えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ニューロマーケティングによる脳の操作に注目しすぎると環境操作の問題を見過ごす Levy (2009)

Neuromarketing: Ethical and Political Challenges | OpenstarTs

  • Neil Levy, 2009, Neuromarketing: Ethical and Political Challenges, Etica & Politica / Ethics & Politics, 11 (2): 10–17.

 人は内心を操作されることに比べて外的環境の操作には警戒心をもたない。しかし多くの場合、外的操作の方が行動により効果的に影響を与える。そこで、内的操作にばかり注目することには、外的操作から目がそらされてしまうリスクがある。

 fMRIを用いたある実験では、ペプシではなくコカコーラを飲んだ場合にのみ追加で活動する脳部位があると示された(McClure et al. 2004)。この実験を衝撃的なものと捉え、我々の脳はコカコーラを飲みたくなるように配線されてしまっていると言う人たちがいる(Hamilton and Denniss 2005)。しかし、この実験が示しているのは、コカコーラには一定の記憶や視覚像が結びついついているということで、それはfMRI実験を行わずともとっくにわかっていたことである。あるいは、オキシトシンが信頼に関わることがわかってくると、それがセールスに用いられるのではないかという懸念が生じた。しかしセールスマンはすでに、顧客のオキシトシンを操作して信頼を獲得するようなテクニック(例えば、あえて商品を貶して信用を得る)を用いている。

 コカコーラ社やセールスマンが行なっている環境操作は、内的操作と同じくらい不穏なものであるはずだ。しかし人は、神経科学は何か特別なものだと考えがちである。実際、Weisberg et al. (2004) によると、明らかにおかしな説明でも神経科学用語が用いられていると人はそのおかしさを見抜けなくなる。

 近年、「ニューロ・マーケティング」に関する関心が高まっている。顧客に商品の感想を直接聞くのではなく、fMRIに入れて脳活動を見るのだ。この方法により、顧客の不誠実な意見やおためごかしを排除し、本人が気づいていない正確な評価を突き止めることが期待されている。しかし、少なくとも現在および近い未来については、この方法の有効性を疑うべき十分な理由がある。fMRIはまず高価な方法であり、生理反応をとったり行動を隠れて観察するなど、不誠実さを見抜くより安い方法がある。またそもそも、多くの顧客は誠実だと仮定できるし、人の感じかたを知る指標としてはfMRIより言語報告や明示的行動の方が現状はるかに優れている。

 従ってほとんどの人にとってニューロマーケティングは時間の無駄に終わるだろう。しかしそれに加えてニューロマーケティングはリスキーでもある。より効果的で規制の必要がある外的操作から注意をそらすからだ。マーケターが実際に用いている様々なテクニックの有効性は科学的にも確立されており、いつ実現するかわからない内的操作よりもこちらの方を気にかけるべきなのだ。

 そうしたテクニックはあくまで環境に対するものであり、行為者の抵抗や選択能力には全く手をつけないのだから、特に脅威ではないと思われる。しかし行為者と環境との区別は、哲学的にも疑わしく、また実践的にも危険だと考えられる。このことを示す例として、自我枯渇仮説とそれに基づくテクニックをあげることができる。自我枯渇状態には、少なくとも短期的に見たとき、それ特有の現象経験がまったくないようだ。つまり、意志力が枯渇していることは本人にはわからない。従って自我枯渇は、マーケターが顧客を搾取するためにうってつけである。顧客にあらかじめ自己制御が必要な事柄を行わせて資源を消費させれば、〔本人は全く気づかないうちに〕誘惑に抵抗することが難しくなる。実際少なくとも実験の中では、自我枯渇によって購買威力が高まることは実際に示されている(Vohs and Faber 2002)。「自我枯渇」という観点から概念化していないにせよ、マーケターはすでにこうしたテクニックを用いているとも言える。エスカレーターで移動するだけで数々の店の前を通過する設計になっているショッピングモールはその例だ。

 購買行動を制御しようとするマーケターは、神経科学のツールよりも、この種の環境構築というより効果的な方法を用いるだろう。内的操作も外的操作も行動の操作である点に変わりはなく、前者を懸念するならば後者を懸念すべき正当な理由がある。

自然的世界誌とは何か(フンボルト『コスモス』から) Humboldt (1846)[1849]

https://archive.org/details/cosmossketchofph01humbuoft/page/n5/mode/2up

※小見出しおよび注はすべて要約者による

自然の諸相およびその法則の研究から生じる様々な程度の享楽についての考察(承前)

思弁的自然学との差異

 [29-3] 本書で展開する「自然的世界誌」*1は、純粋に理性的な自然学ではない。それは、宇宙空間とそこに存在する物体との記述を伴う、自然地理学である。あくまで科学が記載して知性が検証した事実に基づき、宇宙を観照(contemplation)するものだ。

 確かに本書では、世界における諸現象の発展のなかに統一性(unity)を求めようとする。しかしその統一性は、歴史学的著作が到達しうる統一性に似ている。すなわちどちらの統一性も、あらゆる点で、偶然的な個別事象(individualities)にかかわっている。物体の本性や配置であれ、人間と自然あるいは人間と人間の争いであれ、現実に生じるもの(the actual)は様々に変化する多様なありかたをしており、決して、理性的な基盤のみに基づくものではありえない。言い換えれば、イデアのみから演繹されることはありえない。

自然の周期性(法則)と自然科学の目的

 [30-1] 自然現象・出来事について反省し、その原因を推論によって辿っていくと、或る古い学説の正しさにますます確信が深まる。すなわち、物質に内在する力や人間の世界を支配する力の働きは、ある原初的な必然性によって支配されており、それは周期的な運動に従っている、というものだ。[30-2] この必然性、隠れているが(occult)永続的な連関、形態・現象・出来事の漸次的発展のなかに見られる周期的回帰こそが、「自然」を構成する。

 [30-3] 自然学(Physics)はその名の通り、物質的世界の現象を物質的性質によって説明することのみを行う。従って、諸実験科学の究極目標は、法則を突き止め、それらを徐々に一般化することにある。それを超えた事柄は、より高次の思弁に属している。[31-1] カントは『天界の一般自然史と理論』(1755) で賢くも自然学的説明の限界を明確にしていた。

諸現象の連関と、その記述にふさわしいスタイル

 [31-2] 〔本書が試みるような〕多種多様な被造物を扱う研究は、実行可能なのかどうか不安がられるものだ。しかし今日では、観察の増加に伴って、あらゆる現象の連関がますます詳細に知られるようになっている。

 例えば、互いに独立だと思われていた植物や動物が、移行的段階の発見によって結び付けられている。ある大陸(に存在する種、属、科全体は、地球の反対側の大陸に存在する類似した動植物の中に、いわば反映している。有機体の大いなる系列(la grande série)のなかには、互いに補い合うような「同等体」(equivalents)が存在しているのだ。

