えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

行為者とは自分自身を演じる即興役者である Velleman (2009)

How We Get Along

How We Get Along

  • Velleman, D. (2009). How we get along. Cambridge, MA: Cambridge University Press.
  • 1. Acting

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  • 行為と身体運動の違いは、表面上[overt]同じ行動を含む行為と非行為を比較するとわかる。例えば泣くという行動について(笑いでもいい)。
    • 完全に非意志的な感情の流出として……痛みのショックで涙が出る
    • 完全に計画的な行為として……泣くふり・嘘泣き
    • 本物だが意志的な行動として(中間)……痛みのショックを受け切った後、泣くままにまかせること
      • これは情動に駆動されたが、行為者によって行為へ象られている。というのも、泣くにまかせるといっても制御を失っているのではない。泣き方にも色々あるのであって、行為者は泣くことについての自分の把握[conception]に応じて、時と場所にあわせて例えば涙が床にこぼれないようにしたり、服で涙を拭ったりする。
  • 人はそれぞれの持つ行為概念にあわせて情動を表出する。

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  • 行為者はストラスバーグのメソッド演技法を用いる役者に似ている。役者は動機や思考や感情を実際に持ち、その表出は役に合うよう調節される。
    • ただし、情動は芝居とは無関係な事柄について考えることで喚起されるし、どの情動をどう表出するかは脚本で先に指定[dictate]されている。この点で、やはり役者はふりをしている。

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  • だが以上の制約は、即興演劇の場合にはなくなるだろう。
    • 即興役者はまず役と状況を理解し、この役ならこう振る舞う「だろう」というアイデアを〔舞台上で〕演じる [enact]。
      • この「だろう」というのは、その役の動機や性格などの観点からして、その状況でその行動をするのは(素朴心理学的に言って)「理解できる/その役らしい」(make sense)ということだ(「しなければならない」ということではない)。
    • ただし、役者は状況が架空のものだと知っているし、役者自身はと役とは全然似ていないかもしれない。

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  • そこで、自分を演じる即興役者というものを考えてみよう。この人は実際の状況に応答し、それが実際に喚起した思考や感情を、自分の実際の態度や性格を考慮した上で表出する。
    • この人物には、行為への動機の源泉が二種類ある。一つは、役に帰属される一階の傾向性である。もう一つは、その傾向性をその役らしい形で演じようという高階の動機である。これは役者に帰属される。
      • 一階で複数の動機が対立した場合、その表出がよりその役らしい方に高階の動機が力を加えることで、対立は解消する。
    • この役者が泣きたくなった時、はじめは制御できない情動があふれて涙が出る。ここで、自分がなぜ泣いているか分からない場合、役者には泣くのはこの役らしくないと思われ、泣きやむ。他方、何が悲しくて泣いているか分かっている場合、実際に悲しいから泣くのだが、泣き方はその役らしい泣き方にかんする把握により統御される。
    • 注:この自己把握は、コースガードの「実践的アイデンティティ」に似ている。だが後者は「自分の人生・行為を生きる・行うに値するものとする記述」という評価的なものである。前者は、ある行為を因果・説明的観点から理解できるものとする記述であり、評価的ではない。人生と行為を価値あるものとして見ることは、行為者性から切り離しうる。

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  • だが、以上の話は合理的行為者性とどう関係するのか。というのは、役者が役らしい行動をしなければならないのは観客がいるからで、理性的行為者にはそのような観客がいないようにおもわれる。
  • だがそうではない。理性的行為者にとって観客は自分自身なのである。このことは、理論理性と対象としての自己理解によって可能となる。
    • 人間は生まれつき旺盛な知的渇望を持っているが、2歳頃になると、自分自身を理解すべき対象として把握するようになる。だがこの対象は特殊で、自分がすでに理解していることをしてくれる協力的な対象なのである。子供は、自分自身にとって理解できることをすることで自分自身を理解できることを学ぶ。
    • 対象としての自己という概念が備わったとき、人間は自分の行動の理解を求める観客となり、そして、自分にとって理解可能な観念を演じることによって、この観客の意に応えていくようになる。

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  • 即興的に自分を上演すること、これが、理由に基づいて行為を選ぶプロセスである実践的推論を構成する。つまり行為者は、行為を理解可能にするという「根拠」に基づき、ひとつの観念を選びそれを演じるのである。
  • これまで哲学者は、実践的推論において行為者の心に各々の考慮事項のリストが次々浮かぶごとく考えていた。これはミスリーディングである。
    • (1):行為者が考慮事項を個別化し重み付ける方法が抜け落ちている
      • 考慮事項は、それが行為の理解に貢献する分だけ望ましいとされる。そして、考慮事項はバラバラなものでなく、むしろ状況・自分自身・行為の全体的な布置なのである
    • (2):実践的推論について行為者がもつ暗黙の自己意識を無視している

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  • (2)をもう少しはっきりさせたい。
    • (哲学の)文章を構成する各文は、その命題内容の論理的関係によって理解可能な結びつきを保つのではない(論理の誤謬)。各文が「仮説の提示」、「吟味」、「棄却」、「修正」といった書き手の心理過程を表象しているが故に、理解可能になる。

