https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/bioe.12404
- Räsänen, J. (2017). Ectogenesis, abortion and a right to the death of the fetus. Bioethics, 31(9): 697–702. https://doi.org/10.1111/bioe.12404
1. 序
- 中絶の権利の主要な擁護者は、妊娠を終える権利と胎児の死への権利とを分け、前者は存在するが後者は存在しないと考えている(Singer & Wells, 1984; Thomson, 1971; Boonin, 2003; Kamm, 1992; Warren, 1982; Manninen, 2013; Porter, 2013)。
- 〔[要約者注] 胎児の死への権利(a right to deathof the fetus)は、胎児を殺す(killing)か死なせる(letting die)かについては中立である。6節参照〕
- Mathison and Davis (2017)は、体外発生(ectogenesis)技術(=人工子宮)が利用可能になった場合を想定し、やはり胎児の死への権利は存在しないと論じている。
- 体外発生技術により、女性の妊娠を終える権利と胎児の「権利」が調停され、中絶を巡る議論は終わるとする声もある。
- M&Dは、女性が胎児の死への権利を持たないことを示すために、3つの論証への反論を行っている。
- この論文はそれらに再反論を加える。胎児の死への権利は存在する。
- ただしそれは女性の権利ではなく、遺伝的両親が共同でもつ権利である。
2. 生物学的な親にならない権利
【A. 「生物学的な親」の権利による論証】
- 1. 生物学的な親になることは、子供に対する親として義務ゆえに、カップルに危害を生じさせる。
- (生物学的な親は子供に対し道徳的責任を感じ、そのことが重大な心理的危害になるということ)
- 2. カップルは、親としての義務という危害を避けることに利害関心がある。
- 3. したがって、カップルは、親としての義務という危害を避けるために、胎児の死への権利を持つ。
- M&Dは、生物学的親にならない権利を認めると反直観的な帰結が生じると論じる。
- 代理母、配偶子提供者、子供を養子に出した親なども同様の道徳的責任を感じるかもしれないが、その時に子供に対する何らかの権利が追加で生じるとは思われない。
- だがこの反論は単なる直観に訴えたものにすぎない。直観を正当化するための適切な理論が欠けている。
- これに対し、配偶子提供者には親としての義務(と、おそらく権利)が実際に存在するとする多くの議論がある(Weinberg, 2008; Nelson, 1991; Beneter, 1999; Moschella, 2014; Brandt, 2016; Botterell, 2016)。養子に出した親に関しても同様(Porter, 2012)。
- これらの議論が正しければ、生物学的な親は、親としての義務という危害を避けるために胎児の死への権利を持つと考える理由がある。
- M&Dが行うべきだったのは、生物学的な親には親としての義務がないとする議論を展開するか、あるいは元の論証が失敗している別の理由を示すことであった。
- これに対し、配偶子提供者には親としての義務(と、おそらく権利)が実際に存在するとする多くの議論がある(Weinberg, 2008; Nelson, 1991; Beneter, 1999; Moschella, 2014; Brandt, 2016; Botterell, 2016)。養子に出した親に関しても同様(Porter, 2012)。
- なお、生物学的な親にならない権利は女性だけのものではない(pace Overall, 2015)。
- 生殖は2人が関与する共同行為なのであり、同様の権利は生物学的な父親にもある。
3. 遺伝的プライバシー権
- 体外発生技術が実現したさい、女性(および男性)が、当人の同意なしに、その遺伝的子供をもつ事態が生じうる。
- この場合、両者の遺伝的プライバシー権が侵害されており、これを避けるには胎児の死への権利を認めるしかない。
【B. 遺伝的プライバシー権による論証】
- 1. 人は遺伝的プライバシー権を持つ
- 2. 体外発生による中絶は、胎児の遺伝的親の遺伝的プライバシー権を侵害する。
- 3. したがって、遺伝的親は胎児の死への権利を持つ。
- M&Dは、遺伝的プライバシー権には一定の限界があり、よくても自分の全ゲノムが同時に公開されない権利がある程度だと述べる。