 また無機物について。エリー・ド・ボーモン(Elie de Beaumont)によれば、複数の気候・植物相・人種を分かつような山脈も、[32-1] 堆積層や裂か(fissure)の方向を元に、その相対年代を明らかにすることができる。ハンガリー、ウラル(ロシア)、アルタイ(ロシア)の調査ではわからなかった粗面岩(tracyte)と閃長斑岩(syentic porphyry)および閃緑岩(diorite)と蛇紋岩(serpentine)の上下関係も、メキシコ、アンティオキア(コロンビア)、チョコ(コロンビア)での調査で解明された。

 現代において、自然的世界誌にとって重要な事実は、無作為に集められたものではない。遠くへの旅が有益なのは、旅行者が科学の現状を知り、自分の調査を理性によって導く場合に限られる*2

 [32-2] こうした〔諸現象を連関させる〕一般化によって、既知の自然学の多くの部分が、あらゆる社会階層の人々の共通財産となる。しかしそうした知識が、18世紀に「通俗知」と呼ばれていた形でまとめられると、本来の重要性が失われてしまう*3。科学的な主題は、それにふさわしい威厳や重厚さ、そして活気に満ちた言葉で語られるべきだ。そうすれば、日常生活に閉じ込められ自然との交流から長く遠ざかってきた人も、新しいアイデアで心が活気付くという最も豊かな楽しみ(enjoyment)を得ることができる。自然との交流は眠っていた知覚能力を呼び覚ます。それによって私たちは、物理的な発見がいかに知性の領域を拡張するか、そして、力学や化学などの応用がいかに国家の繁栄に寄与しうるかを、一目で理解するようになる。

自然科学の全分野は等しく重要である

 [32-3] 物理現象の連関について正確な知識を得るために、避けるべき誤りがある。それは、[33-1] 文明や産業の発展への寄与という点から言って、自然科学の各分野の重要性には差がある、という考えだ。実際のところ、偉大な発見の種が、完全に別物と思われていた現象の観察の中に潜んでいることは珍しくない。2種の金属との接触で神経が興奮するというガルヴァーニの偶然の発見が、ボルタ電池による化学的分析や温度測定に至るとは誰も予想できなかった。ホイヘンスによる光の屈折の観察が、フランソワ・アラゴ(François Arago)による偏光の発見につながり、さらには氷州石(Iceland spar)(右図)を利用した太陽や彗星の性質の研究に至るとは、誰も予想できなかった。

科学、産業、国家の繁栄

 [33-2] 各分野を等しく理解することは、現在では特に求められる。というのは今日において国家の物質的豊かさと繁栄とは、自然の産物と諸力を啓蒙的に利用する事にかかっているからだ。実際ヨーロッパを見れば、[34-1] 工業技術者育成競争から身を引いた国家は豊かさを失っている。自然のみならず国家もまた、「とどまることなく進歩発展し、あらゆる無為を呪う」(ゲーテ)ものなのだ。そして、自然に働きかけるためには自然を理解する必要がある(ベーコン)。ただし、〔自然に働きかけるためというのではなく〕自由な思考から生まれる知識もまた人の財産であり、天然資源が少ない地域でもそれを補って人々を豊かにしてきた。〔こうした純粋な研究を含む意味での〕一般的な産業化の動きに積極的に参加しない国は、豊かさを失っていくだろう。

 [34-2] 哲学、詩、芸術の目的が内なるもの(知性を高めること)であるように、科学は世界の活動力(vital force)を統べる法則や統一原理を知ろうとする*4。そして前述のように、自然研究は産業化に役立つ。原因と結果の間の幸福な関係によって、有用性は真や美や善に結びついているのだ*5。自由民による農業の改善、地方行政の拘束から自由になった工芸の勃興、[35-1] 国際交流の増加による商業の発展などは、人類の知的発展とそれに伴う政治制度の改良がもたらした素晴らしい結果である。

 [35-2] また、自然研究や産業への傾倒によって、哲学、歴史、古代研究などの知識の高貴な活動が停滞したり、芸術から生き生きとした想像力の息吹が奪われると考える必要はない。自由な体制と賢明な法の元で文明が発展するかぎり、知識の一領域が他の領域を犠牲にして振興されるという心配はない。物質的な豊かさをなすものであれ、より永遠的なものであれ、すべての知識は国家に貴重な果実をもたらす。

小括

 [35-3] 以下本書が取り組む内容はあまりに膨大なので、その応用の有用性についてこれ以上しつこく述べることはできない。筆者は遠くへの旅行に慣れているので、目の前の道を実際より快適であるかのように描く誤ちを犯しているかもしれない。高山ガイドは、山から見える景色の大部分が雲に覆われている場合でも、その景色を絶賛するものだ。なぜなら、それが見るものの想像力を掻き立て、景色にある種の魅力を与えることを知っているからだ。同様に、自然的世界誌の高みからだと、地平線のすべての部分〔=個々の知識の領域〕が同じように明確に見えるわけではない。[36-1] これは部分的には、現状の諸科学の不十分さに起因するが、しかし一部の責任は、愚かにもこんなに高い山に登ろうとしたガイドたる筆者自身にある。

コスモスと言葉*6

 [36-2] この序論の目的は、自然的世界誌の重要性と偉大さに注目させることだけでない。様々なアイデアの一般化によって、有機体と自然の諸力とを唯一の衝動によって命を吹き込まれた活動的な生ける全体として捉えることができる視座が得られると示すことも、目的の一つである。シェリングが述べたように、自然は不活性な塊ではない。熱心な探求者にとって自然は、「万物を自分自身から能動的に創造する、神聖で永遠に創造的な、世界の根源力(Urkraft)である」*7

 [36-3] 地球上の現象と宇宙の現象を一つの視点の元で統合することで、コスモスの科学の範囲を定めることができる。コスモスの科学は、単に諸科学の知識の百科事典的なものではない。そうした素材を元に、世界を統べる諸力の同時作用と相互連関を示すのが、自然的世界誌の高貴な役割である。本書では、部分的な事実は常に全体との関係で考察される*8。[37-1] 視点が高くなるほど、主題を生き生きとして絵画的な言葉で体系的に扱う必要が生じてくるだろう。そして言葉は思考と密接に結びついている。言葉が、優美さと明晰さをもって思考を解釈し、また外界の対象を生き生きと忠実に描きだすならば、思考の方にも命が吹き込まれる。この相互作用こそが、言葉を単なる記号以上のものにする。

 著者は、知的な統一に力を注ぐ国家〔=プロイセン〕を誇りに思い、母語で思考を表現できる利点を喜びをもって思い起こすものである。そして、世界の偉大な現象を説明しようとする中で、自由な思考とほとばしる想像力によって人類の運命に大きな影響を与えてきた言語〔=ドイツ語〕を使うことができる著者は、幸福である。 

自然的世界誌の限界と方法

 [37-3] 以下では、自然的世界誌を展開する方法について検討し、この学の限界を定める。[38-2] 個々の現象の描画(Delineration)に入る前に、まずいくつかの一般的な問題が考察される。ここには次のような考察が含まれる。

