https://www.hup.harvard.edu/books/9780674032279
- Jim Endersby (2007). A Guinea Pig's History of Biology. Cambridge, MA: Harvard University Press.
- Preface and acknowledgements (ウミガメの頃)
- Chapter 1. Equus quagga and Lord Morton's mare(前半)(ウミガメの頃)
- Chapter 2. Passiflora gracilis: Inside Darwin's greenhouse(前半)(ウミガメの頃)
- Chapter 3. Homo sapiens: Francis Galton’s fairground attraction
- Chapter 6. Drosophila melanogaster: Bananas, bottles and Bolsheviks (後半)
- Chapter 8. Bacteriophage: The virus that revealed DNA (中盤)
- Chapter 10. Arabidopsis thaliana: A fruit fly for the botanists(後半)
- Chapter. 12. OncoMouse® Engineering organisms(後半) ←いまここ
【目次】
第12章 オンコマウス®:生物を作製する
[本章前半のあらすじ]
1985年、ハーバード大学の研究者が、乳がんの原因となる人間の遺伝子を挿入したマウスを作り出し、大きな話題となった。これは「オンコマウス®」として米国で特許を取得し、特許化された最初の遺伝子組み換え動物になった。
マウスは20世紀初頭から遺伝の研究に使用されるようになっており、クラレンス・クック・リトル(Clarence Cook Little)らによってがんとの関連も研究されていた。オンコマウスはこうした研究の上で可能になったものだ。 また生物の特許化という点でも先例はあった。
にもかかわらず、オンコマウスが特に注目されたのには理由がある。科学界では、研究材料や知識の自由な共有が特許により脅かされるという議論が再び活発化していた。より広範な市民は、人間の遺伝子を人間以外の動物に挿入することに強い懸念を抱いた。また、遺伝子操作を含むマウス実験は常に残酷さの点で批判されてきた。
動物を用いた医学研究への反対論の一つに、動物は人間の病気の十分なモデルにならないというものがある。科学者たちは適切な生物を見つける努力をはらってはいるが、慣れ親しんだ生物に「囚われて」しまうことも少なくない。加えて、一度ある生物が研究対象として確立されると、それが誤った問題に使用されることにもつながる。こうした失敗のストーリーは聞くにあたいする。
植物学者アンガス・ジョン・ベイトマン(Angus John Bateman)は、ダーウィンの性淘汰の理論を実証する実験がほとんどないことに気づき、1948年に後に古典となる論文を発表した。ここでは、ショウジョウバエが実験生物として選ばれた。異なる遺伝子マーカーをもつショウジョウバエを利用することで、交尾の回数を数えなくても、それぞれの個体がどれだけ繁殖に成功しているかを正確につきとめることができた。結果、オスとメスの繁殖成功率の違いから、「メス同士よりもオス同士の方が配偶者獲得競争が激しい」という結論が出された。
では、これはなぜなのか? ベイトマンによれば、メスとオスでは配偶子を作るためのコストが大きく異なる。このため、「メスの繁殖力はオスの繁殖力よりもはるかに限定的になる」。このことは、「オスは性に対して積極的であり、メスは消極的である、という組み合わせがほとんど常に存在する」理由を説明している。ベイトマンは、これは人間にも当てはまるとも述べた。
ベイトマンの研究は科学雑誌だけでなく『プレイボーイ』にまで載り、読者は男性と女性の生殖戦略には避けがたい対立があるというメッセージを受け取った。この「ベイトマンの原理」は、現在でも通俗的な生物学や進化心理学の書籍で繰り返されている。だが実際のところ、この原理が人間に当てはまるという証拠はほぼなく、ショウジョウバエの場合でも全ての種に当てはまるわけではない。
ベイトマンへの批判は1970年代に現れはじめた。この時期、大型類人猿の研究に携わる女性研究者が増え始め、メス個体の行動の研究が進んだ。 すぐに明らかになったことは、メスが頻繁に浮気していること、しかも、より支配的なオスほど活発に動き回るので、「自分の」メスの浮気を防げないことだった。ベイトマンの原理はメスの浮気を予測しないため、この結果は驚きだった。同様の行動は様々な動物種で発見され、オスはプレイボーイ的な生活をするどころか、メスの貞操を確保するために多くの時間を費やさなければならないことがわかった。さらに、ベイトマンが用いたショウジョウバエの種は、この属の典型的な種ではないこともわかった。多くの他の種では、メスは霊長類と同様に乱婚で、オスを操るための様々な戦略を持っていた。
