くなった場合、意識以外の特徴についても予防的に考える必要がある。
 また脳オルガノイドを巡る政策的議論では、重要なのはそれが意識を持つことだと考えられている。しかし、脳オルガノイドと人工物との統合が可能になった場合、それが道徳に関連する非意識的特徴を示すかもしれない。必然性判断の信頼性が低くなった場合、こうした特徴にも注目する必要がある。