えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

バクテリオファージと生物学の物理学化 Endersby (2007)

https://www.hup.harvard.edu/books/9780674032279

【目次】

第8章 バクテリオファージ:DNAを暴いたウイルス

細菌を食べるやつ
  • [259-3] 第一次世界大戦前夜、英国の微生物学者フレデリック・トゥオート(Frederick Twort)は、寒天培養地上の細菌が死滅している事に気づいた。調査の結果、原因は顕微鏡では見えず、フィルターを通しても残ることがわかったが、問題を深く追求する前にトゥオートは陸軍医療部隊に召集されサロニカ(現テッサロニケ)に送られてしまった。
  • [259-4] その頃、フランス系カナダ人科学者のフェリックス・ユベール・デレル(Félix Hubert d'Herelle)は、[260-1] 「世界に微生物が蔓延しているのになぜ私達は常時病気になるわけではないのか」という問いに取り組んでいた。説明の候補は、ロシアの発生学者エリー・メチニコフ(Elie Metchnikoff)の研究から来た。メチニコフは、ヒトデやカイメンが、病気になる恐れがある場合に、奇妙な細胞を大量に生み出すことを観察した。こうした細胞は侵入者を飲みこむことで感染から守っているようにおもわれ、「食細胞」(phagocytes)と名付けられた。[260-2] 1915年、デレルはパスツール研究所で赤痢の研究をしていたが、培養中の赤痢菌がすべて死滅する現象に出くわした。トゥオートが観察した現象を意図せず再発見したのだ。1917年、この原因はフィルターを通過し、培養を重ねるたび致死性を増すとデレルは発表し、これを「バクテリオファージ」(=「細菌を食べるやつ」)と名付けた。[260-3] デレルは、バクテリオファージ・ウイルスは細菌に対する自然の防衛手段だと考えた。デレルは元々、致死性の微生物に耐性があるバッタの腸内に、細菌を殺す何かがあることを発見していた。赤痢菌の実験は、[261-1] これと類似の現象を探す中で行われたものだった。
  • [261-2] デレルは自身の発見を本にまとめ、それは1922年には『バクテリオファージ:その免疫における役割』(The Bacteriophage: Its Role in Immunity)として英訳された。この発見は急速に広まり、すぐに各国でバクテリオファージ研究チームが作られた。[261-3] 研究の広まりとともに、自分たちは一体何を研究しているのかについて論争が発生した。ブリュッセルのジュール・ボルデ(Jules Bordet)は、細菌を殺す現象は純粋に化学的なものだと考え、「バクテリオファージ」ではなく「伝達性自己分解」(transmissible autolysis)という名前を好んだ。「トゥオート-デレル現象」のような中立的な表現で論争から距離を置く人もいた。
  • [261-4] ボルデの推測によると、[262-1] 細菌内の突然変異によって、通常は有益なはずの酵素が大量分泌され、それが細菌自身を殺す。またこの現象は、望ましくない突然変異体を殺すことで「種の進化を制御する」という役割をもつかもしれない、とされた。だがこれは非常に論争的な考えだった。細菌には核がなく染色体も見えないため、その他の有機体と同じ遺伝的法則に従うとは考えにくかった。それどころか1920年代初頭では、細菌が有機体なのかどうかも明らかではなかった。ボルデの同僚であったアンドレ・グラティア(Andre Gratia)は、「炎は燃え広がり再生産するが生物ではない」という理屈に訴えて、バクテリオファージは生きているというデレルの見解に反対した。グラティアがニューヨークのロックフェラー研究所に異動すると、その反デレル路線もアメリカに持ち出された。
スタンダード・オイルとスネーク・オイル*1
  • [262-2] ロックフェラー研究所(現ロックフェラー大学)は、ジョン・ロックフェラーの巨大な慈善事業のほんの一部として、[263-1][263-2] 1901年に設立された。1920年、研究所にポール・ド・クライフ(Paul de Kruif)がやってきた。[263-3] ド・クライフは戦時中にパスツール研究所でデレルのことを知り、米国に戻ると米国初の本格的なバクテリオファージ研究者であったフレデリック・ノヴィ(Frederick Novy)に師事した。1920年にはボルデとも会い、またグラティアと研究室を共有していた。
