えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

シロイヌナズナと植物学における分子の時代 Endersby (2007)

https://www.hup.harvard.edu/books/9780674032279

【目次】

第10章 シロイヌナズナ:植物学者のショウジョウバエ

クロワッサンからカラシナへ
  • [343-1] 1978年、二人の新婚のカナダ人が、パリのカフェで自分たちの将来と生物学の将来についての計画をねっていた。クリス・サマーヴィル(Chris Somerville)は、大腸菌の遺伝学の博士号を、シャウナ・サマーヴィル(Shauna Somerville)は植物育種の修士号を、カナダのアルバータ大学から取得したばかりだった。二人は、なにか世界に貢献する有意義な事をしたいと考えていた。
  • [343-2] 数年前の1972年、ローマ・クラブが『成長の限界」を発表し、差し迫った環境危機を予測していた。[344-1][344-2] これにより、50〜60年代の経済発展は永遠には続かないという感覚が広まっていた。70年代初頭のオイルショックがさらに拍車をかけた。科学技術を放棄し自然に帰ろうとする人もいたが、サマーヴィル夫妻にとって、唯一の実際的な解決策は科学だった。植物を改善して世界を救えると考えられる程度には二人とも若く理想主義だった、とクリスはのちに語っている。[344-3] ただし、シャウナは当時の大学で教えられている伝統的な植物育種には不満があった。遺伝のメカニズムに関する最新の理解を反映していなかったからだ。[345-1] 大腸菌の遺伝学を学んだクリスにとってもそれは同じで、二人には近い将来に植物分子生物学分野で起こることが目に見えていた。
  • [345-2] 二人のヴィジョンの形成に寄与したのは、アメリカの同僚からクリスの指導教員に贈られた送られたあるサンプルだった。それは、初期の制限酵素の一種、つまりDNAを切り取る化学的ツールだった。制限酵素は使用され始めたばかりで、何ができるかは未だ研究中だったが、DNAを特定の位置で切断できる性質を持っていた。従来の遺伝学では、有機体全体、つまり全遺伝子に対する同時の働きかけしかおこなわれておらず、単一遺伝子の精確な効果を見極めることは事実上不可能だったのだ。
  • [345-3] 今や単一遺伝子を切り取れるようになり、次のステップはそれが何をしているかを特定することだ。遺伝子が働くには、細胞内機構、具体的にはリボソームが必要である。リボソームはRNAのテンプレートに従い分子を結合させることで、アミノ酸、ひいてはタンパク質を生成する。したがって、単離された遺伝子の効果を知るためにはそれを生きている細胞に戻してやる必要がある。[346-1] これは1973年に大腸菌を用いて初めて可能になった。スタンフォード大学のスタンリー・コーエン(Stanley Cohen)とカリフォルニア大学サンフランシスコ校のハーバート・ボイヤー(Herbert Boyer)が、一種の酵素を用いて、任意の種から得られたDNAを大腸菌に挿入する方法を開発したのだ。[346-2]コーエンとボイヤーはこの技術を用い、興味深い性質をもつ遺伝子をさがしはじめた。今やバクテリアは、特定のタンパク質を生み出すよう遺伝子的に改変されたのだ。
  • [346-3] 大腸菌で博士号をとったクリス・サマーヴィルはコーエンとボイヤーの方法はよく知っていたが、この方法は当初は植物には応用できなかった。しかし、サマーヴィル夫妻がパリを発つ直前、アグロバクテリウムと呼ばれる細菌が、感染した植物に対して自らのDNAを転移させることが報告された。これにより、ある植物から取り出した特定の遺伝子を、アグロバクテリウムを介して別の植物に入れるという可能性が開けた。サマーヴィル夫妻はこれに大いに興奮した。[346-4] 「分子の時代がやってきた」のであり、研究共同体には優れたモデル生物が必要になるとクリスは考えた。[347-1] トウモロコシや小麦やトマトは、この種の研究を行うにはあまりに大きくまた遅すぎるからだ。このとき、二人の目に止まったのが、アメリカの数少ないシロイヌナズナの専門家の一人、ジョージ・レディ(George Rédei)の論文だった。シロイヌナズナには、分子植物遺伝学に適した性質が多くあり、レディは「雑草の時代が来た」と語っていた。[347-2] 真に成功するモデル植物は主要な研究機関が居並ぶボストンのダウンダウンでも生育可能でなければならないとサマーヴィル夫妻は考えていたが、シロイヌナズナにはそれが可能だった。
