- Gregory, Frederick. (1977). Scientific Materialism in Nineteenth Century Germany. Dordrecht: D. Reidel.
- PART 1. BACKGROUND
- 1. Ludwig Feuerbach: Father of German Materialism
- 2. Reaction in the Fifties ←今ここ
- PART 2. THE SCIENTIFIC MATERIALISTS AND THEIR WORKS
【目次】
1850年代、ドイツでは唯物論一般や科学的唯物論に対する反発が噴出した。この時期に現れた批判書は4タイプに分けることができる。
(1) 観念論的な哲学者によるもの
職業哲学者から見たとき、科学的唯物論者は哲学的にあまりに素朴だった。心身問題のような古くからの哲学的問題が科学の進歩によって簡単に解決することはありえず、唯物論者の主張は話を混乱させているにすぎなかった。
a. ヘーゲル主義:フィッシャー
クーノ・フィッシャーはすでに1853年に、主にフォイエルバッハとモレショットを批判する著作『感覚主義の誤り』を公刊した。自我は脳活動によって生じるとする唯物論は人間と動物の差異を無視しており、唯物論が含意する決定論は道徳を破壊してしまう。また、ドイツを覆う貧困問題を前に、国家を個々の利害関心の均衡装置と捉える唯物論者の考えかたは不十分であり、問題解決のためには自由意志による「時代の霊的再生」が必要である。さらに、自然は目的論なものであり唯物論者の奉じる盲目的必然性では説明できない。自然の法則性・目的性は絶対的知性に由来するもので、科学を宗教から切り離すのは誤っている。
b. 新カント主義:フラウエンシュテットとランゲ
科学的唯物論はドイツ哲学界に認識論的問題を再燃させた。そうした認識論回帰の兆候の一つが、新カント派の運動である。初期の新カント派の中で唯物論批判を展開した人物に、ユリウス・フラウエンシュテットがいる。フラウエンシュテットは、神学の独断主義に対する唯物論者の批判は評価するが、唯物論は神学と同じ問題を抱えていると指摘する。それは形而上学的実在論であり、知性の働きを無視して、「力」や「物質」といったカテゴリーが物自体にそのまま適用できると考える点だ。実際、唯物論者が信じる自然法則の不変性や普遍性は感覚知覚を超えているし、有機物に秩序と形態を与える原理が意図せず導入されており、さらには倫理的責任に言及する以上は自由意志を認める必要がある。また科学の領域と信仰の領域を峻別するルドルフ・ヴァーグナーのような考えは正しくない。近代科学と対立するのは歴史的宗教に過ぎず、歴史的宗教は宗教の本質ではない。
フリードリヒ・アルベルト・ランゲは唯物論に対してより厳しいが、批判の内実はフラウエンシュテットのものとほぼ同様である。例えば、そのフォイエルバッハ批判は現象と物自体の区別に基づく。かつてヘーゲル派だったフォイエルバッハは本質が現象において完全に現出すると錯覚し、さらにヘーゲルを超えて、現象を感覚と同一視してしまった。総じて、唯物論者たちは知識の限界を無視している点に問題があるが、この点を理解するにはもっと哲学の教養を身につけなければならない。こうした尊大な態度は唯物論者たち、特にビューヒナーを激昂させた。
c. シャラー
ハレ大学の哲学者ユリウス・シャラー(Julius Schaller)は、フォイエルバッハ同様ヘーゲル派から離反した人物だ。シャラーの考えでは、出発点として原子を選ぼうが精神的実体を選ぼうが、何れにせよ矛盾や不整合が生じる。そこでこの二者択一の前提を見直し、物質を活動的で過程的なものだと捉えるべきである(シャラーの見解はホワイトヘッドに似ている)。この見解は、物質から心的現象を導き出せるとする唯物論の考えを批判するものだ。さらにシャラーは、唯物論者は自身の考えを学(Wissenschaft)だと言わんとする点で観念論的関心を持っているのではないかと指摘している。
d. フローシャマー
