- Harold J. Cook (2007). Matters of Exchange: Commerce, Medicine, and Science in the Dutch Golden Age. Yale University Press.
- Preface ←いまここ
- 1. Worldly Goods and the Transformations of Objectivity ←いまここ
- 2. An Information Economy (前半/後半)
- 3. Reformations Tempered: In Pursuit of Natural Facts(前半/後半)
- 6. Medicine and Materialism(後半)
【要約】
まえがき
本書は、インテレクチュアル・ヒストリーと社会政治・経済史を統合しようという野望から生まれた。本書では、行動や信念の解釈にあたって財産に注目する。経済的利益だけが人間を動かすわけではないが、物質的制約はリアルなものである。
1章
本書では、オランダ海洋帝国における商人の交換経済の文化が、科学に影響を与えたと主張する。初期近代の商業と科学革命を結びつけるのは昔ながらのやりかただが、かつての「実証主義」とは異なり、本書は科学的発見を自明の過程とは考えず、むしろその過程に経済的要因が大きく影響したことを示していく。
消費と味覚
初期近代のネーデルラントでは、地理的条件から職業の多様化が進み、特に商業が大きく発達した。ポルトガルがアジアとの直接交易を始めたことで、アントウェルペンはイベリア半島からの商品を北ヨーロッパに流通させる拠点となった。加えて、カリブ海に砂糖のプランテーションが広がることで、アントウェルペンは砂糖精製の拠点にもなった。16世紀半ばには、アントウェルペンは10万人を抱えるヨーロッパ第二の商業都市となり、ネーデルラントに豊かな文化が開花した。
味覚=趣味と客観性
ルネサンス期に富裕層の可処分所得が増大し(消費革命)、さまざまな贅沢品が収集されるようになった。こうした品々は、所有者の美徳を表すとともに、言葉では伝達できない感覚的な知識(「趣味」(taste))を体現した。この種の知識は、学校で重視された演繹的知識(言説知)とは異なる。事物の原因ではなく、個々の事物そのものの知識(体験知)が重視されるようになり、それはヤン・ファン・エイクらの「現実主義的な」絵画にも反映されている。この中で、感覚から得られる知識に「客観性」が使われ始める。
物品や標本の収集
自然物の体験知は様々な分野で必要とされた。一例が、贅沢品の一種として収集された写本の解読である。古代写本に現れる植物や薬の収集や、古代の著者(ヒポクラテス)に倣った症例記述も盛んになった。また、珍しいものを見抜く体験知は驚異物の収集でも重要になった。消費革命は庭園への熱狂も生み、より多様な植物や薬草の栽培が進んだ。16世紀半ばには、自然誌や医学への熱狂は全ヨーロッパに広がった。個々の自然物を喜ぶ態度は古代では多神教のそしりを受けたが、ルネサンス期には「自然の書物」の研究も評価されるようになっており(自然神学)、神学的問題はおおむね克服されていた。
解剖学と医学における客観性
このころ、人体解剖の公開授業が熱狂的人気を集めた。大学外での動きに対応して、医学部でも解剖学が発展した。実際に見ることを重視するヒポクラテスの考え方が解剖学と結びつき、個人的経験が知識の正当な源泉として認められていった。体験に基づく客観性の判断に人々が慣れていくと、この種の知識が蓋然的だという見方も消えていった。商業活動に従事する人々が重視する知識のありかたが、哲学者にさえ広がり、科学という知的活動もそこから生まれたのである。
【目次】
モットー
私の主題は自然、つまりいのちである(プリニウス『博物史』〔序文〕)
まえがき
[xi-1] 結局どうなったかを知っているつもりで、過去に慰めを求めにいく人の旅は容易い。だが、他の理由で過去に分け入ると、思いがけない危険と喜びが旅人を変えてしまうこともある。「過去は外国のようなもの。そこでは人々は異なる行動を取る」(L. P. Hartly)。
[xi-2] この本に至る想像上の航海は、著者が学生の頃に始まった。その時著者は、インテレクチュアル・ヒストリーと社会政治・経済史とを統合する野望を抱いた。この試みを行った最初の著作では、17世紀英国において、学術医学(learned medicine)が経済、政治、知的活動(特に医学市場)の変様とどう結びついたかを探った*1。 結論部では思い切って比較的観点からの考察を行い、さらに研究を深めることを誓った。[xii-1] 当時、フランスに関する比較材料は手元に多くあった。だが、博士論文後すぐ新しい挑戦をしない限り視野を広げる機会はほぼないというジェームズ・アレン・ヴァン(James Allen Vann)元教授の言葉を思い出し、オランダ語と初期近代ネーデルラントの歴史を学ぶことに決めた。初期の成果として、ロンドンに移住したオランダ人医師が医療過誤で告発された事例を研究した*2。
[xii-2] 当時で言う「発見の歴史」(history of discovery)や、近年の「グローバル・ヒストリー」、またそれを支える経済史との出会いによって著者の考えは変化したが、世界を概念的な部分とそれ以外に分けずに歴史を書く野望は残っている。そのような歴史にとって重要な概念のひとつは、初期近代の人々の言う「情念」(passion)である。情念は、心だけでなく肉体に、また個人だけでなくあらゆるものに変化を与える力だと考えられた。
[xii-3] このような歴史学的アジェンダの混合から生まれた成果が、他の方々の役に立つことを著者としては願うばかりである。また、本書の主張に反対する人々でも、記載史料の一部に興味を抱くことを願う(英語ではここでしか読めないものも含まれている)。
[xii-4] 最後にもう一点だけ私見を述べたい。本書の解釈の多くは、道徳的な意味での善(the good)よりもむしろ、財産(goods)への情熱が集団の行動や信念を形作ってきたとしている。著者は、人間のあらゆる行動や思考の原因が経済的利益だなどとは考えていないが、[xii-1] 物質的制約はリアルなものである。この研究の物質主義的側面は、経済力こそ人々の思考を決定すると考える人を引きつけるだろうが、私はそのリスクをあえてとった。