  • [347-3] サマーヴィル夫妻はパリを離れてカナダのアルバータに戻り、アメリカのイリノイ大学で研究するためのビザを待った。この間、大学院生向けセミナーを担当する機会に恵まれ、レディを招待したが、関心を持つ人はほとんどいなかった。だが二人はレディと数日間を過ごし、シロイヌナズナに関する詳細な知識と、レディが作製・収集した多くの変異株の種子を得た
  • [347-4] サマーヴィル夫妻の目的は、シロイヌナズナを中心とした共同体をつくることだった。[348-1] ショウジョウバエや大腸菌の周りに異分野の研究者が集まることでいかに多くの達成がなされたかを、二人と同世代の生物学者たちはよく知っていた。クリスにとってのモデルはデルブリュックの組織したファージ・グループで、デルブリュックの著書『ファージと分子生物学の起源』(Phage and Origins of Molecular Biology、1966)はクリスに巨大な影響を与えていた。クリスは学士号を数学で取得しており、ファージ遺伝学のエレガントさや厳密さに魅力を感じていた。[348-2] 他方で当時の植物遺伝学者は、エレガントな単純性を重視する思考はしておらず、大きくて遅いが経済的価値のある植物にばかり取り組んでいた。こうした研究者の注意を引くべく、サマービル夫妻は「デモンストレーション計画」を行うことをパリで計画していた。これは、植物研究共同体が関心を持つ問題を遺伝学で解こうというものだ。当時植物については何も知らなかったとクリスは認めているが、集団を作るという目的のためには、既存の植物共同体に対して結果を出す必要があった。[348-3] ついにビザがおりると、サマーヴィル夫妻は米国イリノイ州に出発した。
共同体を作る
  • [348-1] 同時期、シロイヌナズナに関心を持った人物が他にもいた。[349-1] その一人がエリオット・マイロヴィッツ(Eliot Meyerowitz)だ。イェール大学の学生だったマイロヴィッツはショウジョウバエの研究をしていたが、レディが書いたレビュー論文を読み、植物の研究をしていた仲間や先生にそのことを話した。実際、同大学院生のデイヴィッド・マインキー(David Meinke)とその教授イアン・サセックス(Ian Susssex)は1978年にシロイヌナズナに関する論文を発表した。[349-2] 数年後カルテクに異動したマイロヴィッツは、遺伝学の歴史、とくに同大でも行われたド・フリースのオオマツヨイグサ研究に関心をもち、その影響もあって、学生のロバート・プルイット(Robert Pruitt)と共に植物遺伝学に関心を持ち始めた。[349-3] シロイヌナズナは南カリフォルニアでは育たず、また野生種を同定する能力もないために入手には苦労したが、プルイットのおじでワシントン州立大学の植物生物学者であったアンドリス・クラインホフ(Andris Kleinhofs)から種子を入手することができた。[350-1] クラインホフは手持ちの種子をすべて譲ってしまったため、マイロヴィッツが最初の論文を出して以降に殺到した種子の分譲依頼に悩まされることになった。 
