えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

胎児の痛みに関するミシシッピ州の主張は経験的に支持されていない Salomons & Iannetti (2022)

www.nature.com

  • 2022年6月24日、米国最高裁は15週を超える妊娠の中絶を禁止するミシシッピ州法を支持し、ロー対ウェイド判決を覆した。
  • ミシシッピ州法を弁護する中で「12週以降の胎児は痛みを感じられる」と論じられた。これは次の2つの主張からなる。
    • (1) 12週以降の胎児は侵害受容刺激に反応する
    • (2) 大脳皮質(通常24週に発達)は痛みに必要ない
  • 国際疼痛学会は侵害受容と痛みを別物としており、 (1)だけでは痛みの指標としては十分ではない。そこで(2)が重要になる。
    • たとえばショウジョウバエは侵害受容刺激に反応するが、痛みに必要な神経構造を持たないため、痛みを感じないと考えられる。
  • (2)を主張するさいの証拠の多くは、Derbyshire & Brockmann (2020) から取られている。
    • さらに同論文は、本コメントの著者らの行った実験に依拠している。
      • そこで著者らは、ミシシッピ州の弁護に用いられた証拠を吟味する義務があると感じる。


  • 「(2)大脳皮質は痛みには必要ない」という主張は、経験的証拠によって支持されていない。
  • 引用された諸論文はそもそも、大脳皮質が痛みに必要かどうかを検討したものではない。
    • むしろ、「ペインマトリックス」(一過性の痛み刺激に応答して一般に観察される、皮質及び皮質下の神経活動の広範なパターン)が痛みに必要または十分かを検討したものである。
      • Mouraux et al. (2011) は、ペインマトリックスが無痛の視覚刺激や聴覚刺激に対しても活動することを示した。
        • ここでは次のようにはっきりと書いている。「重要なことだが、侵害受容刺激に対してfMRIで見られる脳反応を支える神経活動が、痛みの経験にとって重要ではないということを、我々の知見は意味しない」。
      • Salmons et al. (2016) は、遺伝子的に痛みを感じられない人でもペインマトリックスの活動があることを示した。
  • 痛みにペインマトリックスが必要かどうか、より直接検討した研究もある。
    • Feinstein et al. (2016) は、ペインマトリックスに関連する皮質及び皮質下の重要な領域に広範な損傷がある患者が、痛み反応を問題なく示すことを観察している。
      • この論文は、痛みにどこか特定の皮質領域が必要だという考えかたに疑問を投げかけてはいる。しかしながら、痛みに大脳皮質が不要だというより広い結論、つまりミシシッピ州側の主張を支持するものではない。
        • 実際、同患者の大脳皮質の大部分は無傷である。また実験は損傷から30年後に行われているため、機能回復の可能性もある。
  • 結論として、ミシシッピ州弁護側が提示した証拠は、大脳皮質が痛みに必要だという長年のコンセンサスを覆すには不十分である。
    • この結論は、米国疼痛学会や、ミシシッピ州の主張に反対する法廷助言書にサインした25名の疼痛科学者とも共通のものである。


  • 痛みの神経解剖学的基盤をめぐる議論は、単に解剖学や生理学だけでなく、痛みの定義にも依存している。
    • ミシシッピ州側の証拠は、胎児に侵害受容の能力があることをたしかに示している。ミシシッピ地裁のように、痛みを「有害刺激に対する嫌悪反応」と定義するのならば、胎児には痛みがあることになる。だが大多数の科学者が採用する国際疼痛学会の定義によればそうではない。
  • また胎児の侵害受容反応を「痛み」と呼ぶべきかどうかは別にしても、それが完全に発達した人間の感じるものと別物だということは確かである。
    • 胎児が「痛み」を感じないよう女性に出産を強制したい人は、「痛み」という言葉で何を意味するかを明確にする必要がある。
      • 魚やショウジョウバエに「痛み」があると言う時の基準で胎児に「痛み」があると言った上で、私達の痛みの経験を胎児に投影するように求めることはできない。
  • 中絶政策は重要な道徳的・倫理的帰結をもたらすものであるから、最も精確な科学的議論に基づく必要がある。