えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

徳倫理における「道徳的動機」Hursthouse (1999)

On Virtue Ethics

On Virtue Ethics

  • Hursthouse, R. (1999) On Virtue Ethics (Oxford University Press)

Ch.3 Irresolvable and Tragic Dilemmas
Ch.6 The virtuous agent's Reason for action
Ch.9 Naturalism

  • 「義務(感)から」、「(道徳的に)すべきだと思うから」……行為するということ、すなわち「道徳的動機」を、徳倫理は扱えないと考えられている。
  • この風潮の原因としては、カントの見解に関する前述の誤解(アリストテレス主義に従うと、人は欲求からしか行為できなくなるので、カント的な倫理と折り合わない)や、古代ギリシャ的思考と「道徳」概念の不適応(アンスコム、ウィリアムズ……)、「道徳的に」という語に理由を与える特殊な力を与える見解に対するフットの反発などがあげられる。
  • しかしこの章と次の章では、「道徳的動機」の徳倫理的説明を目指す。「道徳」という語は、なにか特別な種の<行為への理由>があるということをほのめかす点で危険である。そこで鍵となる考え方は、<「正しいと思ったので」等の表現は、行為の瞬間における行為や理由のあり方に関する主張であるだけではなく、未来や、その人がどのような人であるかに関する主張でもある>というものだ。「この行為は正しい、義務である……」という顕在的思考は、「道徳的動機」にとっては必要でも、十分でもない。

有徳に行為する

  • 特定の機会に、有徳に行為するとはどういうことだろうか?
  • (1)行為の種類は「有徳な行為」
    • ……あまり開明的ではないので具体例:「人を助ける」、「真実を言う」、「危険に立ち向かう」など
  • (2)行為者は自分が何をしているか知っている必要がある。
    • 偶然や、非意図的な事例を排する
  • (3)行為が理由、さらには「正しい理由」に従って行われている
    • 単なる衝動や背後の〔卑しい〕理由から行為する事例を排する
  • (4)行為者は行為する際に適切な感情や態度をもつ
    • (3)までの条件を満たしても、例えば人を助けるのに嫌々やる人と喜んでやる人、痛ましい真実を言うのにニコニコしてる人と気の毒そうな人の間には重要な違いがある。前者が「道徳的に行為」「よく行為」しているとしても、後者は「よりよく」行為しているはずだ。
  • (この4条件はニコ倫に見いだすことも出来る。)

行為を「それ自身のゆえに」選ぶ

  • (3)「正しい理由から行為する」には何が含まれているか? カント的にはこれは、行為者が(道徳的)責務あるいは原理……に基づいて行為するということだ。では、徳倫理的には?
  • 手がかり:アリストレス「有徳な人は有徳な行為を「それ自身のゆえに」選ぶ」
    • どう理解したらいいか難しい

【解釈1】有徳な行為者は有徳な行為を正しいものとして、勇敢なものとして……理解する

    • しかし同じ問題:そういう理由で行為するときに何が生じているのか?
  • 有徳な人が個別の行為に与えると期待できる理由について考えよう
    • 道徳哲学に通じていない人でも有徳に行為できるはずだから、こうした理由はよく分節化されてなくてもOKでなくてはならない
      • 詳しい特定化を含める必要性

有徳な行為者は有徳な行為を、一定のタイプの理由X’の中の少なくとも一つに従って選ぶ

    • 特定のタイプ:個別徳Vを持つ人が、それに従ってVな行為をするような理由
      • 例:勇気の場合:「ここを登れば彼を助けられるかもしれない」「誰かが志願しなくてはいけない」……
      • ※抽象的な理由「これは勇敢な行為だ」「これは有徳な行為だ」も入るが、特権的なものではない
    • 有徳な人は仮定から、理由を正しくとらえることができる。このことこそが、有徳な人の行為の仕方と誤った理由で行為する人を分かつ。
  • そこで、【解釈1】は【解釈1’】として理解するのが適切だ。

【解釈1’】「V行為者はVな行為をXの理由によって行う」(ウィリアムズ)。

    • 【解釈1】に次のポイントがあった。
      • 美点(適切な含意):有徳な行為者が毎回同じ〔最も抽象的な〕理由で行為するのではない
      • 欠点(不適切な含意):行為者は徳タームをマスターしている。自分の行為が正しくに記述できている。
    • 【解釈1‘】のポイント
      • 1 【解釈1】の欠点を防ぐ。
      • 2 「徳の哲学的理解には、徳をもっていることからくる理解が、少なくともいくらかは必要である」というアリストテレス的見解を引き出せる(ウィリアムズ)。有徳な行為者が与える理由は、有徳じゃない人には完全には理解できないだろうから。
      • 3 様々な理由を個別徳毎にグループ化することで、「完徳者ではない人は全てではないが幾つかの徳を示すことができる」ということを説明する。(ただし、理由の各グループは重複したり、すべての領域において同じ種類の善悪の判断が現れたりするので、各徳が完全に切り離されるわけではない)
  • 疑問:そのほかの説明との関係は? 「V行為をVとして」選ぶことは、同時に「有徳なものとして」・「よくふるまうことの例として」・「カロスのために」選ぶことでもあるのか? (★)