  • [350-2] この依頼殺到は、シロイヌナズナへの関心の高まりを示す。この数年前、サマーヴィル夫妻も例の「デモンストレーション計画」を成功させていたのだ。二人が注目したのは光呼吸だった。植物は通常、酸素を吸って二酸化炭素を吐く呼吸を夜間にしかおこなわないが、稀に昼に行うことがあり、これが光呼吸と呼ばれる。光呼吸は光合成の効率、ひいては植物の栄養価を減少させるため、これを止められれば、食用植物はより素早く生育しより栄養価が高くなる。このため、サマーヴィル夫妻のような科学者はこの現象に関心を持っていた。[350-3] サマーヴィル夫妻は、大量のシロイヌナズナを変異させて光呼吸が停止する変異体を探すというシンプルな方法で、この現象を説明する競合理論間の決着をつけようとした。シロイヌナズナの成長速度のおかげで、問題の変異体はわずか2ヶ月で見つかった。この変異体を通常の空気中で育てると特殊な化学物質を生成するが、光呼吸に関する競合理論のなかでこのことを説明できる理論は一つしかなかった。こうして、[351-1] 長く続いた激しい論争は実質一夜で決着し、植物研究共同体に大きな衝撃を与えた。[351-2] 一方のマイロヴィッツは発生生物学者だったため、サマーヴィル夫妻とはまったく別の問題に取り組もうとしていた。シロイヌナズナで様々な研究ができることは、この植物が汎用ツールだと植物学者を説得するのを助けることになる。
  • [351-3] 1981年、マイロヴィッツとプルイットがいよいよシロイヌナズナ研究を始めようとしたとき、デルブリュックが亡くなった。後年のデルブリュックはカルテクで感光菌類(light-sensitive fungus)の研究に取り組んでおり、バクテリオファージでの成功を踏まえ、光合成する最も単純な生物を見つけようとしていた。死の直前にデルブリュックの研究室に加わった人物にレズリー・ルートワイラー(Leslie Leutwiler)がおり、デルブリュックの没後マイロヴィッツのグループに加わった。
  • [351-4] こうして二人の若い研究者を得て、マイロヴィッツはついに新たな分子ツールをシロイヌナズナに応用する時を得た。はじめに取り組んだのは、一本の植物から遺伝子を抽出し、それをコピーすることだった。これはショウジョウバエで可能になったばかりで、植物では誰も成し遂げていなかった。トウモロコシのような標準的な実験植物はゲノムが大きく反復的な部分が多いために、複製すべき特定遺伝子を見出すことが困難だったのだ。そこでマイロヴィッツらはまず、シロイヌナズナのゲノムの大雑把な大きさを知る必要があった。他の生物を対象とした同様の検査は10年前から行われてきており、[352-1] カルテクにはそのための装置と技術者バーバラ・ハフ-エヴァンズ(Barbara Hough-Evans)が残っていた。レズリーとバーバラが検査を行い、シロイヌナズナのゲノムが極めて小さいことを発見した。[352-2] 実は、シロイヌナズナのゲノムが小さいこと自体は、1976年にキュー植物園の研究者がすでに簡潔に報告していた。だが、1984年出版されたマイロヴィッツ、ルートワイラー、ハフ-エヴァンズの論文は、そのことの意味、つまりシロイヌナズナは分子生物学に適した植物であることを明確に述べた
  • [352-1] カルテクのチームは、シロイヌナズナに取り組む他の人とも徐々に接触していった。その一人がレディで、ルートワイラーはミズーリまでレディに会いに出かけ、種子を持ち帰ってきた。またレディは英国でのシロイヌナズナ研究の開始にも一役買った。70年代後半、カリフォルニア大学バークレー校で植物を研究していた博士課程学生イアン・ファーナー(Ian Furner)は、シロイヌナズナの話を聞いて関心を持ち、レディに手紙を送ると、レディからは自筆論文と種子を含むあらゆるものが返ってきた。さらにファーナーは上述したマイロヴィッツらの論文を読んで心を決め、[353-1] 数年後、ケンブリッジ大学にはじめてシロイヌナズナの実験室を立ち上げる。これはしばらくのあいだ英国唯一のシロイヌナズナ実験室だった。
