えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ダーウォルのカント実践哲学解釈 Darwall (2006)

The Second-Person Standpoint: Morality, Respect, and Accountability

The Second-Person Standpoint: Morality, Respect, and Accountability

  • Darwall, S. (2006). The second-person standpoint: Morality, respect, and accountability. Cambridge, MA: Harvard University Press.
    • 2. The main ideas II

 この章でダーウォルは、道徳的義務の優越性を主張するカントの著作を批判的に検討することで、道徳における「二人称的視点」の重要性を概略的に示そうとしています。ちょっと中身が難しくてほとんど跡形もなくなっている部分もあるのですが、一応メモとしておいておきます。

   ◇   ◇   ◇

道徳的義務の優先性と二人称的側面

 道徳的義務は最上級の優先性をもつ義務だと考えられる。だがさらに、道徳的義務は独特な弁明(説明)可能性(accountability)と結びついている。つまり、道徳的義務である行為に失敗した場合、それによって特定の二人称的な応答(非難することや、罪悪感をおぼえることなど)をおこなう根拠が与えられるのだ。

 道徳的義務がこうした二人称的側面を持つことをうまく説明できるかどうかは、道徳的義務の規範性を説明しようとする試みにとって試金石となる。なぜなら、この二人称的な側面によって、道徳的義務がもつとされる最上級の優先性をうまく説明することができるからだ。というのは、ある人が道徳的義務に従わない行為をしたのを非難しつつ、同時に、「その人にはその行為をする全てを考慮した上で十分な理由があった」と言うのは理解不可能である。つまり、非難のような二人称的態度を取る人は、相手は「道徳的に言って」それをすべきではなかったと想定しているのではなく、「端的に」すべきではなかったと想定しているのである。これが、道徳の最上級の優先性に値する。

カントの挑戦(1):『基礎づけ』

 ところで、「道徳的義務は最上級の優先性をもつと考えられる」ということと、「道徳的義務は最上級の優先性を実際にもつ」ということは別問題である。この後者の主張を行おうとしたのがカントであった。だがその戦略は、『基礎づけ』と『実践理性批判』ではかなり異なっている。


 『基礎づけ』から見てみよう。まず『基礎づけ』の2章では、定言命法と意志の自律は互いに前提しあう概念であることがと論じられる。だがこれはあくまで概念にかかわる主張であり、定言命法が実際に存在することや、意志の自律が実際に存在するという、実在にかかわる主張までは踏み込んでいない。実在に関する主張が行われるのは次の3章で、ここでカントは、「私たちは実践的推論を行う(実践理性がある)」という事実から出発し、意志の自律と定言命法の実在を超越論的に論証しようとする。ここではまず定言命法が与えられ、それにより道徳の優先性が説明されるのである。
 この論証のステップは以下のようなものである。

  • 1. 私たちは実践的推論を行っている。
  • 2. 理論的であれ実践的であれ、判断を下すためには理性の自由が必要になる。
  • 3. 従って、私たちには意志の自律がある。
  • 4. 意志の自律は定言命法を前提する
  • 5. 従って、定言命法が存在する

この前提2を擁護するために、カントは次のような主張を行う。判断の理由が判断の外部から指定されている場合、それはそもそも判断を下したことにならない。そこで、いやしくも判断が可能であるならば、判断の理由はその内部、すなわち理性自身によって設定されなければならない(=理性の自由がなければならない)。

 ここでカントは、「判断の内部」というのはすなわち判断を行う当の理性であると考えている。だが、判断の内部には、判断の対象となるものも含まれているはずだ。従って、「判断の理由が判断の外部から指定されている場合、それはそもそも判断を下したことにならない」というのが正しいとしても、判断の理由が判断の対象となるものの性質から出てくるという可能性をカントは見過ごしている。