[xiii-2] 本書の執筆には20年以上かかった。主な理由は、新しい言語と歴史を学ばなければならなかったからだ。また大学業務に追われたこともあるが、そこから世間についてのより深い経験を得ることができ、本書の展開にも大きな影響を与えた。〔以下謝辞〕[xiii-3][xiv-1][xiv-2]
第1章 世俗財と客観性の変様
近代科学の勃興を理性への訴えとして捉えるのは大きな誤りである。
逆に、それは徹底した反知性主義運動であった。
(ホワイトヘッド 『科学と近代世界』)
本書の目的*3
[1-1] 本書では、単純で当たり前だと考えられていた世界認識の方法ーー特に自然物の詳細・精密な記述が、16世紀と17世紀に「新哲学」へ発展した経緯を示す。〔新哲学の背景となった〕「科学革命」の研究は、主にオランダ共和国における(今日で言う)生命科学と医学に注目することが多いが、いわゆる技術とも関連していた。物質的な「現実」に没頭していた人々は、自分たちの判断基準より広く応用できると気づいていった。ある種の知識経済が拡大し、 科学の内容に影響を及ぼした。 このように科学の勃興を捉えることで、新哲学は心身合一体の情念と利害関心(interests)から生まれたと理解できるようになる(これは同時代人の見方でもあった)。[2-1]
[2-2] 1490年代のコロンブスとダ・ガマの航海から、1690年代末にアムステルダムとロンドンを結ぶ商業線が確立するまで、世界の長距離海上貿易は、欧州の大西洋沿岸の商人たちにほぼ独占されていた。「交換経済の文化」(The culture of the exchange economy)、すなわち商人たちの重視する物質財、社会的マナー、文化的象徴、知的探究などのありかたは、他の人をも支配していった。知的探究の基準が変化したことで、自然の理解の仕方も変化していった。商業と同様に科学も、世界への強い関心から生じたのであり、精神を世界から解放することで生じたのではない。
[2-3] 以下で登場する人物には、当時は非常に有名だったが、現在ではオランダ語圏以外ではあまり知られていない自然探究者が含まれている。だが、「世界の発見」は今日で言う「知識人」だけが行ったのではない。船長・士官・水夫・医師は自らの経験を報告し情報や物品を収集した。外交官・商人・外国旅行者は目にしたものを記録し標本を本国に送った。薬屋(apothecaries)は商品の情報や奇妙な自然物を集め植物を栽培した。薬草売の女性(herb wives)や教養ある女性はときおり男性に知識を提供した。様々な医療従事者が薬を作製・販売し、[3-1] 園芸愛好家は珍しい植物を求めた。富豪は驚異物を収集し、有力市民は解剖実演に参加、貧しい人々は実験的な治療や手術を受けるかもしれなかった。そしてすべての人々が、新世界、南アラビア、極東から来た香辛料や薬品を大量消費したようだ。
[3-2] 最後の例が示すように、ネーデルラントを理解するにはオランダ世界全体を理解する必要がある。17世紀半ばまでに、オランダ人は医学や自然科学を牽引する存在になったが、その理由の一部はアジアとの交流にあった。海軍力に裏打ちされた商業事業により、オランダはアジア、アフリカや南米においてポルトガルに急速に取って代わり、北米から東南アジアにかけて新たな寄港地を得た。〔商業上の〕目的を達成するために、オランダは現地の知識に頼らざるを得ず、その結果、世界中の人々が(時には相互に有益な交流により、時には強奪や強制により、)現在の「科学」の発展に寄与した。残念ながら、オランダの歴史は英語圏ではほとんど注目されていない。そこで以下では、重要な出来事に関わった人々の生活という観点から歴史にアプローチしたい。
構成
[3-3] 導入となる本章では、物品(object)に関する詳細な記述情報が重視された理由と、そうした価値観の影響で自然に関する知識が重視されるに至った経緯を述べる。第2章は、オランダ商人の情報経済において知的な価値とは何だったのかをさらに掘り下げる。第3章では、博物学者の革新的業績(クルシウス(Carolus Clusius)やパルダヌス(Bernardus Paludanus))やライデン大学の設立について概観し、科学の勃興を宗教や宗教改革によって説明することは不適切だと論じる。第4章はアムステルダムに焦点を当て、商業が医学の実践や知識、解剖学研究に与えた影響を説明する。第5章では、オランダ領東インドおよび西インド諸島における医学と自然誌分野の重要研究(ボンティウス(Jacobus Bontius))を取り上げ、事実が世界的商業ネットワークの一部として交換された様子を描き出す。
人体に関する新たな説明方法も、様々な新しいアイデアを生み出した。第6章では、オランダ長期滞在がデカルトに与えた影響を検討する(この時期デカルトは解剖学を徹底的に研究し、情念への含意にも注目していた)。第7章は、動物や人間の身体に関する新たな理解が、他の技術的活動から取り入れられた厳密な物体操作方法に依存していたことを示す。
第8章では、インドの医学と自然誌に対する関心が、書籍や標本栽培に結実した様子を描く。第9章は、オランダ人医師ウィルレム・テン・ライネ(Willem ten Rhijne)が、日本の鍼灸の分析をヨーロッパでいち早く行い、また脈の測定に関する中国の書籍を翻訳した経緯を説明する。第10章ではブールハーフェとマンデヴィルに焦点を当て、客観性が既存の政治・宗教体制を脅かす哲学的物質主義に基盤を提供したことを示す。最後の第11章は、オランダの事例が欧州における新科学勃興の説明に一般化できると示す比較考察である。
初期近代の商業史と科学史を結びつけることについて
[4-2] 初期近代の商業史と科学史を結びつける本書のやり方は、[5-1] 昔ながらの歴史学を踏襲している。かつては、16世紀と17世紀の海洋事業と知的変革が、世界の「発見」として共通に扱われていた(サートン、最近の例としてホーイカース(Reijjer Hooykaas))。[5-2] 今から振り返ると、サートンのような「実証主義者」の考えかたは、発見とは自明なプロセスで、注意深く観察すれば新たな情報が自ずと明らかになるというものだった。このような考えかたが、科学的知識の構築における社会的、言語的、文化的原因を強調する近年の歴史学者たちによって捨てられているのは正当である。