  • [353-2] カルテクのグループが接触した第二の人物が、当時は大学院生だったオランダの生物学者マーテン・コーンニーフ(Maarten Koornneef)だった。花が主要な輸出品であるオランダでは、植物の改良は重要な研究だった。コーンニーフの教授はシロイヌナズナに関心を持って学部教育で用いており、コーンニーフは種子会社に一旦就職したのち博士号取得のために大学に戻ってきたところでマイロヴィッツから手紙を受取り、変異体と手紙を何度も交わして友情を育むことになった。
  • [353-3] 1985年にコロラドで開かれた植物遺伝学の会議で、マイロヴィッツはクリス・サマーヴィルとも出会い友人となった。会議のほとんどはトウモロコシの話をしていたが、シロイヌナズナ共同体も急成長しており、サマーヴィル夫妻、マイロヴィッツ、コーンニーフ、マインキーが一緒に写った写真が残されている。[353-4] シロイヌナズナ研究者は徐々に互いに知り合い、関連する出版や会議報告も増えていった。ゲルハルト・レベレン(Gerhard Röbbelen)が創刊した雑誌『シロイヌナズナ情報サービス』(Arabidopsis Indormation Service)も息を吹き返した。
  • この時期、ペチュニアやトマトなどの植物も標準モデルとして宣伝されていたが、80年代にはシロイヌナズナの前に急速に衰退していった。[354-1] この成功の重要な要因の一つは、秘密の排除だった。植物、種子、重要な変異体、実践的なテクニックなど、あらゆるものが共有された。シロイヌナズナが農産物ではなく情報秘匿に商業的価値がないことも、この公開性を促進したのかもしれない。シロイヌナズナは様々なアイデアを持つ様々な種類の生物学者が利用できる柔軟性を持つことが明らかにされていった。実際、この植物の重要な達成の一つは、分子生物学と古典遺伝学という無関係だった分野を結びつけるのを助けたことだった。
  • [354-2] 他方、皆がシロイヌナズナの成功を喜んだわけではなかった。クリスは、著名なトウモロコシ研究者に時間の無駄遣いをやめるよう戒められた。またクリスは、シロイヌナズナ研究への資金提供を抑制しようとする真剣な動きがあったと考えており、農作物の研究者の中でシロイヌナズナが不興を買い、農学部の間では禁句(A-word)となったと述懐している。こうした無関心や敵意の中、シロイヌナズナ研究者ははじめ [355-1] 研究資金を得るのに苦労した。資金提供者は、なぜそんなにも雑草の研究をしたいのか理解できなかった。コーンニーフが『遺伝学雑誌』(Journal of Heredity)に論文を投稿した際には、レビュアーがその意義を理解せず、エディターから論文の短縮を求められた。[355-2] シロイヌナズナを使えばより早く・安く結果が出ることが明らかになってくると、資金も増えたが敵意も大きくなった。ファーナーは、英国のシロイヌナズナ共同体が農作物を研究する伝統的な科学者のあいだで極めて不評となり、「シロイヌナズナの野郎が金を全部取っていきやがる」という不満が聞こえたことを憶えている。
DNAからドルが出る
  • [355-3] シロイヌナズナ共同体が急成長しているころ、生物学は今度は株式市場からくる大きな変化を経験することになる。1980年10月14日、ジェネンテック社の株式が公開されると、販売可能な商品は何もないにもかかわらず株価が急騰した。[356-1] バイオテクノロジーブームの幕開けだった。 [356-2] ジェネンテック社の創立者はボイヤーだった。上述したように、ボイヤーとコーエンはDNAを異種間で転移させる技術を開発した。この技術によって、バクテリアは挿入された遺伝子の産物を無限に生み出す工場となることに二人は気づいた。たとえば糖尿病患者が必要とするインスリンを生み出すことができれば、バクテリアは非常に価値の高い製品を生産する工場となる。
  • [356-3] 1973年、ボイヤーがある会議で自身とコーエンの発見を報告した。だがこの手法の倫理性と安全性にすぐに懸念が生じ、会議は全米科学アカデミー(NAS)に調査を求めた。NASはすぐに委員会を組織し、まず『サイエンス』誌に手紙を書いた。この手紙により、新語「バイオハザード」が広く知られるようになる。コーエンとボイヤーの他ジェームズ・ワトソンらも署名したこの手紙は、安全性が確認されるまで遺伝子工学のモラトリアムを求めており、それは迅速に実施された。この科学史上前代未聞の出来事は大衆の注目をあつめ、科学者の社会的責任感に安堵するものもいれば、この技術は破壊的に違いないと考えるものもいた。
