えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

先延ばししがちな人のための徳の処方 Millgram (2010)

The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination

The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination

  • Andreou & White ed. (2010) *The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination*

【目次】
Part I
3 Sarah Stroud "Is Procrastination Weakness of Will?"
5 Jon Elster "Bad Timing"
7 Christine Tappolet "Procrastination and Personal Identity"
Part II
9 Elijah Millgram "Virtue for Procrastinators" ←いまここ
Part III
12 Chrisoula Andreou "Coping with Procrastination"

  徳倫理のある伝統の中では、「xが徳ある行為である」を「もし完全に有徳な行為者があなたの状況におかれた場合、xするだろう」と定義します。これに対しウィリアムズは次のような批判を行いました。たとえば「アルコールを家に置いておくかどうか」という問題に際し、徳ある人ならば、お酒を戸棚に残したままでいるでしょう。しかし例えばアルコール依存症者にとってこれは明らかに最悪の選択肢であり、戸棚ごと捨ててしまう方が賢明です。従って徳倫理は、アルコール依存症者に対して誤った回答を与えてしまうことになります。かといって、では理想的な人物像をまねできない人は有徳でないとしてしまうと、徳倫理の適用範囲は非常に狭められ、倫理的にあまり重要でないものになってしまいます。
  しかし、徳倫理の基本的な思想は、<倫理的に問題なことは、あなたがいかなる人間であるかである>です。アルコール依存症者であっても、自分自身を処する方法には賞賛すべきものとそうでないものが確かにあるはずです。理想的人物をまねできない「負け組」に対して徳理論は何を言えるでしょうか?
  
  ◇  ◇  ◇

  ところで、多くの善にはある不思議な特徴があります。例えば、子供や仕事は人生を価値あるものにするとよく考えられますが、しかし子育てや仕事をする時間幅の一瞬一瞬を切り取ってみてみると、たいていはつらぽよ時点ばかりなので、この善はこうした瞬間のどこか(あるいは全体をまとめても)に位置づけることができません。これをキャロルから借りて<善の「明日もジャム昨日もジャム」構造>と呼びましょう。こうした状況である種の「先延ばし」が生じます。人間の動機は、(諸)時点において具体的に目に見える善に強く結び付いているという心理的な事実があるからです。
  こうした先延ばしを避けるにはどうすればいいでしょうか? 先ほどの事実を逆手にとれば、特定の時点に位置づけられた目的へ向けてなら徐々に進むことができるということです。たとえばハイキングも、「明日もジャム昨日もジャム」構造の善を持っています。ハイキングはハイキング自体に価値があるわけですが、しかしわれわれは風景や名所という時間的に位置づけられた目的があれば、一日のハイキング全体のためのモチベーションを保つことができるでしょう(「湖まであと2kmだよ!!」)。このように、ダミーの目的を設定することで、われわれは先延ばしを避けることができます。
  われわれは<明日もジャム昨日もジャム構造の善>には不十分にしか動機づけられない傾向性を事実持っているので、おそらくみんな「先延ばし者」なのです。そんな「われわれ」にとっての徳とは、仮の目標を設定し、その目標にはあんまり価値が無いという思考を抑圧することなのです。
  
  ◇  ◇  ◇
【おまけ】
善の<明日もジャム昨日もジャム構造>は次の一見自明ですが不整合な三つ組としても描写できます

(1)人生が幸福なら、人生の圧倒的多数の瞬間も幸福であるはずである
(2)多くの人は幸せな人生を送っている。
(3)多くの人の人生の殆どの瞬間は、別に幸福な瞬間ではない。
そうすると、そもそも明日もジャム昨日もジャム構造の善は可能なのかでしょうか? しかしここに真のパラドックスは存在しません。
 まず、明日ジャム昨日ジャム善は、それを構成するものの中に、<足跡>を残していきます。あなたの読んだある哲学書は、その時点では意味不明だと<評価>されるかもしれません。しかし回顧的には、あなたの哲学的発展の「転換点」と<特徴付ける>ことができます。人生を構成するもろもろの出来事は、その時点で経験される現在的性質と<足跡>という二種類の性質を持つのです。

 足跡1       足跡2
 現在的性質1    現在的性質2
【出来事1】  → 【出来事2】

ある出来事の価値は、それが<その時点で評価>される場合には、足跡の価値よりも具体的に感じられる現在的性質のほうが規定的な役割を果たすでしょう。だから、赤ちゃんのおむつを替えるのは、その時点では、決して幸福ではない出来事ありません。しかし、先見的・回顧的に出来事を<特徴付け>る場合には、われわれは足跡の方に注目します。

 子育て=善        子育て=善
 臭い=悪         眠い=悪
【おむつかえる】  → 【よなかにごはんあげる】

従って、
(1)人生が幸福なら、人生の圧倒的多数の瞬間も<回顧的に特徴づけた場合>幸福である
(2)多くの人は<回顧的に特徴づけた場合>幸せな人生を送っている。
(3)多くの人の人生の殆どの瞬間は、<その瞬間に評価する限りは>別に幸福な瞬間ではない。
というかたちで見かけの不整合は解消されるのです。