ベイトマンの間違いは、動物の研究から人間への一般化を行うことがいかに難しいかを思い出させてくれる。動物の交尾戦略は多様かつ複雑であり、それを基準として、人間の特定の性的行動を「自然」と評価することは不可能である。
盲者の王国
[421-4] ベイトマンのハエ実験のもう一つの教訓は、新しい研究課題に対して慣れ親しんだ生物を用いることには慎重にならなければならない、ということだ。[421-5] また、ショウジョウバエの「消極的な」メスという事例にはさらなる含蓄がある。ベイトマンの原理は単純な誤りから生まれた。[422-1] このように、個々の科学者や科学界全体が誤りを犯すことがある。だが時が経つにつれ、現実のほうが追いついてきて、科学的手法は誤った信念を修正する助けとなる。だが、話はそれで全てではない。
[422-2] 科学とは盲者の王国である。人は現実を直接見る方法を持っておらず、最も単純な科学的主張の正確性を確立することさえ困難を伴う。たとえば私たちは「夜は暗くなる」と思う。だが、個々人の視覚、人工的な明かり、星明かり、皆既日食など、話を複雑化しうる要素は無数にあるため、非常に単純な主張でもその検証方法について合意を得ることはほぼ不可能になる。[422-3] さらに言えば、科学的な問いはむしろ「なぜ夜は暗いのか?」だろう。これについて考えると、単純な観察結果のほとんどは複数の理論によって説明できることがわかる。そして、選択された理論により今後の研究の方向も決まる。例えば、20世紀初頭の突然変異主義者は、メンデル比の証拠を記録しようとはしなかっただろう。あるいはファージの例で見たように、[423-1] ある科学者にとっての重要な証拠は、別の理論的観点からは単なる変則事例(アノマリー)にすぎない*1。
[423-2] また、遺伝子を探していた人など誰もおらず、むしろ突然変異、ジェミュール、原基(Anlagen)などに取り組んでいたという事実も認識しておくべきだ。遺伝学者が歴史を書くときには、先人たちも常に遺伝子を探していたとほのめかす傾向があるが、これは文字通りの真実ではありえない。科学者は自分がどこに向かっているか決して知りえない、とクーンはよく強調していた。「科学の進展は、前から引っ張られるものではなく、後ろから押されるものとして捉えなければならない。ちょうど、進化とは何かに向かう進化(evolution towards)ではなく、何かからの進化(evolution from)であるのと同じである」*2。また、将来世代の科学者が、遺伝子に関する現在の考えかたをどう見るかもほとんどわからない。これこそ、科学史が、現在正しいと考えられている研究者と、誤りだと考えられる研究者とを、同等に扱う理由である。[423-3] 科学は、真理に向かって着実に前進するものではなく、暗闇の中を手探りですすみ、触れたあらゆるものについて、それを理解しようと想像を巡らせるものとイメージするほうがよいだろう。[424-1] 歴史家にとっては、ダーウィンやゴルトンを当時の常識の文脈で研究することがより適切である。それにより、こうした人々が何を、なぜしていたのかを、少なくとも理解はできるようになるからだ。
[424-2] 科学史は、科学が永遠不変の真理を扱うのではなく、暫定的で短命な真理を扱うのみだと示唆している。[424-3] では、現代の科学は過去の科学を改善していないのか? もちろんそうではない。科学者は最終的真理に到達したとは断言できないものの、正しい方向に向かっているという確信を深めるのには十分な理由をもっている。新たな証拠が得られれば、理論を支える主要な仮説はより確固たるものになる。[424-4] これまでも見てきたように、科学は研究者共同体により行われる社会的活動であり、自分の正しさを同僚に説得するには証拠が必要だ。また、確立された説を覆すことができれば輝かしいキャリアを築くことができる。このために、科学者は常に既存の知識を覆す証拠を探し求めている。それでも、自然淘汰による進化論は [425-1] 150年に亘ってますます強固になってきている。
[425-2] では、ダーウィンが間違っていると証明されることは絶対にないのか? もちろんそうではない。ただし、自然淘汰による進化のように成熟して十分に裏付けされた理論が覆されることはありそうにない。科学者は巨大で多様性ある共同体を形成しており、そこには証拠の基準についての合意と、理論を検証・評価するための確立されたメカニズムがある。したがって、大多数の信頼できる科学者が言うことには耳を傾けるのが賢明である。
[425-3] ここで、やや複雑な事例を考えてみよう。遺伝子組み換え食品は、人間や環境にとって安全なのか。人間に安全という点では、科学者の意見はかなり一致しているようだ。他方、環境については話がより複雑になる。前章で見たように、英国における政府後援の遺伝子組み換え作物の実地試験では、生物多様性が大きく減少するなどの問題が示唆されている。また、除草剤に耐性を持つ「スーパー雑草」が生じる可能性もある。[426-1]