  • 1. 一つの独立した学としての自然的世界誌の正確な限界
  • 2. 自然現象の全体にかんする簡単な目録が、「自然の一般描写」として提示される。
  • 3. 外界が想像力と感情に与える影響。これらは現代では自然科学に向かう大きな衝動になっている。
  • 4. 自然観想の歴史、あるいはコスモスという観念の漸進的展開。
自然的世界誌の二面性

 [38-7] 自然現象を高い視点から考察する科学ほど、その限界をはっきり定めておく必要がある。[38-8] 自然的コスモス誌は、世界を構成するあらゆる物質的存在の観想に基づく。そこでこの学は、地球の住人たる人類に対しては、2つの形態で現れる。すなわち、地球に関する部分と宇宙に関する部分である。[39-1] このうちまず地球の部について考察することで、自然的世界誌の性格や独立性、他の学問(一般物理学、記述的自然史、地質学、比較地理学など)との関係を示そう。

分野の名称の問題

 近年、互いに密接に結びついた一連の研究をまとめることがますます困難になっている。言い表したい経験的知識の領域に対して広すぎる/狭すぎる学問名称が長年用いられてきたことや、名称の由来となった古代語の元来の意味との食い違いが、その原因である。「physiology」、「physics」、「natural history」、「geology」、「geography」といった名称は、各々が含む多様な対象について明確に理解されるはるか以前より用いられてきた。ヨーロッパで最も文明が進んでいるある国〔=イギリス〕では、「Physics」が医学に使われていたり、工業化学、地質学、天文学、純粋な実験科学が「Philosphical Transactions」としてまとめられている。

 [39-2] 古い名称を新しくより適当な名称で置き換える試みもしばしばあったが、そのほとんどが無駄であった。これを試みる人のほとんどは、知識の様々な領域の一般的な分類を行う人であった。古くはグレゴリウス・ライシュ(Gregorius Reisch)の『哲学宝典』(Margarita Philosophica, 1503)から、ベーコン、ホッブズ、ダランベール、近年では、アンペールの例がある。アンペールの場合、二分法の軽率な使用や分類が細かすぎるなどの問題もあったが、それよりも不適当なギリシア語の使用はさらに問題だったと言える。

原注:『哲学宝典』は、16世紀初頭にかけて数学的科学と自然科学の普及に多大な影響を及ぼし、中世における数学史において重要な役割を果たした(Chasles 1837)。著者もこの本を参照することで、新大陸をアメリカと名付けた最初の人物であるマルティン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemüller)、アメリゴ・ヴェスプッチ、ロレーヌ公ルネ2世、1513年版と1522年版のプトレマイオス『地理学』、のあいだの関係を調査したことがある(『新大陸の地理学史に関する批判的検討』Examen Critique De L'histoire De La Géographie Du Nouveau Continent: Et Des Progrès De L'astronomie Nautique Aux 15 Me Et 16 Me Siècles, Volume 4, 1837)

*1:この語のみ対応するドイツ語 Eine physische Weltbeshreibung の直訳とした。なお英語は The physical history of the universe、仏語は La physique du monde。

*2:ちなみに、同内容がカントの『自然地理学』序論第2節に見られる。「多くの旅行をした人は、世界に通じた人だと言われがちである。しかし、世界を知るということは、単に世界を見るということ以上のことだ。旅行から何かを得ようとする人は、前もって計画を持つべきであって、世界を外的感覚の一対象として捉えるだけではいけない。」(A157/B8)

*3:通俗性(Popularität): 18世紀ドイツの啓蒙思想の中に見られたスタイル。聴衆・読者を啓蒙するために、抽象的議論や学問的用語を避け、身近で具体的な事柄へ注目したり平易な日常用語を使用する。これに対してフンボルトは、自然的世界誌はむしろ人を日常性から解放するようなスタイルで書かれるべきだと考えていることが、この箇所からわかる。

*4:Vital forceを「生気」と訳さなかった。この語が有機体を形成する原理としての生気を意味していないことは文脈的にも明らかだが、加えて、『コスモス』の時期のフンボルトは生気というアイデアに否定的である(英 p. 57 参照)。若い頃には生気を受け入れていたのが、徐々に後退していったようだ(Gernot Rath, 1964, “Alexander von Humboldt and the Medicine of His Time”, Studies in Romanticism, 3, pp. 129–143)。なお仏訳は「自然の普遍的な生(活動)に現れる法則や統一原理(の発見)」((”la découverte des lois, du principe d’unité qui se révèle dans la vie universelle de la nature.”)としている

*5:仏訳に依拠。英訳は「美と高貴(the beautiful and the exalted)」。

*6:以下はフランス語訳には対応部分がなく、ドイツ語原文から直接英訳されている

*7:『造形芸術の自然に対する関係について』(Über das Verhältnis der bildenden Künste zu der Natur, 1807)からの引用。

*8:ちなみに、カントは自然地理学(と人間学)を、物理学(や経験心理学)とは異なった「宇宙論的=コスモス論的」(cosmologisch)学問だと規定している。ここで言う「コスモス論的」とは、狭義の宇宙とは関係なく、ある対象が持つ、その対象と全体との関係を理解させるような特徴を研究する学問のことをいう(『様々な人種』, A443)

【メモ】フンボルト『コスモス』序論、各国語翻訳の関係について(英訳で読む場合)

 アレクサンダー・フンボルトの『コスモス』序論を英語で読んでいたのですが、ドイツ語原文と内容の食い違いがかなり大きいことに気がつき、なぜだろうと調べているうち、この英訳は若干ややこしい成り立ちをしていることがわかりました。以下は今回調べてわかったことのまとめです。一言で言うと、英訳序論はドイツ語原文を訳したものではなく、フンボルト自身が新たに書いたフランス語序論を訳したものです。

   ◇   ◇   ◇

 フンボルト『コスモス』第1巻にはE. C. Ottéによる英訳版 (1849) があるが、その序論(Introduction)、特に前半部分は、ドイツ語原文 (1845) の該当部分(X)と内容がほとんど一致していない。しかしこれは英訳者 Otté の独断によるものではない。Ottéは明記していないが、この部分の英訳は内容から考えてエルヴェ・フェイ(Hervé Faye)による仏訳版 (1846) に依拠していることがほぼ確実である。そして、この仏訳版は、序論のみフンボルト自身が書いた新しいものであることが訳者序文で明言されている。

 ただし「新しい」というのは出版年からいうと正確ではなく、この仏訳版序論の前半部分は、すでに1845年にRevue des Deux Mondesに掲載された”De l’étude et de la contemplation de la nature”(Z)とほぼ同一である。ただし仏訳版に再録するにあたって最後に3つの段落(x)がつけ加えられており、この3段落はドイツ語原文の対応箇所の忠実な仏訳になっている。

 また仏訳版序論の後半部分(Y*)は、細部に違いはあるがおおむね独語原文(Y)を仏訳したものになっている。なおこの細部の違いについて、英訳は仏訳版の方に依拠している。つまり、序論全体にわたって、英訳版は原文ではなく仏訳版に依拠していると考えられる。

 なお序論の日本語訳としては、前島郁男による前半の部分訳 (1959)、および手塚章による後半の訳 (1990) があるが、これらはいずれもドイツ語原文に直接基づいている。

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科学研究の社会的リスクは個人道徳ではなく政治の問題だ Herington and Tanona 2020

onlinelibrary.wiley.com
Jonathan Herington and Scott Tanona (2020). The Social Risk of Science. Hastings Center Report, 50 (6): 27–38.