[5-3] 本書は、科学的革命の核心には「発見」があったと主張するものだが、発見が自明のものだとは考えていない。さらに、本書の根底にある主題は、[6-1]「知恵の探究が知識の探究になった」というものだ。言い換えれば、自然に関する「なぜ」を理解する知恵が、自然物が「どのような」ものかを理解する知恵に従属するようになった。専門用語で言えば、目的論が否定され、感覚によって把握できる自然物の精密記述が重視されるようになった。この観点から本書では、サートンらがとりあげなかった二つの根本的な問いを扱う。第一に、自然物の正確で精密な記述的情報を得ることに、膨大な資源が費やされたのはなぜか。その答えには、商業活動が大きく関係している。第二に、こうした探究が「自然哲学」の中心となったのはなぜか。商業的な生活様式に組み込まれた価値観が、これを説明する。
消費と味覚
ネーデルラント:概要
[6-2] 低地諸国または「ネーデルラント」とは、シャルルマーニュ時代のフランク王国から切り出された旧・中部フランク王国の北部にあたる。現在の地名で言うと、フランス北部から、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部を含んでドイツへと延びる。ライン川とマース川(Maas(フランス語ではムーズ川(Meuse))が南東から北西へと流れている。
- 図(p. 7):低地諸国〔略〕
[6-3] この地域にはいくつかの利点があった。南部には肥沃な農地や放牧地が多くあった。北西に広がる河川デルタからは泥炭が得られ、[7-1] 牧草地では牛を飼育できた。
土壌は大麦や小麦の栽培に適していた。また沿岸部の住人は深海漁業の開拓者だった。[8-1] 荘園的な生産になじみにくい土地であったため、領主へ奉公しなければならない人が比較的少なく、職業が多様化した。特に南部の都市は、輸入された羊毛の加工で有名になった。多様な稼ぎ口により、ネーデルラントはヨーロッパで最も人口が多く、都市化されて商業に依存する地域のひとつとなった。
商業の発展
[8-2] 特に商業が人々を繁栄させた。 地中海から北海やバルト海に送られる商品がネーデルラントを通過した。 沿岸部では、河川から来た商品が海運船に積み込まれ、ブリテン諸島、スカンジナビア、バルト海、イベリア半島に送られた。「母なる貿易」*4により、バルト海やスカンジナビアから穀物などの必需品が運ばれ、一部は再輸出され各地の贅沢品と交換された。また、少ない人手で大量の貨物を積載できる平底船、フリュートが開発された。 こうして、ネーデルラント商人は北西ヨーロッパの最大の積荷業者になっていった。
[8-3] また、アジアとの直接貿易の恩恵もあった。[9-1] 元々、東南アジア原産の香辛料は、東南アジアからまず南アジアへ、つぎに陸路またはペルシャ湾とユーフラテス川を経由してアレッポやベイルートへ、あるいは紅海を経由してカイロやアレキサンドリアへと運ばれた。これらの香辛料を東地中海の商人(特にヴェネツィア人)が入手し、 ヨーロッパの他の地域に販売していた。[9-2] 香辛料の他、砂糖やシロップも扱われ、[11-1] ヴェネツィアにさらなる富をもたらした。

- 図(p. 10):ナツメグ(C. Rosenberg, c. 1850)
[11-2] 香辛料への情念は、何世紀にもわたって長距離貿易を促進した。ポルトガル人が初めて「インド」に到着し、香辛料貿易へ介入した。ポルトガル人がインドで香辛料を調達する費用は、ヴェネツィア人がアレキサンドリアでかけていた費用よりはるかに少なかったため、販売価格を通常よりわずかに下げるだけで莫大な利益を得ることができた。
[12-2] ポルトガル経由の香辛料貿易は、北ヨーロッパ、特にアントウェルペン(最終的にはアムステルダム)に多大な影響を及ぼした。 ポルトガル国王は、香辛料を最も効果的に販売する方法を模索する中で、商人たちのシンジケートに頼るのが最善だと理解した。すでに北西ヨーロッパの商業取引拠点となりつつあったアントウェルペンがここで大きな恩恵を受けた。また、スペイン・ポルトガルから追放された多くのユダヤ人や「新キリスト教徒」*5の商人がアントウェルペンに避難してきた。1515年、ドイツの有力商人の支援によりカール5世が神聖ローマ皇帝に選出されると、皇帝は領土北部における貿易拠点としてアントウェルペンを振興し、新しい貿易体制の重要性が裏付けられた。
[12-3] さらに、コロンブスによる西への航海もアントウェルペンに新たな富をもたらした。この地域で新たに発見された植物の中で、最初に最も利益をあげたものは砂糖だった。従来、 砂糖のプランテーションはアフリカ西海岸の島々に広がっていたが、今度はカリブ海全域に根づき、[13-1] ヨーロッパに砂糖が大量に供給されるようになった。これに伴い、アントウェルペンは砂糖精製の中心地にもなった。
[13-2] こうした商業活動により、16世紀のネーデルラントでは非常に豊かで多様な文化が花開いた。16世紀半ばには、アントウェルペンの人口は約10万人に達し、ヴェネツィアに次ぐヨーロッパ第2の商業都市となった。アントウェルペンの印刷業者、芸術家、そして贅沢品取引従事者は国際的に認められた。同市の指導者たちは、この市が「全ヨーロッパ随一の商業都市であるだけでなく、あらゆる財、富、商品の供給源、起源、貯蔵庫であり、[......] 美徳の避けどころにして養育者」だと自慢できた。
味覚=趣味と客観性
財の道徳的性質
[13-3] この自慢話で、「財の貯蔵庫」と「美徳の養育者」が結びつけられていることは注目に値する。これはルネサンス時代の基本的な価値観を表す。都市商業のネットワークが拡大すると、富裕層の可処分所得が増加した(「消費革命」)。多くの富は文字通りの消費(砂糖、香辛料)に費やされたが、[14-1] 展示(display)に費やされる富もあった。15世紀末には、富裕家庭は様々な贅沢品を自宅に購入した(馬、鎧、衣服、タペストリー、家具、リネン、骨董品、絵画、彫刻、書籍、写本、等)。イタリア・ルネサンスの最盛期にアルベルティが言ったように、こうした財産はすべての家庭の幸福にとって重要だと考えられるようになった。個人が身につける美徳と並んで、貴重品もまた「善=財」(goods)となった。
