えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

フォイエルバッハ:ヘーゲル主義から感覚主義へ Gregory (1977)

  • Gregory, Frederick. (1977). Scientific Materialism in Nineteenth Century Germany. Dordrecht: D. Reidel.

 フォイエルバッハは、フォークトやモレショットらのドイツの科学的唯物論の重要な背景となった。しかし彼は学生時代にはベルリンでヘーゲルから直接学んだヘーゲル主義者だった。ベルリン大の後にエアランゲン大で自然科学を学んだことで、ヘーゲルの哲学は自立的なはずの自然を論理に従属させているのではないかという疑念を抱いたものの、彼の1830年代の著作はおおむねヘーゲル主義的であった。たとえば、ヘーゲルにおける論理と形而上学(思考と存在)の同一視を批判するバハマン(Karl Josef von Bachmann)に対しヘーゲル主義を擁護したり、ドーグト(Johann Franz Dorguth)の唯物論に対して思考は純粋に知性的な活動であると反論したりしている。

 しかし30年代が進むにつれ徐々にヘーゲル主義的な色彩が薄れていき、ついに1839年の『ヘーゲル哲学の批判』では態度を一変、ヘーゲル主義は感覚経験という第一義的で否定できない経験を考慮せず、経験についての思考にばかりにかかずらっているという批判を展開する。「一語対一語、汝がいま語るところのものを予に指し示せ」(邦訳四十三頁)。こうして、アプリオリなもの、自己により創られたもの、思弁の産物、を否定する態度を身につけたフォイエルバッハは、この態度を宗教に向けて『キリスト教の本質』(1841)を執筆する。ここでフォイエルバッハは、存在を「創作」するのではなく「発見」する自然科学者に自らを重ね、宗教とは壮大な擬人主義であることを発見する。
 
 『キリスト教の本質』は大きな反響を呼び、40年代中盤にはフォイエルバッハの名声は頂点に達する。この時期に書いた『将来の哲学の根本命題』(1843)その他の小論は「感性主義」の立場をさらに洗練させるとともに、思考のみに注目する観念論の一面性を攻撃し続けた。その反面、逆にフォイエルバッハの方では感覚の一面的な重要視と素朴実在論が目立っている。彼は30年代と変わらず思考と存在の同一性を認めるが、今や「思考」とは感覚のことであり、感覚はまさに実在と触れることができるのだった。

 40年代にフォイエルバッハは、シュトラウス、アーノルド・ルーゲ、革命詩人のゲオルク・ヘルヴェーク、また鉱物学者のJ・R・ブルム(Blum)、解剖学者のカール・ヴォン・フォイフナー(Pfeufer)、そしてモレショット、フォークトらと交流した。またフォイエルバッハは断続的に自然科学に興味を持ち続けていたが、40年代には自然科学(特に地質学)への傾倒が顕著であった。
 
 しかし50年代になると、フォイエルバッハは急速に忘れられた。その理由のひとつには、宗教、哲学、政治的批判があらたな段階に入ったこと(マルクスを含め)があり、またフォイエルバッハの難解な哲学的感覚主義よりも、科学界から来た若手唯物論者たちのほうに大衆の興味も移っていった。その後60年代にはフォイエルバッハ自身に経済的・健康的問題が生じ、1872年に亡くなった。

 フォイエルバッハはヘーゲル主義者として教育を受けたが、徐々にヘーゲル主義への疑念をつのらせ1839年についに転向した。転向後の反ヘーゲル的見解は1840年代のドイツで大きな影響力をもち、そこから科学的唯物論と弁証法的唯物論が生じた。従って両唯物論はもともとドイツ観念論の内部から出てきたのだと言える。実際、科学的唯物論は観念論的な遺産を完全に払拭することは出来なかった。