えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

フランシス・ゴルトン:人体測定と遺伝 Endersby (2007)

www.hup.harvard.edu

  • Jim Endersby (2007). A Guinea Pig's History of Biology. Cambridge, MA: Harvard University Press.
    • Chapter 3. Homo sapiens: Francis Galton’s fairground attraction, pp. 61–94. ←いまここ

【目次】

第3章 ホモ・サピエンス:フランシス・ゴルトンの展示の魅力

 [61-1] 10万年前のことを考えると、ホモ・サピエンスは何ら特筆すべき存在ではなかっただろう。我々は毛むくじゃらで姿勢の悪い猿であった。何らかの理由で樹上生活を捨てアフリカのサバンナに出ると、我々は多少直立しはじめ、魅力的な毛皮をほぼ失った。[61-2] この猿型生物が地球のほぼ全域に進出すると暗示するものはほとんどなかったが、現実にはそうなった。約1万2000年前、食料は栽培できると我々は気づき、定住生活を始めた。さらに数千年後、ホモ・サピエンスは「都市に住む」という最大の発明をなし、地球上のほぼ全ての陸地に広がってはより大きな都市を建築していった。

 [62-1] 都市によって小さな空間に多くの人間が生活できるようになったが、これは二つの大問題を生み出した。第一は食料確保、第二は排泄物処理である。約6000年間の格闘を経た1884年5月8日(木)、世界最大の都市であったロンドンで「万国衛生博覧会」(International Health Exhibition)*1が開催され、二つの問題に対する最新鋭の解決策が展示されると、400万体以上の好奇心旺盛なホモ・サピエンスたちがこれを見学しに来た。

ロンドン万国衛生博覧会の全体図(公式カタログより)

 [62-2] 展示の大半を占めたのは食料摂取(ingestion)関連の展示だった。中央には現役の酪農場があり、乳搾りの様子や加工品の製造法の図解などを見ることができる。[63-3] 巨大なカフェやレストランもあり、英国ベジタリアン協会は貧困層に菜食料理を提供するための慈善事業として出店していた。[62-4] パリのデュヴァル(Duval)のレストランのシステムに基づく「ディネ・ア・ラ・デュヴァル」では、 [63-1] 窓から調理過程を眺めることができた。[63-2] 当時のロンドンでは、自給自足が不可能になって食料品を店から調達する必要が増加し、それに伴い衛生状態や不純物混入に関する懸念が生じていた。酪農場やガラス張り厨房の展示はその不安に応えるものであった。

 [63-3] ただしテーマと関係のない展示も多く、ドレスのコレクション、[64-1] 古い町並みの再現、ブロンズ像、電飾、聖書、寄生虫、ベジタリアン料理などはジャーナリストから苦言を呈された。[64-2] このイベントは毎年開催される様々な博覧会の一種にすぎず、この種の博覧会の展示の雑多さは、何年も前に『パンチ』で皮肉られていた*2

 [64-3] 多くのジャーナリストはこのイベントを娯楽と受け取ったが、週刊誌『知識』(Knowledge)だけは違った。[65-1] 記者は、「真の衛生展示」と「より娯楽的な品々」の組み合わせが、衛生を学びに来た学生を和ませる教育的効果があると論じていた。そのようにリフレッシュした学生は、展示のあまり気持ちの良くない方面、つまり排泄物に関わるものに集中することができただろう。

 [65-2] 1851年の国勢調査によれば、英国では人口の半数以上が都市に住んでいた。人口増加に伴う水道の汚染によってコレラやチフスが蔓延した。[65-3]未処理の汚水はロンドンからテムズ川へ流れ込んでおり、1858年夏にはゴミによって川が[66-1]ほぼせき止められて、「大悪臭」(Great Stink)が発生した。衛生改革の緊急性が叫ばれ、下水道と堤防を建設する予算が議会をすぐに通過した。

 [66-2] この惨状は衛生博覧会のころ(1884年)には多少マシになっていたが、衛生問題はロンドン市民の悩みのタネであり続けていた。そこで博覧会の開会の挨拶で、「国民の社会的および家庭的状態の歴史に新たな次代を拓くだろう」と述べたバッキンガム公爵が喝采を浴びた。[66-3] これに応えるかのように、陶磁器メーカーのドルトン(Daulton)(現ロイヤルドルトン)は一つのパビリオンのほぼ全体を占めて、下水管、便器、工業用陶磁器などを展示した。[67-1] またネイティヴ・グアノ社は、川に流入する前に汚水を浄化する技術を展示し、金賞を受賞した(技術自体は普及しなかった)。[66-3] なおグアノ(guano)とは、イギリスの畑で肥料として用いられていた〔化石化した〕鳥糞である。これは南米や南太平洋地域から輸入されていたが、大規模な採掘により枯渇し始めており、価格が高騰していた。