[14-2] このように、新たな財は道徳的性質(美徳)を帯びており、人間の改善を示すものと考えられるようになった。他人から良いと認められる物を所有することは、富自体よりはるかに趣味(taste)の良さを示す。ここで注目すべきなのがtasteという語である。元々これは、香辛料やワインの原産地を味から識別する能力のようなものだったものが(=「味覚」)、あらゆる感覚印象を識別する能力(=「趣味」)に一般化された。趣味の良さには生まれながらのものも、教育によって身につけられたものもあった。いずれにせよ、趣味の良さにあらわれてくる感受性のなかに、[15-1] すべての人々が共通の基盤を見出すことができた。
事物の知識(体験知)
[15-2] ところで、感覚による知識とは直接的に把握されるものだ。比較や類推でその知識を明確化することはできるが、実際に経験したことのない人に教え込むことはできない。例えば、味覚に優れた人は、ある味の中で他のものに似ている側面に注目するよう指導する。このような知識は、経験、実例、模倣によって伝達されるが、理由の説明によっては習得できない。なお、英語以外の多くの現代ヨーロッパ言語は、この二種の知識に別の単語をあてている(kennen-wissen(独)/weten(蘭)、connaître-〔savoir〕(仏))。趣味の良い収集家は、感覚印象に関する知識を伝授できるが、その知識は第一原理から予測したり説明できるものではない。つまり、財は道徳的性質だけでなく特殊な知識(体験知)も体現した。
[15-3] 実際、上で引用したアントウェルペン自慢は実は「あらゆる技芸と科学、そして美徳の避けどころにして養育者」となっている。しかし、アントウェルペンで発達した技芸や科学、また財に基づく美徳は、伝統的に学校で教えられてきた知識に深刻な課題を突きつけた(後者はラテン語ではscientia、世俗語ではweten系統の言葉で呼ばれた)。大学は講義や討論によって知識を伝達する場であり、そこでは三段論法などの必然性を伴う証明が重視された。[16-1] このような知識は哲学的体系にまとめられ、物事の原因の探究に用いられた。
[16-2] これに対し、新しい知の方法は「好奇(心)」(curiosity)と結びつけられるもので、物事の原因の理解とは関係なかった。好奇はかつては罪と関連付けられていたが、肯定的な意味合いが強まってきた。当時の好奇という言葉は定義が困難で、何かを知りたい所有したいという欲求だけでなく、欲されている物そのものにも適用されている(Kenny)。この時代の好奇とは、人々の「精神」のありかたを指すのではなくて、無数の事物の発見に人々の経験が関わっていく、その関わりかたを指している。
[16-3] 個別の事物に対する好奇心は、新しい言葉も生み出した。「事実」(fact)や「事実問題」(a matter of fact)がそれだ。この言葉は法律用語から借用されたもので、判決を下す前に「起こったこと」を明らかにするという文脈で用いられていた(Shapiro)。[17-1] 16世紀後半になって、この言葉は、単なる推論とは対照的に、実際の観察や権威ある証言によって知られる個別の真理を意味するようになった。「事実」は、経験によって得られる情報の伝達に適していたが、あくまでも蓋然的な知識にとどまる。とはいえ、法的案件の判決、財政的決定の評価、特定の熱の治療法の説明、ワインの品質の判断など、多くの世俗的な意思決定においては、事実的な知識が不可欠である。そこで、新しい交換経済の恩恵を受ける多くの人々は、物質的財だけでなく事実を評価するようになった。
絵画への反映
[17-2] 事物の知識への評価の高まりは、16世紀・17世紀の低地諸国の輝きのひとつである「現実主義的」絵画にも見て取れる。15世紀以降、写実芸術は彫刻や写本の挿絵などで劇的に発展していた。ヤン・ファン・エイクなどのネーデルラントの画家たちは、作品の背景に写実的な細部を盛り込みはじめた。後の画家たちはさらにデューラーの作品に影響を受けた。16世紀までに、表情、布、建築様式、背景、道具、花などの細部は、ヨーロッパ中で、単なる付随物ではなく注目の対象になった。

- 図(p. 18):『マイヤー・ファン・デン・ベルクの祈祷書』(Mayer van den Bergh Breviary)から、聖カタリナ*6(c. 1850)

- 図(p. 19):デューラー『芝草』(c. 1503)

- 図(p. 20):ハンス・ボロンジェ(Hans Boulenger/Bollongier)『花瓶のチューリップ』(1639)
体験知としての客観性
[17-3] ここで、初期近代に培われた一種の知識としての「客観性」について語ることができる。この知識は、対象を詳細に見知ることに関係する。[19-1] 1800年以前の客観性は「自然の真の姿を捉える」ものだった(Daston & Galison)。同時代の修道士パオロ・サルピの発言に、この語の適切な用法が見出される。「聖遺物には崇拝が向けられ、聖遺物において崇拝される聖人には敬愛が向けられる。後者の敬愛を相対的、前者の崇拝を客観的と呼ぶ」 。当時この言葉はそこまで使われてはいなかったが、 直観や生得的知識によらず身体感覚で経験できる、事物の物質面の知識や、交換可能なものから来る情報のことを、「客観性」と呼ぶことができる(Solomon)。[20–1] 単純化して言えば、初期近代の人々の多くは、自然界の事物(object/res)の研究から得られる知識を最も高貴な知識だと考えていた。
物品(object)や標本の収集
写本解読
[20-2] ルネサンス以降の自然哲学でも、言説知(weten)より体験知(kennen)に高い価値が置かれた。体験知によって解決された最重要問題のひとつは、古代写本の解読だった。古文書は最初に大量収集された財産のひとつだったが、[21-1] その解読は容易ではなかった。収集家たちは学者を集め、文字をどう読むか(古文書学)、またそれが何を意味するか(文献学)を研究させた。言葉の意味を理解するには、その使用例を挙げ、文脈を検討して、どう推論するのが適切かを判断する必要がある。これは、命題の含意を理解するという〔言説知〕の問題ではなく、しっくりくるものを見出すという〔体験知の〕問題だった。