[426-2] こうした懸念や世論を受け、英国やその他多くの欧州諸国では、遺伝子組み換え作物の商業栽培は許可されていない。対照的に米国では、安価で豊富な食糧の安定供給のためには環境リスクを取れると判断されているようだ。多くの人々が飢えに苦しむ国では、政治の方程式はまたかなり変わるだろう。実際、世界全体を養うという希望は、遺伝子組み換え作物を開発すべき主な理由として定期的に挙げられる。[426-3] だが、この主張に反対派は懐疑的である。飢餓の原因は食料を買う資金不足であり、食料の絶対不足ではない。バイオテクノロジー企業は金儲けを狙っているだけであり、そのお金で飢餓を解決できるはずだ、と。
[426-4] バイオテクノロジー企業の意図に関するこうした懐疑論は、ハイブリッドコーンの歴史により支持される傾向がある。ハイブリッドコーンが普及した理由には、高い収穫量と栽培法の改良だけでなく、政府お抱えの科学者と商業種苗会社との提携もあった。そのような科学者であるエドワード・イースト(Edward East)は、[427-1] コネチカット州の農家が保存し続けている収穫量の劣る種子を諦め、毎年新しい種子を購入するよう促したが、農家はもちろん消極的だった。[427-2] 他方、種苗会社は、毎年新たに種子を買う必要があるハイブリッドコーンの売り込みに熱心だった。1930年代半ばに壊滅的な干ばつが発生すると、農家は種子を購入せざるを得なくなったのだが、種苗会社はハイブリッド種子しか販売しなかったために、農家は種苗会社への依存から抜け出せなくなってしまった。
[427-3] 現代のバイオテクノロジー企業の革新技術のひとつに、作物の種を不稔にするいわゆるターミネーター遺伝子がある。この場合も、農家は毎年種子を購入する必要がある。この技術は、[428-1] 遺伝子組換え作物の遺伝子の野生化を防いで安全性を高めるものだとバイオテクノロジー企業は主張するが、反対派は、発展途上国を富裕国に完全に依存させる新たな手段に過ぎないと主張する。たしかに、ハイブリッドコーン革命の歴史は、新しい農業技術から最も利益を得るのは大規模農業ビジネスであり、小規模で貧しい農家ではないことを示唆している。
すばらしい新世界?
[429-2] 話をオンコマウスに戻すと、遺伝子組み換え動物は、あらゆる遺伝技術の中でも、当然最も強い不安の的になっている。20世紀の科学は、今日マウスに対して可能なことは、明日には人間に対しても可能になると示してきた。だが、マウスの遺伝子組み換えに反対する人はそう多くないものの、人間の遺伝子への干渉は話がまったく違うと広く受け止められている。優生学者の空想がついに現実になるのかもしれない。もちろん、この可能性は、どの特性が望ましいと誰が判断するのかという、昔ながらのジレンマを生じさせる。ゴルトンは答えは明白だと感じていた。より強く、より健康で、何より最も賢い人間が社会には必要なのだ、と。
だが、この答えを受け入れない人もいた。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』では、世界政府が人間を好きに作れる。そこで登場人物のジョン・サヴェジ(John Savage)は、なぜすべての人を「アルファ」(優秀な知識人)にせず、「半分軽愚」で単純労働を行う「イプシロン」の巨大集団を作り出すのかと問う。[423-1] これに対し世界支配者の一人の説明によれば、安定した社会は階層化されたものでなければならないのだという。このような反論は、遺伝子操作で人間をより賢くできると考える人々に対しても提起されうる。たとえば、最も賢い人々が最も道徳的または思いやりのある人々であるとは限らない、と。
[429-2] しかし遺伝子技術はすでに、小規模な形での優生学を可能にしている。すなわち、遺伝子スクリーニングと検査により、深刻な遺伝的欠陥を持つ胎児の中絶が可能である。ここにも同じ倫理的ジレンマがある。どの遺伝子が「正常」だと誰が判断するのか。[429-3] この問題を無視するわけにはいかない。科学者ではない私たちは専門的なことは理解できないが、それでも意見を持つ必要はある。専門家に委ねるだけでは、市民としての義務と権利を放棄することになるからだ。
著者がこの本を書いた理由の一つは、すでに自分に影響を与え、子供や孫たちにはさらに大きく影響を与えるであろうこの科学分野について、より深く知るためだった。だが研究を進める中で、[430-1] 自分が現代の遺伝学の詳細を理解できないことへの不安は減った。なぜなら、遺伝学自体は、倫理的・政治的な問題についてどう考えるべきかについて、(何か語るとしても)多くを語らないからだ。
[430-2] 例えば、同性愛が遺伝的基盤を持つ可能性について考えよう。注意すべきなのは、「〜の遺伝子」という表現である。ショウジョウバエの例で見たように、遺伝子は相互作用し、その遺伝子が存在する細胞の影響を受ける。また病気に関連する多くの遺伝子について、遺伝子はその病気になる可能性を高めるだけで、実際に病気の原因となるわけではない。これらを考慮すると、人間の複雑な行動「の遺伝子」なるものが存在する可能性は極めて低い。最後に、遺伝学に関する多くの議論では、遺伝的基盤をもつ特性は固定的だという暗黙の前提がある。しかし、ある特性が遺伝子によって制御されているということは、その特性の変化させやすさとは必ずしも関係しない。多くの近視は遺伝によるものだが、矯正するにはメガネをかけるだけでよい。
