えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

80年代までの動物倫理概観 DeGrazia (1991)

muse.jhu.edu

  • David DeGrazia, 1991, The Moral Status of Animals and Their Use in Research: A Philosophical Review, Kennedy Institute of Ethics Journal, 1 (1), pp. pp. 48-70.

 1970年代、動物の道徳的地位について論じるのは変人のすることだった。しかし現在(1991年)、この問題はいかなる道徳哲学者も避けては通れないものになっている。しかし注目の増加とは裏腹に、議論の深まりは依然十分ではない。この論文では既存の議論のレビューを通じ、主要な諸理論の実践的含意は大きく収斂していることを示し、また残された困難な問題を明確化する。

論争の一般的特徴

 動物の道徳的地位をめぐる哲学的議論には、次のような一般的な特徴がある。

  • 1. 理論家たちは互いにまったく異なる規範理論に基づいて議論をしている(功利主義 or 権利論)
  • 2. 動物の扱いについて現状維持を支持するまともな理論が存在しておらず、事実上すべての理論家が動物福祉を支持している
  • 3. 哲学的な厳密さや徹底性が比較的欠落している(多くの読者を獲得するためか)

 評者の見解では、この問題について哲学的に重要な貢献を行ってきた研究者は5人しかいない。まずはそれらの人々の見解を見ていこう。

第一世代

 第一世代として取り上げるシンガー、フレイ、リーガンは、見解の細部こそ違うものの、次のような特徴を共有している。そしてこれらの特徴は、動物の道徳的地位をめぐる議論の中で哲学的「正統派」(Orthodoxy)となっている。

  • a. リベラルな個人主義の伝統に基づく。権利や関心の担い手としての個体に注目する一方で、共同体ベースのアプローチなどは取り入れていない。
  • b. 論争における権威として理性を信じており、倫理学における体系的なアプローチを支持している。
ピーター・シンガー

 シンガーの『動物の解放』(Animal Liberation, 1979)は、動物の道徳的地位にかんする哲学的議論を喚起した。シンガーは(実在する)選好の充足を最大化すべきだと考えるタイプの行為功利主義者で、動物が苦しみ(suffering)を避けることに関心(この場合、選好のこと)を持つことは科学的に明らかだから、動物の苦しみは人間の苦しみと等しい道徳的重みを持つと論じた。

R. G. フレイ(Frey)

 フレイの『関心と権利』(Interests and RIght, 1980)は、哲学的に綿密な議論を展開している点で重要だ。フレイもシンガーと同じく選好行為功利主義者だが、他方で動物には関心がないと考える(のちに撤回している)。道徳的に重要な意味での関心(=欲求(desire))をもつためにはそれに対応する信念が必要であり、信念を持つためには言語が必要だからだ。しかし動物は「不快な感覚」をもつことはでき、そうした感覚をむやみに生じさせることは不正だと論じられる。

トム・リーガン(Tom Regan)

 前二者と異なり、リーガンの『動物の権利の擁護』(The Case for Animal Rights, 1983)は功利主義への反論ではじまる。功利主義は個体の独立性を無視している点に問題があり、すべての個体には等しい内在的価値があると考えるべきだ。ここでいう「個体」とは価値を帰属させることに意味があるもの、つまり福利を持つものであり、福利を持つとは通時的な良い暮らし(fare)を持つということを含意する。したがって、通時的に信念、欲求、心理-生理的同一性を持つ動物は、個体であって、内在的価値を持つ。内在的価値は尊重されるべきであり(「尊重原則」)、したがって害されるべきではない(「危害原則」)。

第二世代

 第二世代として扱うミジリーとサポンティスの見解は、上記の「正統派」と相容れない部分を持っており、これまで過小評価されてきた。

メアリー・ミジリー(Mary Midgley)