行為を「それ自身のゆえに」選ぶ

  • 「正しい理由に従って行為した」に戻ろう。今の説明でカントが言うところの「原則に基づいて行為する」「正しいと思ったから行為する」の徳倫理的等価物が得られたか? カントの思考のポイントが落されてないか?
  • X理由のなかに「原則」や「義務」が出てこないというのはそうだが、これは重要ではない。かえって、原則が要求するがゆえに何かする人は「正しい理由」に従っていない問題もある。人を慰めるときの正しい理由は「さびしそうだから」だ。
  • カント主義者「行為の時実際に原理や正しさ、義務の観点から思考している必要はない」
  • これは、「原則によって」「正しいと思ったので」の日常的用法に照らせば完全に正しい:背後の動機を否定する用法
  • 【「正しい理由で行為している」のか微妙な例】
    • A:ときおりはX理由に従ってV行為をする幼児
    • B:ときおりはX理由に従ってV行為をする精神障害者
    • C:普段は性格が悪いが愛にとらわれて一瞬だけX理由に従って行為で来た人
    • D:X理由に従って行為するが、それが神の命令であるとも思っている人
    • E:自分の見解にそむくが盲目的に規範に従っている人
  • ハーストハウスはこうした事例は正しい理由で行為して「いない」と考える。しかしこれらの例にかけているのは何か?
  • 信頼性に関係ありそう。個別の行為を正しい理由に従って行う人は、似たような状況でも同じことができるはず
    • 重要なのは、V行為の価値に本当にコミットメントしていることだ
      • A・B:子どもや精神障害者は、価値を「与えられた」だけで、自らV行為に価値を置いているのではない。
      • C:愛にとらわれている人はその時しかV行為の価値を認識できていない
      • D・E:二種類に分けられる。(1)V行為に価値があるゆえに命じられている/規範があると考えている人は本当にコミットしている。(2)命令/規範ゆえにV行為に価値があると考える人はしていない。
  • 「V行為の価値に本当にコミットメントしていること」とは?  
    • →「深いところで価値を置いていること」、「その価値が自分の人生と行いを支配し、それに情報を与える」(まだあいまい)
      • カントの観点からは:道徳法則への尊敬という動機から行為する意志(善き意志)
      • 徳倫理の観点からは:「固定され永続する状態」すなわち徳をもつこと

【まとめ】
カント的主張「理想的に有徳な行為者は、原則から行為する、義務(感)から行為する、正しいと思ったから行為する」の徳倫理における対応物は、「V行為をX理由から選択するが、その選択は徳から生じている。」

    • (★に対する答え……「YES」:有徳な行為者は徳から行為を選ぶのだから、それは同時に「有徳なものとして」・「よくふるまうことの例として」・「カロスのために」選ぶことでもある。)

プラトン的幻想を退ける

  • 「有徳な人はエウダイモニアについて深く反省し、よく行為するとは何かについて包括的かつ実質的な見解を見出すので、適切なすべての事例でそれを正当に適用することができる」……このようなことを徳の条件とする時、人は有徳であるためには哲学しなくてはならないという「プラトンの幻想」にとらわれている。
  • これは明らかに間違いだが、カントやアリストテレスに従う限り、道徳的動機について語るときにはこの幻想から逃れるのは難しい。
  • 回避のためには、エウダイモニアに関する正確な構想をもつことや、普遍的な「よく行為すること」を把握することよりも、徳の帰属の方が基本的であることを強調するのが重要だ。前者は、ふつうにいる有徳な人に対して、「哲学者が」帰属するものであり、哲学者はそうした人が啓発的で重要なことを言っており、こういったものを帰属させることによって、道徳的動機・エウダイモニア・道徳的推論・実践的知識などの重要なトピックに関する哲学的理解が改善されるだろうと考えてそうするのである。
  • この幻想を退けたSarah Broadieに対する2つの反応〔幻想に陥っている例〕

【Terence Irwin】
たとえばある状況でAをまた別の状況でBを優先することにかんし、それを一般原理に基づいて演繹的に正当化できなければ、不整合のそしりを免れない。

【マクダウェル】
道徳的推論は、演繹的なものではなく、個別の状況を「読む」こととして理解できる。正しく「読む」とは、よく行為することに関する正確な構想のもとで状況を読むということ。

  • 十分注意すれば、エウダイモニアや普遍的なよく行為することに関する構想を有徳な人に帰属させる点でアリストテレスに従いつつも、プラトンの幻想を避けることは可能ではあるだろう。しかしそのことが、問題となるトピック(いまは「道徳的動機」)にさらなる光を当てるとは思われないので、この話はもう終わりにする。

結論

  • 道徳的に動機づけられることに、行為の時点における原理・正しさ・義務の観点からの明示的な思考している「必要は」ない。この点でカントとアリストテレスの理想的な有徳者はそう遠くない。
  • また、X理由に従ってV行為するが、「正しいと思って」行為しているわけではない事例((A)−(E))の存在は、こうした明示的思考が「十分」すらない可能性を示唆する。次章に続く。