えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

洪水説から氷河説へ Rudwick (2014)

【前回までの重要点】

  • 当時、洪水説(激変説の一種)はますます信憑性を帯びてきていた。迷子石やひっかき岩盤(scratched bedrock)がヨーロッパや北米に広く分布していることがわかり、これが大洪水の痕跡だと思われたからだ。ライエルは迷子石は漂う(drifting)氷山からの落下物だとする理論を提出したが、あまり説得的ではなかった。
巨大な「氷河期」
  • 迷子石やひっかき岩盤に関する別の説明が、[175-1] 思わぬ方向からやってきた。スイスの技師イグナス・ヴェネツ(Ignace Venetz)は、氷河の大きさ・範囲が変動することをアルプスの住人は知っていると報告した。これはモレーン(氷堆石)、つまり氷河の先端部にある石で隆起した部分でよく見られる。

  • スイスの学者の多くはこの主張を無視したが、ジャン・ド・シャルパンティエ(Jean de Chanpartier)は、これによって、ローヌ渓谷のモレーンに、引っかき傷をもつ巨大な迷子石があることを説明できると確信した。シャルパンティエはこの地域のモレーンとひっかき岩盤を広範に調べたうえで、センセーショナルな主張を行った。すなわち、ローヌ渓谷の上流部にはかつて巨大な氷河があり、それはアルプスの向こうのスイス平原、北はジュラ山脈にまで広がっていた(図7.8)。現在アルプスにある氷河は、この「メガ氷河」のごく一部でしかなかった。

  • 図7.8:シャルパンティエが再構成したスイスの氷河(点部分)。アルプスに現在見られる大きな氷河(黒部分)。
  • [175-2] この氷河はアルプスの積雪によって形成されるので、地質学的に少し前の積雪量は、現在の積雪量よりきわめて大きかったはずである。その原因は何か。シャルパンティエは他の地質学者同様、かつての地球が現在より寒冷だったとは考えなかった。一般に、かつての地球は現在より温暖で、長期的には冷えていっていると考えられていたのである。そのかわりに、アルプスはかつてもっと高く(エリー・ド・ボーモンの「隆起時代」のアイデア)、[176-1] 比較的短い時間で現在の高さに戻ったと考えた。しかし、この種の考えかたは多くの地質学者には説得的でなく、[177-1] またアルプスはいいとしても、近くに山がない迷子石の説明にはならなかった。このため、シャルパンティエの理論は慎重に疑いの目を持って見られた。

  • [177-2] だが1837年、ヌーシャテルで行われたスイスのナチュラリストの会合で、さらにセンセーショナルな主張がアガシによってなされた。 アガシは化石魚の研究では著名だったが、それまで地質学の経験はなかった。アガシによれば、地質学的に最近の過去に地球は急激な「氷河期」にあり、北半球全体(最低でも北アフリカのアトラス山脈の南まで)が、静止した雪ないし氷のシートに覆われていた。この時期にアルプスは隆起して(エリー・ド・ボーモン)氷の坂を形成し、岩はジュラ山脈の麓にまで落ちてきた。この理論はシャルパンティエの理論とは全く違うとアガシは言っていたが、それは実際正しい。迷子石は、移動する氷河によって運ばれるのではなく、静止した氷の坂を滑り落ちてくるのだから(図7.9)。
  • 図7.9:ヌーシャテル近郊のジュラ山脈麓にあるひっかき岩盤(アガシ『氷河の研究』(Études sur les Glaciers, 1840))。実際のところこの証拠は、移動する氷の中にある迷子石が岩盤にひっかき傷をつけるというシャルパンティエの理論の方によりよく当てはまる。ともあれひっかき岩盤は、迷子石やティルと共に、北ヨーロッパ及び北アメリカの広大な地域に氷河あるいは氷床があったことを示す有力な証拠になっていった。
  • [177-3]〔前述のように、〕地球は長期的には冷えていると(ライエル以外の)全員が考えていた。アガシはこの考えかたに、急激だが短い氷河期というアイデアを巧みに融合させた。すなわち地球は徐々に冷えているのではなく、段階的に冷えている各段階においては環境が安定しており、動植物がそこに適応する。この各安定期は、地球規模の気温の急激な低下により区切られる(この気温低下の原因について、アガシは曖昧であった)。これは大量絶滅が繰り返されていることを説明する。[178-1] 地球は長期的に冷えていっているので、直近の気温低下時にはじめて氷河期を引き起こすほどまでに気温が低下した。
  • アガシの氷河説(要約者作製)

  • [178-2] この壮大な思弁には懐疑的な目も多かった(フォン・ブーフ)が、関心を持って地元の調査に向かった者もいた。例えばフランスのヴォージュ山脈(Vosges)の近くに住んでいた地質学者たちは、その深い谷にかつて小さい氷河があった痕跡を多く発見した。ヴォージュがかつて隆起して沈下した形跡はないため、[179-1] シャルパンティエではなくアガシの理論を支持していると思われた。

  • [179-2] アガシは化石魚の収集のために英国に向かったが、科学者の会合で氷河期理論の説明も行った。バックランドに連れられスコットランドのハイランド地方に赴くと、かつての氷河の痕跡を広範囲に発見した。また、氷はスコットランドの低地にまで広がっていたと主張した。これにはライエルも一瞬納得したが、すぐにより穏健な立場に戻った。高地の氷河はまだしも、低地の氷河の形成には地球規模の寒冷化が必要になる。これは厳密な斉一性に反する。[178-3] 同様に、激変説論者を含む多くの地質学者も、「バックランド-アガシ普遍氷河」(コニベアが冗談で命名)を信じることは出来なかった。

  • だが、北ウェールズなどその他の山地にもかつての氷河の痕跡が発見され、何らかの「氷河期」の信憑性が高まってきた。この時期は、ライエルの「更新世」とおおむね同一視された*1。アガシは『氷河の研究』末尾に、より過激な、氷河は熱帯地方まで及んでいたとする説(現代で言う「スノーボールアース」説)を再掲したが、この本は主にアルプスの氷河の記述で占められていたため、現在の氷河の活動を知らしめるものとして評価された。

  • 結局地質学の定説は、穏健な「氷河説」とライエルの漂流理論を組み合わせたものに落ち着いていった。[180-1] これまで「大洪水」の証拠だと思われていたものは、地球がより寒冷であったという観点から再解釈され、まるごと活用された。こうして洪水説は氷河説に変身したのである。

  • [180-2] 氷河説は、地球はゆっくり冷えてきたと考えた大多数の地質学者だけでなく、地球は常に安定状態にあると考えたライエルにとってもまったく想定外であり、それ以前の地質学的同意を揺るがすものだった。この説によって擁護されたと感じる人がいたとすれば、それは激変論者だろう。なぜなら氷河説は、地球史はまったく偶然的で予測不可能だという、激変論者が強調していた感覚を強めるものだったからだ。この頃までには地球の歴史と人間の歴史の類比は当然のものになっており、地質学者もあまり使わなくなっていたが、氷河説が確認したのはまさにこの点だったのだ。地球の歴史を再構成するために、地質学者は歴史家のように思考しなければならない。このことのさらなる含意を次の章で検討する。

*1:第三紀のなかで最も新しく、寒冷地に生息する貝の化石が発見される層/時代。もともと洪水があった時代だと考えられていた。を参照。(要約者注)