 [67-2] 排泄物関連の展示の次には「健康に悪い服」の展示がある。コルセットが内臓に与える影響が石膏模型で示され、対策として即座に金具を外せる新たなドレスが示されていた。服飾に関心がなければ、隣には養蜂に関連する技術改良の展示がある。

  [67-3] 観覧者はこの辺りで疲れ果てて帰っていいのかもしれないが、それではもったいない。というのも養蜂器具や気象観測器具の展示と隣接して、ある好奇心旺盛なホモ・サピエンスが、自らの種を改良するための実験を発案していたからだ。

測定者/人を測定する

 [68-1] 公式カタログによれば、「気象観測器具と隣接して、フランシス・ゴルトン氏によるいわゆる「人間測定研究所」(Anthropometrical Laboratory)があります。ここでは、体の主な寸法を測定したり、聴力や視力を確認したり、体力をテストすることができます」。記録カードが作業料だけで発行される他、それは複製されて統計のために保管された。[68-2] 6ヶ月の会期中、9,000人以上に対して17種類の測定が行われた。ゴルトンはこの結果に大いに満足し、博覧会とともに研究所がなくなるのは惜しいということで、サウス・ケンジントン博物館の科学ギャラリーの一室を借り、さらに6年間研究所を維持した。こちらの研究所では、最初の3年間で4,000人近くのデータを集めた。[68-3] こうした測定が人間をいかに形成しなおす(resharpe)と考えられていたか、それを知るためには[69-1] ゴルトンその人についてもう少し知る必要がある。

 [69-2] ゴルトンは、奇人だらけのヴィクトリア朝の基準から見ても尋常でない人物だった。エラズマス・ダーウィンの娘を母とし、6歳で『イリアス』について議論するほどの神童だったが、学業成績は良くなく、医学を修めることはできなかった。1840年、18歳でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入り数学を学んだが、キャンパスライフに夢中になり、普通学位(ordinary degree)で卒業した*3。[69-3] 22歳のとき父が死去。多額の遺産を得たゴルトンは学業をやめ、中東、スコットランド、南西アフリカへと旅に出かけた。ロンドンに戻って書いた最初の著書『熱帯南アフリカ探検者の物語』(Narrative of an Explorer in Tropical South Africa, 1853)には、ホッテントット〔コイコイ人〕の女性の臀部を土地測量用器具(セオドライト)で測定したエピソードが記されており、測定への関心が既に明らかになっている。「私はメジャーを大胆に取り出し、自分と彼女の距離を測って底辺と角度を得たあと、三角法と対数表で結果を得た」。[69-3] ロンドンでは自らの数学的能力を地図作成、地理学機器、気象予測などで発揮した。Anti-cyclone(高気圧)という言葉を生み出したり、新聞(Times)に気象予報図をはじめて載せたのはゴルトンである。1858年にはキュー天文台の理事に、1860年には王立統計協会のメンバーになり、同時期にはロンドン民族学協会の主要メンバーにもなっていた。

 [70-1] 1859年、いとこのチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版すると、ゴルトンはすぐに夢中になった。このことは、自分とダーウィンに共通の遺伝的な心の傾向によるのかもしれないと後には語っている。ダーウィンの「新しい考え方」を急速に摂取したことで、ゴルトンは「遺伝と人種改良の可能性というテーマを中心に集まっていた〔......〕様々な研究を推進する」よう促された。[70-2] 実のところこれは驚くべきことである。というのも『種の起源』は人間の進化にはほとんど触れていないし、まして「改良」については何も述べていないからだ。おそらくゴルトンは、生物が現在も進化しているという『種の起源』の有名な結びの句に触発されたのだろう。[71-1] ダーウィンが示しているのは、進歩(progress)は自然法則の一つであり、生物はすべて自己改良(self-improvement)というヴィクトリア朝の信条のもとに服しているということだ、とゴルトンを含む多くの人は考えていた。[71-2] また、ダーウィンが、家畜化された動植物を改良しようとする人間の努力と、自然が新しい種を創造する仕方を類比させていたことも、ゴルトンを触発した。ダーウィンは、人為選択が短い時間で成し遂げたことを踏まえれば、自然選択ではどれだけのことが出来るか想像してみるよう促す。[71-2] 生物には無限の改良の余地があるというこの感覚は、ゴルトンの想像力をかきかたてた。