 ミジリーの『なぜ動物は重要か』(Animals and Why They Matter, 1984)は、動物の関心を無視する見解に反論する中で、「私たちに近い存在の関心を道徳的に優先すべき」という考えをほぼ否定するに至る。しかし最終的にこの考えは、社会的な絆に訴える形で修正されて受け入れられる。すなわち、親は自分の子供の関心を優先するし、私たちは火事などの緊急事態の最中にいる人の関心を優先する。そしてこれは単なる偏見ではない。同じように、動物の関心を優先するべき場合がありうるのであって、したがって人間の関心だけを優先する態度は正当化できない。

S. F. サポンティス(Sapontzis)

 サポンティスの『道徳、理性、動物』(Morals, Reasons, and Animals, 1987)は、倫理を非歴史的な規範として捉えるのではなく、文化的伝統に根ざした実践的な努力と捉える。そして、これまで動物に無頓着だった西洋の伝統の中にも、動物解放に向かう要素があると指摘していく。それはすなわち、徳の涵養、苦痛の削減、公平性である。ただしサポンティスは、すべての動物の関心を平等に考慮せよとは主張せず、ミジリーのように身近な存在への優先を認めている。

主要な理論的問題

 これまで適切に扱われていない重要な問題を明確化することで、動物に関する倫理はさらに進展するだろう。ここでは3つを挙げる。

平等な考慮(equal consideration)

 動物の関心が重要だとして、それは人間の関心と比較した時にどのくらい重要なのだろうか。「道徳的に重要な点」で同じ状況にいる場合には同じ判断せよと求める普遍化可能性の原則は、平等な考慮を支持するように見える。しかし、何が「道徳的に重要な点」なのかを決定するのは難しい。一つの答えは社会的絆の程度に訴え(ミジリー)、同等の絆がある場合には等しく考慮すべきだとするものだろう。この考え方には、人種差別などの不公正な差別をどう防ぐかという問題や、長期的利益に注目して程度問題を説明する功利主義者との差別化といった課題がある。

 平等な考慮に反対する見解として「独自説」(sui generis view)と呼びうる立場がある。これは、何が道徳的に重要かは究極的には無根拠だとするものだ。〔平等な考慮を擁護する者は〕特定の生物種に属していることは道徳的に重要ではないと考えるが、この点が論理的に証明されたことはない。実際、特定の種(人間)がそれ自体として道徳的に重要だという考えかたは直感的な尤もらしさを持ち、関連する現象に対する説明力もある。

生命の価値

 ある存在者の持つ経験の質ではなく、その生命自体が道徳的重要性を持つのはどのような場合だろうか。この問いは、痛みを生じさせずに動物を殺すことの是非にかかわる。

 選好功利主義(シンガー、フレイ)では、生き続けることに選好を持つ存在のみが、道徳的に重要な生命を持つ。選好だけが重要だという考えに否定的な場合、別の考え方もある。例えば、道徳的に考慮すべき存在(通常、関心を持つ存在)の生命は全て価値を持つとしつつ、その程度は(例えば心的能力の複雑さに応じて)様々だとするものだ(リーガン、レイチェルズ(Rachels)、ドゥグラツィア(DeGrazia))。この程度差は様々な形で説明しうるが、しかしこれまで十分な説明が与えられたことはない。また第三に、全ての生命の価値は等しいとする立場がありうる。この場合、動物の死よりも人間の死の方が悪いということは、生命自体の価値の相違ではなく、経験の質や量に訴えて説明される。しかしこの点についても十分な説明は与えられていない(サポンティス)。

周辺事例

 人間の利益のために動物を害することが許されうる(例えば医学研究の場合に)と考える場合、そうした動物と関連する点で似ている人間も同様に害して良いことになる。実際フレイは、かなり限定的な形ではあるが、人間を同意なしで研究に利用する可能性を擁護している。だがこの帰結は非常に受け入れがたいだろう。その場合、何らかの反論が必要になる。人間を研究に使用する場合のだけ生じる副次的効果(暴動や研究者への脅迫など)に訴えるものや、人間の研究使用は原則的には可能だが義務ではないという点を強調するものなどがありうる。

