えめばら園

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胎児の痛み Derbyshire & Bockmann (2020)

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  • Derbyshire, S. W. and Bockmann, J. C. (2020). Reconsidering fetal pain. Journal of Medical Ethics, 46:3-6.


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序論

 1983年、レーガン大統領が、胎児が「痛みに反応する」可能性に言及したのを皮切りに、複数の文脈でこの可能性が指摘されるようになった。近年では、胎児の痛みの可能性は中絶論争に巻き込まれており、中絶を規制しようとするアメリカのいくつかの法律で、この可能性が引き合いに出されている。著者2人は、中絶についてまったく異なる見解を持つ。だがこうした道徳的見解が、胎児の痛みの可能性にかんする議論に干渉してはならないと考えている。
 比較的リベラルな中絶関連法をもつ高所得国では、90%以上の中絶が13週より前に行われている。以下の議論によれば、この時期の中絶では、胎児に痛みが生じる有意義な見込みはない。以下で考察するのは、13週以降の中絶において、胎児が痛みを感じる可能性である。
 この論文ではまず、(1)胎児が痛みを感じるかどうかは、治療目的での胎児への介入の場合には倫理的重要性をほとんど持たないことを指摘する。つづいて、胎児の痛みに関する(2)神経科学的証拠と、(3)心理学的証拠とを検討する。

治療目的での胎児への介入

 治療目的での胎児への介入は、1963年から始まり、劇的な発展を遂げてきている。80年代まで、手術は鎮痛剤や麻酔なしで行われていた。新生児の安全に懸念があったのと、新生児は痛みを感じられないと考えられていたからだ。しかし多くの臨床試験から、鎮痛剤や麻酔は新生児にも安全であり、また使用したほうが予後が良いことが明らかになった。そこで現在では、鎮痛剤や麻酔が用いられるようになっている。
 ただし介入にあたって、胎児の最善の利益のために、鎮痛剤や麻酔を使用しないことは理論上はありうる。このとき、もし胎児が痛みを感じられるならば、胎児は痛みを感じるだろう。しかし一般に、命を救ったり改善する誠実な努力の一貫として患者に痛みを課すことは正当化できる。したがって、胎児が痛みを感じるかどうかは、治療目的での胎児介入の場合には、あまり倫理的重要性を持たない。
 中絶の場合は事情が異なる。現在のところ中絶は、鎮痛剤や麻酔なしで行われる唯一の侵襲的な胎児介入である。もし胎児が痛みを感じられるならば、中絶は胎児に痛みを感じさせるだろう。ところが中絶は、(痛みを伴う将来的な障害を防ぐかもしれないが、)胎児の命を救ったり改善しようとするものではない。したがって、(そうした障害の可能性が(ほとんど)ない場合、)胎児にはその痛みから得られる将来的な利益が(ほぼ)ない。また多くの証拠が示すように、治療目的の胎児介入を行う医師は胎児の鎮痛を常に考慮しているのに対し、中絶を行う医師は妊婦の方に注目している。したがって、胎児が痛みを感じるかどうかは、中絶の場合には、大きな倫理的重要性をもっている。

胎児の痛みを支持する神経科学的議論

 痛みについて、次のことが広く合意されているとよく言われる。大脳皮質が発達し、脊髄や視床を介して末梢神経が大脳皮質に接続されなければ、痛みを感じることはできない、と。こうした発達は、おおむね24週以前にはあらわれない。そこで多くの医療機関や報道は、24週以前に痛みは不可能だと述べてきた。
 だが実際のところ、痛みの下限は20週だと推測する多くの論文があった。またいずれにせよ現在、24週以前に痛みは不可能だという主張は明らかに合意事項とは言い難い。まず、大脳皮質は痛みに必要ないことを示唆する研究がいくつか報告されている。また胎児の痛みの支持者は以前より、サブプレート(将来の皮質板の下に形成される一過性の構造)の活動が胎児の痛みを支えていると推測してきた。視床からサブプレートへの投射は12週に始まる。サブプレートは皮質板の発生を待って消滅するが、成熟した感覚機能に必要なニューロンの結合と活動は、皮質板に受け継がれる。すべての感覚システムは同じ発達軌道をたどり、そこにはサブプレートが含まれるため、サブプレートにおける感覚ニューロンの体性マッピングが、感覚ホムンクルスを支えるのではないかと考えられている。