 『種の起源』を読んで数年後、ゴルトンは「遺伝的才能と性格」について2つの論文を書いた。それは次のように始まっている。「人間が動物の生命に行使できる力は極めて巨大であり、自分好みのどんな品種でも作り出すことができる〔......〕[72-1] 精神の特徴も同様にコントロール可能であることを私は示したい」。動物の精神的特徴が改良可能なこと自体は狩猟犬などの例を考えれば明らかだが、ゴルトンはより議論を呼ぶ特徴を念頭に置いていた。すなわち、「非常に顕著な程度、才能は遺伝によって伝わる」。[72-2] ゴルトンは著名な男性の伝記を調べることによって、才能は家系を貫いていると確信した(女性が考察されることはほぼなかった)。

 このことの含意として、著名な男性が「精神、道徳、身体面で最も優れて最も適した」女性を説得して交配すれば、突出した子孫が生まれるだろう。子孫も同じように選択的結婚を行えば、ダーウィンの過程は劇的に加速しうる。「馬や牛の品種改良に費やしているコストと労力の1/12でも人種を改良する方法に費やしたなら、我々は天才の銀河を創り出せないだろうか!〔......〕[73-1] 我々が今日生み出したいと思っている男女なぞ、我々の良血統品種から見れば、東の町の街路にころがる最下層の(pariah)犬ころにすぎないのだ」。これはダーウィンの読みとしてはどこか倒錯している。ダーウィンは、将来的な種の「改良」を行うのは自然選択だと考えていたからだ。また実のところ、ゴルトンの考えは既によく知られていた人為選択を人間にも適用しようとするものにすぎず、この考えにとって『種の起源』は必要ないようにも思われる。しかしゴルトン自身にとっては『種の起源』が決定的だった。それは、人間は神によって独特の存在として創られたという宗教的見解を破棄するのに役立ったからだった。

 [73-2] ゴルトンは自身の理論に簡潔で覚えやすい名前を探し、はじめは「人間〔男性〕養殖」(viriculture)と呼んでいたが、結局は「優生学」に落ち着いた。自身のアイデアを雑誌で宣伝し、また『遺伝的天才』(Hereditary Genius, 1869) を著したが、この本は前述した論文と同工異曲のもので、高名な男性の説明を大幅に増補したものにすぎなかった。ゴルトンには知性やその他の精神の特徴を直接測定する手段がなく、社会的評判に頼るしかなかったのだ。[73-3] しかしゴルトンのアイデアはウケず、[74-1]『遺伝的天才』の書評はほぼすべて敵対的だった。たとえば『マンチェスター・ガーディアン』の書評は、優生学に対して現在でも有効な重要な反論を述べている。「ある男性の子孫が「市民としての役割」にふさわしくないかどうかを誰が決めるのか?」。

 [74-2] ゴルトンの最大の問題は、精神的な特徴が遺伝するという主張に本当の証拠が何もないことだった。信心深い多くの人はもちろん、そうでない人であっても、両親の健康と習慣が子供に影響すると信じていた。たとえば、たしかにアルコールは精神と身体を弱めそれは子供にも影響するが、同じ理屈から逆に両親が健康ならば子供は血筋とは関係なく健康になるし、また精神面での改良はもっぱら教育によって達成されると考えられていた。人は主として環境によって作られるのだ。こうした考え方は、ゴルトンの考えの魅力を削ぐものだった。人間を改良したいなら、選択的交配よりも禁酒運動や下水道改善のほうが喫緊の課題であった。1860年代は英国が非常に好調な時期で、有力者たちもスラムを取り壊して学校や下水溝を作ろうとしていた。

