えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

啓蒙の唯物論的功利主義 テイラー (1989) [2010]

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

  • テイラー, C. (1989=2010) 『自我の源泉』 (下川他訳 名古屋大学出版会) 

第三章 不明確な倫理 
第八章 デカルトの距離を置いた自我
第九章 ロックの点的自我
第十四章 合理化されたキリスト教
第十五章 道徳感情
第十八章 砕かれた地平
第十九章 ラディカルな啓蒙 ←いまここ
第二二章 ヴィクトリア朝に生きたわれらが同時代人
第二五章 結論ーー近代の対立軸

1:理神論からラディカルな啓蒙主義へ

・ラディカルな啓蒙主義者は幸福の最大化を問題とする。いまや帰結抜き自然の秩序を語ることはできない。かくして中立化された人間本性と世界の領域の理解/支配のために、距離を置いた態度が必要になる。
・[364;2] しかし、自然の秩序によって支えられていた人生善(自己責任を負う理性・日常的幸福・仁愛)の方はむしろ信奉された。自然の秩序という見解は、「パングロス的側面」および善悪の抗争が誤解に矮小化されてしまう「平坦化の側面」から内在的困難を抱えており、啓蒙主義者は理神論的人生善を理神論自体から守りおし進めたとも言える。
・[365;4] 理性へのこだわりがラディカルな啓蒙を発展させたのは確かである。しかしそこだけを強調し、理性は無神論や唯物論を支持するなどと言う事は出来ない。これは啓蒙主義の自画像だが、「日常的幸福」と「仁愛」やそれを支える自然イメージを無視している。

自然の要求と仁愛

・[367;2] 啓蒙主義の唯物論・無神論は、自然の要求に応じる方法であった。ドルバックの唯物論は理性と同時に道徳的洞察の結論でもある。人間の自己保存の傾向(自己愛)はニュートンの慣性力の類比物であり、自然は人間が衝動に従って幸福を目指すことを肯定している(自然法則)。道徳はこの点に基づかねばならない。理神論が肯定した「自己愛」と「日常生活」は、「罪概念が意味を持つ宗教の徹底排除」と「禁欲という高次要求の否定=身体的快の強調」(ベンサム・エルヴェシウス)により徹底的に擁護された。ラディカルな啓蒙は日常生活の肯定を官能主義に大きく変化させる。そしてありのままの人間の欲求への立脚は、宗教を含む既存の制度に問い直しを迫った。
・[371;2] 一方、人間はこれまで宗教に惑わされ残酷だったが、科学的理性は「仁愛」を可能にするというテーゼを啓蒙主義者も(ロックとともに)信じていた(ただしこれは、理想状態における人類愛と今日における人類愛の混同に基づいていた)。この確信は事実の観察というより、道徳的状況に関する感覚や、距離を置いた理性によって公平な観察者になれるという洞察に由来するものだった。
・[373;2] 従ってラディカルな啓蒙主義者たちが科学的理性の発展のみに動機づけられていたと言うのは不適切である。「自然の純粋な要求の肯定」や「迷信と誤謬から普遍的仁愛が解放されつつある」という感覚が動機となり、科学的理性へ駆り立てられていたのである。

「強い評価」の消滅と功利主義的啓蒙の矛盾

・[373;3] しかし功利主義は「強い評価」を消し去るので、理性や日常的幸福や仁愛にコミットしつつその善さを語ることが出来ない。道徳的なものを物的なものに還元する唯物論も同様である。この事は、唯物論や快楽主義の採用だけでは功利主義的仁愛の倫理を生み出さないとという点を考えると重要である。唯物論は、非道徳主義や利他心を認めない還元主義や利己主義を生み出すかもしれなかった(ラ・メトリ、サド;この可能性は日常生活と仁愛の倫理が既に広まっていた英国ではなくフランスでこそ強かった)。
・[377;3] 啓蒙期の唯物論的功利主義は、還元主義的存在論と道徳的動機という、(上記の混乱ゆえ当時は等閑視されていたが)組み合わせがたい2つの要素を持つ。存在論の方が押し出されて道徳的動機の方が隠ぺいされた時、そして、後に19世紀、信仰以外に複数の道徳的源泉が出現するようになると、「啓蒙主義の自画像」は信頼を置かれるようになった。
・[379;6] 功利主義はこの矛盾を回避している。これまでの道徳的源泉とは違い、功利主義の<力を与える言葉>は誤謬、迷信、詐欺、宗教の「非難」でしかないし、近代の文化に広範な道徳的洞察に依拠しているのにその正当化をしない。こうした特徴は宗教的迫害が生き残る時代では力を持ったが、新しい秩序の建設という段階では役に立たない事が明らかになってきている(なお同じ特徴は、急進的なジャコバン派やマルクス主義にも見られる)。