[21-2] この作業は、様々な自然物の語彙を扱う自然史分野ではとくに困難だった。代表的な文献がプリニウスの『博物誌』で、これは中世の百科事典、動物誌、薬草書などで多く引用され、また自身の研究を付け加えた著者もいた。その結果、15世紀半ばまでに『博物誌』の写本は約200種類存在した。1469年に[22-1] 初めて印刷されると、その後20年間で22バージョンが出版され、40以上の注解が現れた。実際、プリニウスへの注釈は「ルネサンス期の特徴的な科学ジャンル」となった(Grafton)。
[22-2] 文献学の発展とプリニウスの複数の写本の収集によって、原典を復元し本来の意味を理解する試みが促された。15世紀末にギリシャ学が盛んになると、プリニウス自身が依拠した資料の調査が始まった。最も重要な資料はディオスコリデスの『薬物誌』だった。1499年にヴェネツィアでギリシャ語版が出版されると、次いでフランスでラテン語が出版、それがスペインでさらに拡充された。16世紀半ばには、ピエトロ・アンドレア・マッティオリ(Pietro Andrea Gregorio Mattioli)の版と注釈が最重要視されていたが、細部については異論も激しかった。このような研究は、多くの写本の損傷や、プリニウス自身の同定ミスの存在を示していった。
「狩り」:古代の言葉が表す事物の探究
[22-3] 古代の著述家の意味した(あるいは意味すべきだった)ことを理解するには、テキストの版同士を比較するだけでなく、言葉と物を比較することも重要だった。言葉と対応する世界の情報の探索は「狩り」(vernatio)と呼ばれた。これは単に学術的なものではなく、喫緊のものでもあった。例えば、薬屋や医師たちは、古代に使用された強力な薬物の再発見を期待していた。例として、当時よく用いられた薬草の一つ、ルバーブ(食用大黄)の根には[23-1] 体液を浄化する効果があるとされていたが、中近東から入手される一般的なルバーブは効果的ではなかった。 慎重な調査により、真のルバーブは「中国」のどこかが原産だとわかった(ただし結局19世紀になっても生きたルバーブの正確な記述や原産地は依然として不明だった)。新大陸でも同様の調査が行われた。カリブ海のスペイン人医師は、サント・ドミンゴ島でバルサム(含油樹脂)を発見し、古典医学で知られる有益なバルサムと同等以上の効能があると主張していた。
[23-2] 知識に対するこのようなアプローチは、ラブレーの著作によく表れている。ラブレーはヒポクラテスに親しんだ医師でもあり、この観点から『ガルガンチュワ物語』を読むと、御大層な教義をバカにしたり、予想外の事態に慌てる古臭い学者をからかって楽しんでいる樣子が理解できる。世界は人間の知性によって作られたのではないのだから、理性だけでは知り得ない。そこでラブレーは、隠された統一的な世界の意味なるものよりも、むしろ様々な単純で奇妙なものにこそ、真実があると考えた。
症例記述
[23-3] 厳密な記述的アプローチは、医師が病気を記述する上でも必要とされた。中世の医師たちは、患者に語る談話のなかに症状を盛り込み、その原因の観点から、習慣や食生活についての助言を与えた。[24-1] ここでは症状の記述はあまり重要視されていなかった。だが16世紀半ばに医学人文主義者たちが「真の」ヒポクラテスを復元すると、そこには徴候や症状(ときには予後)が慎重に記述される一方で、原因は言及されていないことが判明した。そこでヒポクラテスに倣い、病気の徹底的かつ正確な記述が求められるようになった。
[24-2] 医師たちは症状の詳細な記述を残すようになり(「症例記述」(histories))、それを互いに共有したり、『観察』としてまとめて出版し、さらに観察を100件ずつまとめて『百例集』(Centuries)として出版するようになった。例えば、ドイツの医師ギルヘルムス・ファブリキウス・ヒルダヌス(Guilhelmus Fabricius Hildanus/Wilhelm Fabry)は、16世紀後半から17世紀にかけて百例集を発表した一人である。また低地諸国出身のピーテル・ファン・フォレスト(Pieter van Foreest/Forestus)は、観察の数と質の高さでヨーロッパ中に広く知られるようになった。「百例集と観察のコレクションは、初期近代の医学情報流通の主要な媒体であった」(Pomata)。
混合薬
[24-3] 混合薬も調査の対象となった。その一例が「テリアカ」(theriac)で、これはあらゆる毒の解毒剤、万病の予防薬だとされていた。多くの古代の著述家がこれを推奨し、その成分としては、真のルバーブ、蛇の皮、胆石、ミイラの断片、琥珀などが挙げられている。その調合には膨大な時間と費用が必要で、ヴェネツィアやフィレンツェでは盛大な公式調合式が行われたあと販売され、高額だったがヨーロッパ中で用いられた。[25-1] このため学者たちは、テリアカの成分の正確な特定に努めた。
庭園
[25-2] 消費革命はまた、私的な庭園への熱狂をも生み出した。古代バビロニアには美しい庭園が多数あり、周辺地域に関連する語彙が伝わった(ギリシャ語のπαράδεισος)。娯楽目的の庭園を指すラテン語hortusは、もともと壁や柵で囲われた菜園を指していた。しかし共和政末期から帝政期にかけて、ローマ人は東方を模倣して娯楽用庭園を造り始めた。中世で最も素晴らしい庭園はイスラム世界にあった。
[25-3] ルネサンス期のイタリア人は、豪邸の一部に古典様式の庭園を持ちたいと考え始めた。[26-1] アルベルティの『建築論』(1452)には庭園やグロット(庭園洞窟)の記述があり、まもなくメディチ家は古代の様式に沿ってカレッジの邸宅を再設計して庭園を建設し、多くの模倣者を生みだした。庭園建築論は対称性を強調し、壁やフェンスで囲まれた空間内に幾何学的な花壇を置き、水、木、花、薬草などを配置せよと主張した。