 これまで研究倫理は、研究が研究者および参加者に課すリスクについては議論を深めてきた。しかし、研究は第三者にもリスクを課す場合がある。こうした「社会的リスク」は、既存の原則や制度によって対処することが難しい。

社会的リスクの例

 社会的リスクとして、ここでは6種類の例をあげる。これらは大きく、研究の遂行自体から生じるもの(1, 2)、研究成果の利用から生じるもの(3, 4)、研究テーマやデザインに関する選択から生じるもの(5, 6)に分けられる。こうした事例は個別的には検討されているが、経済学の用語で言うと「外部不経済」(第三者に課せられるコスト)だという点で共通している。

  • (1) 人を対象とする研究の遂行によって、非参加者に課されるリスク

 HIV治療の研究では、参加者のウイルス負荷を意図的に上昇させることがある。このことは参加者自身には十分に伝えられまた状況がモニターされるが、参加者の現在・未来の性的パートナーの感染リスクを上昇させる。あるいは、性的暴行を受けるリスクを下げるための介入を実験参加者に行うことは、同時に加害者の行動を変化させない限り、非参加者が暴行を受けるリスクを上昇させる可能性がある。

  • (2) 人を対象としない研究の遂行によって課される安全性リスク

 機能獲得実験によって作られる致死率や感染速度の高い病原菌は、安全対策を突破した場合、元の病原菌よりもはるかに破壊的なアウトブレイクを生じさせる可能性がある。同様のリスクが、フィールドでの遺伝子ドライブ実験や、気候工学の実験、強いAIの作成などにもある。

  • (3) デュアルユース研究の成果の悪用に由来するリスク

 デュアルユース研究とは、その成果が兵器などの危険な製造物に利用される可能性のある研究である。例えば、病原菌の解析研究は生物兵器に、ネットワークセキュリティ研究はサイバー攻撃に、自動運転技術の研究は自律兵器に応用される可能性がある。

  • (4) 誠実で善意の科学利用に由来するリスク

 研究の応用がいかに多くの利益をもたらすにせよ、それが無関係な人々にリスクを課す場合がある。原子力発電所の事故はその典型例だが、ほぼ全ての研究にはこのパターンのリスクがある。

  • (5) 認識的(帰納的)リスク

 例えばワクチンの安全性試験では、安全かどうかの結論をどこかの段階で出さなければならない。しかし、その結論は後でくつがえる可能性がある。その場合、安全ではないワクチンが出回るか(偽陽性の場合)、安全なワクチンが出回らない(偽陰性の場合)ことになる。

  • (6) どの研究計画を進めるかの選択に由来するリスク

 研究のための資源は有限なので、ニーズがある全ての研究を行うことはできない。そこで、ある研究を選択することは別の研究の不在を生み、それによって一定の人々がリスクにさらされる。例えば、ガン研究に資源を集中させることは、発展途上国での疾病に関する機会費用を生じさせる。 

社会的リスクへの標準的対処法

 社会的リスクに対処するために、人を対象とする研究における倫理原則を拡張することが提案されてきた。すなわち、適切なリスクベネフィットバランスの原則やインフォームド・コンセントの原則(同意原則)を拡張し、実験参加者だけでなく第三者に対しても、リスクの評価と最小化を行い、またインフォームドコンセントを取得するべきだ、というのだ。しかし、現在標準的な科学ガバナンスのありかたは、これらの原則を遵守できていない。

研究の自由

 多くの研究者は、研究は自由放任的であるべきだと考えている。社会的な費用便益について、研究者は考えるべきではないか、考えるにせよそれは研究者自身の特権であるとされる。このアプローチが同意原則を遵守していないことは明らかだ。リスクベネフィット原則についても、少なくとも現代におけるリスクのいくらかは、入念な倫理的熟慮を行わなければ対処できないだろう。さらに、研究者が社会的リスクを考慮しようとする場合でも、研究者には特有のバイアスがあり、またここの研究者は第三者の重視する価値の専門家ではないために、うまくいかないだろう。

専門家によるリスクベネフィット分析

 社会的リスクに対処するための政策はおおむね、専門家集団によるリスク・ベネフィット分析を求めている。しかしこれにも二つの問題がある。第一に、専門家は生じうる出来事の予測には長けているかもしれないが、関連する価値とそれが関係者によってどう重み付けられているかを特定するのは、極めて困難である。第二に、仮にリスクベネフィット原則を遵守する選択肢を特定できたとしても、同意原則が守られない。専門家による分析モデルは、リスクを課せられる側に意思決定能力を認めていないからだ。

 第二の批判に対して、市民の代表を意思決定プロセスに関与させればよいという反論がありうる。しかし、社会的リスクが関係しうる人々の多さに比して、市民の代表は少なすぎるのが現状である。別の反論として、正統な国家によって承認された分析は正統だというものがある。というのも、民主国家における公的機関は、その決定において国民の自律性を尊重していると考えられるからだ。この議論は有効かもしれないが、社会や政治に関する実質的主張に依存しており、もはや人を対象とする研究における倫理原則の単純な拡張ではなくなっている。

拡張された同意

 関連しうる個人全員にインフォームドコンセントを取ることができれば、同意原則は遵守される。しかし社会的リスクの場合これは非常に困難である。第一に、社会的リスクは極めて不確実で広範囲にわたり、また時間的にも長期におよびうるため、十分な情報を事前に与えることが難しい。第二に、インフォームドコンセントでは、同意を撤回することによってリスクを取り除くことができる。これを社会的リスクの場合に当てはめると、関係者の満場一致がない限り研究の遂行は不可能だということになる。何らかの代表制によってこの問題を回避することができるかもしれないが、その場合また話は政治に関する様々な主張に依存するものになってくる。

対人倫理から政治問題へ

 実のところ、コストベネフィット原則と同意の原則を、研究者と関係者のあいだの対人倫理の問題だと考えているかぎり、両方の原則が同時に満たされることはない。社会的リスクの一定の特徴がそれを許さないからだ。その特徴とは、政治哲学の分野で「正義の情況」と呼ばれているものと近い。すなわち、

・リスクとベネフィットは広範に分配される
・リスクとベネフィットは不平等に分配される
・利害関心の対立が存在する
・資源が限られており、全員の選好を同時に満たせない
・関連する情報全てにかんする専門家は存在しない
・リスクは合算されうる

