えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

行為者に注目した全く新しい徳倫理学を作る Slote (2001)

Morals from Motives

Morals from Motives

  • Slote, M. (2001) Morals from Motives (Oxford University Press)

Ch.1 Agent-based Ethics ←いまここ
Ch.5 Universal Benevolence versus Caring

1.徳倫理

  • 徳倫理の復興 ……でもみんなアリストテレス的だよね
    • 別のアプローチ:「行為者基盤型」の徳倫理
  • その前に……そもそも徳倫理の自律性はどこに?
  • 歴史上の全ての徳倫理を特徴付ける2つの弁別的特徴
    • 【特徴1】「行為者着目型 agent focused」である
      • その他の倫理:道徳法則・規則・原理に基づく
      • 徳倫理:有徳な個人、その内的特性・傾向性・動機に注目
    • 【特徴2】義務関連概念[deontic]ではなく「徳関連概念[aretaic]」が第一義的
      • その他の倫理:「正しい/不正」「道徳的に許される」「義務だ」……規則の観点から評価される
      • 徳倫理:「道徳的によい」「賞賛すべき[admirable]」「有徳な」
  • しかし「行為者基盤型徳倫理」はよくある徳倫理ではない
    • 行為の道徳的身分を、動機・性格特性・個人がもつ徳関連的特徴に、完全に従属させる。
    • この点で、「行為者基盤型徳倫理」はより「純粋」で「ラディカル」なもの。標準的な理解下でのAには見られない。
  • A(アリストテレス)の不徹底
    • (1)他人の監督下では有徳でない人もよい/有徳な行為が出来る
    • (2)善を知覚する能力によって有徳な人物を特徴付けている
      • ある行為が有徳なのは、たとえば「それが立派な[noble]ことだから」であり、「その行為は有徳な人が選んだ/選ぶだろう行為だから」ではない。行為の立派さは独立の規準で測られている。
    • 有徳な人が正しさ/優秀さ[fine]の規準である」というのは、「その人が正しい/優秀な事を知る/知覚するのに一番いい位置にいる」という事である。〔有徳な人と行為の正しさの間に概念的繋がりは無い〕。
      • 「行為者着目型」ではあるが「行為者基盤型」ではなく、〔善の構想にかんしては〕直観主義的なA
  • 一方、Aは有徳な行為者による行為を正しい行為だと理解したという解釈もある。しかし……
    • 知覚という点がうまく説明できない
    • 「よい行為=有徳な人がやる行為」と「有徳さ=よい行為を見、行う傾向性」で循環の恐れ
      • 有徳さについて何かの独立な説明が必要
  • そこで……有徳さ・徳を幸福[eudaimonia]に基礎付けるアプローチ
  • ハーストハウス:「有徳な人がその人らしい仕方で選択するものは何か」に関する判断を、「幸福〔の構想〕」に関する判断に従属させる。
    • しかしAは幸福を有徳な活動の観点から説明している。不整合?
    • 行為着目型であり、〔行為に対して〕「行為者優先型 [agent-prior]」でもある。しかし幸福が基盤であり行為者基盤型ではない。
  • まとめ:2つのA解釈

【(1)行為者注目型】
行為の正しさ ← 直観主義的な善 …〔偶然的〕… 有徳な行為者
【(2)行為者優先型】
行為の正しさ ← 有徳な行為者 ← 幸福

  • いずれにせよ行為者基盤型の倫理ではない
  • 実は、行為者基盤型倫理の明確な例は歴史上ほとんど無い
    • 例えばプラトン・ヒューム・キリスト教倫理も行為者基盤型ではない。
    • 例外:19世紀の倫理学者James Martineau。以下でも注目。