 実際、理論理性について考えてみると、理論理性は経験のあり方を理由にして世界の状態にかんする判断を行うものであって、そこには理性自身による理由の設定というものは存在していない。そして、理論理性と同じように実践理性を考えることも出来る。つまり、理論理性が経験のあり方を理由にして世界の状態を判断するように、実践理性は欲望のあり方を理由に善悪の判断をするのだ、と考えることも出来る。従って、実践理性が可能であることから、意志の自律を引き出してくることはできないのである。

カントの挑戦(2):『実践理性批判』

 一方で『実践理性批判』では逆に、道徳的義務の優越性はむしろ話の前提となる。私たちが道徳的義務に最上級の優越性があると感じている(=道徳法則に縛られていると意識している)というのは、「理性の事実」なのである。『実践理性批判』は、この事実から出発して、意志の自律、定言命法へと進む。ここではまず道徳的義務の優越性が与えられ、それが定言命法として捉えられるのである。

 実際の議論を見てみよう。カントは、「君主から非道徳的な行為を命じられ、断れば殺される」という事例に訴える。ここで私たちは、この命令を断ることが可能ではあると認めざるをえない。ここには、「べきはできるを含意する」の原則が効いている。私たちは(仮定により)道徳的義務に縛られていると認めているので、同時に、その義務に従う能力もあると認めざるをえないのである。カントはこの例が、私達には定言命法に従う能力があることを示す例だと解釈している。そしてここから(定言命法の前提である)意志の自律へと進んでいく。
 
 しかしこの事例解釈は不当である。この君主の事例は、私たちは殺されるにもかかわらず道徳的な行為ができるという事例であった。この事例が示している最小限の事柄は、私たちは、欲求とは無関係なかたちで、道徳的義務に従える、ということにすぎない。この道徳的義務を、意志の形式的原理としての定言命法という観点から説明する必要はない。他にも例えば、そもそも意志(および欲求)とは全く独立した、「権利」の存在に訴えることもできるはずだ。従って、カントの議論は失敗している。

二人称の重要性

 だが、この君主の事例はより適切な議論へ進む重要なヒントを与えてくれている。君主から命令を受けた人は、命令を断る道徳的責任があるのだ、と考えてみよう。このように相手に道徳的責任を差し向ける(adress)とき私たちは、その相手は道徳的義務である行為をおこなう動機を持つと前提せざるをえない。というのは、そもそも道徳的義務に従う動機を持たないものに道徳的責任があるというのは理解不可能だからだ。そこで、人を道徳的義務に従属させる当のものが、同時に、道徳的義務に従って行為する動機の源泉でなければならないのである(「道徳を差し向ける際の制約」(Watson 1987))。
 
 では、私たちを道徳的義務に従属させる当のものとは何か。本書でより詳しく論じられるように、それこそ、私たちの持つ「二人称能力」である。二人称能力とは、言わば「二人称版の定言命法」に従う能力である。実際、定言命法のもっとも自然な解釈は二人称的なものだ。つまり、ある道徳共同体内部で共有されている視点からみて、その共同体のあらゆる成員に対して要求[demand]できる事柄を行え、というのがその解釈だ。私たちは一定の視点を共有しあい、互いに互いの行為について等しく説明(弁明)しあうことができる(accountable)。この共有された視点から見て、私たちが互いに対して要求することと両立する行為のみを選択する能力、それが二人称能力である。
 
 二人称能力こそ、私たちを道徳的義務に従属させる当のものであり、その能力は同時に、道徳的義務に従うべき理由と、それに従う動機の源泉にもなっている。このように想定することは、事実上、私たちには意志の自律があると想定することにもなる。というのは、私たちを(二人称的なやりとりの中で)責任と権威(authority)ある存在にしてくれるものこそ、二人称能力だからだ。だが、共同体の成員が要求してくることに従って行為するのは、「他律的」なのではないだろうか。そうではない。二人称的なやりとりのなかで私たちが従っているのは、共同体の要求である。自分が属する共同体の視点は同時に自分の視点でもあるのだから、自律が損なわれている訳ではないのだ。