こうした特徴が示唆するのは、社会的リスクの問題とは対人道徳の問題ではなく、正義の問題だということだ。すべての人にとって正のリスクベネフィットバランスを達成する研究や、すべての人から同意を得られる研究はほぼない。そこで、誰に課せられるリスクを最小化すべきかの決定や、許容可能なリスクに関する見解の相違の中でも研究の正当性を確保する方法が必要になってくる。社会的リスクの問題とは、「特定の個人や機関の私的と思われる行為によって公衆に課せられるリスクのガバナンス」という問題であって、これは政治問題なのだ。

 以上の分析から、社会的リスクの問題に対しては、政治哲学やSTS、フェミニスト科学哲学などの知見が利用されうることがわかる。そうした試みは散発的にはなされているが、より体系的に行う必要がある。ここでは、社会的リスクに対処するための5ステップからなるフレームワークを提案する。いずれのステップも、伝統的に研究倫理の問題だと考えられている範囲を大きく超えている。

  • (i) いかに利益が大きくても、基本的人権や自由の観点から課すことができないリスクを特定する
  • (ii) 配分的正義の観点から課すことができないリスクを特定する
  • (iii) 社会的リスクにかんする個々人の判断を取り入れ総計するメカニズムを特定する
  • (iv) 様々な研究計画の社会的リスクを評価する制度的構造を確立する
  • (v) 社会的リスクに対処するメカニズムそれ自体のリスクを特定する

 この視点からは、前述した標準的アプローチの問題点をよりよく理解することができる。専門家によるリスクベネフィット分析の難点とは、単に関係者全員に明示的同意を取れないということではない。そうではなく、代表制や正統性、選好やリスクの総計に関する適切な基準を満たしているか否かを問うべきなのだ。

80年代までの動物倫理概観 DeGrazia (1991)

muse.jhu.edu

  • David DeGrazia, 1991, The Moral Status of Animals and Their Use in Research: A Philosophical Review, Kennedy Institute of Ethics Journal, 1 (1), pp. pp. 48-70.

 1970年代、動物の道徳的地位について論じるのは変人のすることだった。しかし現在(1991年)、この問題はいかなる道徳哲学者も避けては通れないものになっている。しかし注目の増加とは裏腹に、議論の深まりは依然十分ではない。この論文では既存の議論のレビューを通じ、主要な諸理論の実践的含意は大きく収斂していることを示し、また残された困難な問題を明確化する。

論争の一般的特徴

 動物の道徳的地位をめぐる哲学的議論には、次のような一般的な特徴がある。

  • 1. 理論家たちは互いにまったく異なる規範理論に基づいて議論をしている(功利主義 or 権利論)
  • 2. 動物の扱いについて現状維持を支持するまともな理論が存在しておらず、事実上すべての理論家が動物福祉を支持している
  • 3. 哲学的な厳密さや徹底性が比較的欠落している(多くの読者を獲得するためか)

 評者の見解では、この問題について哲学的に重要な貢献を行ってきた研究者は5人しかいない。まずはそれらの人々の見解を見ていこう。

第一世代

 第一世代として取り上げるシンガー、フレイ、リーガンは、見解の細部こそ違うものの、次のような特徴を共有している。そしてこれらの特徴は、動物の道徳的地位をめぐる議論の中で哲学的「正統派」(Orthodoxy)となっている。

  • a. リベラルな個人主義の伝統に基づく。権利や関心の担い手としての個体に注目する一方で、共同体ベースのアプローチなどは取り入れていない。
  • b. 論争における権威として理性を信じており、倫理学における体系的なアプローチを支持している。
ピーター・シンガー

 シンガーの『動物の解放』(Animal Liberation, 1979)は、動物の道徳的地位にかんする哲学的議論を喚起した。シンガーは(実在する)選好の充足を最大化すべきだと考えるタイプの行為功利主義者で、動物が苦しみ(suffering)を避けることに関心(この場合、選好のこと)を持つことは科学的に明らかだから、動物の苦しみは人間の苦しみと等しい道徳的重みを持つと論じた。

R. G. フレイ(Frey)

 フレイの『関心と権利』(Interests and RIght, 1980)は、哲学的に綿密な議論を展開している点で重要だ。フレイもシンガーと同じく選好行為功利主義者だが、他方で動物には関心がないと考える(のちに撤回している)。道徳的に重要な意味での関心(=欲求(desire))をもつためにはそれに対応する信念が必要であり、信念を持つためには言語が必要だからだ。しかし動物は「不快な感覚」をもつことはでき、そうした感覚をむやみに生じさせることは不正だと論じられる。

トム・リーガン(Tom Regan)

 前二者と異なり、リーガンの『動物の権利の擁護』(The Case for Animal Rights, 1983)は功利主義への反論ではじまる。功利主義は個体の独立性を無視している点に問題があり、すべての個体には等しい内在的価値があると考えるべきだ。ここでいう「個体」とは価値を帰属させることに意味があるもの、つまり福利を持つものであり、福利を持つとは通時的な良い暮らし(fare)を持つということを含意する。したがって、通時的に信念、欲求、心理-生理的同一性を持つ動物は、個体であって、内在的価値を持つ。内在的価値は尊重されるべきであり(「尊重原則」)、したがって害されるべきではない(「危害原則」)。

第二世代

 第二世代として扱うミジリーとサポンティスの見解は、上記の「正統派」と相容れない部分を持っており、これまで過小評価されてきた。

メアリー・ミジリー(Mary Midgley)

 ミジリーの『なぜ動物は重要か』(Animals and Why They Matter, 1984)は、動物の関心を無視する見解に反論する中で、「私たちに近い存在の関心を道徳的に優先すべき」という考えをほぼ否定するに至る。しかし最終的にこの考えは、社会的な絆に訴える形で修正されて受け入れられる。すなわち、親は自分の子供の関心を優先するし、私たちは火事などの緊急事態の最中にいる人の関心を優先する。そしてこれは単なる偏見ではない。同じように、動物の関心を優先するべき場合がありうるのであって、したがって人間の関心だけを優先する態度は正当化できない。

S. F. サポンティス(Sapontzis)

 サポンティスの『道徳、理性、動物』(Morals, Reasons, and Animals, 1987)は、倫理を非歴史的な規範として捉えるのではなく、文化的伝統に根ざした実践的な努力と捉える。そして、これまで動物に無頓着だった西洋の伝統の中にも、動物解放に向かう要素があると指摘していく。それはすなわち、徳の涵養、苦痛の削減、公平性である。ただしサポンティスは、すべての動物の関心を平等に考慮せよとは主張せず、ミジリーのように身近な存在への優先を認めている。

主要な理論的問題

 これまで適切に扱われていない重要な問題を明確化することで、動物に関する倫理はさらに進展するだろう。ここでは3つを挙げる。

平等な考慮(equal consideration)

 動物の関心が重要だとして、それは人間の関心と比較した時にどのくらい重要なのだろうか。「道徳的に重要な点」で同じ状況にいる場合には同じ判断せよと求める普遍化可能性の原則は、平等な考慮を支持するように見える。しかし、何が「道徳的に重要な点」なのかを決定するのは難しい。一つの答えは社会的絆の程度に訴え(ミジリー)、同等の絆がある場合には等しく考慮すべきだとするものだろう。この考え方には、人種差別などの不公正な差別をどう防ぐかという問題や、長期的利益に注目して程度問題を説明する功利主義者との差別化といった課題がある。

