えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

17世紀の自然法(スアレスとグロティウス)シュナイウィンド (1998) [2011]

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

  • シュナイウィンド・J (1998) [2011] 『自律の創成』 (田中秀夫監訳 法政大学出版局)

第一部 近代自然法の興亡

第二部 完全性と合理性

 16世紀スペインのカトリック神学者は自然法理論の豊かな注釈を生み出したが、その最大の継承者がスアレス(1548-1617)だった。スアレスは主意主義の基本的論点を認めつつもトマスに同意するという総合を行った。しかしモンテーニュ流の懐疑論に対する応答はなく、グロティウスがこの問題に取り組むことになった。

1 スアレス——法における知性と意志

 『法並び立法者たる神について』(1612)のスアレスは大筋でトマス的な見解を持つ。しかし、法の形成における知性と意志の関係についてはトマスを越えて進む。法は、「何が善かを指し示す機能」(指示的=論証的機能)と「行為を起こさせる力を供給する機能」(「戒律的機能」)の両者を持たねばならない。主知主義者は、神が存在せずとも悪を知らせる理性の命令が法として働くという。しかし知識を与えるだけでは法は構成されない。本性的に善い悪いものは存在するが、神がそれを求めよ/避けよと自らの命令を加える意志を働かせることで、はじめて義務が生じる。

2 スアレス——法とその公布

 神は不可能なことは命じないので、法が何を命令しているのかは認識可能でなくてはならない。ただしスアレスは、「自然法とはその内容に関する限り万人にとって一つのものであるが、それを知ることに関しては、万人にとって完全なものではない」とする。神は自然の光を通じて(指示的・戒律的両方の意味で)法を公布する。しかし、自然法の諸原理には自明のもの(正義は守られなければいけない)と推論を経ないとわからないもの(高利貸しは悪い)がある。後者に関しては無知が生じる。トマスは自然法によって人間の本性が完全になりうると考えたが、この点についてはスアレスは賛同しなかった。

3 スアレス——服従の動機

 スアレスは人を動かして行為させる方法を、関係者の上下関係に応じて「戒律(法)」「勧告」「請願」に分けた。法は行為を要求する正当な力である拘束力を持つが、とくに自然法は万人に対する拘束力を持つ。
 しかしスアレスは、自然法の順守は選択肢のない強制であってはならず、自発的順守を必要とするとも考える。われわれはある行為を、「それは自然法に要求されるから「正しい」ものであろう」と考えることによって動かされる(このことは、有用なもの、善いものに動かされるというトマス的見解に反対する)。自然法は他に正当な選択肢がないことを示し、「あたかも」意志を強制しているかのごときものとなるのである。

4 グロティウスと宗教信仰

 今日グロティウスは国際法学者によって研究される。しかしここでは、モンテーニュの懐疑論に答え道徳を再検討するという近代的努力の始まりとして彼を理解していく(本人はそうは考えなかったが)。
 グロティウスの独自性は、世俗化された自然法理論を作ろうとした点にあると言われてきた。しかし、有名な「神がいなかったとしても……」という議論はすでにスコラ学者の中にもあったし、誠実なキリスト者であり宗教論もあるグロティウスはこの仮定が真だとは思わなかった。
 ただし、グロティウスの宗教的著作と「戦争と平和の法」での宗教理解には大きな差もある。後者では、自然法の理解と順守に必要とされる信仰箇条はわずかなものだとされており、キリスト教を信じていないという理由のみで戦争を仕掛けるのは正しくない。また、宗教論では「万物が自らと全体の善両方に役立つ」という信念が語られるが、「戦争と平和」ではこの信念は現れない。このことは重要である(後述)。

5 グロティウスの問題設定

 グロティウスは異なる宗教に属する交戦中の集団の間での権利をめぐる論争を合理的に解決する立場を見つけ出そうとしていた。ここには2つの問題がある。まず、自国の法が法のすべてだとすれば、国際論争を解決する方法は武力しかない(懐疑論)。次に、プロテスタント国とカトリック国が対立した場合には、聖書に訴えることもできない。そこで、人間の命令ではなく自然から発せられる法に訴えなければならないとされるのである。
 グロティウスは、懐疑論者といえど我々が利益を追求する一方で社交を求める存在であることは否定しないと考える。この2つの性向により、社会秩序維持の問題が重要性を帯びてくる。そしてまさにこのことが自然法に重要性を与えるのである——自然法に服従すれば世界の善と自分の善が等しくもたらされることを保証する神は引き合いに出されない。永遠の法や人間本性の完成に関する考慮ではなく、社会秩序維持の問題に対する回答として自然法が重要である、というこの問題の立て方こそ、グロティウスの独創性である。

6 「たとえわれわれが認めるべきだとしても……」

 自然法は、どの行為が卑しく神によって禁じられているかを我々に示す理性の命令である。しかしこれらの行為はそれ自身悪いがゆえに神に命令されている。グロティウスは、われわれを固有の特徴をもって存在するように意志したは神であり、この意味で神の自由意志が法の源泉だと言うものの、全体的には主意主義に反対している。
 しかしここで、神の意志とは独立に規則が義務を課すのならば、神の意志はいらないのではないかという疑問が生じてくる。義務の性質を神の道徳〔から切り離すことで〕、グロティウス主義にとってこの問題はさけられないものになった。

7 徳の不十分性

 グロティウスはアリストテレスの見解を退けなければならなかった。
 まず中庸の学説では正義が説明できない。アリストテレスは、正義を構成するような、適切な情念における中庸の例をあげることができなかった。正義は「他人の物に対してつつしむ」ところに存しており、重要なのは実際に奪ったかどうかだけである。
 さらにグロティウスは徳を中心とした倫理を批判する。徳は法へ服従する習慣にすぎず(トマス)、そういう習慣を行為者がなぜ持つ/持ち続けるのかは全く重要ではない。そして、権利とは有徳な性質が関係するような善ではなく、神ですら尊重し中ればならない人間本性に結び付いた特殊な道徳的属性なのである
 またのちには、法が裁量の余地あるときには許容できる範囲にとどまるものが有徳であるとされ、徳から特殊な洞察力が生じるという側面も否定する。

8 権利と共同体

 ドゥーガルト・ストゥアートによれば、近代の自然法論者は正義をモデルに様々な徳を外的規則の観点から定義していった。グロティウスにおいてその方略の一つは、完全な権利と不完全な権利の区別だった。完全な権利が生じさせる「正義の法」の下では、人は完全な義務を持ち、その侵害は戦争その他の暴力行使の正当事由を与える。一方、不完全な権利には強制力こそ持たないが、それに関わる「愛の法」が存在する。例えば、穀物販売者が船荷の到着を購買する可能性のある人に伝える事は厳密な義務ではないが、すれば称賛されるし、しないと愛の法に反する。愛の法と正義の法は対等の資格で扱われる。
 グロティウスは、権利とは人間本性の一部であり、法を基礎づけると考えた。これは、法によって権利が作られるという旧来の見解から離れている。権利を個人の本質的属性とする考え方が近代ヨーロッパで支配的なのはグロティウスの影響である。しかし、グロティウスは共同体を軽視していたわけではなかた。法が権利を反映するのは我々が共同体を形成できるようにするためである(愛の法も自然法である)。自然法は便宜性にしか基づかないものなのではなく、社交的で理性的存在としてのわれわれの本性に根差すのであり、懐疑論者には悪いが自然法を愚弄することは自滅的で愚かである。