 [74-3] 遺伝環境論争は少なくとも[75-1] 18世紀後半からずっと続いており、〔ゴルトンが出てきても〕新しいものは何もなかった。ゴルトンは「遺伝」という言葉をフランス語(hérédité)から英語に持ち込み、自身の新しさを象徴する言葉にしようとした。しかし実際のところ、〔ゴルトンが示していた〕賢い親から賢い子が生まれるということ自体は広く認められていた。ただし、その主な原因は有利な環境が提供されることであり、知能の遺伝はそれほど重要ではないと考えられていた。この〔原因に関する〕見解をひっくり返すことこそがゴルトンにとっての本当の課題だったのだが、[75-2]ゴルトンは終始、遺伝的要因のほうが重要だと単に決めてかかっていたように思われる。1874年、ゴルトンは自身の見解を要約するものとして、記念碑的な対比を採用した。「「生まれと育ち」(nature and nurture)という言葉遊びは便利だ。人格を構成する無数の要素を二つの領域に分けられるからだ。生まれ(自然)とは人が生まれ持ってくるすべてであり、育ちとは生まれた後にその人に加わる外部の影響すべてである」。[75-2] なおこの言葉遊びはシェイクスピアの『テンペスト』から借用されたものである*4.

 ゴルトンは、社会改革者は自分のような高額納税者から得たお金を環境や教育の改善のために無駄にしていると確信していた。「赤子はみな同じように生まれるのであり、少年と少年、男と男の違いを作る唯一のものは耐えざる勤勉と道徳的努力である〔......〕などという仮説には我慢ならない」[76-1]「生まれの平等なるまやかしに私は徹底的に反対する」。ゴルトンはダーウィン主義を奉じ伝統宗教を軽蔑していたが、実際のところ非常に保守的な人物であり、「社会的に劣った」人々に恐怖を伴った軽蔑を感じていたのだった。

モートン卿の雌馬の再来

 [76-2] ゴルトンもその同時代人も、生物学的な意味での遺伝がどのようにはたらいているのかまったくわかっていなかった。[76-3] 『遺伝的天才』の出版後すぐ、ゴルトンはダーウィンから絶賛の手紙を受け取った。当時、『種の起源』の議論の弱点は遺伝の理論がないことだという批判がなされており、ダーウィンも遺伝について考えていたのだ。たとえば1867年、スコットランドの技師フリーミング・ジェンキン(Fleeming Jenkin)は次のように指摘した。[77-1] 生物が交配したとき、子孫は両親の特性が混合した特性を示すとする(これはゴルトンやダーウィンを含む同時代人の多くにとってもっともな仮定だった)。ここで、黒人の住む島に白人が難破して上陸した状況を考える。この人は「優勢な白人種の体力、エネルギー、能力」を持っている。この人はダーウィンの理論でいうと、偶然の変異で生じた新種に相当する。「難破した我々の英雄は生存競争の中で非常に多くの黒人を殺し、非常に多くの妻と子を得るだろう〔......〕だが何世代経っても、臣下である子孫を白人にするのには十分でないだろう」。この議論は人種差別的だが、論理は単純である。つまり、この英雄の子供は常に父より肌が暗くなるので、子孫は黒人のままだということだ。[77-2][78-1] そして同じことは、すべての生物のすべての形質に当てはまる。

 [78-2] ダーウィンはジェンキンの議論を懸念し、『種の起源』第5版(1869)でいくつかの変更を加えた。すなわち、新しい形態が孤立した奇形つまり「変種」(sport)として生じる場合には、たしかに種の本性を変化させることはできない。しかし、変種ではなく集団における通常のレベルの変異に焦点を当てれば、混合遺伝によって自然選択が無効になるわけではないことがわかる。ある種の鳥のくちばしに通常の範囲内でも様々な変異があるとすれば、一部の鳥は餌を巡る競争のなかで破れ、それが何世代も繰り返すことで、鳥のくちばしは特定のものに変化していく。

 [78-3] これでジェンキンを撃退することはできたものの、遺伝の明確なメカニズムがないことが自身の議論の大きな弱点であることをダーウィンは痛感していた。この問題にダーウィンは学生時代から悩まされており、「ビッグブック」(big spieces book)と呼んでいた本を書きながら考え続けていたが、[79-1] ウォレスからの手紙によって『種の起源』の刊行を急いだ。[79-2] その後「ビッグブック」の執筆に戻り、その一部が『家畜・栽培植物の変異』(The Variation of Animals and Plants under Domestication, 1868)になった。ここでダーウィンは、遺伝を巡るさまざまな不思議(puzzles)に焦点を当てている。[79-3] 現代の読者は『種の起源』ですら長すぎると感じるかもしれないが、『変異』には様々な動植物の品種改良について詳細な情報が大量に記述されており、もしウォレスの偶然の介入によって『種の起源』が今の形で出版されなければ、ダーウィンの理論の意義は大量の情報に埋もれて誰も理解できなかったかもしれない。ダーウィンが関心をもった様々な事例の中に本書の第一章で見たモートン卿の雌馬もあった*5