  • [264-4] だが研究所でのド・クライフの仕事は、バクテリア・キラーとは一見関係がない、[265-1] 細菌の不純という現象だった。コッホのやりかたで細菌を培養すると、純粋なコロニーに見えたものが二種類に別れ、そのうち片方だけは抗毒素に弱いということがあった。ド・クライフはこの挙動を「乖離」と名付け、ここでは細菌にド・フリース的な突然変異が起こっているのではないかと考えた。[265-2] この時期、細菌の変化しやすさについてはド・クライフ以外にも多くの研究者が取り組んでいた。
  • [265-3] ド・クライフは元々医学生だったが、ほとんどの病気に医師は無力であると悟り、[266-1] 純粋科学に転じた。この点でロックフェラー研究所はうってつけの場所だった。ロックフェラーの財務マネージャー、フレデリック・ゲイツ(Fredderick Gates)は、十分な資金があれば科学はすぐに微生物を征服し、主な病気は数年内に克服されると謳っていたのだ。だが、そうはならなかった。ド・クライフはその原因について考え始め、多くの医師は金儲けにしか関心がないのではと疑うようになっていった。
  • [266-2] ド・クライフは、大衆に最新の発見を伝えつつ、詐欺や失敗を暴くために、​著述家に転身し​よう考えた。ある文学パーティで会った歴史家のハロルド・スターンス(Harold Stearns)の編著に寄稿すると、『センチュリー・マガジン』(Century Magazine)の編集者がそれに目を留め、一冊の本に膨らませないかと提案した。[266-3] こうして『センチュリー』に匿名で「我が医師たち」(Our Medical Men)の連載が始まった。だが、ド・クライフは報酬の先払いについて同僚に触れ回っていたためにすぐに特定され、[266-1] 署名でPhDをMDに偽装したとして上司に叱責されて(実際は校正漏れだった)、結局ロックフェラー研究所を辞職した。そしてド・クライフは、世界初のフルタイムのサイエンスライターの一人になった。
  • [266-2] 1922年、詐欺薬品に関する記事を準備中だったド・クライフは、ある診療所で小説家のシンクレア・ルイスと会い、[266-3] 意気投合した。米国医学の非科学的な状況に対するド・クライフの熱心な攻撃に、ルイスは新たな小説の題材を見出した。出会いから数カ月後、二人はSSギアナ号でカリブ海に向かい、科学と医学を題材にした小説を計画し始めた。[266-3] ド・クライフも、学生時代からH・G・ウェルズの小説のファンだったのだ。
  • [267-1] ド・クライフは、小説の主人公、つまりマーティン・アロースミスが、バクテリオファージを用いてカリブ海のペストと戦う可能性を示唆した。当時、デレルの仕事とその治療上の意味について知っていた人は医学界でも僅かだったが、デレルが正しいならば、微生物を打ち破る科学というのは本物だった。[267-2] 航海中、ド・クライフはルイスに微生物学の講義をかなり集中的に行い、[267-3] また小説に登場する科学者の科学上の背景を、自身の経験をもとに提供した。航海が終わるころには小説の格子が出来上がり、ルイスも必要だった科学情報を得た。こうして1925年に出版された『ドクターアロースミス』(Doctor Arrowsmith)は大評判となり、この影響でルイスは1930年にノーベル文学賞を受賞した。
  • [267-3]『サイエンス』誌はこの本を「科学書籍」としてレビューし、[268-1] 科学者を主人公にしたこと、また読者に迎合せずに研究を明確かつ知的に描写したことを称賛した。[268-2] ルイスは小説に対するド・クライフの寄与を認めており(ド・クライフの期待したほどではなかったが)、『サイエンス』の評者もそれを高く評価して、これを医学生に強く勧めた。実際本書と、ド・クライフの次著『微生物の狩人』(The Microbe Hunter, 1926)は、多くの理想主義的な若者を触発し、医学や科学の道へ向かわせた。
  • [268-3] 『アロースミス』の大成功により、バクテリオファージはジャーナリストにとって人気のトピックになった。記事が増えていくと次第に「ファージ」と略されるようになり、これは『エンサイクロペディア・ブリタニカ』にも載って現在も使われている。