2:善性の承認が持つ変容力

・啓蒙的自然主義に道が無い訳ではない。3つの人生善が意味を持つような見方(構成善)を明確化すればよい。この見方は、日常生活の充足に、その未来の実現への貢献を要求する普遍的な意義を与える。我々はこの意義が認められない段階から幻惑を克服して理解に至る、という精神史的発達をイメージすることができる。そしてこのような自己解釈は道徳的生活の最善の説明に不可欠であるし、構成善としても働く。すなわち、日常生活の充足の歪みない認識が我々に善をなす力を与える。今や構成善は、人間外の存在論的基礎と、完全の主観主義の中間を行く。
・[384;5] 日常的欲求の善性を「承認」することで、我々にはその善をよりよく生きる事が出来るようになる。善性の承認が持つこの変容力を、後にニーチェは「然り」と明確化したが、啓蒙的自然主義の宗教排斥もやはり、自然と欲求の善性を肯定する事でそれを隷属から肯定へ開放するという力の感覚に由来していた。

ヒュームのルクレティウス

・[385;4] 唯物論的功利主義とは別の流れの自然主義もある。これは後に表現主義との結婚の形で表れるが、先駆的なのはディドロ、そしてヒュームである。ヒュームはロックから観念説を受け継いでいるが、「距離を置く」という態度ははっきりとらず、むしろ摂理こそ否定したがハチソンに近い。ヒュームの道徳感情論は道徳の恣意性を明らかにするが、それは道徳感情からの解放をめざすものではない。
・[387;3] ヒュームの思想はエピクロスやルクレティウスを源泉とする。啓蒙主義者が彼らを引用する事で受け継いだのは、形而上学は幻想を振りかざして精神の平和をかき乱すという見解だった。神々を捨てるのは距離を置いて自己を作り直すためではなく、恐怖なく人生を受け止めるためである。その後さらにコンドルセらは仁愛を強調するが、重荷を取り除いただけで満足するという考え方もありうる。ヒュームの精神はこれに近い。

3 広大な宇宙と地質学的時間

・啓蒙自然主義のまた一つの側面は、広大な畏怖すべき物理的秩序の一部として考える存在があるという信念だった(パスカル)。これは17、18世紀のデカルト主義と完全に対立するもので、唯物論が奇妙だとされなくなった事は18世紀以降の最も大きな変化の一つである(なお今日唯物論的な還元論と対比になるのは最早デカルト主義ではなく創発主義である。なお創発は初期ロマン派的着想でもある)。
・[392;5] この自然観は時間観をも変化させた。聖書による数千年程度の宇宙の歴史から地質学的時間への変化である。これは科学的発見の問題でもあったが、想像力や自然における人間の感覚の変化をも反映していた。ディドロやラモンらの記述からはそれが読み取れる。

4 進歩の物語

・啓蒙自然主義は、個人的及び歴史的な物語の独自な形態をも作り上げた。既述の3つの善は、人間にとって一定の完成体を示す。理性を行使する事によって誤謬を暴露し、同時に自然の尊厳を認識・解放する、盲目から完成体への苦闘という「進歩の物語」として、啓蒙主義者は自らを理解したし、人類の歴史もそう理解すべきである。啓蒙主義者の人生の意義は、進歩の連鎖に確固たる地位を占める事で与えられるから、重要なのは未来世代の評価や感謝である。こうした歴史観はコンドルセの『人間精神進歩史』によくあらわれている。