2.行為者基盤化への反論

【一般編:反理論的風潮】

  • 本書は非常に理論的だが、近年は反理論的風潮がある(Baier, Williams)
    • 道徳の複雑性をひとつの考慮事項に還元してしまう!
  • でも理論は必要
    • たしかに我々の道徳理解は複雑だが、さらに不整合を抱えてもいる。
      • 例1:道徳的運
        • 景色見てて逆車線に入った(あんまり悪くない)
        • そのときたまたま人がいて轢いた(凄く悪い)
          • vs 自分の制御下に無いものに責任は帰属できない
      • 例2:自他の非対称性
        • 他人を傷つけては絶対にいけないし、他人によいことをすべきときがある。
          • vs 類似の義務は自分に関して存在しない
            • 義務なしでも自分に関しては自然にそうなるから?
              • 違う。例えば我々は自然な傾向として近しい人に優しいが、そうする義務もある。
  • 直観が衝突し、かつ、我々に自分の倫理的思考の中に完全な整合性を保ってという欲求があるならば、どれかの直観は捨てるしかない。
    • どれ捨てれば? ……不整合を取り除いた倫理の理解の必要性。
      • この作業は、哲学的かつ道徳的な「発明」を必要としている。
    • 哲学の別の分野ではふつうにやってるやで

【個別編1:「正しい事をする」/「正しい理由で正しい事をする」区別の破壊】

  • 例:被告人を有罪にしようとし義務を果たす検察官。しかし、それは義務の感覚ではなく悪意から行われていた・・・! (シジウィック)
    • 行為者基盤の倫理は、行為の良さ悪さを動機の良さ悪さの観点から理解するだろうから、検察官の行為は悪いことになる。いいの?
    • わからない。悪い、と言ってもそうおかしな主張ではないはず。そして仮に悪いとしても、「それを行う義務はない〔=やらなくても道徳的に批判されない〕」という本当におかしな結論は出てこない
      • なぜなら、検察官が務めを果たさず、他の人に託そうともしないなら、その人は職務を果たそうという真正の動機を欠いているから。この内的状態の点で、検察官はちゃんと道徳的に批判されうる。
      • 従って「義務を正しい理由から果たすこと」と「義務を悪い理由から果たす」ことは区別できる。これは欲しかった区別に極めて近い。

【個別編2:内面さえよければいいのかよ問題】

  • 称賛すべき人/内的状態でさえあれば、実際に何をするかどうでもよいの?
    • 関連して、悪い動機を持つ人にも義務があるというのは「べしはできるを含意する」則に抵触しているのでは?
  • 違う。有徳な人が行うという理由「だけで」行為を称賛すべきとする必要はない。賞賛すべき行為は賞賛すべき内的状態を「反映する」必要がある。
    • 両立論的自由意志さえ認めるなら、有徳な人が自分の内的状態を反映していない行為を選ぶことはできる。逆に、悪い動機を持つ者でもそれを反映しない行為を選ぶことはできる(しないだろうが)。

【個別編3:道徳的生活は世界の事実とは関係ない?】

  • 心の中で良い動機を確保しそれによって行為することが道徳的生活の全てであり、世界の事実を確認することが無関係になっているのでは?
  • 違う。なぜなら、何が根本的に賞賛すべき動機なのかを特定する際に、世界を考慮に入れざるをえないから。
    • 例えば、良い物をばら撒くのは真の仁愛ではない。真に仁愛を持つ人は、誰に・どのくらい必要かに注意を払う[care]はずで、そのためには関連する事実を知ろうとすることが絶対に必要である。

【個別編4:動機の絶対視】

  • 根本的に賞賛すべき動機から行為を評価するというのは、その動機を訂正不可能で確定的なものとしている。これは理性的な倫理のやり方ではない。
  • 違う。ある行為者基盤的見解から帰結する行為の良さ悪さが直観的に受け入れられないものになっている場合、その見解は疑問に付される。
    • どの倫理理論も、直観的に尤もらしいがさらなる倫理的仮定には基づかないような、一階の仮定をもつ(例:多くの形態の功利主義における快楽主義)。しかし、おかしな帰結が出る場合には仮定は疑問に付される。
  • 最後に、人の動機の理解は難しいので、行為者基盤型倫理によれば行為の評価が難しいことがよくあることになる。
    • これはイヤな帰結かも知れないが、現実に即しているだろう。