生命とはなにか?
  • [269-1] 『アロースミス』出版翌年の1926年、米国の人気雑誌『サイエンス・マンスリー』(Science Monthly)は、バクテリオファージへの関心の高まりとは裏腹に、ウイルスとは実際何なのかについては論争があることに触れている。ファージは細菌の約1/1000の大きさだと推定されているが、「タンパク質分子より小さな生物なんて存在しうるのか!?」。
  • [269-2] タンパク質を生命の基盤と考えていた生化学者たちは、ファージが生きているはずがないと考えていた。また、この興味深い現象がライバルである微生物学の領域になるのも面白くなかった。ファージとはタンパク質分子であり、したがって生化学者の「領分」であるはずだった。
  • [269-3] ロックフェラー研究所でタンパク質研究を主導していたジョン・ノースロップ(John H. Northrop)は、体内で化学反応が生じる速度が酵素の濃度に依存することを発見していた。この発見をもとに、ノースロップはファージ(ほとんどタンパク質でできている)に注目した。ボルデたちが言うように[270-1] ファージ現象が単なる化学反応だとすると、それはファージ濃度のような単純で測定可能な量に依存していると考えられる。[270-2] この考えはノースロップの共同作業者であったアルフレッド・クルーガー(Alfred Krueger)によって検証され、たしかにファージの濃度が細菌の崩壊にとって重要な要因であることが示された。また、ファージやタバコモザイクウイルスのようなウイルスが、その他のタンパク質のように結晶化するということも重要だった。これは生物ではまったくありえないことに思えたし、結晶は生きていないが成長するので、ウイルスの「生命のような」性質をうまく説明できると思われた。ウイルスは反応によりさらなるウイルスを生産するのだが、自分自身がその反応の触媒となるために、濃度が上がるほど反応が加速化して爆発的に増殖し、最終的に細菌を崩壊させる、ということなのかもしれない。[270-3] ウイルスは純粋に化学的なものだというノースロップの主張はオッカムの剃刀に基づいており、[271-1] 生物学者たちは問題を不必要に複雑化しているように見えていた。
  • [271-2] バクテリオファージのようなウイルスは、「生命とはなにか?」という問題だけでなくより実際的な問題をも提示していた。1934年、カリフォルニア工科大学(カルテク)で生化学の博士号を取得したエモリー・L・エリス(Emory L. Ellis)は、ポスドクの研究テーマとしてウイルスとガンの関係をとりあげ、ファージの研究に着手した。これは一見おかしな話で、ファージがガンを生じさせる証拠はなかったし、エリスは細菌にも興味もなかった。エリスは、ウイルス研究に必要な大規模な動物コロニーを維持するのが困難だったためにファージに切り替えたのだった。
  • [271-3] エリスは大腸菌(Escheria coli: E. Coli)を捕食するファージに注目した。大腸菌はありふれた細菌で、[272-1] また当時カルテクに移っていたモーガンのチームの一人がたまたま大腸菌の研究をしていたため入手しやすかった。エリスは致死性が強すぎないファージを慎重に選び、ファージが細菌を殺した際に〔培地上に〕生じる透明な領域(プラーク)を非常に小さく抑えた。そしてプラークを数えることで、ペトリ皿一枚あたり約50のファージを同定できた(これはデレルが最初に考案した方法である)。[272-2] ファージは小さくて安いだけでなく、早かった。ウイルスを動物に感染させる実験には何日も何週間もかかるが、ファージの実験は数時間で終わる。これでウイルスの基本的な生物学を理解し、ガンにおけるウイルスの役割を理解するための第一歩にするというのが、エリスの構想だった。ファージはモデル生物として使われるようになったのだ。