 [79-4] 関連する事例として、ダーウィンは先祖返り(reversion)の事例をたくさん知っていた。[80-1] ダーウィンは、ある特徴が先祖帰りして現れる原因が何であれ、その特徴は「見えないインクで書いた」文字のように存続し続けていたはずで、未知の原因の作用によってそれが再出現すると考えた。[80-2] ダーウィンはまた、サンショウウオなどの再生能力にも関心をいだいた。この事例は、「見えない」特性は生殖器官に限定されるものではなく、全身に及びうることを示すと思われた。そしてモートン卿の雌馬の事例は、「オスの要素がメスの形態に直接影響する」、つまりクアッガの本質が雌馬に残っていることを示すと思われた。

 [80-3] こうした様々な遺伝の不思議のあいだに一つの連関を見出すことがダーウィンの課題であった。『変異』の800頁にわたる詳細な事例記述の後、ダーウィンはついに「パンゲネシス(pangenesis)という暫定仮説」を提出した。すなわち、生物のすべての部分は「ジェミュール」(gemmules)と呼ばれる「微細な粒子を放出し、それは全身に行き渡っている。[...]この粒子は自己分割によって増殖し、」最終的には「全身のあらゆる部分から集められて生殖的要素を構成する」。[80-4] 現代遺伝学から見るとパンゲネシスは奇妙な理論だが、これを無視したり、逆にジェミュールを遺伝子の先祖として解釈したりしないことが重要である。この理論は、遺伝、発達、治癒(再生)といった現在では別個に考えられている事柄を併せて考える、「発生」(generation)思想の長い伝統から生まれたものなのだ。

 [81-1][81-2] ダーウィンはジェミュールを小さな生物のように考えていた。それは生き物の中で組み合わされて、子孫の特徴を生み出す。「未変異(unmodified)で劣化していない(=純粋で雑種化していない)ジェミュール」が両親にある場合「それらは結合しやすい」とされており、ジェミュール間には何らかの競争があるとされている。この競争では男性の要素のほうが強く、そのことがモートン卿の雌馬を説明するとダーウィンは考えた。またこのアイデアは、改良された新たな特性が持続し拡散する仕組みも説明すると思われた。[81-3] また重要なことだが、多くの同時代人と同様に、ダーウィンは獲得された特徴も遺伝すると考えていた。[82-1]しかしその場合、特定の器官の使用不使用が、どうやって遠く離れた生殖器官の細胞に影響するのだろうか。パンゲネシスはこの不思議にも答えられる。ジェミュールは生物が生きている間じゅう生産されつづけるので、変化した器官は変化したジェミュールを生産するのである。

 [82-2] ダーウィンは、発生に関する様々な事柄をひとつの説得的なアナロジーで説明しようとした。「動植物は種撒かれた土壌にたとえられる。すぐ発芽するものもあれば、長い間休眠するものもあり、腐るものもある。ある人の体には遺伝的疾患のタネがあるという表現には、大きな真理が含まれている。〔......〕有機的存在はミクロコスモス、つまり小宇宙であり、天の星がそうであるように、途方もなく小さく無数の自己増殖する有機体の群れから形成されている」。

 [82-3] ゴルトンは『遺伝的天才』を書き終わるころに『変異』を読み、パンゲネシスを支持する章を付け足した。とくに、ジェミュールは離散的な存在であって形質は混ざり合うことなく受け継がれるという点に感動した。肌の色のように明らかに混ざり合っていると思われる特性についても、実際は両親の別個の性質が非常に精緻なモザイクになっているだけなのだと主張した。だが、『変異』の多くの読者同様、[83-1] パンゲネシスには証拠がないことに不安を感じており、ジェミュールの存在を自ら証明しようと決意した。