3.うちなる強さとしての道徳

  • 防戦はここまで。続いて、もっと興味深く有望な事例について考える
    • 行為者基盤化を展開する2つの方法が歴史からみてとれる
    • (1)「冷たい」:魂の健康や強さを徳の基礎に
      • 「他人への人道的配慮」(利他主義)がどう派生するか不明(冷たい)
      • プラトン。ストア派やスピノザ、ニーチェにも
    • (2)「温かい」(感情主義的):憐れみ [compassion]/仁愛 を重視
      • 利他的配慮を徳の基礎に(温かい)
      • マルティヌー。ヒューム・ハチソンやJorge Garcia・Linda Zagzebski
  • 歴史順に従って、まず「冷たい」理論を取り上げる
  • 「内なる強さを反映した行為」を基盤とする理論
    • 内なる強さは賞賛すべきものだというのはたしかに尤もらしい
      • 例: 自分のガンに関して自己欺瞞すると確かにつらさは減るかもだが、その事実を直視することの方が遥かに賞賛すべき。
        • ……この勇気はそれ自体として賞賛すべきものに思われる
    • しかし、内なる強さに、今日重要な道徳性全てを基づけるのは無理そう
      • 例:人に優しくすること/嘘をつかないこと/人を傷つけないこと
  • ニーチェ「必要以上持っているという自己充足の感覚から人に与えることは、義務感から与えることより道徳的に優れている」
    • たしかに、前者が自己充足的でつよく、後者が貧しいというのはわかる …… 強さの理念に基づいた真の利他主義の一例
    • しかし一般的に言って、強さに基づかない理論の方が有望では?
  • 内なる強さとしての道徳は、仁愛や同情や優しさを〔よくて〕派生的な善としてしか扱わない。しかしそれは近代の道徳意識にはありえないことだ。これらは非常に重要で「基本的な」道徳的価値をもつ。
    • 合理性と自律性から派生させるカントも同罪
  • 仁愛の道徳的価値を基盤としてこの批判を回避する「暖かい」理論へ

