えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ヒト培養肉とカニバリズム Schaefer & Savulescu (2014)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/japp.12056

4節 カニバリズム

  • 培養肉技術が発達すると、ヒト肉を作製する可能性が出てくる。
    • カニバリズム(人肉の消費)が流行するとは思えないが、関心を持つ人はある程度いるだろう。このことから、培養肉技術はおぞましい慣行につながりかねない、という滑り坂論法を展開できる。
  • カニバリズムに対する一般的な反発を考えると、ヒト培養肉の禁止は現実的にかなりありそうだ。
  • だがまずは、人工的に作成されたヒト細胞や臓器を食べることの何がそこまで問題なのかを問うべきである。
カニバリズムの危害
  • カニバリズムの多くの事例には、「人肉を消費する」という要素に加えて、「人間を殺す」および「死体を冒涜する」という要素が含まれる。
    • 後者の2要素のために、多くのカニバリズム事例はたしかに道徳的に好ましくない。
  • だがヒト培養肉の場合こうした要素はない。
    • 製造過程で人間が殺されるわけでも、死体が冒涜されるわけでもない。
  • では、カニバリズムそれ自体(人肉の消費それ自体)は道徳的に悪なのだろうか。
  • 有罪判決が出た主な食人事件において、犯人は殺害と死体冒涜で有罪になった。カニバリズムで有罪になったわけではない。
    • そもそも、カニバリズム自体は多くの地域で合法である(アメリカではオハイオ州のみがカニバリズムを非合法化している)。人を殺して食べた人を裁くには、殺人罪があれば十分なのだ。
  • 私たちはカニバリズムに嫌悪感を抱くかもしれない。
    • だが、何かに対する嫌悪感は、それが不道徳だと考える理由にはならない。
      • ナスへの嫌悪感は、ナス消費が不道徳だと考える理由にはならない。
  • この、「カニバリズムそれ自体が悪かどうか」という論点はこれまであまり注目されてこなかった。
    • 以下では、カニバリズムそれ自体が悪いとする議論を検討する。
人間の尊重
  • Ferré (1986) は、カニバリズムは人間の内在的価値を軽視(disrespect)しているために悪だと論じた。
    • 曰く、人間には創造的で自由な能力がある。そうした能力の価値が、人間を肉としてしか見ないことによって、軽視されてしまう。
      • この議論の利点は、「本人から自発的に食べられたのだとしてもカニバリズムは悪い」という直観をうまく説明できる点にある(2001年ドイツで実際に生じた)。
  • 軽度の問題点:輸血や臓器移植目的で人体組織を合成することも、人間を単なる医療資源としてしか見ていない点で、人間を軽視していることになるのでは?
    • 応答:人命にかかわる場合、人間の軽視の禁止は解除される、と考えることができる。
      • 実際、生き残るためにやむをえず食人した事例は許容可能だと考えうる(1972年にアンデス山脈の航空事故で実際に生じた)。同様に、臓器合成も人命を救うためであれば許容可能だと考えうる。
  • 重要な問題点:Ferréの議論をヒト培養肉に適用することは困難である。
    • ヒト培養肉の製造過程では、価値を軽視される人間は存在しない。
      • 誰かから人肉を取るわけでもなければ、創造的能力を奪うわけでもない。食用にされるのは単にヒト組織および細胞である。
    • 移植目的で細胞を提供したり、他人からの提供細胞を利用することは、その人を軽視していることにはならない。〔同じことが培養肉にも当てはまる。〕
  • ヒト培養肉の作製は、特定の人ではなくて、種としてのヒトを軽視していると言われるかもしれない。
    • だがどこに軽視があるのかは明らかではない。たしかに人肉を食べることは、人間に内在的価値を認める態度を直接には含まないだろう。しかしかといって、その価値を転覆・毀損する態度が含まれているわけでもない。
  • 最初のヒト培養肉の製造には人間ドナーが必要である。だがドナーから適切なインフォームドコンセントが得られていれば、ドナーが軽視される心配もない。