えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳の正当化(1)――啓蒙主義の企て マッキンタイア[1984=1993]

美徳なき時代

美徳なき時代

美徳なき時代

目次
第4章 先行の文化と、道徳の正当化という啓蒙主義の企て ←いまここ
第5章 なぜ啓蒙主義の企ては失敗せざるを得なかったのか
第6章 啓蒙主義の企ての失敗がもたらした諸結果
第11章 アテナイでの諸徳
第12章 アリストテレスの徳論
第15章 諸徳、人生の統一性、伝統の概念

 今日の日常的な道徳的言説のありかたを理解するには、哲学史をみる必要がある。哲学が文化の周縁となった今日では信じられないが、今日の専門的な哲学の問題の根源と実践的な日常社会の問題の根源は、実は一つである。つまり、18世紀の「啓蒙主義」文化が、実践的であると同時に哲学的であった自らの問題を解決できなかったことが、今日の学問的問題・社会的問題に決定的影響を与えた。

啓蒙主義とmoral

 啓蒙主義はフランスの文化史において考えられることが常であるが、実際はフランスより、スコットランド・イングランド・オランダ・デンマーク・プロシアなどの北欧で始まったと言える。マタイが書いたということよりバッハが書いたという理由で聖書に耳が傾けられるようになるこの音楽的文化の中で、宗教的なことと審美的なこととの伝統的な区別がぼやけてきた。→道徳的信念の正当化に関する疑問も出現する。
 moralに値する語は古典ギリシャ語にもラテン語にもない。ηθικοςがキケロによってmoralisと訳されたが、これは「性格上の」という意味でしかない。英語のmoralもはじめは「実践的」といった意味で、今日的な意味は16・17世紀に獲得されていった。その時期、「道徳を合理的に正当化する」という試みもなされた。道徳の領域を神学、法律、審美の領域から区別することが一般的になった17世紀後半〜18世紀にはじめて、「道徳を他の領域に依存しないで合理的に正当化する」という企てが、個々の思想家のみならず、北ヨーロッパ文化にとって中心的な問題となる。
 ここまでの章では、<道徳論争を、通約不可能な諸前提の対立と見なし、道徳的コミットメントを、そうした諸前提の間での基準のない選択の表現としてみなす立場>(情緒主義)を現代的な立脚点として取り上げた。この立場は道徳の正当化という啓蒙主義の試みの帰結であり墓標であるキルケゴールの『あれか、これか』(1842・コペンハーゲン)ではじめて提示された。

『あれか、これか』

注目すべき点は3点ある

1.提示様式

自己を分割して一連の仮面に割り当てる偽名形式(パスカル『パンセ』→ディドロ『ラモーの甥』→ )
「A」:美的な生活様式を推奨
「B」:倫理的な生活様式を推奨
「ヴィクトル・エレミタ」:両者の書き物を編集し注釈をつける。
二つの生き方の間の選択は、善と悪の間の選択ではなく、善悪という見地に関してその見方を選ぶか否かの問題である。

誰かがそれらの間の選択に直面し、まだいずれも採用していないとしよう。彼には、一方を他方より選好する理由は何も提供されえない。何故なら、もし所与の理由が倫理的生活様式への支えを提供するとしても〔……〕まだ倫理的か美的化のいずれをも採用していない者としては、この理由を力あるものとして扱うかどうかをやはり選択しなければならないからである。〔……〕まだ選択をしていない人は、その理由を力あるものとして扱うかどうかを依然として選択しなければならないのだから。彼は依然、自分の第一原則を選択なければならず、そしてまさにそれらが第一原則であって、思考の連鎖の中でどの原則よりも先立っているがゆえに、それ以上究極的な理由を、そうした原則を支えるために挙げることはできないのである。p.50

 キルケゴールは「A」でも「B」でもないのだから、自分自身をどちらの立場にも立たない者として提示する。また、「「あれか、これか」という問いが究極的である」という立場にも立たない。彼はエレミタでないのだから。

2.「根源的選択」と「倫理的様式」との深い不整合

 倫理的様式は、原則が態度や好みや感情から独立に私たちに対して権威をもつような領域として提示されている。しかしこの種の権威はどこから出てくるのか。原則がどんな権威を所有するかは、私がした選択のための理由に由来する。『あれか、これか』は、明らかに「倫理的な生活様式は根元的以外の何の理由もなしに採用されるべきである」という教義をもっているが、理由なしに採用された原則は権威をもちえない。
確かに今日の我々は理由のないところで権威に訴えるが、理由を排除し恣意的にみえる権威概念は近代特有のもので、倫理的様式の伝統的な権威は恣意的なものではなかった。キルケゴールは「根元的選択」とともに、理由と権威の断絶をも見出したのである。