4.普遍的仁愛としての道徳

  • マルティヌーの『倫理理論のタイプ』(1885)とシジウィックの批判を検討することで、仁愛を基盤にした徳倫理の長所が分かる。
  • マ:動機には階層がある。道徳的決定は2つの動機の衝突を含み、高位の動機に従った行為が正しい。
    • 復讐心 < 感覚的快への愛 < 所有愛 < 反感/恐れ/毛嫌い < 野心/権力愛 < 憐れみ < 神への敬意
  • シ:どの〔低次〕動機に従うのが好ましいかは状況や帰結による。〔ので、〕低次動機の衝突を解決するには、〔選択の指針となる〕最高位動機(神への尊敬)か、何らかの一般的で統制的な動機(正義・プルーデンス・普遍的仁愛など)に従う必要がある。
    • 統制的な動機は、「それが究極目的とするもの」との関係で行為を統制する(※誤り)。また、話を世俗に限ればマの最高位の動機は憐れみである。従って、行為や動機は、普遍的仁愛の目標、つまり人間の幸福の観点から判断されなければいけない(=行為功利主義)
  • シジウィックの議論は、「どちらの動機に基づく行為が普遍的仁愛の目的を達成しそうか」ではなく、「どちらの動機のほうが普遍的仁愛を体現しているか/それに近いか」という〔内在的〕観点から動機を評価する行為者基盤型理論の可能性を無視していた。
    • 例:友人を助けたときの友人の善とプールに行ったときの自分の善なら前者の方が圧倒的に多いが、プールに行くと間接的に知らない人々を益し、それは友達の善よりも大きいとわかっている。知らない人たちにはあまり関心がない[care]一方、友達には関心があったのだが、結局プールに行った。
      • 功利主義的にはこの行為は最善手
    • しかしこの場合、起こる結果を「知っていた」ものの、それに「動機づけられた」のではなかった(知らない人たちに関心はなかった)。だから、「どちらの動機の方が普遍的仁愛を体現しているか/それに接近しているか」という観点からみると、〔自分の善しか考慮していない〕実際の動機は、友人をも考慮する〔拮抗する〕動機より、良さが劣る。
  • 特定の目的の実際/予測上の「生起」ではなく、その目的を「求める動機」としての「普遍的仁愛」に訴える「普遍的仁愛としての道徳」(功利主義の「内面化」/行為者基盤型の「類似物」)
  • さらに、功利主義は動機を行為と同じ観点で評価するので、名誉のために病院へ寄付するという動機は良いものになる
    • 普遍的仁愛としての道徳にとって、この利己的動機はあまり良くない。
      • 常識的な動機の区別を維持
  • しかしながら、功利主義の「類似物」として類似の批判を被ることになる。
    • 批判1:要求が大きすぎる
      • しかし十全な功利主義的帰結主義は、十分な善がなされることしか要求しない
      • 同様に、普遍的仁愛に十分近い動機からなされれば行為は正しいと考えられる。
    • 批判2:幸福に関する構想が偏狭……苦痛を上回る快楽
      • この批判は一定の帰結主義にしか当てはまらない。多元主義的な帰結主義もありうる。
      • 普遍的仁愛としての道徳は特定の幸福観にコミットしていない
    • 批判3:義務論の一定の側面を説明できない……多くが助かっても一人を殺してはいけない。
      • この側面は普遍的仁愛の道徳なら説明できる。仁愛には、関係する人々全体に善をなそうという欲求だけでなく、「そうした人々のだれも傷ついてほしくない」という欲求も含まれるからだ。
      • 功利主義と普遍的仁愛の道徳は、どちらも体系的かつ統一的な構造をもつという長所があるが、後者の方がより直観的である。
  • ところが、「仁愛」を行為者基盤型徳倫理のなかで使う方法はもう一つある。

5.ケアすることとしての道徳。そして行為者基盤化のさらなる側面

  • 「部分的な」仁愛/特定の人を他の人より「ケアする」という理念で行為者基盤型の徳倫理を作る可能性
    • ギリガン・ノッディングス
      • ケアは動機的な態度だから、ケアの倫理というアイデアは行為者基盤化の方を向いているようにみえる
      • しかしノッディングス自身には雑多な考察があるので、まずそれを解きほぐそう
  • ノッディングスの『ケアする:倫理と道徳教育に対する女性的アプローチ』
    • 道徳に関するあらゆるものを「特定の個人へのケア」に関係づける
      • ケアから来る行為の道徳的価値を強調(行為者基盤的)
    • ところが、「我々は世界に存在するケアを増やすべき」という帰結主義・完成主義らしき主張
    • しかしケア増進の価値は「特定の個人へのケア」に基づく価値から「派生」しているはず
      • 人々にケアを促すと、自分がケアしたい人が別の人からもケアされるようになり、結局福利が増進する、と考えることができる。
    • 明らかに行為者基盤的でないさらなる主張:「特定個人へのケアが義務的・有徳なのは、それが密接な関係の中でのみ実現可能な「重要な善にとって構成的に必要」だから」
    • この主張は納得しがたい
      • 例:「親の愛が義務的・有徳なのは、それが家族生活の良さにとって本質的だから」だとするなら、〔同じの理由から〕子供には親の愛を受ける義務があり、それに応じて賞賛されたりするということになる。〔これは変だ〕。
    • 「ケアすること」と「ケアされること」の間には、賞賛可能性の根本的な違いがある。
      • あくまでケア自体を有徳とする行為者基盤的な理解ならこの違いをとらえられる。
  • 「自己関心」と「見知らぬ人への態度」については、ノッディングスを超えて進む必要性
    • 道徳的行為者のもつ自己関心を否定する理論はまともではない。一定の「他人」に「のみ」ケアを行うような倫理は道徳的に後退している。
    • また、部分的なケアの倫理であっても、見知らぬ人に対する「無関心」を遺憾に思うことはできる。そして、無関心でいるべきでない閾を適切に設定すれば、よくある正義や権利の問題を尤もらしくまた独自の仕方で扱えるように思われる。
  • このように哲学的に擁護可能なケアの倫理にはまだいろいろ言うべきことがあるが……
  • とにかく温かい行為者基盤型徳倫理には二種類ある。
  • 「普遍的仁愛の道徳」と「部分的なケアの倫理」
  • 正しい行為の基礎となる動機の種類について
    • マの場合:その状況に特定のオカレントな動機
      • しかし1つのよい動機の影響を受けて行為すれば必ず良い行為になるとは限らない
      • 例:ある人へのケアから行為したが、その行為が他の人の幸福を無視するようなものの場合。これは全体としてはその人の性格の悪さを表しているのかも。
    • 行為者の動機全体との関連で行為を判断するほう良いだろう。
  • それでも、もし完全に仁愛を備えた人が結局のところ相手を傷つけた場合、この行為は悪いということにはならない。こんなに帰結を考慮しなくていいのか?
    • まず真の仁愛を持つ人は、相手に良い帰結が生じるよう考慮するので、帰結が全く無視される訳ではない
      • それでも、向こう見ずに/無思慮に人を助けた場合、その行為が良いと判断されてしまうことがあるのでは?……★。
    • 真の仁愛を備えた人にとってその可能性は(規準〔定義〕の問題として)ない。なぜなら……