胎児の痛みを支持する心理学的議論

 別のアプローチでは、「痛み」という言葉で私たちが意味するものに注目する。国際疼痛学会の定義が出発点とされることが多いが、この定義では、痛みは現象的であると同時に反省的(「私は痛いということを知っている」)だと理解される。しかしこの場合、十分成長した人間しか痛みを持てないことになってしまう。そこで、より直接的で非〔=前〕反省的な痛みの感覚(「痛い」)に注目することが重要になる。
 直接的で〔前〕反省的な痛み経験という可能性は、痛みが皮質下の活動に基盤を持つという提案に明快に合致する。ただし、直接的で〔前〕反省的な痛み経験は、痛みの本性や経験内容についての明晰さを欠く。通常、痛みを経験するさいには、痛みを感じるものとして自己が経験されるし、その経験は記憶や理解に取りまかれている。また痛みは、特定の身体部位や、脅威刺激を指示している。だが胎児の経験はこのようなものではない。
 ここでは胎児の痛みについて以下のように提案する。胎児は、ただ存在する痛みを、それが存在するがゆえに経験するのであって、それ以上の経験の理解(comprehension)はなく、単に直接的な把握(apprehension)だけがある。この経験が生じる時期は未知だが、しばしば12週より後だと推測される。
 この立場は、動物の痛みについての次の立場に非常に似ている。すなわち、動物は痛みを感じないかもしれない、あるいは何か直接的・身体的で、反省と結びつかないものを感じはするが、それを不快だとは見なさないかもしれないし、そもそも何とも思わないかもしれない、という立場である。このような痛みには道徳的重要性がないと考えることも可能かもしれない。だが、胎児や動物が〔道徳的に重要な〕痛みに近いものを感じないと決めてかかるのは道徳的無謀であり、ここでは避けたい。

胎児の痛みの道徳的含意

 以上のように、後期中絶においては胎児が痛みのような何かを感じるかもしれない証拠がある。このことを踏まえると、臨床チームと妊婦に対して、胎児鎮痛を考慮するよう奨励することは妥当だと思われる。
 ただし、この「奨励」が、中絶処置のなかに具体的にどう反映されるべきかについて、著者らの見解は一致していない。著者の一人は、中絶に対する人道的なアプローチとして、死の瞬間の胎児の利害を考慮することは可能だと考える。胎児の鎮痛が有意味かどうかは、中絶の臨床基準、胎児の週齢、関係者の良心に基づき、臨床チームと妊婦が検討できる。著者のもう一人は、第2トリメスター以後の中絶は胎児に不必要な痛みを与える可能性があると考える。そこでこの時期以降、特に末梢と脳の接続に良い証拠が認められる18週より後の中絶では、鎮痛薬や麻酔を投与すべきである。

おわりに

 胎児の痛み経験の精確な本性は不明であり、もしかすると永遠に不明なのかもしれない。しかし本論の重要な実践的成果は、後期中絶の際には胎児の鎮痛を考慮することが合理的であるという点で、著者らが同意できたことだ。鎮痛剤・麻酔の導入は新たなリスクをもたらす可能性もあるが、専門の臨床チームや妊婦はそうしたリスクを考慮しバランスを取ることができると信じる。
 全体として、証拠およびそのバランスの取れた読みに基づけば、胎児は発達中の神経系の活動によって、直接的で〔前〕反省的な痛みを、早ければ12週には持っている。こうした痛みが生じる瞬間は定まったものではない。胎児の発達は漸次的なものだし、また直接的・〔前〕反省的な痛みは12週より後でなければ不可能だとするいくつかの証拠も確かにある。ただし、12-24週において胎児の痛みが不可能だと考えることは、もはやできない。