えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

研究例外論を擁護する難しさ John (2010)

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/15265161.2010.482647

  • Stephen John (2010). Three Worries about Three Arguments for Research Exceptionalism.American Journal of Bioethics. 10(8), 67–69.

 Wilson & Hunter (2010) は、「研究例外論」(研究はリスクが相対的に低くても厳しく規制すべきであるとする見解)を支持する既存の議論の難点を指摘すると同時に、新たに3つの擁護論を提出した。筆者も研究例外論には賛成であり、また既存の議論に対するW&Hの批判にも説得力を感じる。しかし、新しい議論のほうはどれも説得的でない。

 第一の議論でW&Hは、研究参加者はリスクを負うわりに研究から利益を得ていないと主張している。確かに研究参加者は、自分が参加した特定の研究プロジェクトからは利益を得ないかもしれない。しかし、研究という社会制度そのものから、間接的な利益を得るはずだ。交通規制を例に考えよう。運転しない人は交通規制から直接の利益を得ないが、間接的利益は得る(配達物が早く届いたり、経済がよりよく機能するなど)。そしてこの事実は、交通規制のありかたに関連すべき要因だと思われる。このように間接的利益を考慮した時、W&Hの言うような研究におけるリスクと利益の非対称性は、簡単には成り立たないだろう。

 第二の議論は、研究が公的信頼に依存しているという点から、研究への強い規制を擁護するものだ。しかし公的信頼への依存は研究固有の特徴ではない。例えばリスクの大きい危険なスポーツの場合でも、それは人々が運営組織を信頼しているからこそ成立する。実際、あらゆる社会的相互作用は信頼によって成り立つのであり、W&Hは研究の場合に何か特別なことがあると示さなければならない。

 W&Hの第三の議論は、研究にかんする倫理的判断の不確実性と多元性から、倫理委員会のような強い規制枠組みを正当化しようとする。この議論は比較的説得的だが、懸念すべき部分もある。目下の文脈では、研究者は聖職者に似ている。どちらも人々を自分の計画に引き入れようとしており、かつその計画への参加には無視できないリスクと利益が伴う。しかしかといって、宗教的な勧誘運動を独立した委員会によってチェックしろと言う人はいない。ところがW&Hの議論によれば、こうした宗教への参加を含む「人生における実験」(ミル)全般を規制すべきだという反リベラル的な結論が出てしまう。
 
 研究者と聖職者のアナロジーを却下する方法はあるだろうか。W&Hの議論はさらに研究者の職業倫理の存在にも訴えているが、聖職者にも倫理がある。研究参加と違い宗教的回心には身体的リスクがないかもしれないが、心理的・経済的なリスクは存在している。宗教の例では価値の多元性の問題は生じないという反論も考えられるが、人を回心させる場面では有効ではない。最後に、研究の自由と比べて信教の自由はより重要だから規制は正当化されないと言われるかもしれないが、これは単に問題を言い換えているだけで説明になっていない。