[26-2] イタリア庭園は植物を形を持ったかたまりにデザインすることに注力していたが、16世紀初頭の特に北部では、個々の植物の形や色を際立たせる庭園への関心も現れた。従来、詩や散文で言及される花は少なかった(バラ、ユリ、スミレ、オダマキ、時折(白)アヤメ、ヘリオトロープ、マンドレイク、 十字軍後にはカーネーション)。だが16世紀初頭には、庭園に植えられたり書籍で描かれる植物が急速に増えた。オスマン帝国領などの遠方から新種が輸入され、園芸家が外来種の栽培を始めたことで、この傾向に拍車がかかった。
教育と園芸の相克
[26-3] 植物への直接的調査への関心が高まる中、大学の医学部は薬物学(materia medica)教授を任命し、植物園を建設し始めた。最初の教授職はおそらく1514年、ローマの教皇庁立大学*7で任命され、ボローニャ、パドヴァ、そしてヨーロッパ中の医学部がこれに続いた。植物園を補う「押し葉標本」(herbarius/hortus sccus)のコレクションも普及した。
[26-4] ただし、庭園における植物への注目は医学的有用性だけでなく、貴族の園芸への関心に大きく負っていた。パドヴァには、[27-1] 外来種の普及と薬用植物の教育を目的とした巨大な庭園が、莫大な費用を投じて作られた。設計を行ったのはヴェネツィアの学識ある聖職者ダニエーレ・バルバロ(Daniele Barbaro)で、当時最高水準の建築・数学原理に基づいた幾何学的な設計がなされた。[28-1] これは統治者の優れた趣味を表したが、教育目的には実用的ではなかった。多くの貴重な標本が消え、また手の込んだ花壇配置は記憶を難しくした。このため、1590年代初頭に薬用植物教育が優先されるようになると、より実用的な再設計案が出された。

- 図(p. 27):パドヴァの植物園計画(1591)
驚異の部屋と驚異物収集
[28-2] 趣味の良い新たな貴族は植物以外の標本も収集していたが、中には古代の資料により同定できないものも多く、奇妙、エキゾチック、「好奇」と分類されていた。これらは外国旅行者が記念として持ち帰ったものだった。1560年代になると、増え続ける自然物を他の財とは別の部屋(「驚異の部屋」)に置く動きが認められた。メディチ家やフッガー家がその例で、エキゾチックな展示はこうした人々が世界とつながり、知識を持っていることを示すものであった。
[28-3] 驚異の部屋に意義を与えるためには、ある自然物が珍しいか否かを見分ける能力が決定的に重要だった。そこでハンス・ヤコブ・フッガー(Hans Jacob Fugger)は、アントワープ出身でバーゼルで教育を受けた医師サミュエル・クイッケルベルク(Samuel Quickelberg/Quiccheberg)を雇った。医師のほうでも、独自の収集を始めた。[29-1] チューリヒのコンラート・ゲスナーや、ローマのミケーレ・メルカティ(Michele Mercati)、ボローニャのウリッセ・アルドロヴァンディ(Ulisse Aldrovandi)、ナポリのフェランテ・インペラート(Ferrante Imperato)、ヴェローナのフランチェスコ・カルチェオラーリ(Francesco Calceolari/Calzolari)らが、それぞれ有名なコレクションを収集していた。カルチェオラーリのような薬屋と自然史の関連はよく知られていて、[30-1] 商品の間にクロコダイルの剥製などの自然物が置かれていたと記録されている。こうしたコレクションは、エキゾチックな植物の専門家としての評判を高め、多くの紳士や学者たちを店に引き寄せた。

- 図(p.29):フランチェスコ・カルチェオラーリの展示室(1622)
[30-2] これらの自然物のための安定した取引も発展した。船の乗員は地位が高いほど大きなスペースが与えられ、品物を持ち帰って個人取引を行うこともできた。
ミクロコスモス
[30-3] 人々が自然物のコレクションを訪れた理由の一つは、そこに吹き込まれた意味であった。その他の趣味の品々同様、展示標本の意味も論理的なものではなく、個別的なものの関係から現れる。例えばバラは、長い間、真実の愛などを象徴してきた。また、ある物品は共感・反感の網によって他の物品と結びついていた。たとえば、庭園はその配置によって宇宙の力を体現した(『ポリフィルス狂恋夢』Hypnerotomachia Poliphili)、1499)。「部屋」に集められた自然物も同様である。1565年にクイッケルベルクが出版したフッガー家のコレクションのカタログでは、同コレクションは全宇宙を表すとされている。[31-1] 更に同様に、カルチェオラーリの薬店も「普遍劇場」と称されていた。
薬屋の役割
[31-2] カルチェオラーリやナポリのインペラートのような薬屋は、海外からの高価な輸入品を扱う商人でもあり、イタリア都市で最も裕福で影響力のある集団の一つだった。砂糖の輸入増加により「砂糖商」(confectioners)が専門化すると、薬屋は長距離輸入業者と店頭販売者に分かれた。後者の多くは、自然物専門の薬屋に転身していった。こうした人物は、植物、動物、鉱物について正確な詳細を知る専門家になっていき、エキゾチックな物品の収集もしていた。[31-3] また、多くの薬屋は優れた園芸家でもあり、栽培する種は多様になっていった。
植物の知識の価値が高まると、医師が薬屋を出し抜こうとするようになり(フェルネル)、自身が承認した薬以外を販売させないよう動いた(ヴァレリウス・コルドゥス(Valerius Cordus)の『薬局方』)。
ヨーロッパ全土への広がり
[31-4] このようにして、16世紀半ばには自然誌や医学への熱狂がヨーロッパ中で見られるようになった。植物学を例にすると、1484年にルーヴァンで初めて地方薬草の書が印刷された(ヨハン・フェルデナー『ドイツの薬草』(Johan Veldener, Herbarius in Dietsche)。ゲルマン諸国でも新しい図解本が出版された(オットー・ブルンフェルス『本草写生図譜』(Otho Brunfels, Herbarum vivae icones, 1530–1536)、レオンハルト・フックス『植物誌』(Leonhard Fuchs, De historia stirpium, 1542)。スイスのチューリッヒではゲスナーが『植物誌』(1542)を出版し、さらに動物と鉱物に関する百科事典の編纂に着手した。