  • [356-4] 科学者が議論を重ねているあいだ、コーエンとボイヤーはこの技術を特許化しようとしていた。[357-1] コーエンが勤めるスタンフォード大学では1960年後半からスタッフによる発明を特許化する計画を開始していた。ただし、多くの特許は工学や化学といった明らかに応用的分野のものだったので、[357-2] 担当部局から遺伝子工学技術の特許化の話が持ち上がったときコーエンは非常に驚いた。多くの科学者同様、コーエンは科学を共同事業だと捉えており、特定の一人二人を技術の「発明者」とすることに抵抗を示した。またコーエンは医学的発見は自由に利用可能であるべきだと感じていた。しかし結局、特許は新薬を含む技術開発を促進するという意見に説得された。ただしコーエンは、特許使用料を得る権利を放棄した。一方ボイヤーはそこまで心配しておらず、特許の手続きはすべて専門家に任せていた。
  • [357-3] 特許申請がなされてすぐの1976年、米国特許庁は生物に関する特許は付与しないと決定した。[358-1] スタンフォード大学は遺伝子改変された生物自体ではなく、改変方法に特許申請を切り替えた。同1976年、米国国立衛生研究所(NIH)は遺伝学研究のためのガイドラインを制定し、新技術のモラトリアムは解かれた。同年、ボイヤーは世界初のバイオテック企業ジェネンテック社の設立を発表した。数名の同僚とともに、スタンフォードの研究所でヒトのホルモンであるソマトスタチンの合成を開始した。大学内で明らかに商業的な研究がなされることは論争を引き起こした
  • [358-2] こうした懸念もあったが、バイオテクノロジーは急速に成長した。NIHの最初のガイドラインは、遺伝子組み換え生物を致死性の病原菌のように扱う厳格なものだったが、1978年7月にはよりゆるいガイドラインが出された。またNIHは、バイオテクノロジーに関する知的財産権にとくに制限はないとアナウンスした。同9月、ジェネンテック社はインスリンの生産を発表した。[358-3] 1980年には米国最高裁が生物も特許化可能と判決し、コーエンとボイヤーの特許も同12月に認められた。認可からわずか2週間のうちに、特許使用料20,000ドルが27社から支払われた。こうしてバイオテクノロジーは、80年代の株式高騰の主要な要因となった。この成長は、企業寄りで反規制的な [359-1] レーガン政権により大きく援助されていた。自動車や造船といった伝統的産業では極東が強くなっていたために、政府は新たな産業の発展を求めていた。
  • [358-2] 思いのままに新しい植物を作るというド・フリースらの夢は、実現間近に思えた。だが、シロイヌナズナの遺伝子改変は困難だった。アグロバクテリウム法が開発されたときにサマーヴィルらが思い描いていたよりも、植物の遺伝子改変ははるかに難しかったのだ。[358-3][358-4] ブレイクスルーとなったのは、カリフォルニア州パロ・アルトのバイオテック企業に務めていたケン・フェルドマン(Ken Feldman)とデイヴィッド・マークス(David Marks)の型破りな実験だった。二人は、種子を植える前にアグロバクテリウムに浸すだけで遺伝子改変された植物がわずかながらできることを発見した。この技術は現在も用いられている技術の基礎になっており、結局シロイヌナズナは改変しやすい植物だったことがわかっている。[360-1] この方法がうまくいくか、数年のあいだはわからなかったが、「植物は協力的だったことがわかった」とマイロヴィッツは語る。