血の中/親譲り

 [83-2] ジェミュールは「全身に行き渡っている」とされていたので、これは血液の中に見いだせるだろうとゴルトンは期待した。よく知られる通り、血(統)は品種改良と同義である。この喩えは文字通りに正しいのだろうか。ゴルトンは純血統のシルバーグレイのウサギに黒および白ウサギの血液を輸血し、その輸血を受けたウサギからまだら模様の子孫が生まれることを期待した。ダーウィンとも連絡を取りつつ様々な手法と輸血量を試したが、21回の妊娠から生まれた124匹の子孫の中に「雑種」は一匹もいなかった。[83-3] 失望したゴルトンは、少なくとも単純に解釈されたパンゲネシスは誤りに違いないと結論し、その結果を王立協会紀要に投稿した。ダーウィンはこれに珍しく怒り、自分は血液については何も述べていないと反論し、ゴルトンの結論は「やや早急である」とした。[83-4][84-1] 二人はさらに18ヶ月間ウサギの実験を続けたが、成果はあがらなかった。

 [84-2] しかしゴルトンはパンゲネシスをかなり信じており、独自の修正版を発表した。ジェミュールには休眠している「潜在的」なものと、発現している「明示的」なものの2種類がある。ゴルトンはこの2種の混交状態を、「様々な選挙区の代表からなる」議会になぞらえ、有機体の特徴群を「選挙結果」と捉えたが、これは多くの読者およびダーウィンには意味不明だった。[84-3] この理屈は、「この考察を人類の知的・道徳的才能に応用する」というゴルトンの目標を踏まえると多少理解可能になる。実のところゴルトンは、ジェミュールの議会がどこにあるかとか、ジェミュールが世代から世代へどう伝わるかにはあまり関心を持っていなかった。ゴルトンが気にしていたのは、才能の遺伝への反例としてしばしば指摘されていた、両親と子供の知性が極端に違うという事例だった。[85-1] ゴルトンが選挙区のアナロジーで言いたかったのは、家畜動物のように異系交配(interbreed)が激しい種・変種では、個体の特徴は様々な先祖から来たジェミュールの無作為選択によって決まるということだった。2匹の動物が交配するとき、その結果は「様々な印がつけられた無数のボールが入ったつぼ」から「無作為に引き出された」ボール群に似ている。「どの家畜よりも雑種化している」人間の場合でも同じで、たとえば両親が天才でないとしても、祖父が天才ならば、孫にその特徴が蘇ることがありうる。

 [85-2] 数学にうとかったダーウィンとは異なり、ゴルトンはある動植物を構成するジェミュールの混交状態を、偶然/確率の結果として理解していた。『変異』を最初に読んだときゴルトンは、パンゲネシスは「数学的定式化のための素晴らしい素材を与える」と書いている。またもう一つの違いとして、ゴルトンは器官の使用不使用や習慣は後代にほとんど伝わらないと断固として考えていた。[86-1] この信念は、後の生物学の中心教義を予感させる。1883年にヴァイスマンは、生殖細胞は体細胞に一方向的にしか遺伝的影響を与えないと主張し、この考えは20世紀の遺伝学の進展にとって決定的なものとなった(本書の後の章でに扱う)。当時ヴァイスマンはゴルトンのことを知らなかったが、のちにゴルトンが先駆者であることを認めた。しかしながら、ゴルトンの遺伝の理論が政治的確信以上のものに何ら依拠していなかったことは重要なことである。

 [86-2] ゴルトンは修正版パンゲネシスを証明するために、今度はスイートピー(Lathyrus)の種子の重さが遺伝の問題だと確かめようとした。最初の実験が失敗すると、ダーウィンを含む国内の友人や親戚に種子を送り、成長したら返却してもらって実験を続けた。だが結果は明確ではなかった。というのも、ゴルトンは最初の種子を重さ別に分類していたためにそこには多品種の種が混在しており、[87-1] 最終的な種子の重さの違いは生育環境の違いによる可能性があった。しかしこれをゴルトンは気に留めていなかった。「私が求めていたのは人類学的証拠であって、単に人間の遺伝を解明する手段としてしか種子には関心がなかった」のである。

 [87-2] 結局、ゴルトンの優生思想の中心信念を証明するには人間からの証拠が必要だった。1874年、ゴルトンは王立人類学協会(Anthropological Institute)の評議会に、イギリスの学校を横断して身長と体重のデータをとることを提案し、承認された。この測定は精神的・道徳的能力とは関係ないように思えるかもしれないが、ゴルトンは「健全な精神は健全な肉体に宿る」の格言を固く信じており、両者は確実に結びついていると考えていた。この見解は広く受け入れられていたものでもあった。

