えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

徳について(2)――アリストテレス マッキンタイア[1984=1993]

美徳なき時代

美徳なき時代

目次
第4章 先行の文化と、道徳の正当化という啓蒙主義の企て 
第5章 なぜ啓蒙主義の企ては失敗せざるを得なかったのか
第6章 啓蒙主義の企ての失敗がもたらした諸結果
第11章 アテナイでの諸徳
第12章 アリストテレスの徳論 ←いまここ
第15章 諸徳、人生の統一性、伝統の概念

美徳なき時代
第12章 アリストテレスの徳論

「伝統」

アリストテレスは自分の見解を以て過去は捨て去られると考えていた。→アリストテレスを「伝統」の代表者としてみなせるのは、彼が気づいていなかった種の伝統に基づく場合だけ。(叙事詩・悲劇とアリストテレスを結びつけるのは聖書の文化で歴史を知った後継者たち)
「ニコマコス倫理学」――古典的伝統にとって規範となるテキスト
・全ての活動・探求・実践は何らかの善を目指す(自然主義的誤謬は誤謬ではない)。人間は本性によって特有のテロスに向かう。つまり、善は人間の本性を基に定義されるが、諸徳はポリスの諸特徴に根差す→地域的でありながら普遍的でもある善そのものの説明(緊張)

エウダイモニアと諸徳

・善そのもの(エウダイモニア)とは何か? →未決定
・諸徳とは何か? → 所有によりエウダイモニアが達成できるようになる性質(徳の発揮はエウダイモニアにとって構成的)
・徳の行使は正しい行いにつながるが、徳を行使しなくても生来の気質で正しい行いはできる。しかし、その気質は訓練されてないので情動の餌食となる。そこで、有徳に行為する=諸徳の陶冶によって形成された傾向性から行為すること(非カント的)。
→有徳な行為を、そうと知って行うという知識の必要性。「有徳なことを有徳であるが故に行う」
「人間としてその人にとって本当に善であるもの」←諸徳の実践=選択……判断力の必要性
この際の判断力とは「規則の適用」ではない〔κατα τον ορθον λογονな判断のことである〕。ニコ倫に規則への訴えは少なく、規則の順守にあたる道徳の多くは、国家の法の順守であるされる。
法はある種の行為を絶対的に命じ禁じる。また、法には地域的正義の規則だけではなく自然的正義の規則も含まれる(罰の程度のみが国家ごとに違う)。これはなぜか→人間は社会的動物だから。

・共通の事業を達成する共同体がもつ2つの評価的実践
(1)共通の善に貢献するような性質の評価(ある種の特性を徳/悪徳と認める)
(2)善の実行を妨げ共同体の絆を破壊する害悪(違法行為)の同定
・対応する共同体の役割からの背き方:(1)十分善い人ではない(2)違法行為を犯す。この二種の存在は、諸徳の説明に、絶対的に禁じられるタイプの行為の説明を補うことを必要とする。
・他方、法の適用の仕方を心得ること自体が正義の徳をもつもののみに可能なこと
→しかし法はいつも規則的に適用できるとは限らない。その場合、「カタ・トン・オルトン・ロゴン」に行為しなければならない。「カタ・トン・オルトン・ロゴン」な判断とは、過不足に関する判断であり、アリストテレスは諸徳の特徴として中庸を挙げる。

フロネーシス

・従って中心的な徳はフロネーシス〔思慮の健全さ/節制/実践知〕:自分にふさわしいことを知っている、誇りを持って自分にふさわしいことを要求する。
フロネーシスは知性的徳だが、これがなければ性格的徳はどれも行使されない。
・知性的徳:教授を通して獲得/・性格的徳:習慣的な訓練によって獲得
しかし、生まれつきの性向を性格的徳へ変容させるには、κατα τον ορθον λογονに徐々に訓練するのだから、両者には密接な関係がある。
→だからアリストテレスによれば性格的徳と知性は分離できない(cfカント・愚かな善き人)。
・諸徳には相互関係があり、ある性格的徳を発達した形態で持つには他のすべての徳を所有しなければならない(諸徳は複数の尺度を提出するものではない)。
この尺度の同意が、ポリスを成り立たせる市民間のきずな=友愛を成立させる。友愛とは、ある善を分かち合って認め追求すること。だが近代では友愛とは関係でなく情緒的状態の名になった→道徳的多元主義との結びつき:アリストテレス主義の道徳的統一性の放棄

アリストテレスの欠点1:競合する価値の問題

しかし実際のアテナイには多種多様な価値の対立があった。アリストテレスの描写は理想化に過ぎない。アリストテレスはプラトンから徳の単一性を受け継いでおり、個人の性格の調和は国家の調和に再生産されると考えられた。
→抗争は個人の性格上の欠陥・非知性的な運営の結果
→悲劇の英雄が挫折するのは自分自身の欠点ゆえ。状況が悲劇的であるからではない。
神の観照は人間にテロスを与えるが、悲劇のように神は人間に介入しない。しかし神の観照はテロスであるから、エウダイモーンな人生の終局的な構成要素である→本質的にポリス的な人間観と本質的に形而上学的な人間観との間の緊張(アリストテレスは諸徳の所有を観照より下位に置く傾向があるが、これは場違いだろう。)

アリストテレスの欠点2:自由の問題

ポリス的諸関係とは、自由人相互の関係であり、支配すると同時に支配されるような共同体の成員同士の関係である。→自由は諸徳を行使するための条件
しかしアリストテレスは、非ギリシャ人・異邦人・奴隷は政治的関係を持つ能力がないと書く。生物種としての個人はテロスを持つが、ポリス・ギリシャ・人類はテロスに向かう歴史を持たないので、ギリシャ人・異邦人などは固定した本性をもつと考えられる。ある人々は本性上ともかく奴隷である。

アリストテレスの洞察

しかし以上の欠点は人間の生における徳の位置を理解する枠組みを傷つけるわけではない。特に強調すべき洞察が2点ある。

1:楽しみの問題

・楽しみは成功した活動に伴うものである。従って、我々が楽しみや快や幸福をテロスと考えるのは自然ではある。しかし高度に特殊な楽しみは各々異なる行為タイプに結びつくため、(ミル)楽しみというだけでは特定の活動に乗り出させる理由を与えない。従って楽しみをテロスとして考えることは誤っている。

2:実践的推論の問題

・実践的三段論法についてのアリストテレスの説明は、人間の行為が理解可能得あるための諸条件を言明しているものとして、そして人間的と認められるいかなる文化にも妥当するはずの仕方でその言明を行っているものとして、解釈しうる。
ここから実践的推論には4つの本質的要素があるとわかる
1:推論が表現しないが前提する行為者の望みと目標。推論の文脈を与える〔Bratmanの計画〕
2:大前提:「〜〜は誰それにとって善いタイプの事柄である」
3:小前提:知覚判断「これが要求されている事例である」
4:行為
→2において徳と実践的知性が結び付く。理論的な推論がテロスとして同定し、実践的な推論が行為として同定したものの追求に、情念を合致させるよう教育することが倫理の主題である。従って理性は情念のしもべではありえない。

アリストテレス構造を危険にさらす3つの問題領域

1.形而上学的生物学。この生物学を拒否して、目的論を保持することがどのように可能か?
2.都市国家なき後にアリストテレス主義者であることは可能か?
3.悲劇的衝突を構成する善と善との衝突をどう考えるか