3.倫理的な様式に関する叙述の保守性

 以上のような不整合を理解するには、次の点に注目する必要がある。今日「根元的選択」という概念の影響は、競合する倫理的選択肢の中から「どの」倫理原則を選択すべきかというジレンマに現れている。しかし、キルケゴールは「倫理的様式なるもの」に関して全く疑いをはさんでいなかった。約束遵守、真実告知、慈善といった、具体的で普遍化可能な道徳原則が実に単純な形で理解されていて、一度倫理的生活を選んだ人が原則の解釈で問題を抱えるということは考えられていない。キルケゴールにおいては、斬新さと継承されたものが深刻に一貫性を欠いた仕方で結びついている。どうしてこうなったか。

カントの場合

 その理由の一端はカントにある。カントにとって道徳の正当化の企てとは、格律が意志を決定する時、道徳律の真の表現である様な格律を、そうでない格律から識別してくれるテストを見つけだすことである。
しかしカントも両親から受け継いだルター派的な格律がテストにかかるとは思っていなかった。カントの道徳の内容もキルケゴール同様保守的である。
カントは格律のテストを幸福や神に求めることを拒否した。実践理性は外的な規準を用いない。理性は普遍的かつ定言的で、内的に一貫した諸原則を立てる。こうして普遍化可能性のテストが見出される。
しかし、道徳的格律がテストをパスすると言う際のカントの議論はまずい(嘘をつくな、自殺するな)し、さらにどうでもいい格律(三月の月曜には必ずムラサキガイを食べよ)もこのテストを通ってしまうという重大な欠点がある(カントがこうした些細な例を問題にならないと思っていたのは、普遍化可能性の見地からの定言命法の定式化が、「あなた自身の人格であれ他の人の人格であれ、常に人間性を手段として〔のみ〕ではなく目的として扱うように行為せよ」と等価だと考えたからであった)。
従って、カントは道徳の格律を理性の上に基礎づけることに失敗している。そして、キルケゴールはこの地点から出発する。選択は理性がなしえなかった仕事のために呼び出されたのである。そして同様に、カントによる理性の呼び出しも、先立つディドロやヒュームの情念への訴えの失敗に対する応答だったのである。

まとめ
 道徳の基礎(人間本性)
キルケゴール   :選択
カント      :理性
ディドロ・ヒューム:欲求

ディドロ・ヒュームの場合

ディドロとヒュームも、道徳的内容に関してはカントやキルケゴールと内容を大幅に共有している。
『ラモーの甥』では、どのような欲望が行為の正当な指針として認められるべきかが問われている。しかしこの問いに答えるのに欲望を規準として用いることは勿論できない。
 またヒュームも道徳判断を感情や情念の表れとして理解した。しかしこの時ヒュームはひそかに、欲望や感情の間で差をつけるための基準を用いている。
またヒュームは『人性論』では、「規則違反が利益を生まない時でも規則を守ることは何故正当化されないのか」という問いの答えとして、先天的な自発性や同情が役に立たないと否定したのにもかかわらず、『人間知性研究』ではそれに訴えざるをえないと感じている。これは、「一般的・無条件的な規則を無条件に固守することを支持してくれる理由」と「私たちの特殊な、変動する状況に支配された欲望・情緒・関心等に由来する、行為や判断に対する理由」との、論理的には橋わたしできないギャップを埋めるために必要だった哲学的虚構だったのである。

否定的な議論

 ヒュームは「道徳は理性の働きか情念の働きかどちらかである」という前提と、「道徳は理性の働きではありえない」という議論をもっていた。ここから「道徳は情念の働きである」という見解に至るが、これはこの見解を支持するいかなる「肯定的な」議論とも独立である。同様に、カントは情念への基礎付けの可能性排除したという理由から、理性への基礎付けを行う。キルケゴールは、どちらを排除する考察にも説得力を認めたので、一切基準のない根本的な選択に基礎づけたのであった。
 このように、各々の立場の立証は相手の立場の失敗に基づくものとなっていて、総計すればすべての立場が失敗していることになる。かくして、

これ以後、私たちに先行する文化の道徳は、公共的で共有された合理的根拠あるいは正当化を一切欠くことになった。世俗的な合理性が支配している世界では、宗教は道徳的な言説・行為に対してそのような共有された基礎をもはや与えることができなかったのである。そして、宗教が既に提供しえなくなったものを与えることに哲学が失敗したことは、哲学が文化における中心的役割を失って周縁的で狭隘な学問上の主題となっていった重要な原因であった。p62