  • [360-2] だが、こうした困難が解決される以前の段階から、バイオテック企業は急速に増えていった。1983年、カリフォルニアのある新興企業に、植物生物学者で博士号を取ったばかりの若い英国人キャロライン・ディーン(Caroline Dean)が入社した。ディーンは分子生物学についてはほとんど何も知らなかったが、会社にはすでに多数の分子生物学者がおり、植物の知識が欠けていたのだ。[360-3] ディーンは仕事の傍ら、庭にチューリップを植えていた。英国では毎年やっていたことだったが、カリフォルニアの温暖な気候ではうまく育たなかった。そこで、球根を植える前に冷蔵庫にいれて厳しい冬を再現してやると、チューリップはうまく育った。この経験からディーンは、春化に関わる遺伝的メカニズムに関心を持ち始めた。[361-1] ディーンはこの過程についてはほとんど情報がないことに気付き、さらなる研究法について考えていたところ、クリスによるシロイヌナズナに関する講義を聞く機会を得た。そこで、クリスの研究室では変異体に春化を施していることを知った。
  • [361-2] 数年後の1988年、ディーンは英国に戻り、シロイヌナズナに関する研究を始めることになった。この植物を研究している人は英国にはほとんどいなかったのだが、コーンニーフとカール・ナップ-ジン(Karl Napp-Zinn)から種子と情報を得ることができた。ナップ-ジンは50年代からシロイヌナズナの研究をしているパイオニアで、また開花時期に関する遺伝学的研究をしている唯一の人物だった。[361-3] ディーンの勤め先は、ノリッジ郊外にあるジョン・イネス研究センター(John Innes research centre)だった。1910年に設立されたこの研究所は園芸学と遺伝学の主要な研究拠点で、最初のディレクターはベイトソンだった。着任したディーンがシロイヌナズナの種子を園芸スタッフに渡すと、「雑草を育てる」つもりなのかと驚かれた。
  • [361-2] このときまでにシロイヌナズナ研究は全米を席巻しており、欧州の政治家の中には、米国が植物科学とバイオテクノロジーでリードを取ることを懸念するものもいた。[362-1] そこでEUの官僚はジョン・イネス研究センターにコンタクトをとり、スタッフ増員のための資金提供を申し出た。[362-2] 政治家には政治家の思惑があったが、ディーンには他人と競争する気も、他人の研究を再現する気もなかった。ディーンは米国の研究者から情報を集め、それを英国やその他の地域での研究と統合した。これにより、研究者らは変異体を共有できるようになり、また植物の染色体の物理的地図を作成できるようになった。また、異なる染色体は異なる研究室が扱うという非公式の取り決めがおかれた。 
ファージに倣って
  • [362-3] シロイヌナズナの躍進を助けた一つの要因として、1970年代後半に、コールド・スプリング・ハーバー研究所のディレクターだったワトソンが、同研究所に植物に関する課程を提供できる実験室を作ることを決定したことがある。はじめこの課程では主にペチュニアが用いられたのだが、担当者がすぐに転向しシロイヌナズナを用いるようになった。同研究所のファージ課程と同様、シロイヌナズナ課程は(ドイツのケルンにあった同種の課程と並び)植物研究者の一大排出地となった。[362-4] ワトソン自身も、シロイヌナズナ研究を支援するよう米国国立科学財団(NSF)を説得し、[363-1] 1989年にはこの研究の未来に関する会議が組織された。この会議から、シロイヌナズナの全ゲノムの詳細を公開するプロジェクト「シロイヌナズナゲノム計画」が始まった。