  • [272-3] ある朝、ドイツの物理学者マックス・デルブリュック(Max Delbrück)がエリスの元を訪れた。デルブリュックは、ファージが物理学の新法則を明らかにする助けになるのではないかと考えていた。[272-4] さかのぼって1925年*2、19歳だったデルブリュックは、ハイゼンベルクがはじめて量子論を発表した場に居合わせ、翌年にはハイゼンベルクに合流して新たな量子力学にのめり込んでいった。[273-1][273-2] またコペンハーゲンに一年留学し、ボーアのもとでも学んだ。ボーアは、[274-1] 原子物理学のすべての局面をひとつの整合的なかたちで記述することはできないという「相補性」の原理を唱えていた。各実験が提供する情報は一種類であり、それぞれの実験は相互に排他的だからだ。[274-2] ボーアは相補性があらゆる科学にあてはまるのではないかと考えており、これがデルブリュックに強いインスピレーションを与えた。生物学者が生命の本質を理解できなかったのも、同じような相互排他性によるのではないか? 「生物を見る時、それを生物として見るか、分子の寄せ集めとして見るか」、一方しかとれない*3。ある種の実験は「どこに分子があるか」を明らかにするが、その実験は「動物がどのように行動するかを教える」のに必要なものとはまったく異なる。有機体の原子構造はそれを殺さなければ探求できないが、そうすると生き物に真に固有の性質は失われる。したがって既存の生物学の方法はうまくいかない。そこで、生物学も物理学と同じ道をたどり、生命の「素粒子」を探すべきである。そこでは量子の世界同様のパラドクスが生じるかもしれないが、それを解くことが生命の神秘的性質を説明する新たな科学法則を[275-1] 明らかにするだろう。
  • [275-2] ボーアのヴィジョンを吸収したデルブリュックはベルリンに戻り、ニコライ・ウラジミロヴィッチ・ティモフェフ-レソフスキー(Nikolai Vladimirovich Timofeeff-Ressovsky)に会った。ティモフェフ-レソフスキーはソビエトに来たマラーと会いショウジョウバエ遺伝学者になった人物の一人で、デルブリュックもマラーの考えの影響を受けた。おそらく、物理学者であるデルブリュックにとって最も印象的だったのは、マラーが1926年にX線を使ってショウジョウバエに人工的な突然変異を生じさせたことだった。[275-3] 物理学の背景を持つものにとって、この実験は、遺伝子は原子のようなものであるという可能性を開くものだった。すなわち、両者とも安定しているが、エネルギーのバーストによって不安定化し、変異する。電子がある安定した量子状態から別の状態に反転するように、遺伝子もX線によって別の安定状態に反転したのではないか。そうだとすれば、遺伝子は生命の真のエレメントであり、その探求によって新たなパラドクスが、そして新たな物理法則があきらかになるかもしれないーー
  • [276-1] 〔1935年、〕デルブリュック、ティモフェフ-レソフスキー、そしてカール・ギュンター・ツィマー(Karl Günter Zimmer)は共著論文を発表し、遺伝子は安定した化学分子だが、放射線のエネルギーによってその構成原子が新たな形態に再配置されると述べた。(表紙が緑だったため)「グリーンペーパー」と呼ばれるようになったこの論文は、物理学と生物学を最も直接的に結びつけるものだった。
  • [276-2] 1930年代、多くの科学者が様々な理由から物理学と生物学を結びつけようと躍起になった。生物学者は、物理学のような資金と名声を得たいと考えた。第一次世界大戦後、ハードサイエンスが死の科学として見られていたために、「生命」の科学に関わりたいと考えたものもいた。[276-3] 物理化学をとりまくこの不安から生物学は恩恵を受けた。1930年代、[277-1] ロックフェラー財団の資金援助もあり、生物学者はタンパク質のような巨大で複雑な分子の形状の研究という新たな問題に取り組み始めた。だが、従来的な生化学ではこの問題をうまく解けず、30年代を通じて徐々に新しい学問が立ち上がりつつあった。X線結晶構造解析などの新たな方法が使用され始め、1938年には「分子生物学」という新たな名称がつけられた。
  • 「分子生物学」は、ロックフェラー財団の自然科学部門のディレクターであった、ワレン・ウィーバー(Warren Weaver)による造語である。この分野は「分子の生物学」・「細胞下レベルの生物学」とされ、研究対象は細胞よりも基本的なレベルに移行していった。実際、ウィーバーは、量子力学の原子下レベルの世界とのアナロジーを明示的に用いていた。[277-2] ウィーバーはエンジニアで、生物学が「未来の科学」だという感覚は、生をコントロールし死を征服するという野望にみちた生物学者の新聞・雑誌記事によって作られた。 だがこうした大言壮語にはほぼ証拠がなく、ウィーバー自身も生物学にはまだ法則や合理的分析がないと認識していた。だがここに資金と物理学を投入すれば、生物学者は法則を確立し、ファシズム、共産主義、世界恐慌に怯える文明を救うと、ウィーバーは信じていた。