 [87-3] だが、男子生徒を測定しても世代間の比較はできないため、遺伝についてはほとんど何も分からなかった。そこで1882年3月、ゴルトンは国家規模での人間の測定、つまり「人間測定」(anthropometric)研究所の設立を訴え始めた。この研究所で人は、自分と子供の様々な身体能力、および、記憶力や手と目の協調といった心的能力を評価される。[88-1] それらは病歴や写真、出身地の情報と共に記録される。人々が測定への意欲を持つように、研究所はキャリア相談センターとしても機能することが提案された。生まれは育ちより強いのだから、こうした測定によって「その人に何が本当に向いているか、何をすれば落胆するリスクが最小かを予測できる」のであった。また研究所は医師が患者を送る先としても歓迎されるだろうとゴルトンは論じた。医師にとっての研究所の便利さは、「物理学者にとって、精密機械を送って誤差を調整してもらえるキュー天文台が便利であるような」ものだとされた。ここで患者は精密機械と類比されており、ゴルトンが人々を手段としてしか見ていなかったことを伺わせる。

平均人の進化

 [88-2] ゴルトンの熱意にも関わらず、研究所に関心を持つ人はいなかった。そこでゴルトンは自ら測定を行うことにした。だが、人間を相手にする困難はウサギやスイートピーの比ではなかった。「多くの男女の愚かさと頭の悪さは、ほとんど信じがたいほどである」。たとえば、ゴルトンの研究所にあった力を測定する器具はできる限り単純につくられていた。底にバネのついた筒の中に木の棒が入っているもので、被験者は棒をパンチして筒のどこまで入るかを見るだけというものだった。[89-1] しかし、衛生博覧会開始数週間のうちに「ある男が棒を片側から殴りすぎて、折ってしまった」。より強い素材に変えたが「これも折られ、手首を捻挫する人も出た」。[89-2] その他にも、「老人は若者に負けるのを嫌い、何度も試したがる」という問題や、実演や説明に手間がかかってしまう問題が生じた。後者については、被験者を2人1組にすることで「頭の回転の早い方」が先にテストを受けて他方のお手本になる、という解決策を講じたがそれでも時間がかかり、一日で90人ほどしか測定できなかった。[89-3] また会場では様々なアルコール類が供されていたため、[90-1]「あきらかにしらふではない暴漢が研究所に闖入してきた」。

 [90-2] 様々な困難にもめげず、ゴルトンはいくつかの論文を公刊するのに十分な結果を得た。データを分析する過程では、パーセンタイルや相関係数など、今日でも使われる統計ツールを発明・改良した。だが大衆の想像力を捉えたのは、どう測定したかではなく何を測定したかだった。たとえばゴルトンは、男性と同じくらい力強い女性がいることを観察した。だが「そうした才能がある女性は稀であり」「英国の人口全体を考えても、有能なアマゾーンの連隊を数個もつくれない」と述べた。この発言は『パンチ』の目に止まり、屈強な乙女が夫を働きに出させるといった内容の風刺詩が作られた。

 [90-3] ゴルトンは結果の分析と研究所の宣伝に邁進した。精確性には限界があるものの、測定結果は[91-1] 様々な身体能力と職業や出生地の関連をテストする素材を提供するものであり、大きな重要性を持つとゴルトンは主張した。だが、ゴルトンの測定の最大の問題は、ゴルトン自身が最も関心を持っていたはずの、精神の特徴を評価する方法がないことだった。ゴルトンは様々な専門家になにか使える器具はないか助言を求めたが、有益な提案はなかった。頭部の測定は選択肢の一つだったが、帽子や髪量の問題で女性を対象にすることが困難だと予想された。[91-2] 視力、聴力、色彩弁別能力なども測定されていたが、これは人間より動物のほうが視覚や聴覚が鋭いという仮定のもと、人がどの程度原始的ないし野蛮かがわかるというものにすぎなかった。仮にこうした測定が本当に知能を解明するものだったとしても、遺伝のことは何も分からなかった。ゴルトンは簡単な血統書も収集しており、親子の身長の関係を分析して興味深い結果を得たものの、精神的能力の遺伝の決定的証拠は得られなかった。

