えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

徳について(1)――アテナイ マッキンタイア[1984=1993]

美徳なき時代

美徳なき時代

目次
第4章 先行の文化と、道徳の正当化という啓蒙主義の企て
第5章 なぜ啓蒙主義の企ては失敗せざるを得なかったのか
第6章 啓蒙主義の企ての失敗がもたらした諸結果
第11章 アテナイでの諸徳 ←いまここ
第12章 アリストテレスの徳論
第15章 諸徳、人生の統一性、伝統の概念

美徳なき時代
第11章 アテナイでの諸徳

アテナイ

・プラトンの対話編で暴かれているのは、対話者の不注意ではなく、アテナイの文化での評価的言語の使用における一貫性の欠如という一般的状態である(国家ではホメロスの詩人が追放された)。主要な道徳共同体が血縁集団からポリス、しかもアテナイの民主国家へと変化した時、諸徳についての考え方も変化した。ただし、これはひとそろいの社会形式から別の社会形式への単純な移行ではない。なぜなら
・血族関係からくるホメロス的な諸価値は、部分的に実質的な形で生き残っている。
・ある徳の概念が特定の社会的役割の概念から遊離する:問題は「良い人間であること」へ
→しかしその問いは、優れてそうあるべき人間生活を提示する都市「アテナイ」という状況の中で生じる。つまり、「良い市民であること」と「良い人間であること」との関係が問題となる。実践の多様性に関する知識が問いの事実的背景を供給する。

徳に関する見解の不一致

・ホメロス的な「協力的徳」と、アテナイ社会の反映である「競争的徳」の区別。
しかし、前4・5世紀における道徳の不一致は、単に一揃いの徳が別のものと対置されていることから生ずるのではない。同一の徳について共同する考えが共存している(Ex.「正義」)。
徳に関してアテナイ人の中でも見解が分かれているのであり、4種の見解を考察する必要がある。(1.ソフィステス 2.プラトン 3. アリストテレス 4.悲劇作家/ソフォクレス)
ただし、諸徳がその中で行使される環境、または諸徳がそれに言及して定義される環境が<ポリス>であるという点ではみな一致している。

徳の位置は都市国家の文脈の中

従って、「良き市民」と「良き人」は結びつく。
・ソーロシュネー(思慮の健全さ)にもやはり解釈の多様性が存在。
・徳が発揮される文脈としてのアゴーン(競技)。アゴーンは時代とともに変質し、民主主義の集会、悲劇の核心における抗争……哲学の対話形式にまで広がる。→政治的なもの、演劇的なもの、哲学的なものというカテゴリーが密接に関連している。(乖離はいつ起こったか? →後の課題)

1.ソフィスト

・諸徳に対する競合する定義の存在 & にもかかわらずポリスとアゴーンが諸徳の舞台
 →諸徳に関す競合する哲学的説明の出現:ソフィスト(そのラディカルなもの)
・トラシュマコスとアガメムノンの類似性:勝利/成功が行為の唯一の目標(成功の倫理)。そして、成功とは特定の年における成功なので、成功の倫理は相対主義と結びつく(アテナイにおける正義・スパルタにおける正義……)。しかし、そもそも徳は〔道徳は〕非相対主義的な立脚点を持つのだから、ある状況で称賛したものを別の状況では非難するという不整合に陥る。→もっとラディカルな徳の再定義(カリクレス)へ。
・カリクレスは、通常の道徳語法が崩れようとも「知性を支配に使う人、そしてその支配を自分の欲求を際限なく満たすために利用する人を賛美する」という立脚点に立つ。
反論の方法
1.道徳的な善と人間の欲求を切り離す(ストア派・カント)
2.幸福・欲求の満足についてカリクレスとは別の考え方を提示する(プラトン)

2.プラトン

カリクレス:欲求の満足はポリスの支配に実現 ⇔ プラトン:欲求の満足は理想国家に実現
現実のどんな都市も支配者は理性によって支配されていない。満足は政治ではなく哲学により達成される(しかし徳は依然政治的:有徳な人の説明は有得な市民の説明から切り離しえない)。
理性の命令=魂の諸部分が特有の機能を果たすこと ……→ 諸徳の再定義
・ソーフュロシュネー:欲求が理性に従うこと
・アンドレイア:気概が理性に従うこと
・ソフィア:理性が善のイデアを認識すること
・ディカイオシュネー:魂の各々の部分にその特定の機能を割り当てること
プラトンは再解釈により徳の相対主義・不整合・そして解釈の多様性を一挙に拒否した。互いに競合する諸徳はあり得ない。しかし、悲劇を可能にするものはまさにそれである。

4.悲劇作家/ソフォクレス

ソフォクレスは、不両立な善への忠誠を探求した。
問:ある徳が別の徳と対立し、しかもその両方を真に徳としてみなすことはありうるか?
今日の回答1:ありえない(諸徳の統一)。「ある宇宙秩序が存在し、それが、人間の生という全体的に調和の取れ得た枠組みの中に各々の徳を位置づける」という前提(プラトン・アリストテレス・トマス)。
今日の回答2:〔ありえない〕(諸徳の異質性):諸徳の空の選択を表現する判断は、真か偽かで特徴づけることができない(バーリン・ウェーバー)。
ソフォクレスの回答:ある。客観的道徳秩序は存在する。しかしそれを察知する我々の力は、対立する道徳的真理を完全に調和させることができるほどではない。にもかかわらず、その道徳的秩序と真理を承認しているので、選択したからといって、対立する主張の権威から逃れることはできない(ここに悲劇がある)。
・ソフォクレス的な道徳主唱者と共同体/社会的役割の関係は、英雄とも個人主義とも違う
 ∵社会秩序に居場所がなくては何物でもなくなる(▲個人主義)& 悲劇的衝突に直面しそれを認めることで、社会がそうだと見なす存在を超越する(▲英雄時代)
・ソフォクレス的な道徳主唱者は、英雄の人生と全く同じような「自分に特有の物語」をもつ
私は、諸徳についての英雄社会の説明とソフォクレス的なそれとの間の違いも、正確にはどんな物語形式が人間の生と行為の中心的諸特徴をもっともよく把握しているかの違いになると考えている。〔マッキンタイアの仮説〕<諸徳についてのある立場を採用することは、一般的に言って、人間の生の物語的な性格についてのある立場を採用することになるだろう>(p.177)
 仮説の成立の説明:人間は害悪に何らかの仕方で遭遇し何らかの程度の成功で打ち勝つ。この時、人間の生が害悪を経ての進歩(Progress)として理解されるなら、諸徳とはその所有と行使がこの営みの成功に資する性質と位置付けられる。人間の生はこのようにある物語を具体化するが、その概要と形式は、何が害悪か、成功と失敗・進歩と退歩がどう理解され評価されるかに依存する。この問いに応えることは、徳とは何かという問いに答えることになる。
・ソフォクレスの劇で危殆に瀕しているのは個人の運命だけではない。劇の登場人物は、共同体を代表しつつ自分の役割を果たす個人。
・ソフォクレス的自己は社会的役割の限界を超越するが、同時に死ぬまで変わることなく責任をとる。 →この自己は、自己が実際に勝つか負けるかができるということ、つまりある種の目的追求を要求する秩序の存在を前提する。
・問題は、こういう秩序は存在するのかという点 →アリストテレスへ