[430-3] 以上を踏まえたうえで、仮に、同性愛は明確に定義できるものであり、単一の遺伝子によって大部分が決定されており、遺伝子への介入以外の手段では変えられないとしてみよう(言っておくが、このどれもまったくありそうにないことである)。ここから、同性愛行動の道徳性について何か言えるのか? [431-1] まったく何も言えない。
[431-2] 同性愛権利運動家のなかには、もし同性愛遺伝子が発見されれば、同性愛は人間の遺伝的多様性の一部にすぎず、正常であることの証明となると考える人がいる。だが、がん、統合失調症、ハンチントン病の遺伝子もまた遺伝的多様性の一部なのであり、人類はこのような多様性を持たない方が良いという意見もありうる。 したがって、「同性愛遺伝子」が反同性愛キャンペーンに利用されることは十分考えられる。
[431-3] 同一の科学的事実が、正反対の道徳的・政治的立場を支持するために利用される可能性がある。このことは、そうした事実により道徳的・政治的議論を決着させることはできないと示唆する。哲学者たちは少なくとも200年以上前から、倫理的な指針は世界のありかたからは導き出せないと主張してきた。哲学用語で言うと、そのような試みは自然主義的誤謬を犯している。[431-3] 自然主義的誤謬が本当に誤謬であるなら、むしろ安心できる。科学が何を発見しようとも、何を信じるべきか、どう行動すべきかを私たちに教えることはできないのだから。私たちは自らの良心に問い、自ら決断を下さなければならない。
[432-1] 遺伝学の含意という話題に戻れば、自然主義的誤謬を避けるには、科学的議論だけでなく政治的・倫理的な議論にも焦点を当てる必要がある。 たしかに、ある技術を追求するべきでない科学的理由も存在しており、それを理解するのに科学史は役だつ。本書が示してきたように、動物や植物がモデルとして用いられるのは、それが人間とは違うからに他ならない。人間ほど大きくなく、繁殖に時間がかからず、反抗的でなく、同意を得る必要もないと思われている。この違いに目を向ければ、動物から学んだことを人間に応用することには慎重にならざるをえなくなる。[432-2] しかし、科学界が技術の安全性や有効性について幅広い合意に達したとしても、真の議論は始まったばかりだ。遺伝学が提起する問題は、究極的には政治的な問題である。誰がその技術を管理し、誰がその利用法を決定するのか。
著者個人について言えば、遺伝子組み換え食品の安全性については納得したが、食べないことにした。バイオテクノロジー企業が環境や社会の最善の利益を求めるとは思えないからだ。企業に利他的行動を期待するのは非現実的であるから、これは企業が悪いという話ではない。遺伝子技術によって、全員が利益を得、子供たちが育つ世界がより良くなるかどうか、それを決めるのは政府や国際機関の役割であり、つまり結局は私たち次第である。生物の作製にこれほど効果的に介入できる知識が手に入った今、その力を賢明に使う知恵が私たちにあるかが問われている。
*1:要約者注:ファージを生物と見るか化学物質と見るかという、生物学者と生化学者の争いを指す(本文p, 269ff)
*2:要訳者注:原注によるとこのクーンからの引用はCreager, A. (1992). Life of a Virus: Tobacco Mosaic Virus as an Experimental Model, 1930-1965 からの孫引きなのだが、当該書籍の該当箇所(p. 321)を見るとクーンの発言はRheinberger, H.-J. (1999). Reenacting history. Review of: Pickering, Andrew: The mangle of practice. Chicago, Ill.: Chicago Univ. Press 1995. Studies in History and Philosophy of Science. 30A: 163-166.からの孫引きで、つまりEndersbyの引用はひ孫引きにあたる。ラインベルガーの直接の出典はKuhn, T. (1991) The road since structure, in A. Fine, M. Forbes and L. Wessels (eds), Proceedings of the 1990 Biennial Meeting of the Philosophy of Science Association, Vol. 2, pp. 3–13. のp. 7 で、この論文はKuhn, T. (2000). The Road since Structure の4章にあたる(該当箇所はp. 96)(邦訳頁数未確認)。なおこの箇所のクーンの発言は、『科学革命の構造』で示唆した科学と生物の発展のアナロジーをふりかえるもので、したがってクーンのこのアイデアはすでに『構造』の13章に(evolution towards/fromの対も含めて)ほとんどそのままの形で出ている(中山訳192–193頁)。