  • [277-3] ウィーバーとその支持者たちは、単に時流にのっていただけの部分もあった。だが新たな資金によって、物理学者が作った高価な技術を生物学に応用できるようになったのは事実である。X線は突然変異を生じさせるだけでなく、化学構造を明らかにすることもできる。[278-1][278-2] このX線結晶構造解析は元々無機化合物の構造を調べるためのものだったが、生化学者はこれがタンパク質のようにより大きく複雑な有機分子にも適用できると気づいた。その結果、こうした分子の三次元構造がその挙動(つまり化学的、そして究極的には生物学的機能)と直接結びついていることがわかった。
  • [278-3] グリーンペーパーと同年の1935年、ノースロップの同僚であったウェンデル・スタンレー(Wendell Stanley)は、タバコモザイクウイルスの結晶の作成に成功し、ウイルスは単なるタンパク質分子だと発表した。生命の基本要素であるはずのタンパク質の性質を物理学の領域にしっかりと落とし込んだように見えたこの研究に、デルブリュックも興奮した。1937年、デルブリュックはロックフェラー研究所のフェローシップに応募するよう招かれ、カルテクに赴いてモーガンとハエ野郎(fly boys)たちと研究をはじめた。
  • [278-4] タバコモザイクウイルスその他の植物ウイルスの研究が進むと、[279-1] これらは微量のリンを含むタンパク質の一種だとわかってきた。すでに50年前に、染色体もこの種のタンパク質だとわかっており、(染色体が細胞核(nuclear)で見つかることから)このタンパク質は「ヌクレイン」(nuclein)と呼ばれていたが、20世紀前半には「核タンパク」(nucleoprotein)と呼ばれるようになっていた。このタンパク質は結晶化するので、X線結晶構造解析で正確な構造が明らかになると期待された。
  • [279-2] ウイルスと染色体が同じものでできているという発見に関心を持った科学者の一人にマラーがいた。マラーは以前からウイルスに関心を持っており、1922年にはバクテリオファージとは遺伝子なのではないかと疑っていた。両者を同一視するのは軽率だとしても、両者に既知の違いがないことも確かなので、遺伝子を研究するツールとしてファージを使う可能性が開けたと考えていた。[279-3] この見解は、タバコモザイクウイルスの結晶化によってまさに裏付けられたように見えた。
  • 1937年にデルブリュックが米国に渡った際にも、ファージは裸の遺伝子なのではないか、そして遺伝子は生命のエレメントなのではないかと考えていた。モーガンのチームは物理学者との協同を歓迎したが、それはマラーのX線研究のおかげであって、デルブリュックのグリーンペーパーの数学を理解していた人はほとんどいなかった。デルブリュックの最初の仕事は、これを説明することになった。

この部分の年表(要約者作製)

第一次世界大戦前夜 トゥオート、ファージ現象を発見
1915年 デレル、ファージ現象の再発見
1920年 ド・クライフ、ロックフェラー研究所に着任。乖離現象の研究に着手
1922年 デレル『バクテリオファージ』。各国にファージ研究チームが組織。マラー、ファージは遺伝子なのではと疑う
1925年 ルイス『ドクターアロースミス』
1926年 マラー、X線照射によりショウジョウバエに突然変異。デルブリュック、量子力学の研究に着手
1934年 エリス(カルテク)、ファージの研究に着手
1935年 デルブリュック、グリーンペーパー出版。スタンレー(ロックフェラー)、タバコモザイクウイルスの結晶化
1937年 デルブリュック、カルテクに異動し、モーガンとの共同研究開始
1938年 ウィーバー「分子生物学」

*1:要約者注:万能に見せかけた怪しい製品のこと

*2:要約者注:原文1935は誤植

*3:要約者注:以下、出典はデルブリュックへのインタビューで、ボーアではない