唯物論に対して哲学的反論を行ったカトリックの神学者にヤコプ・フローシャマー(Jakob Frohschammer)がいる。フローシャマーは自分の神学者としてのポジションがかわいいだけだとフォークトに非難されたが、これは不当である。フローシャマーは科学研究の自由を擁護しダーウィニズムの解説書を著すような人物であり、最終的には教皇無謬に反対して破門された。フローシャマーは、そもそも推論という営みには感覚経験以上のものが含まれていると指摘する。そして、感覚的なものに超感覚的なものが含まれていることを否定できない唯物論者には、魂や生気の可能性も否定できない、と論を進める。またフローシャマーは、自然科学だけが事実に基づいているとする自然科学者のエリート主義や、唯物論者が説く道徳の相対性にも反発した。
(2) 科学者によるもの
ドイツでは、自然科学者が公的な討論にかかわるのはみっともないという風潮があった。しかし、唯物論に対して黙っていない科学者もいた。総じて、大学にポジションを持つような科学者は唯物論を受容しなかった。唯物論者と同様に正統派の宗教を批判する者もいたが、宗教自体の否定にまでは至らず、宗教の近代化を志向する者が多かった。ただし、どのようにそれを達成するかについては全く曖昧であった。
a. リービヒとヴァーグナー
リービヒは、実験を重視して思弁を固く戒めた人物であったが、唯物論には決して賛同しなかった。1856年マクシミリアン2世の前での講演では、モレショットを念頭に置きつつ、唯物論者はディレッタントだと断じている。
ゲッティンゲンの生理学者ルドルフ・ヴァーグナーは、1854年のドイツ科学者・医学者協会31回大会での演説やそれに引き続く出版でフォークトを批判した。これをきっかけにフォークトは論争的な著作『妄信と科学』(1855)を出版し唯物論に関する議論が盛り上がったが、ヴァーグナー自身は論争を巻き起こしたことを同僚から咎められ、さらなる応答は行わなかった。
b. アンドレアス・ヴァーグナーとアウグスト・ベーナー
フォークトに応答した科学者に、動物学者アンドレアス・ヴァーグナー(Andreas Wagner: ルドルフとは無関係)がいた(『自然科学と聖書』(1855))。偉大な科学者の多くはキリスト者であり、自然科学が超自然的なものの否定につながるというのは誤りである。また、唯物論はキリスト教の疎外体にすぎない。さらにヴァーグナーは、種の定義という問題についてもフォークトと論争になった。
アウグスト・ベーナー(August Böhner)は、スイス自然科学協会の会員であった以外は不詳の人物である。その著書『自然研究と文化的生活』(1859)は、ヴァーグナー同様、唯物論に対して宗教を擁護するものだ。曰く、唯物論は革命と関連している。実際、イギリスやフランスの革命前にも唯物論は流行していた。こうした関連が生じるのは、唯物論が攻撃するキリスト教的思考こそが、社会秩序や平和、文化的進展、人権を可能にしているからだ。
c. ヘルマン・クレンケ
唯物論により融和的な科学者も存在していた。例えば軍医のヘルマン・クレンケ(Hermann Klencke)は、自然科学からは確かに無神論的結論が引き出しうるが、同時に有神論結論も引き出しうると論じる。このように自然科学を宗教的に中立だとすることで、クランクは多くの人々(特に神学者や古典学者)に広がる反自然科学的態度に抵抗しようとした。
d. カール・フォン・ライヘンバッハとヘンリッヒ・ライヘンバッハ
「オド」で知られる化学者のカール・フォン・ライヘンバッハは、オドは感覚されうるというという観点から、物質だけが感覚されるという唯物論者に反対した。また植物学者のヘンリッヒ・G・L・ライヘンバッハは、利己性がはびこる無機的段階から愛に溢れる有機的段階への発展という図式を展開し、後者の段階を認めない点で唯物論を非難した。
(3) 正統派の神学者や牧師によるもの
唯物論はドイツの社会全体に広がり、多くの宗教的パンフレットや説教の中にも登場することになった。聖職者の中には、唯物論の勃興を観念論の必然的帰結と捉え、近代の理性重視傾向全体を批判する者や(Otto Woysch, D. A. Hansen)、逆に自然科学によって教義を擁護しようとする者もいた(Wolfgang Menzel)。しかし多くの聖職者はその中間を行った。すなわち、学問自体を批判することなく唯物論を批判するという道だ。