  • [363-2] 染色体のDNAに沿って塩基(A、C、G、T)の精確な位置を特定することを、配列決定(sequencing)という。ハーシーとチェイスはファージを構成する異なる化学物質に対して異なる放射性マーカーでラベルをつけた。これと概ね似たような技術により、異なるDNA塩基にラベルづけすることができ、それをX線フィルムに露光すると、塩基配列が目に見える形で記録される。はじめは、フィルムの読み取りは目視、塩基リストのコンピュータへの入力も手動だったが、1986年には自動化されたDNAシークエンサーがはじめて登場した。配列決定されるDNAは制限酵素によって断片に分ける必要があるのだが、最後にはこれらを組み合わせて元の途切れていないDNA配列を再現する必要がある。各断片には重複部分があるので、それを元に本来の配列を再構築するのだが、[364-1] この時間のかかる仕事は現在ではコンピュータにより完全に自動化できるようになっている。[364-2] 新技術により生物の全ゲノムの配列決定が可能になると、ワトソンはシロイヌナズナの配列決定を自らの威信にかけて推進した。だがクリスによれば、89年の会議の時点でワトソンの目はすでに「ヒトゲノム計画」に向いていたという。とはいえワトソンも、まずはより単純な生物の全ゲノム配列を特定することが有益だと判断していた。
  • [364-3] シロイヌナズナゲノム計画のために、NSFは国際運営員会を組織した。そこにはマイロヴィッツ、クリス・サマービル、コーンニーフ、ディーン、そしてジョン・イネスのディレクターであったリチャード・フラヴェル(Richard Flavell)が集った。フラヴェルは政府官僚との交渉経験が豊富で、配列決定の目標を設定することを促した。[364-4] 当初の目標は2003年までに全ゲノムの配列を決定することと定められ、世界中の研究所が資源と友情を活用しはじめた。米国の主要な取り組みに加え、日本から1チーム、EUからは9カ国33の研究所が参加し、植物学はついにビッグ・サイエンスの世界に足を踏み入れた
  • [364-5] 仕事のスケールが広がっても、共同体の性格は変わらない、とパイオニアたちは確信していた。1993年、クリスらはゲノム解析のための資金100万ドルをNSFから提供される。[365-1] コンピュータが塩基のリストを作り始めると、本人たちの確認を通さないうちに、データはインターネット上のパブリックデータベース「GenBank」で公開された
  • [365-2] 皮肉にも、バイオテクノロジーの流行がシロイヌナズナ研究を頓挫させる危険を生じさせた。1984年のバイ・ドール法(Bayh-Dole Act)は、連邦資金で支援された研究に関する特許を取得するよう米国の大学に促す法律で、クリスはこれを「破滅的」と評している。基礎科学の特許化は科学に負の影響を与えるとクリスは考えている。また、おそらくバイオテックのもたらす金に誘惑され、クリスやマイロヴィッツが好むしかたで研究結果を公開しないチームもあった。こうした場合には、相手に電話して会話し、考えを変えてもらったとクリスは述懐している。マイロヴィッツも、公開性を保つための最良の方法は積極的な手本を示すことだと考え、見返りがないと予想される場合でさえ何かを共有することを拒まなかった。
  • [365-3] このように、ときに障害もあったが、シロイヌナズナ共同体は公開性を維持し、拡大を続けた。1998年、『遺伝学』誌のある記事は「シロイヌナズナはモデル遺伝動物安全保障理事会入りした」と発表した。これはつまり、「他のすべての生物の比較対象となる」選ばれし少数の生物となったということだ。[366-1] 記事の著者ゲリー・フィンク(Gerry Fink)は酵母に関する重要な研究を行った人物で、その名声からより多くの生物学共同体がこの植物の研究に関心を持つようになった。
  • [366-2] モンサント社(Monsanto)のようなバイオテック企業も、ゲノム計画に参画し、政府が出資する研究室とまったく同じようにデータを共有した。これにより配列決定は更に加速し、2000年には完全な配列が公開された。シロイヌナズナは全ゲノムが配列決定された最初の植物になった。これにより、植物研究は飛躍的に加速した。特定の遺伝子を見つけることがますます容易になり、またシロイヌナズナは容易に形質転換できるようになったので、その遺伝子が何をしているかも突き止めやすくなった。2010年までに、シロイヌナズナのもつ約25,000の遺伝子それぞれの働きを突き止めるという研究計画も動いている。[366-3] 全ゲノム配列決定は、バイオテクノロジー企業にも有用なものであった。シロイヌナズナ研究共同体とバイオテック企業の関係が密接になるにつれて、この小さな植物は政治的な注目をも浴びるようになっていった