フランスでは、ギヨーム・ロンドレがモンペリエ大学の植物園の設立に大きく貢献し、解剖学、医学診断、薬物、魚類などを研究した。イングランドでは、ウィリアム・ターナー(William Turner)が植物学の著作を出版し、ジョン・トレデスカント(John Tradescant)父子は園芸家および収集家として有名になった。スペインではニコラス・モナルデス(Nicolás Monardes)とフランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernández)が素晴らしい博物誌を書き、またガルシア・ダ・オルタ(Garcia da Orta)はポルトガル語で東インドの薬草に関する基本書となる著作を出版した。
低地諸国からは、16世紀半ばには特に3人の植物学者が知られるようになった。レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens)、マティアス・デ・ロベル(Matthias de l’Obel)、カロルス・クルシウス(Charles de l’Escluse)である(もちろん、イタリア人は依然として多い)。
自然神学
[32-2] 世界の多様性への興奮の下には神学的問題があったが、これはおおむね克服されていた。自然の個別性を単純に愉しむことには、プリニウスらにあった汎神論的見解がこだましていた。他方でキリスト教徒にとっては、唯一の神が自然界を創造されたのであって、その創造の力は表立たず隠されているものであった(ロマ1:23)*8。ただし、汎神論を含む異端や不信仰に対抗するなかで、[33-1] 4世紀の司教ヒッポのアウグスティヌスは二つの書物という考えかたが有益だと考えた。被造物は神の言葉と同様に神の本質を表現しており、正しく解釈すれば、事物や力の多様性とともにより深い神の現前を明らかにする。
[33-2] このため中世の大学教授には、神的なものの知識への向かう道として自然物の研究へ促されたものもいた。15世紀末には、創造主である神の証拠だけでキリスト教信仰を擁護できるという意味で「自然神学」という言葉が登場した。このような議論は、理性のみにもとづく議論が失敗した場合に、ユダヤ教徒やイスラム教徒を改宗させる役に立つとも考えられていた。
この目的で書かれた本の例として、トゥールーズの教授ライムンド・シビュダ(Raimundo Sibiuda)(レイモン・スボン(Raymond Sebond)という名でよく知られる)による『自然神学』(Theologia naturalis, 1480)がある。セボンは、被造物の知識と信仰を組み合わせることで、理性的議論よりも確かな基盤が得られると考えた(この点でスボンは、自然の真理と宗教の真理を異なる基準で評価するアヴェロエスの二重の真理説とも戦っていた)。 この本は16世紀に非常に人気を博した。モンテーニュによるフランス語訳(1569年)が最も知られているが、他にも多くの編集者や翻訳者がいた。この種の著作では、自然の書物は汎神論の危険を冒さずに啓示の書物と並び立っていた。
解剖学と医学における客観性
単純なものが真実を語る
[34-1] ただしモンテーニュは、感覚に頼る自然神学の問題もよく理解していた。主に1576年に執筆された『レーモン・スボンの弁明』(An Apology for Raymond Sebond)では、キリスト教は理性よりも信仰と恩寵に依存しているとする点でセボンに同意しつつも、感覚もやはり不確実であり自然の本について確実なことを知れるかは疑わしいとした。[34-2] しかしこうした考えは後には控えめになった。単純な物事が真実を語るとされたのだ。例えば、食人種に関するエッセイの中では、素朴で粗野な使用人が真実の証人にふさわしいとしている。モンテーニュ以前にはラブレーが、またさらに以前にはエラスムスが同様の主張をしていた。これらの著者は明らかに、貧しい人々や一般の人々に救済の望みを託すキリスト教的敬虔から着想を得ていた。 [35-1] 16世紀にヨーロッパ全土で勃発した戦争の多くは哲学や神学上の原理の違いから生じたものだったが、こうした教義の話を脇に置けば、単純な事実が自らとその創造主を語るだろうと考えられたのだ。
人体解剖
[35-2] 〔単純な事物が真理をおのずから明かすことの一例に、人体解剖がある。〕このころ、人体解剖の公開授業が多くの都市や大学で熱狂的イベントとなり、人体が自らを目撃者に明らかにすると教えられていた。少なくとも13世紀以降、死因特定のために死後解剖が行われることがあった。16世紀になると、王や女王など地位の高い人々は王立の医師や外科医によって検死されることが慣例化した。聖人かもしれない人の遺体を開いて神聖さの裏付けを得ることもあった。また、彫刻や絵画における自然主義への関心が高まると、ダ・ヴィンチのような芸術家たちは個人的なネットワークを活用して遺体の筋肉構造を研究するようになった。16世紀半ばには、画家組合が医師を招いて解剖学の授業を受けた。おそらくこうした目的のために、外科医のギルド憲章には死刑囚の死体を毎年公開解剖する権利が含まれることも多かった。
[35-3] 初期近代の人々は死体を開くことをそこまで嫌悪していなかったのかもしれない。もちろん宗教的な制約はあった。キリスト教においては、人間の全体性と復活の観点から、[36-1] 肉体は神聖なものであり軽蔑的に扱うことは冒涜である。このため、処刑された身分の低い犯罪者の死体だけが実演に供されるという規定が多かった。また解剖学者は「肉屋」などと侮辱されることもあった。[36-2] しかし、話はより複雑だった。 死は今よりもずっと身近だったし、 また死体には癒やしの効果があった。聖遺物はもちろんのこと、人頭蓋骨に生えたコケは薬品として利用され、処刑されたばかりの人の手(あるいは衣服)で、瘰癧の患部やてんかんの子供の頭などを触ると治癒すると考えられた。
[36-3] 学外で急速に進歩する研究に追いつくよう、16世紀半ばの医師たちも解剖学を学問として研究した。[37-1] ガレノスら古典的な医学文献の多くも解剖を支持していた。基本的に解剖は治療の直接の役には立たず、説明に役立つだけだったが、14世紀以降から一部の医学部で可能なものになっていた。