 平等な考慮に反対する見解として「独自説」(sui generis view)と呼びうる立場がある。これは、何が道徳的に重要かは究極的には無根拠だとするものだ。〔平等な考慮を擁護する者は〕特定の生物種に属していることは道徳的に重要ではないと考えるが、この点が論理的に証明されたことはない。実際、特定の種(人間)がそれ自体として道徳的に重要だという考えかたは直感的な尤もらしさを持ち、関連する現象に対する説明力もある。

生命の価値

 ある存在者の持つ経験の質ではなく、その生命自体が道徳的重要性を持つのはどのような場合だろうか。この問いは、痛みを生じさせずに動物を殺すことの是非にかかわる。

 選好功利主義(シンガー、フレイ)では、生き続けることに選好を持つ存在のみが、道徳的に重要な生命を持つ。選好だけが重要だという考えに否定的な場合、別の考え方もある。例えば、道徳的に考慮すべき存在(通常、関心を持つ存在)の生命は全て価値を持つとしつつ、その程度は(例えば心的能力の複雑さに応じて)様々だとするものだ(リーガン、レイチェルズ(Rachels)、ドゥグラツィア(DeGrazia))。この程度差は様々な形で説明しうるが、しかしこれまで十分な説明が与えられたことはない。また第三に、全ての生命の価値は等しいとする立場がありうる。この場合、動物の死よりも人間の死の方が悪いということは、生命自体の価値の相違ではなく、経験の質や量に訴えて説明される。しかしこの点についても十分な説明は与えられていない(サポンティス)。

周辺事例

 人間の利益のために動物を害することが許されうる(例えば医学研究の場合に)と考える場合、そうした動物と関連する点で似ている人間も同様に害して良いことになる。実際フレイは、かなり限定的な形ではあるが、人間を同意なしで研究に利用する可能性を擁護している。だがこの帰結は非常に受け入れがたいだろう。その場合、何らかの反論が必要になる。人間を研究に使用する場合のだけ生じる副次的効果(暴動や研究者への脅迫など)に訴えるものや、人間の研究使用は原則的には可能だが義務ではないという点を強調するものなどがありうる。

 こうした反論の一種として、ジェームズ・ネルソン(James Nelson, 1988) は次の点に注目した。すなわち、標準以下の能力を持つ人間は標準的経験を持てない点ですでに大きな危害を受けているが、標準的人間以下の能力しか持てない動物にはこのような危害は存在しない。この場合、こうした人間に特別な共感を持たないことは道徳的感受性に欠け、また配分的正義にも悖ることになるだろう。この議論はさらなる検討に値する。

研究現場への応用

 ここまでいくつかの理論を見てきたが、しかし具体的な場面での指導原理(working principle)としてはほぼ収斂しているという点について論じよう。

 この収斂を強調するために、まず保守派の議論が成功していないことを簡単に指摘する。H. J. マクロスキー(McCloskey)の「動物実験の道徳的擁護」(The Moral Case for Experimentation on Animals, 1987)は、自明な一応の義務として、人間を人間として尊重するべきだという点に訴えている。しかし功利主義者のことを考えればすぐ分かるように、こうした義務の存在はまったく自明ではなく、マクロスキーの議論は論点先取的である。またカール・コーエン(Carl Cohen)の「生命医療研究における動物使用の擁護」(The Case for the Use of Animals in Biomedical Research, 1986)も、権利概念の論点先取的な分析によって動物を権利の担い手から排除している。またコーエンは、功利計算によれば実験動物の苦痛は人間の利益を上回ると言うが、実験動物の苦痛は確実だが人間の利益は単に見込みにとどまっている点を考えると、この計算はもっともらしくない(実際、シンガーは正反対の結論を出している)。コーエンの議論はそのほかにも欠点が多い。

 では、上述の5人の理論の検討に移ろう。まずリーガンの見解はシンプルで、科学における動物への危害は全廃すべきである。シンガーやフレイのような功利主義を具体的なルールに落とし込むことは難しいが、しかし動物の苦痛は確実だが人間の利益は単なる見込みだという点を考慮すると、大きな利益がない限りは動物実験は正当化されず、この基準は現状の多くの動物実験には当てはまらないだろう。またサポンティス自身が提示する研究原則によれば、ある主体への実験が許容されるのは、それが犠牲を「大幅に」上回る明確で巨大でどうしても必要なニーズに応える唯一の方法でなければならない。これはリーガンと功利主義の中間に位置する見解だと思われる。最後に、ミジリー自身は実験動物に関する原則を提示してはいないが、著作全体のトーンや、研究者の典型的な自己弁護を批判する点から見ても、現状よりはるかに強力な規制を支持する立場だと考えて差し支えないだろう。

 結論として、この分野におけるすべての〔まともな〕理論は、程度差こそあれみな進歩的である。

展望

 今後動物倫理でどのような点が検討されるべきだろうか。すでにあげた3点に加え、次のものが重要である。

 まず、道徳的に考慮すべき動物の種はどれなのかという問題がある。脊椎動物は苦痛を感じるという点については最低限の合意があるが、このラインを超えると議論が紛糾している。

 次に、動物の関心についてより十分に理解する必要がある。これはつまり、動物が何によって・どの程度危害を被るかを理解する必要があるということだ。

 また、様々な理論の間の接点、共通の基盤を探すことも重要だ。第一世代に展開された理論的に妥協のない理論は深刻な反論にさらされており、また小さなセクトのみを満足させるにとどまっている。この点でサポンティスは大きく前進しており、ウェイン・サムナー(Wayne Sumner, 1987 and 1988)の著作も重要である。

 最後に、上述した収斂の指摘が正しいのであれば、動物実験にする政策が変更されるにふさわしい段階に来ていると言える。そうした変革をうまくやり遂げるにはどうすればいいかに関する研究も、今後重要になるだろう。

1850年代の科学的唯物論への反対言説 Gregory (1977)