 [91-3] ゴルトンは諦めなかった。家族で発生する遺伝病のデータを収集するように医師を説得しようとし、優れた分析には500ポンド*6もの懸賞金をかけたが、応じる人はいなかった。1884年には同じデータを市民から集めようと50頁に及ぶアンケートを配る試みを二度行い、最も優れた回答にやはり500ポンドの賞金をかけたが、150人分の回答しか得られず[92-1] 小規模の賞金を出して終わった。また、親が子供の成長記録をつけ、その記録を子供に引き継いで完成させる「人生史アルバム」を考案し、出版を手配した。だが仮にこれが熱狂的に迎えられたとしても、十分なデータを蓄積するには数世代を要する。[92-2] ゴルトンが直面した解決不可能な課題は、精神能力測定の困難さよりもさらに、ホモ・サピエンスが極めてゆっくりとしか繁殖しないことだった。

 加えて、人間は極めて非協力的な実験動物であり、実験室につれてくるための説得だけでも大仕事であった。説得の一環として、1890年、ゴルトンは人間測定の利点をうたった安価なパンフレットを出版した。第一章で「なぜ人間を測定するのか?」と問いかけ、これまで見てきたような様々な利点が提示されるものである。だが、ゴルトンの強調する崇高な純粋科学に貢献したいと思った人さえ、人間の変異が論じられている部分を読むとやる気が削がれたかもしれない。ゴルトンは特別な個人にしか興味がなく、「平均人は道徳的にも知的にも面白みがなく」「我々のおぼろげな視野に全生命体の目的だと映ってくる進化に対して、直接的な助けにはならない」などと述べているからだ。ゴルトンの関心は特別素晴らしい[93-1] 人類の標本を支援し、特別劣ったものを排除することにあった。平均人にはなんの役割もない。ただ「精密機械」として、誰が例外かを定義する基準になるだけだ。同時代人の中に、自分が測定されることに興奮を覚える人がほとんどいなかったのも無理はない。

 [93-2] 平均人への軽蔑は、研究室を訪れた群衆の「愚かさと頭の悪さ」への苛立ちから育ったのかもしれない。泥酔してやってきて、単純なテストにも頭を悩ませて時間をとらせ、機械を破壊せず検査を終えることができない。こうした人を「文明の預言者、高級聖職者」に変化させることは不可能であり、ゴルトンに出来ることといえば、そうした無価値な標本を人口から取り除く手助けをすることだけだった。人間測定研究所開設の10年以上前、ゴルトンはこう書いている。「劣等人種が優等人種の前につねに滅び去っていったように」「才無き者が地上から消え始める」日を楽しみにしている、と。この過程は厳しいものではないとゴルトンは考えていた。才能あるものが劣後者を「優しく」扱ってやるからだ。「ただし、そうした人々が独身を貫く限り。これらの人々が道徳的、知的、身体的に劣った子供を作り続けるのであれば、国家の敵とみなされ、優しく扱われる権利をすべて失うときが来るだろう」。この予言は、ゴルトンの予言のなかで当たった数少ない一つである。後の章でも見るが、20世紀初頭にゴルトンの思想への関心が再び高まり、多くの国で「優生学の名のもとに」多くの強制不妊手術が行われ、最悪の事態がナチスドイツで起こった。

 [93-3] ゴルトンは1911年に死んだ。自分の理論が巻き起こした恐怖を見るには早すぎる死だった。死後、国立優生学研究所の設立と優生学の教授職へ寄付するために45,000ポンド(現在価格で300万ポンド以上)を残した。遺伝へのこだわりを踏まえると皮肉なことだが、これだけの遺産を残すことが出来たのはゴルトンが独身だったからだ。思想だけが唯一の子供だったのである。

*1:[要約者注]公式カタログ: https://archive.org/details/gri_33125008618163/page/n3/mode/2up

*2:[要約者注] 1872年6月8日付けの記事で、1873年から1880年までの博覧会の展示品を予告するという体でめちゃくちゃなリストが書かれている。 https://archive.org/details/punch62a63lemouoft/page/240/mode/1up

*3:[要約者注] イギリスでは成績優秀者には優等学位(Honours degree)が与えられることがある。

*4:[要約者注] "A devil, a born Devil, on whose nature nurture can never stick” (Act 4, scene 1, lines 188–192)

*5:[要約者注] 一度クアッガと交配させたことのある雌馬を雄馬と交配させたところ、クアッガのような色やたてがみをもつ仔馬が生まれたという事例

*6:[要約者注] 現在価格で約1,400万円