- 子供は母親から遺伝情報を50%しか受け継がないため、母親の遺伝的プライバシー権は侵害されないとされる。
- だが、遺伝的プライバシー権の限界に関する主張を認めるとしても、この議論が示しているのは、胎児の死への権利を母親が持たないことにすぎない。
- 子供は両親から遺伝情報を100%受け継いでいるのだから、遺伝的両親は胎児の死への権利を共同で持っていることになる。
4. 所有権
【C. 所有権からの論証】
- 1. 胎児は遺伝的親の所有物である。
- 2. 人は自らの所有物を破壊してよい。
- 3. したがって、遺伝的親は胎児を破壊してよい。
- 生殖補助医療における凍結余剰胚の扱いを考えると、前提1と2は直観的である。
- ここでM&Dは、所有物に対して行いうることには限界がある、と論じる。
- だが、この主張にどのような正当化が与えられているかはよくわからない。M&Dは所有者でも歴史的建造物を破壊してはならないとするが、他方で希少な絵画は破壊していいとも述べている。
- またM&Dは、胎児(および凍結余剰胚)は親の50%の遺伝情報しかもっていないために、その親は胎児(および余剰凍結胚)を所有できないとも述べる。
- だがこれも、胎児の死への権利が片方の親にはない理由にしかならない。胎児は両親の共同所有物であり、胎児の死への権利も共同の権利であると考えられる。
- さらにM&Dは、胚の作製には多くの人が関わっているために、親が所有することはできないという「労働混合論」(labor-mixing)も提示している。
- だが、遺伝的結合が道徳的に重要という上述の立場は親の所有権に有利に働くし、そもそもこの議論はIVFの場合にしか通用しない。親は子供を所有しないという点に訴える人がいるかも知れないが、それは子供が人格だからであって、労働の混合とは関係がない。
5. 生物学的親が胚の今後について意見を違える場合
- ここまで、生物学的が親は胎児の死への権利を持つと論じてきた。
- だが、体外発生が可能になり、かつ、生物学的両親が胚の今後について意見を違える場合には、どうするべきなのだろうか?
- この場合、両親が同意しない限りは胚を殺したり死なせたりするべきではないと考える理由がある。
- まず、両性は性交することによって、その可能な帰結を暗黙裡に受け入れていると言える(Weinberg, 2015)。
- 性交の帰結には二人が共同で責任を持っているのであり、(これまで述べた理由も合わせて)、胎児の死への権利は集団権利(collective right)である。集団権利は一人では行使できない。
- 遺伝的両親の見解が違える場合には、現状維持アプローチをとるべきだと思われる(本論文では、このアプローチの十分な正当化は行わない)。
- つまり、変化させることは、そのままにすることよりも、強い正当化を必要とする。
- 妊娠への介入がない場合、胎児は子宮の中で発達する。したがって、現状維持アプローチによれば、胎児の死を望むのが片方の親でしかない場合には、胎児を殺したり死なせるべきではない。
- 体外発生技術が実現している場合、胎児はそのまま発達し続けられるように人工子宮に移されるべきである。
- 胎児を子宮から取り出す処置が、結果として胎児を死なせる中絶よりもはるかに母体に有害な場合は、この限りではない。
- まず、両性は性交することによって、その可能な帰結を暗黙裡に受け入れていると言える(Weinberg, 2015)。
- 別の事例:元妻が元夫との間に作った凍結保存胚で妊娠したい場合。
- この場合、元夫が同意しない限り、元妻は妊娠すべきではない。だが逆に、元夫は、元妻が同意しない限り、凍結保存胚を破棄させることもできない。
- このことは、胚は使用されないにも関わらず無期限に凍結保存されるべきであるという奇妙な帰結を生じさせる。が、そうするべきなのである。
- さらに別の事例:生物学的父親が不詳または匿名の場合。
- 本稿の範囲外である。ただ、匿名の場合は権利を放棄したとみなし、母親のみが胎児の死の権利を持つと考えて良いと思われる。
6. 結論
- 遺伝的親は胎児の死への権利を持つ。
- なぜなら、同意なき体外発生は、生物的親にならない権利、遺伝的プライバシー権、所有権、を侵害するからである。
- この権利が存在するために、体外発生技術は中絶に関する論争を終結させない。
- 胎児の死への権利を主張した人はこれまでもいた(Ross, 1982; Mackenzie, 1992; Overall, 2015)。
- だが本論文は、この権利はカップルが共同でのみ行使できる集団権利であるとした点で、これらと一線を画している。
- なお本論文では胎児を殺す権利までは擁護していない。
- また本論文の立場には平等という価値がある。体外発生技術に際して両性は平等に権利を行使するとしているからである。