[37-2] このような解剖への取り組みは、単に実利を目的としたものではなかった。新たな解剖学の新しい研究に対する人々の大きな興奮がそれを後押ししていた。最も有名な例であるヴェサリウスはガレノス自身の間違いを証明するほどだった。ルーヴァンで教育を受けた後パリに渡ったヴェサリウスは、ヒポクラテス学派に没頭した。目で見ることを重視したヒポクラテスと解剖学が結びついた形跡は、現代の言語にも残っている。例えば、英語の「autopsy」は17世紀半ばまでに死後の解剖を指す一般的用語になっていたが、ラテン語の「autopsia」(目撃者を意味するギリシャ語に由来)は、ヒポクラテスの時代には、出来事に立ち会ったという事実に基づいて権威を訴える修辞的用語だった。〔ヴェサリウスの時代に、〕個人的経験はあらためて正当な知識源となりつつあった。目撃者は、客観的な行政組織の官僚のような言語を採用して、個人の印象を普遍化可能な記述に変えることができた。
[37-3] 人体の精密描写を強調することによって、好奇心は肯定的な情熱へと変えられていった。ヴェサリウスは自らが犯罪者の死体を切りとり隠す樣子を詳細に記述しているが、これは読者が賞賛するだろうと想定しているかのようだ。[39-1] あるいは、1531年に出版されたガレノス『解剖手技』の扉絵では、講師と解剖者・実演者の区別がなく、若い学生が死体の内部に手を突っ込んでいる。真理という内部を掘るために自らの手を汚すことに、学生ですら興奮を覚えていたのだ。

- 図(p. 38):『ファブリカ』の扉絵(1555)

- 図(p. 39):ヨハン・ヴィンター・フォン・アンダーナハ(Johann Winter von Andernach)編、ガレノス『解剖手技』(De anatomicis administrationibus*9)の扉絵(部分)(1531)
良い趣味の客観性(tasteful objectivity)
[39-2] 世界についての客観的知識に高い価値が置かれたのは、消費革命を生み出したのと同じ動きからだった。一定の生活様式が、身体感覚を通じて知られるものに注意を払うよう、人々を促したのだ。この「良い趣味の客観性」(tasteful objectiivty)は、まずは記述的事実から始まる。[40-1] その信頼性は、個人の信用、情報の共有、平易で正確な記述言語に基づく集団的意思決定によって保証される。こうした知識は物事のパターンを確立し、一般化、さらには数的な一般化につながる。〔こうした知識を重視する〕都市商人の価値観は、都市や金融資本がより大きな政治システムにとって重要になるにつれ、社会全体でますます高く評価されるようになった。
客観性は昔から、事物を操作、製造したり、他者を強制するために利用する人々にとっては、世界を知る一般的な方法だった。初期近代ヨーロッパの一部では、哲学者たちでさえ自然物の記述的知識にますます興味を示すようになった。医学では、客観性によって解剖学、薬物学、症例研究の発展が促された。科学と呼ばれる知的活動は、ヨーロッパの都市を支配する商人たちが最も高く評価した知識の方法から生まれたのだ。[40-2] 自然の知識を客観性に基づけた人物の中で最も有名なのがフランシス・ベーコンだ。ベーコンの言う「ミツバチの方法」は、ミツバチが野の花から集めた材料を自身の力で変化させ消化するように、哲学においても実験と理性の緊密な結びつきを重視する。
[41-1] 客観性という感受性に従って自然物を判断することに人々が慣れていくと、この種の知識に当初結びつけられていた蓋然性はほぼ消滅した。1700年頃、ハンス・スローン(Hans Sloane)はこう述べている。「事実の観察は、他のほぼすべてのものより確実であって、管見によれば、推論、仮説、演繹よりも間違いが少ない」。確実性は事物自体に基礎づけられるが、事物の記述はそこまで確固たるものではない。これが事実と思弁のあいだの根本的な区別であり、初期近代では前者に注目が高まった。もちろん、どんなに注意深い観察にも一定の偏りや選択があるが、それは必ずしも真理からそれることではない。注意を集中することで初めて多くのものが見えてくるものだから。
この章のまとめ
[41-2] このように、感覚された世界の物質的細目が、新たな知識へのアプローチの基礎となった。こうした細目は、精確な情報の取得と伝達に多くを負っていた。商業活動に不可欠な自然に関する知識の生産、蓄積、交換に関与する無数の人々は「事実」に価値を置き、それが他の形態の知識を判断する基準になった。この種の自然の知識の重視は、善の追求よりも、財の交換に基づく活動に合致していた。この種の知識経済の根底には、身体的な快楽や苦痛に基づくモラル・エコノミーがあったからだ。
*1:要約者注:The Decline of the Old Medical Regime in Stuart London, 1986
*2:要訳者注:“Medical Innovation or Medical Malpractice? Or, a Dutch Physician in London: The Case of Joannes Groenevelt, 1694-1700,” Tractrix, 2 (1990): 63-91.
*3:要約者注:以下、節内の小見出しは要約者による
*4:要約者注:オランダとバルト海との穀物貿易の通称
*5:要約者注:キリスト教に新たに(しばしば表面的に)改宗したユダヤ人のこと
*6:要約者注:聖カタリナは3世紀のアレクサンドリア人で、七学芸の熱心な教育を受け、異教徒のローマ皇帝マクセンティウスや学者と激しく議論を交わしたとされる。捕らえられて車裂きの刑を受けたが、カタリナが触れると車輪はひとりでに壊れ、最終的には剣によって斬首されたとされる。これらの逸話に由来するアトリビュート、本、壊れた車輪、剣が描かれている。
*7:要訳者注:現代のローマ・サピエンツァ大学
*8:「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(新共同訳)
*9:要約者注:原文administronibusは誤記