【a】関連する事実の収集に全力を傾け慎重に行為したのなら、どんなに悪いことが起こっても批判はできない
【b】事前にわからない知的欠陥により悪い〔もしくは良い〕ことが起こった場合、認知的批判は可能だが必ずしも道徳的批判ではない
【c】事前に分かっていた知的欠陥により悪い〔もしくは良い〕ことが起こった場合、〔手を打たなかった点で〕真の仁愛を持っていたとは言い難い〔★はここ〕

    • 実際こうした主張は日常的思考からそう離れてない。カント「ねじ曲がった本性により最善の結果を出せなかった人を非難すべきではない」
  • ひとまず「よい動機全体をもつことで行為の良さが担保される(十分である)」という考えはそれなりに尤もらしいのではないか
  • 他方、その人らしくない[uncharacteristic]行為の可能性を考えると、よい動機全体が良い行為に「必要」だとは思われないかもしれない。〔=全体的には悪い動機の持ち主が、その人らしくなく良い行為をするかもしれない〕。
    • しかし話は簡単ではない。
      • ある男が老婆を助けるために大きな努力をした……ふつう称賛する
      • でも男はヒトラーで老婆はアーリア人だったら……? ふしぎ!
    • ここで称賛したくないのは、ヒトラーの〔悪い〕全体的動機を知っているからだ。
      • 逆に、『二都物語』のシドニー・カートンの自己犠牲が特別響くのは、飲んだくれから決然とした人間へ性格全体が変わるさまを見るからだ。
  • すると、まことに賞賛すべき行為というのは、その行為者が人間として最低限ちゃんとしていること、さらに我々が普通他人に期待するようなこと以上をやっているということ、これを示すものだろう。
    • 善きサマリア人とか典型例
  • 話すべきことはまだあるものの、以下では「普遍的なものであれ部分的なものであれ、行為者基盤型徳倫理は行為を動機全体の観点から評価しようとする」という仮定の下に話を進めることにしよう。
    • ここで問題となる動機は「温かい」ものである
    • なお、「温かい」のも「冷たい」のをも含めた一定の範囲の動機を道徳の基礎する混合的アプローチもありうる(マルティヌー)のだが、これはあまり成功しそうにないので取り扱わない。
  • 以上を踏まえて、さらなる問いに向かっていこう。