【目次】

1850年代、ドイツでは唯物論一般や科学的唯物論に対する反発が噴出した。この時期に現れた批判書は4タイプに分けることができる。

(1) 観念論的な哲学者によるもの

 職業哲学者から見たとき、科学的唯物論者は哲学的にあまりに素朴だった。心身問題のような古くからの哲学的問題が科学の進歩によって簡単に解決することはありえず、唯物論者の主張は話を混乱させているにすぎなかった。

a. ヘーゲル主義:フィッシャー

 クーノ・フィッシャーはすでに1853年に、主にフォイエルバッハとモレショットを批判する著作『感覚主義の誤り』を公刊した。自我は脳活動によって生じるとする唯物論は人間と動物の差異を無視しており、唯物論が含意する決定論は道徳を破壊してしまう。また、ドイツを覆う貧困問題を前に、国家を個々の利害関心の均衡装置と捉える唯物論者の考えかたは不十分であり、問題解決のためには自由意志による「時代の霊的再生」が必要である。さらに、自然は目的論なものであり唯物論者の奉じる盲目的必然性では説明できない。自然の法則性・目的性は絶対的知性に由来するもので、科学を宗教から切り離すのは誤っている。

b. 新カント主義:フラウエンシュテットとランゲ

 科学的唯物論はドイツ哲学界に認識論的問題を再燃させた。そうした認識論回帰の兆候の一つが、新カント派の運動である。初期の新カント派の中で唯物論批判を展開した人物に、ユリウス・フラウエンシュテットがいる。フラウエンシュテットは、神学の独断主義に対する唯物論者の批判は評価するが、唯物論は神学と同じ問題を抱えていると指摘する。それは形而上学的実在論であり、知性の働きを無視して、「力」や「物質」といったカテゴリーが物自体にそのまま適用できると考える点だ。実際、唯物論者が信じる自然法則の不変性や普遍性は感覚知覚を超えているし、有機物に秩序と形態を与える原理が意図せず導入されており、さらには倫理的責任に言及する以上は自由意志を認める必要がある。また科学の領域と信仰の領域を峻別するルドルフ・ヴァーグナーのような考えは正しくない。近代科学と対立するのは歴史的宗教に過ぎず、歴史的宗教は宗教の本質ではない。
 
 フリードリヒ・アルベルト・ランゲは唯物論に対してより厳しいが、批判の内実はフラウエンシュテットのものとほぼ同様である。例えば、そのフォイエルバッハ批判は現象と物自体の区別に基づく。かつてヘーゲル派だったフォイエルバッハは本質が現象において完全に現出すると錯覚し、さらにヘーゲルを超えて、現象を感覚と同一視してしまった。総じて、唯物論者たちは知識の限界を無視している点に問題があるが、この点を理解するにはもっと哲学の教養を身につけなければならない。こうした尊大な態度は唯物論者たち、特にビューヒナーを激昂させた。

c. シャラー

 ハレ大学の哲学者ユリウス・シャラー(Julius Schaller)は、フォイエルバッハ同様ヘーゲル派から離反した人物だ。シャラーの考えでは、出発点として原子を選ぼうが精神的実体を選ぼうが、何れにせよ矛盾や不整合が生じる。そこでこの二者択一の前提を見直し、物質を活動的で過程的なものだと捉えるべきである(シャラーの見解はホワイトヘッドに似ている)。この見解は、物質から心的現象を導き出せるとする唯物論の考えを批判するものだ。さらにシャラーは、唯物論者は自身の考えを学(Wissenschaft)だと言わんとする点で観念論的関心を持っているのではないかと指摘している。

d. フローシャマー

 唯物論に対して哲学的反論を行ったカトリックの神学者にヤコプ・フローシャマー(Jakob Frohschammer)がいる。フローシャマーは自分の神学者としてのポジションがかわいいだけだとフォークトに非難されたが、これは不当である。フローシャマーは科学研究の自由を擁護しダーウィニズムの解説書を著すような人物であり、最終的には教皇無謬に反対して破門された。フローシャマーは、そもそも推論という営みには感覚経験以上のものが含まれていると指摘する。そして、感覚的なものに超感覚的なものが含まれていることを否定できない唯物論者には、魂や生気の可能性も否定できない、と論を進める。またフローシャマーは、自然科学だけが事実に基づいているとする自然科学者のエリート主義や、唯物論者が説く道徳の相対性にも反発した。

(2) 科学者によるもの

 ドイツでは、自然科学者が公的な討論にかかわるのはみっともないという風潮があった。しかし、唯物論に対して黙っていない科学者もいた。総じて、大学にポジションを持つような科学者は唯物論を受容しなかった。唯物論者と同様に正統派の宗教を批判する者もいたが、宗教自体の否定にまでは至らず、宗教の近代化を志向する者が多かった。ただし、どのようにそれを達成するかについては全く曖昧であった。

a. リービヒとヴァーグナー

 リービヒは、実験を重視して思弁を固く戒めた人物であったが、唯物論には決して賛同しなかった。1856年マクシミリアン2世の前での講演では、モレショットを念頭に置きつつ、唯物論者はディレッタントだと断じている。

 ゲッティンゲンの生理学者ルドルフ・ヴァーグナーは、1854年のドイツ科学者・医学者協会31回大会での演説やそれに引き続く出版でフォークトを批判した。これをきっかけにフォークトは論争的な著作『妄信と科学』(1855)を出版し唯物論に関する議論が盛り上がったが、ヴァーグナー自身は論争を巻き起こしたことを同僚から咎められ、さらなる応答は行わなかった。

b. アンドレアス・ヴァーグナーとアウグスト・ベーナー

 フォークトに応答した科学者に、動物学者アンドレアス・ヴァーグナー(Andreas Wagner: ルドルフとは無関係)がいた(『自然科学と聖書』(1855))。偉大な科学者の多くはキリスト者であり、自然科学が超自然的なものの否定につながるというのは誤りである。また、唯物論はキリスト教の疎外体にすぎない。さらにヴァーグナーは、種の定義という問題についてもフォークトと論争になった。

 アウグスト・ベーナー(August Böhner)は、スイス自然科学協会の会員であった以外は不詳の人物である。その著書『自然研究と文化的生活』(1859)は、ヴァーグナー同様、唯物論に対して宗教を擁護するものだ。曰く、唯物論は革命と関連している。実際、イギリスやフランスの革命前にも唯物論は流行していた。こうした関連が生じるのは、唯物論が攻撃するキリスト教的思考こそが、社会秩序や平和、文化的進展、人権を可能にしているからだ。

c. ヘルマン・クレンケ

 唯物論により融和的な科学者も存在していた。例えば軍医のヘルマン・クレンケ(Hermann Klencke)は、自然科学からは確かに無神論的結論が引き出しうるが、同時に有神論結論も引き出しうると論じる。このように自然科学を宗教的に中立だとすることで、クランクは多くの人々(特に神学者や古典学者)に広がる反自然科学的態度に抵抗しようとした。

d. カール・フォン・ライヘンバッハとヘンリッヒ・ライヘンバッハ

 「オド」で知られる化学者のカール・フォン・ライヘンバッハは、オドは感覚されうるというという観点から、物質だけが感覚されるという唯物論者に反対した。また植物学者のヘンリッヒ・G・L・ライヘンバッハは、利己性がはびこる無機的段階から愛に溢れる有機的段階への発展という図式を展開し、後者の段階を認めない点で唯物論を非難した。

