えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

優生学のための心理学のつかいかた McDougall (1914)

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2986998/

  • McDougall, W. (1914). Psychology in the service of eugenics. Eugenics review, 5(4): 295−308.

 英国の心理学者ウィリアム・マクドゥーガル(1871-1938)がイギリスの優生教育協会(Eugenics Education Society:現Galton Institute)で行った講演原稿を読みました。以下は内容です。

   ◇   ◇   ◇

・「優生学という科学」とよく言われるが、優生学は純粋科学ではなく、医学や工学のような応用科学である。
・医学や工学は、それ以前に存在していた技術を導くものとして誕生した。だが優生学はそうではない。「優生学がその目的に向かうためには、その理念がパブリックオピニオンによって肯定・受容されて、コミュニティの目標として確立される必要がある」。

・優生学の基盤となる科学としては生物学が強調されてきた。だが心理学も重要だ。高度な文明はそれを生み出した精神の優越性を破壊する傾向がある。これに対して優生学は、「精神の健康[sanity]と活力[vigor]ならびに知性と道徳的効率性[efficiency]のレベルを保存し、できれば改善する」ものだからだ。

・優生学と心理学の結びつきが強調されてこなかったのは、心理学がまだ初期段階にあるからだ。とくに、一般的な法則の研究に比べ、優生学に直接役立つだろう、個々人ごとの心的素質[endowment]の特異性の研究は遅れている。
・この種の研究をゴルトンは統計的手法によって切り開いたが、統計的手法も通俗心理学と結びついている限り厳密な知識を与えてくれない。だが近年では体系的心理学と結びついた研究もあらわれ、「差異心理学」ないし「個人心理学」と呼ばれている。

・ゴルトンのmental testの方法を毛嫌いしている心理学者もいるが、心の遺伝にかんする厳密な知識を得るためにはこの方法を用いていく必要がある。研究の方向性として三つのものが考えられる。

1 複雑な心的能力を分析し、単純な能力を見つけ出す
・こうした単純な能力は、多くの場合、遺伝における単位になっていると想定できる。
・例えばスピアマンは、多種のテストの結果の分析から、様々な複雑な心的操作において共通して働く要因があることを示した。これは、「一般知性」という概念を正当化していると思われる。

2 人々の集団間に存在するかもしれない心的素質の差異を検出し測定する
・社会階級ごとに生得的な心的素質に違いがあるか否かについては鋭い意見の対立があるが、どちらの側も独断的である。決着をつける方法は、様々な階層の人々でテストを実施するしかない。
・この場合用いられるテストは、できるかぎり、階級ごとの教育に依存しないようにすべきである
・出来るかぎり若い被験者に適用すべきである。年齢が小さいほど、テストをどれだけ解けるは生得的な心的素質によって決まるからだ。

3 世代内および世代間の血縁者たちにテストを行い、結果がどのくらい類似するかを調べる
・最も直接的に優生学にかかわる研究である。
・上記の2つの研究を補うために絶対に必要である


・ところで晩年のゴルトンは、優生学の適切な対象は高度に文明化された国民のみだと考えていた。「しかし、我々は、大英帝国の市民として、この制限に従い続けることができるだろうか」。
・優生学はいつかこの問いに直面する。そのときには、様々な亜人種[subraces]の心的素質、さらに、複数の亜人種の交雑によって生まれた子孫の心的素質にかんする知識が必要になる。

・「事実、普遍的な雑婚の時代が近づいているように思われる。良い意味でも悪い意味でも可能性に満ち満ちているこの傾向を、しかし全く盲目にすすむがままにさせておくべきなのだろうか。それとも、自らを全体として意識した人類は、己の未来のため聡明に考え、この人種の混合の過程を、一定の仕方で一定程度、統制していくべきなのか。確かなのは、文明化された諸政府は既におおいなる介入の力を持っており、その力は無際限のものであること、そして、この種の問題は諸政府に対してますます緊急事項として迫ってくるということだ。そのとき下される決断が、優生学的な考察を全く抜きにしたものであってよいのか。いや、こうした問いに関する決断にあたっては、優生学的考察が極めて大きな重みを持たなければならない。なぜなら、私が思うに、人口が2つ以上の人間集団によって占められており、それらが互いの間の婚姻を拒み続け人種的に独立なものであり続けているようなところでは、健全な政治組織は育ってこないというのは明らかだからだ。このことは、アメリカの合衆国でも南アフリカでもどこでも例証されていることだ。そして、亜人種の混合のなかでも、優生学的に言って賞賛すべきものもあれば、破滅的なものもあるというのは、まったくありそうなことだと思われる。この問題が既に先鋭化している事例を引いて状況を示すのに、私はアメリカの合衆国をあげたい。かつてアメリカの人々は、主として北ヨーロッパの亜人種の末裔であった。だが、この10年のうちに、南ヨーロッパ、南西ヨーロッパからアメリカへ移民が大挙している。そして既にして、この奔流はきちんとチェックされるべきであるとか、合衆国の未来が脅かされる、などといった悲鳴が聞こえてくるのである。カナダやオーストラリアでも、同様の問題が政治的手腕を要するものとしてすでに生じている。これらの地域は、ヨーロッパないし北ヨーロッパ人種のためにとっておかれるべきなのだろうか。それとも黄色、茶色、黒も自由に認められるべきなのか。その場合、最終的には混合によってあらたな亜人種が生じることとなろう」
 
・優生学はこうした問題に発言せねばならず、そのための厳密な知識を心理学が与える。