a. フリードリヒ・ミケリス
カトリックの司祭フリードリヒ・ミケリス(Friedrich Michelis)はシュライデンにあてた公開書簡で、科学の通俗化(フンボルトの「コスモス」にはじまる)への関与に遺憾の意を表明した。シュライデンの一般向け講義はミケルスの考えるカトリックの立場から明らかに逸脱していた。すなわち科学と宗教は別の領域のもので、科学は有限の物質的存在にのみかかわる(したがって唯物論の主張は科学的主張ではない)という立場だ。しかし他方でシュライデンは反唯物論傾向を持っており、ミケリスはこの点を賞賛した。またミケリスは、唯物論に対抗するための雑誌『自然と啓示』も創刊している。
b. アドルフ・ハーレス
ルドルフ・ヴァーグナーの親戚であるプロテスタント神学者アドルフ・ハーレス(Adolph Harless)は、戯曲の形で唯物論に反対した。この劇は、ゲーテが蘇って唯物論が浸透したドイツ文化の荒廃を目の当たりにするというもので、最終的にゲーテは「地獄の方がマシだ!」と叫んで唯物論を破壊するよう神に訴える。この事例が示すのは、反唯物論者は戦いの方法を賢く選択していたということだ。通俗的運動としての唯物論と戦うのに、細かい哲学的議論は適していない。皮肉や機知、国民的人物の利用といった手段で、読書層を説得することが試みられた。
c. フリードリヒ・ファブリ
プロテスタントの伝道視察者であったフリードリヒ・ファブリ(Friedrich Fabri)の『反唯物論書簡』(1859)は、唯物論は哲学的運動と言うより時代の兆候なのだ指摘する。実際、多くの哲学的論駁がなされたのにもかかわらず、「思弁は夢遊病の哲学だ」(フォイエルバッハ)の一声でかき消されてしまった。唯物論は古代ギリシアでもフランスでも社会の下降局面に現れるもので新しさはないが、これを野放しにするとフランス革命のような事態に発展することが今日ではよくわかっている。
唯物論への攻撃と同時に、ルドルフ・ヴァーグナー流の二重真理説にも批判的なのがこの本の興味深いところだ。信仰は直接経験から生じるものであり、あらゆる知識・理解の前提になる。実際、科学者が自然法則の不変性や空間の無限性を言う時、そこには信仰が入り込んでいる。また、経験というのは感性的なものに限られない。自己意識や啓示の経験のような超感覚的経験が存在しており、その証言は感覚経験と同じくらいリアルである。
経験に比べ、思考には相対的なところがあり、科学的な事柄に対する態度は整合的でありさえすれば後は道徳的選択の問題である(ファブリはツォルベの唯物論的な一貫性を評価しさえしていた)。結局、世界の真のあり方を教えてくれるのは経験ーー特にキリスト教的経験なのである。しかしすべての人がキリスト教的経験を持つわけではない。こうして、科学における真理の問題は最終的には救済の問題となり、伝道が動機づけられることになる。
(4) 市民によるもの
1850年代には、唯物論への不満を表明する匿名の著作が(特にダルムシュタットで)大量に出版された。それらの内容は、詩の形式でビューヒナーを皮肉ったものや、ビューヒナーによる啓示や生得的観念の批判を認めつつ神や奇跡を信じると主張する明らかに矛盾したもの、原子に意識を認めることで科学と霊魂不滅を調和させようとするもの、真の宗教性とは人権に由来する民主的なものだという立場に基づきフォークトの宗教に対する無理解を批判するもの(Wilhelm Schulz-Bodmer)など、多様であった。
またモレショットの信奉者であったマチルデ・ライヒャルト(Mathilde Reichardt)は、しかしその世界観の中に罪の居場所がないことに不満を表明している。モレショットは罪を不自然さと結びつけているが、全てが自然法則に支配される物質循環の中に不自然さは存在しえないからだ。こうして賛同者の側からも、科学的唯物論は倫理や道徳について語れないという弱点が示されていた。しかし唯物論者たち自身はまったく説得されなかった。