(3) 正統派の神学者や牧師によるもの

 唯物論はドイツの社会全体に広がり、多くの宗教的パンフレットや説教の中にも登場することになった。聖職者の中には、唯物論の勃興を観念論の必然的帰結と捉え、近代の理性重視傾向全体を批判する者や(Otto Woysch, D. A. Hansen)、逆に自然科学によって教義を擁護しようとする者もいた(Wolfgang Menzel)。しかし多くの聖職者はその中間を行った。すなわち、学問自体を批判することなく唯物論を批判するという道だ。

a. フリードリヒ・ミケリス

 カトリックの司祭フリードリヒ・ミケリス(Friedrich Michelis)はシュライデンにあてた公開書簡で、科学の通俗化(フンボルトの「コスモス」にはじまる)への関与に遺憾の意を表明した。シュライデンの一般向け講義はミケルスの考えるカトリックの立場から明らかに逸脱していた。すなわち科学と宗教は別の領域のもので、科学は有限の物質的存在にのみかかわる(したがって唯物論の主張は科学的主張ではない)という立場だ。しかし他方でシュライデンは反唯物論傾向を持っており、ミケリスはこの点を賞賛した。またミケリスは、唯物論に対抗するための雑誌『自然と啓示』も創刊している。

b. アドルフ・ハーレス

 ルドルフ・ヴァーグナーの親戚であるプロテスタント神学者アドルフ・ハーレス(Adolph Harless)は、戯曲の形で唯物論に反対した。この劇は、ゲーテが蘇って唯物論が浸透したドイツ文化の荒廃を目の当たりにするというもので、最終的にゲーテは「地獄の方がマシだ!」と叫んで唯物論を破壊するよう神に訴える。この事例が示すのは、反唯物論者は戦いの方法を賢く選択していたということだ。通俗的運動としての唯物論と戦うのに、細かい哲学的議論は適していない。皮肉や機知、国民的人物の利用といった手段で、読書層を説得することが試みられた。

c. フリードリヒ・ファブリ

 プロテスタントの伝道視察者であったフリードリヒ・ファブリ(Friedrich Fabri)の『反唯物論書簡』(1859)は、唯物論は哲学的運動と言うより時代の兆候なのだ指摘する。実際、多くの哲学的論駁がなされたのにもかかわらず、「思弁は夢遊病の哲学だ」(フォイエルバッハ)の一声でかき消されてしまった。唯物論は古代ギリシアでもフランスでも社会の下降局面に現れるもので新しさはないが、これを野放しにするとフランス革命のような事態に発展することが今日ではよくわかっている。

 唯物論への攻撃と同時に、ルドルフ・ヴァーグナー流の二重真理説にも批判的なのがこの本の興味深いところだ。信仰は直接経験から生じるものであり、あらゆる知識・理解の前提になる。実際、科学者が自然法則の不変性や空間の無限性を言う時、そこには信仰が入り込んでいる。また、経験というのは感性的なものに限られない。自己意識や啓示の経験のような超感覚的経験が存在しており、その証言は感覚経験と同じくらいリアルである。

 経験に比べ、思考には相対的なところがあり、科学的な事柄に対する態度は整合的でありさえすれば後は道徳的選択の問題である(ファブリはツォルベの唯物論的な一貫性を評価しさえしていた)。結局、世界の真のあり方を教えてくれるのは経験ーー特にキリスト教的経験なのである。しかしすべての人がキリスト教的経験を持つわけではない。こうして、科学における真理の問題は最終的には救済の問題となり、伝道が動機づけられることになる。

(4) 市民によるもの

 1850年代には、唯物論への不満を表明する匿名の著作が(特にダルムシュタットで)大量に出版された。それらの内容は、詩の形式でビューヒナーを皮肉ったものや、ビューヒナーによる啓示や生得的観念の批判を認めつつ神や奇跡を信じると主張する明らかに矛盾したもの、原子に意識を認めることで科学と霊魂不滅を調和させようとするもの、真の宗教性とは人権に由来する民主的なものだという立場に基づきフォークトの宗教に対する無理解を批判するもの(Wilhelm Schulz-Bodmer)など、多様であった。

 またモレショットの信奉者であったマチルデ・ライヒャルト(Mathilde Reichardt)は、しかしその世界観の中に罪の居場所がないことに不満を表明している。モレショットは罪を不自然さと結びつけているが、全てが自然法則に支配される物質循環の中に不自然さは存在しえないからだ。こうして賛同者の側からも、科学的唯物論は倫理や道徳について語れないという弱点が示されていた。しかし唯物論者たち自身はまったく説得されなかった。

研究例外論を擁護する難しさ John (2010)

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/15265161.2010.482647

  • Stephen John (2010). Three Worries about Three Arguments for Research Exceptionalism.American Journal of Bioethics. 10(8), 67–69.

 Wilson & Hunter (2010) は、「研究例外論」(研究はリスクが相対的に低くても厳しく規制すべきであるとする見解)を支持する既存の議論の難点を指摘すると同時に、新たに3つの擁護論を提出した。筆者も研究例外論には賛成であり、また既存の議論に対するW&Hの批判にも説得力を感じる。しかし、新しい議論のほうはどれも説得的でない。

 第一の議論でW&Hは、研究参加者はリスクを負うわりに研究から利益を得ていないと主張している。確かに研究参加者は、自分が参加した特定の研究プロジェクトからは利益を得ないかもしれない。しかし、研究という社会制度そのものから、間接的な利益を得るはずだ。交通規制を例に考えよう。運転しない人は交通規制から直接の利益を得ないが、間接的利益は得る(配達物が早く届いたり、経済がよりよく機能するなど)。そしてこの事実は、交通規制のありかたに関連すべき要因だと思われる。このように間接的利益を考慮した時、W&Hの言うような研究におけるリスクと利益の非対称性は、簡単には成り立たないだろう。

 第二の議論は、研究が公的信頼に依存しているという点から、研究への強い規制を擁護するものだ。しかし公的信頼への依存は研究固有の特徴ではない。例えばリスクの大きい危険なスポーツの場合でも、それは人々が運営組織を信頼しているからこそ成立する。実際、あらゆる社会的相互作用は信頼によって成り立つのであり、W&Hは研究の場合に何か特別なことがあると示さなければならない。

 W&Hの第三の議論は、研究にかんする倫理的判断の不確実性と多元性から、倫理委員会のような強い規制枠組みを正当化しようとする。この議論は比較的説得的だが、懸念すべき部分もある。目下の文脈では、研究者は聖職者に似ている。どちらも人々を自分の計画に引き入れようとしており、かつその計画への参加には無視できないリスクと利益が伴う。しかしかといって、宗教的な勧誘運動を独立した委員会によってチェックしろと言う人はいない。ところがW&Hの議論によれば、こうした宗教への参加を含む「人生における実験」(ミル)全般を規制すべきだという反リベラル的な結論が出てしまう。
 
 研究者と聖職者のアナロジーを却下する方法はあるだろうか。W&Hの議論はさらに研究者の職業倫理の存在にも訴えているが、聖職者にも倫理がある。研究参加と違い宗教的回心には身体的リスクがないかもしれないが、心理的・経済的なリスクは存在している。宗教の例では価値の多元性の問題は生じないという反論も考えられるが、人を回心させる場面では有効ではない。最後に、研究の自由と比べて信教の自由はより重要だから規制は正当化されないと言われるかもしれないが、これは単に問題を言い換えているだけで説明になっていない。