 こうした反論の一種として、ジェームズ・ネルソン(James Nelson, 1988) は次の点に注目した。すなわち、標準以下の能力を持つ人間は標準的経験を持てない点ですでに大きな危害を受けているが、標準的人間以下の能力しか持てない動物にはこのような危害は存在しない。この場合、こうした人間に特別な共感を持たないことは道徳的感受性に欠け、また配分的正義にも悖ることになるだろう。この議論はさらなる検討に値する。

研究現場への応用

 ここまでいくつかの理論を見てきたが、しかし具体的な場面での指導原理(working principle)としてはほぼ収斂しているという点について論じよう。

 この収斂を強調するために、まず保守派の議論が成功していないことを簡単に指摘する。H. J. マクロスキー(McCloskey)の「動物実験の道徳的擁護」(The Moral Case for Experimentation on Animals, 1987)は、自明な一応の義務として、人間を人間として尊重するべきだという点に訴えている。しかし功利主義者のことを考えればすぐ分かるように、こうした義務の存在はまったく自明ではなく、マクロスキーの議論は論点先取的である。またカール・コーエン(Carl Cohen)の「生命医療研究における動物使用の擁護」(The Case for the Use of Animals in Biomedical Research, 1986)も、権利概念の論点先取的な分析によって動物を権利の担い手から排除している。またコーエンは、功利計算によれば実験動物の苦痛は人間の利益を上回ると言うが、実験動物の苦痛は確実だが人間の利益は単に見込みにとどまっている点を考えると、この計算はもっともらしくない(実際、シンガーは正反対の結論を出している)。コーエンの議論はそのほかにも欠点が多い。

 では、上述の5人の理論の検討に移ろう。まずリーガンの見解はシンプルで、科学における動物への危害は全廃すべきである。シンガーやフレイのような功利主義を具体的なルールに落とし込むことは難しいが、しかし動物の苦痛は確実だが人間の利益は単なる見込みだという点を考慮すると、大きな利益がない限りは動物実験は正当化されず、この基準は現状の多くの動物実験には当てはまらないだろう。またサポンティス自身が提示する研究原則によれば、ある主体への実験が許容されるのは、それが犠牲を「大幅に」上回る明確で巨大でどうしても必要なニーズに応える唯一の方法でなければならない。これはリーガンと功利主義の中間に位置する見解だと思われる。最後に、ミジリー自身は実験動物に関する原則を提示してはいないが、著作全体のトーンや、研究者の典型的な自己弁護を批判する点から見ても、現状よりはるかに強力な規制を支持する立場だと考えて差し支えないだろう。

 結論として、この分野におけるすべての〔まともな〕理論は、程度差こそあれみな進歩的である。

展望

 今後動物倫理でどのような点が検討されるべきだろうか。すでにあげた3点に加え、次のものが重要である。

 まず、道徳的に考慮すべき動物の種はどれなのかという問題がある。脊椎動物は苦痛を感じるという点については最低限の合意があるが、このラインを超えると議論が紛糾している。

 次に、動物の関心についてより十分に理解する必要がある。これはつまり、動物が何によって・どの程度危害を被るかを理解する必要があるということだ。

 また、様々な理論の間の接点、共通の基盤を探すことも重要だ。第一世代に展開された理論的に妥協のない理論は深刻な反論にさらされており、また小さなセクトのみを満足させるにとどまっている。この点でサポンティスは大きく前進しており、ウェイン・サムナー(Wayne Sumner, 1987 and 1988)の著作も重要である。

 最後に、上述した収斂の指摘が正しいのであれば、動物実験にする政策が変更されるにふさわしい段階に来ていると言える。そうした変革をうまくやり遂げるにはどうすればいいかに関する研究も、今後重要になるだろう。