えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ニューロマーケティングによる脳の操作に注目しすぎると環境操作の問題を見過ごす Levy (2009)

Neuromarketing: Ethical and Political Challenges | OpenstarTs

  • Neil Levy, 2009, Neuromarketing: Ethical and Political Challenges, Etica & Politica / Ethics & Politics, 11 (2): 10–17.

 人は内心を操作されることに比べて外的環境の操作には警戒心をもたない。しかし多くの場合、外的操作の方が行動により効果的に影響を与える。そこで、内的操作にばかり注目することには、外的操作から目がそらされてしまうリスクがある。

 fMRIを用いたある実験では、ペプシではなくコカコーラを飲んだ場合にのみ追加で活動する脳部位があると示された(McClure et al. 2004)。この実験を衝撃的なものと捉え、我々の脳はコカコーラを飲みたくなるように配線されてしまっていると言う人たちがいる(Hamilton and Denniss 2005)。しかし、この実験が示しているのは、コカコーラには一定の記憶や視覚像が結びついついているということで、それはfMRI実験を行わずともとっくにわかっていたことである。あるいは、オキシトシンが信頼に関わることがわかってくると、それがセールスに用いられるのではないかという懸念が生じた。しかしセールスマンはすでに、顧客のオキシトシンを操作して信頼を獲得するようなテクニック(例えば、あえて商品を貶して信用を得る)を用いている。

 コカコーラ社やセールスマンが行なっている環境操作は、内的操作と同じくらい不穏なものであるはずだ。しかし人は、神経科学は何か特別なものだと考えがちである。実際、Weisberg et al. (2004) によると、明らかにおかしな説明でも神経科学用語が用いられていると人はそのおかしさを見抜けなくなる。

 近年、「ニューロ・マーケティング」に関する関心が高まっている。顧客に商品の感想を直接聞くのではなく、fMRIに入れて脳活動を見るのだ。この方法により、顧客の不誠実な意見やおためごかしを排除し、本人が気づいていない正確な評価を突き止めることが期待されている。しかし、少なくとも現在および近い未来については、この方法の有効性を疑うべき十分な理由がある。fMRIはまず高価な方法であり、生理反応をとったり行動を隠れて観察するなど、不誠実さを見抜くより安い方法がある。またそもそも、多くの顧客は誠実だと仮定できるし、人の感じかたを知る指標としてはfMRIより言語報告や明示的行動の方が現状はるかに優れている。

 従ってほとんどの人にとってニューロマーケティングは時間の無駄に終わるだろう。しかしそれに加えてニューロマーケティングはリスキーでもある。より効果的で規制の必要がある外的操作から注意をそらすからだ。マーケターが実際に用いている様々なテクニックの有効性は科学的にも確立されており、いつ実現するかわからない内的操作よりもこちらの方を気にかけるべきなのだ。

 そうしたテクニックはあくまで環境に対するものであり、行為者の抵抗や選択能力には全く手をつけないのだから、特に脅威ではないと思われる。しかし行為者と環境との区別は、哲学的にも疑わしく、また実践的にも危険だと考えられる。このことを示す例として、自我枯渇仮説とそれに基づくテクニックをあげることができる。自我枯渇状態には、少なくとも短期的に見たとき、それ特有の現象経験がまったくないようだ。つまり、意志力が枯渇していることは本人にはわからない。従って自我枯渇は、マーケターが顧客を搾取するためにうってつけである。顧客にあらかじめ自己制御が必要な事柄を行わせて資源を消費させれば、〔本人は全く気づかないうちに〕誘惑に抵抗することが難しくなる。実際少なくとも実験の中では、自我枯渇によって購買威力が高まることは実際に示されている(Vohs and Faber 2002)。「自我枯渇」という観点から概念化していないにせよ、マーケターはすでにこうしたテクニックを用いているとも言える。エスカレーターで移動するだけで数々の店の前を通過する設計になっているショッピングモールはその例だ。

 購買行動を制御しようとするマーケターは、神経科学のツールよりも、この種の環境構築というより効果的な方法を用いるだろう。内的操作も外的操作も行動の操作である点に変わりはなく、前者を懸念するならば後者を懸念すべき正当な理由がある。