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  • 同じことが、行為を導く思考についても言える。自己意識を無視しては、思考を行為に結びつけているものが何か、理解できないはずだ。
    • 自己理解を求める行為者は、事柄を意識にのぼらせることで、その素材に自分自身を付け加える。ある考慮事項は、自分にとって望ましくあるいは恐ろしく思われることで、自分らしい行為の仕方を示す。
      • それも、自分の欲求や恐怖に明示的に言及する思考よりはっきり示す。

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  • 自己意識の無視という点は、近年ではむしろ美点とされている。
    • 例えばブラックバーンは、熟慮において私たちは外界へ注意を向けるのであり、自分自身の欲求を内観したりしないと述べる。
  • だが外界を注意している時でさえ、私たちは自分の思考に気づいている。そしてこの意識が行為を統御するのだ。悲しさに注意を払わずとも、悲しさの暗黙的な意識に基づき泣くことができる。
    • また、思考ではなく思考の意識の方に注意を払うことは行為の能力に干渉する。自分の性格や態度を前提にその役らしい判断を導く推論に注意を傾けていると、役者は役に没入できないだろう。

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  • 従って、合理的行為者は自己上演のメカニズムに注意しない。だが、行為が自己演技の産物である点を隠していてはならない〔。つまり、実践的推論の意識がなければならない〕。
    • さもなければ行為者は、自分が何も演じていないかのように振る舞う「不誠実」な人間(サルトル)と化す。不誠実を含む真正性を欠いた形式の行為は、自分がやっていることに関する誤った把握、そしてその結果実践的推論の失敗から生じる。
      • 〔注7:例えば、自分が持っていない観念を演じようとすると意志の弱さに陥る、〕

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  • 【反論1】合理的行為者が「理解できるもの」を求めるというのは、これが「正しい、最善(と思われる)もの」を意味するなら当然だ。だがこれは純粋に認知的で、素朴心理学の語彙で説明できるとされた。曖昧では。
  • そうではない。狙って主題を変えているのである。正しさ、善さは理解可能性から派生するということを以下では示す。

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  • 【反論2】全ての行為の究極目的が自己理解になってしまう。おかしい。
    • 誤解である。自己理解は、例えば快とか健康とか友情とかよりも究極的な目的な訳ではない。そうではなく、自己理解はそれらのものの追求の仕方[manner]の目的なのだ(この点で「効率性」に似ている)。
      • 快や健康などの追求は理解可能なものであるが、それは私たちがそれらを欲しているからだという点には注意せよ。

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  • 【反論3】実践的推論の「眼目」は実践的問い、つまり「何をすべきかの問い」に答えることであり、そして「されるべき」ものへ私たちを導く「機能」を持つのでなければおかしい。
    • まず眼目について。実践的推論の取り組むべき問いを中立的に特徴付ければ、「行為を行うことで解決できる」問いだと言える(理論的問いは、「信念を形成することで解決できる」問いである)。
      • 反論はこの問いを、直接行為に関連する「何をすべきかの問い」だとするが、逆である。行為や信念について問うことで、問いが実践的/理論的になるのではない。実践的/理論的推論によって取り組まれる問いに答えられるものが、行為や信念になるのだ。
  • 「信念を形成することで解決できる問い」は、「何を信じるべきかの問い」ではない。「何が真か」という問いだ。そしてこの問いに答えられる態度が信念なのである。
  • 同様に、「行為をすることで解決できる問い」は、「何をすべきかの問い」ではない。この問いは、それに答えうることが何かが行為であることにとって構成的である問いである。それこそ「何が理解可能なのかの問い」だと論じてきた。

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    • 機能について。ある意味で、「実践的推論」という語は「実践的に役立つ推論」という意味を持つ。だがここではこの語を「行為を帰結する推論」、もっと言えば「その結論であることが何ものかを行為にするような推論」という意味で使う。
      • 言い換えれば、実践的推論は「実践」という領域における機能を持つものではなく、その領域を定義するものなのだ。
    • 実際、ここまで実践的推論の「機能」については何も言わなかった。実践的推論に機能があるなら、それはおそらく進化的なものだろう。
      • そして、そのような適応度に貢献するタイプの機能が眼目から読み取れると考える理由は全くない。

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  • 【反論4】怠惰のような悪徳を踏まえると、先延ばしすることがもっとも自分らしいと言うことがありうる。最も理解可能なことが真の理由と乖離してしまう。
    • だが自分自身をあえて怠惰だと考える人とはどういう人なのか。恐らく、怠惰さと葛藤する野心や価値をかかえていて、反省的に己に不賛同の態度を示しているのではないか。するとこの人にとってもっとも自分らしいのは、先延ばしではなくむしろしっかりとした動機を探すことだろう。
      • 実践的推論は今の〔役としての〕自分「について」の理解可能なことを目指すだけではない。葛藤をかかえた人の自己理解は錯綜して曇ったものであるから、むしろ葛藤を減らして自分の人生を自分にとってもっと見通しのよいものにすることもある。つまり、〔観客としての〕自分「に対し」理解可能なことをも目指す。
      • ただし、あまりに怠惰すぎるので怠惰を克服する努力が自分らしくない場合はある。行為者は、より合理的な行き場が分かるのにそこに行く合理的な方法が分からない、「合理性のどん詰まり」にいる。
  • これを許すのはむしろ美点だろう〔。こういうことは本当にあるからだ。〕アリストテレスも強調したように、どん詰まりを避けるような自己把握をもたらす大きな要因は生まれのよさである。