えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

情動主義、指令主義、サルトル MacIntyre (1966) [1994]

西洋倫理思想史〈下〉

西洋倫理思想史〈下〉

  • 作者: A.マッキンタイアー,Alasdair Macintyre,井上義彦,東城邦裕,柏田康史,岩隈敏
  • 出版社/メーカー: 九州大学出版会
  • 発売日: 1994/03
  • メディア: 単行本
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  • Alasdair MacIntyre (1966). A Short History of Ethics. New York: NY. Macmillan. (井上義彦、東城邦裕、柏田康史、岩隈敏訳、『西洋倫理思想史』(上)(下)九州大学出版会)
    • 第18章 現代の道徳哲学

〔マッキンタイア自身の〕見解に対して、現代の哲学論争のそれぞれの立場が自分たちの言葉で答えるであろう。情緒主義と指令主義は、私の考察のうち選択の役割を強調するし、これに対する批判者は行為者が既に現存する評価の語彙でもって選択行為に到る仕方をを強調する。それぞれは自分に都合の良い実例を選ぶことによって反対者の事例を再定義し退ける。そして同じ種類の試みはどこか別の論争においても既になされているのである。例えば、実際全く別の文脈でフランスのカトリック道徳哲学者、スターリン主義者、マルクス主義者、サルトル的実存主義者の間で進行している議論の中でこの試みがなされている。このことは、哲学的論争がわれわれの社会的道徳的状況を表現している、という見方を強めるのである。
 カトリック教徒とスターリン主義者にとっては道徳の語彙は事実だと言われるものによって定義される。それぞれにはまた自分たちの特徴ある徳目表がある。これとは対照的に、サルトル少なくとも第二次世界大戦後のサルトルにとっては、規制の道徳的語彙の内側で生きることは必然的に責任を放棄することであり、悪しき信仰の所業である。彼によれば真の実存は選択の絶対的自由の自覚的意識の中にのみ見いだされるのである。選択行為に関するキルケゴールの見解がその神学的脈絡から分離され、サルトルによって道徳的ならびに政治的決定の基礎とされている。キルケゴールもそうであったように、サルトルは選択行為の必然性の源泉を社会の道徳の歴史には置かない。彼はそれを、意識的存在(対自存在 étre-pour-soi)は事物(即時存在 étre-en-soi)とは異なるという人間の本性、人間の自由ならびにその自由の意識のうちに置く。ここからまた未決定の未来の深淵を前にした不安という人間の特徴的な経験が生じ、そしてまた自分には責任がないふりをしようとする特徴的な試みがなされることになる。したがってサルトルは、ちょうどカトリック教徒やマルクス主義者がするように、自分の道徳的見解の基礎を人間の本性の形而上学のうちに置くのである。
 サルトルと同様に、指令主義者と情緒主義者も選択あるいは自分の態度決定の必然性の源泉をわれわれの社会の道徳的歴史にまでは追跡しない。彼らはそれを道徳的概念の本性そのものに帰属させる。そしてこの場合に、サルトルと同じように、自分たちおよび同時代の個人主義的道徳性を道徳の諸概念に訴えることによって絶対化しようとする。それはまた彼らの批判者が、自分の道徳性を概念に関する考察に訴えることによって絶対化するのと同じである。しかしこういった試みは、ただ道徳の概念が時間の制約を受けず非歴史的である場合、そしてただ一組の有効な道徳的概念がある場合にのみ成功するものである。道徳哲学の歴史の一つの長所は、このことが真実ではなく、道徳的概念自身が歴史をもつことをわれわれに示すところにある。これを理解するならばわれわれはどんな誤った絶対主義的要求からも解放されるのである。 (18章末)