えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

種差別とヒト培養肉 Milburn (2016)

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  • 培養肉は、畜産による動物の死と苦痛の問題を解決するように見える。
  • しかし、こうした動物の問題を考慮する立場からも、培養肉への懸念が表明される場合がある。
  • このタイプの反論のうち以下のものは、動物の利害にかんする十分な理解や、動物の十分な保護があれば、克服可能である(pp, 252–256)。
    • (1) 培養肉は、人間にとって肉を食べることは自然・必要・普通であるといった誤った信念を強化してしまう
    • (2) 培養肉の作製過程で必要なドナー動物の取り扱いに懸念がある


  • しかし次の反論は、畜産における動物の問題を考慮すると、簡単には克服できない。
    • (3) 培養肉は、動物と人間(もしくは食用動物とそうでない動物)とのあいだに、誤った種差別的な階層関係をつくることを肯定してしまう
  • 培養肉のもたらす技術的恩恵と、種差別的な階層関係の肯定のあいだには、ジレンマがある


  • このジレンマを解決できる第三の選択肢が、ヒト培養肉である(Hopkins and Dacey 2008; Schaefer and Savulescu 2014; Schneider 2013)。
  • ヒト培養肉は一種の(犠牲者のいない)カニバリズムであり、社会から強く抵抗されることが予想される(Donaldson and Kymlicka 2013)。
  • だが、ヒト培養肉という形でのカニバリズムは、その他の培養肉と並んで、許容されるべきである。


  • カニバリズムに明示的に反対する議論を見つけることは驚くほど難しい。多くの場合、カニバリズムは悪いと単純に前提されている。
    • どの主流の倫理的伝統にもカニバリズムに反対する議論があるが、どれもうまく行っていない(Wisnewski 2014)。
    • また、カニバリズムが許容可能な場合がある(Wisnewski 2004)。


  • ただし、カニバリズムに反対する非合理的・感情的な良い根拠があるかもしれない(Wisnewski 2004; Diamond 2005)。
  • その一例が、Kass (1997) の言う「嫌悪感の叡智」(wisdom of repugnance)である。
    • 強力な嫌悪反応を無視することは愚かである、とする。
  • しかし、Kassが嫌悪感を喚起するものとして挙げる行為(レイプ、殺人、近親相姦、獣姦、カニバリズム)には、明らかな危害が含まれる(Nussbaum 2004)。
    • したがって、これらの行為の道徳的問題は合理的に議論可能である。単なる嫌悪反応に訴えることは、こうした行為に対する非難の根拠としては薄弱である。


  • カニバリズムの倫理的評価にあたっては、ヒト肉の由来に応じて以下の3形態を区別してみることが有用である。
    • (A) 暴力
      • カニバリズムのために意図的に殺された人から、ヒト肉が来る場合
    • (B) 死体干渉
      • 死体から、ヒト肉が来る場合
    • (C) 廃棄
      • カニバリズムとは無関係な理由で人体から分離された部分から、ヒト肉が来る場合
  • それぞれの形態はさらに、当人の同意/不同意と合わせて、6つの類型を形成する


  • いずれの類型も、食べた人の健康を根拠として非難・禁止されうる。だがこれはあまりにもパターナリスティックである。
  • 不同意-暴力事例は、まさに暴力ゆえに非難されうる。
    • ただしその悪さは、状況に応じて緩和されるかもしれない。
  • 多くの暴力もしくは死体干渉事例には、死体干渉の悪さという問題がつきまとう。廃棄事例についても、廃棄物はある意味では死体(=人体: corpse)の一部だと言えるかもしれない。
    • だがヒト培養肉について言えば、それは、道徳的に関連する意味では、「死体」ではないと思われる。
      • ヒト培養肉は生きている人間と重要な歴史的関係を持たない。また死者との関係に感情的もしくはスピリチュアルな価値を見出す人もいるが、それはヒト培養肉の場合にはない。
  • 同意についての問題もヒト培養肉では生じないと思われる。
    • 「人は自分が殺されることに自ら同意することはできない」と論じることはできるかもしれない。だがそこから、「人は肉に培養するための細胞提供に同意することはできない」と言うのは拡大解釈である。
  • したがって、ヒト培養肉は上記の6類型にうまく当てはまらない。かつ、それらに向けられる倫理的反論も当てはまらない。


  • ここで、そもそもこうした合理的な議論自体に問題がある、という応答が考えられる。
    • Kass (1997)は、合理的議論に反対する根拠として嫌悪感を持ち出していた。
  • たしかにカニバリズムに多くの人が嫌悪感を抱くのは事実である。この対立に対して、いくつかの解決策が考えられる。
    • 嫌悪感は、より大きな利益に道を譲るべきだと言う
    • 嫌悪感は、よりよい議論に道を譲るべきだと言う
    • 嫌悪感は、最優先の道徳的直観ではないと言う
  • 加えて、カニバリズムに対する嫌悪感は、進化的暴露論法にとくに脆弱である。
    • 典型的なカニバリズムには、健康へのリスクや社会的排斥のリスクがある。このことがカニバリズム対する嫌悪を生じさせてきたと考えるのはかなりもっともらしい。
  • たしかに典型的なカニバリズムに反対する十分な道徳的理由はあるため、この嫌悪感は部分的には暴露論法を逃れうる。
    • しかしそうした理由はヒト培養肉のカニバリズムには適用できない。
    • 加えて、動物倫理の観点からはヒト培養肉を支持する良い理由がある。
  • 以上を考慮すると、カニバリズムへの嫌悪感は、合理的な倫理的推論に道を譲るべきである。


  • 結論:動物の苦痛や殺害が悪いと考える場合、動物の培養肉が許容可能だと考える十分な理由があるのみならず、ヒト培養肉も許容可能だと考える十分な理由がある。