化物首相(”Prime Monster”)
  • [366-4] 1999年2月、英国のタブロイド紙『デイリー・ミラー』(Daily Mirror)は、トニー・ブレア首相をフランケンシュタインに見立てた風刺画とともに、次の記事を報じた。「ブレアの発言に怒り:私はフランケンシュタイン食物を食べたが安全だった」。[367-1] 世論調査によれば、英国市民の大半は遺伝子組み換え食物に否定的だった。ブレアは自ら食べることで国民を安心させようとしたが、これは10年前のBSEへの対応を想起させるもので、裏目に出てしまった。[367-2] 元々、英国の中流階級は伝統的で「自然」な食品を好む傾向があった。だが、こうした傾向を持たないと思われる『デイリー・ミラー』誌の読者層にまで遺伝子組み換え食品への反感が広まっていることに、バイオテクノロジーを推進する政府は危機感を募らせていた。[367-3] 遺伝子組換え食物への反感は英国だけでなく、西ヨーロッパのほとんどの国で共有されている。その経緯や理由は複雑で本書の範囲を超えるが、[368-1] 伝統的な食物への郷愁がBSE以降とくに高まったのは確かである。
  • [368-2] バイオテクノロジー企業は、様々な作物を育てやすくする遺伝子組み換えに成功してきている。たとえばモンサント社(Monsanto)は、世界で最も使用される除草剤ラウンドアップに耐性のある大豆を開発した。同社はこれにより除草剤使用量を全体としては減らすことができ環境に優しいとしているが、反対派はこうした作物の畑の生物多様性が低くなる点を懸念している。[368-3] 環境への影響に加え、遺伝子組換え食物は「遺伝子」という言葉によってまったく関係ない生命医療技術に結びつけられている。その範囲はヒトクローニングから遺伝子検査にまで及ぶ。合理的かどうかはさておき、市民が「自然に介入する」と思われるものに強力な嫌悪感をもつことは否定できない事実である。[369-1] 英国その他の富裕国では、有機栽培食物の市場が急拡大している。
  • [369-2] これに対し、米国では遺伝子組換え食物が広く消費されており、消費者の抵抗はほぼ見られない。そもそも、多くの消費者はそもそも自分が遺伝子組換え食物を食べていることに気付いていない。バイオテクノロジー企業の説得の結果、米国では遺伝子組み換え食品の表示義務がないからだ。このことは、EUとの貿易摩擦の種となっている。
  • [369-3] ブレア政権は、遺伝子組み換え作物を英国で栽培しようと、安全性をテストするための栽培試験を告知した。60年代の抗議運動の伝統を引き継ぐ環境団体はこれに反対した。一度栽培がはじまれば、花粉は遠くまで飛ぶので、他の作物を汚染する可能性がある、という理屈だった。政府が試験を強行すると、グリーンピースは畑を破壊、他にも同様の行動が続き、[370-1] 結局ほとんどの試験は中止を余儀なくされた。農家や科学者たちはこれに落胆した。
  • [370-2] 抗議運動の当面のやり玉となったのはトウモロコシだったが、すべての遺伝子組み換え作物開発の基礎となっているのは最終的にはシロイヌナズナである。[370-3] シロイヌナズナ研究共同体は、植物遺伝学者が環境運動によって悪者にされていることに困惑している。マイロヴィッツは、欧州人が「一種の自然信仰」に囚われていると語り、[370-4] コーンニーフも人々の抵抗は非合理的だとする。ディーンは、人々の食への不安に環境団体がつけこんでいると怒っている。
  • [370-5] クリス・ソマーヴィルも困惑している。[371-1] クリスにとってバイオテクノロジーとは、世界をよりよい場所にしたいという元々の夢を実現する手段だった。メンデル・バイオテクノロジー(Mendel Biotehchnology)社の科学委員会のメンバーとして長年勤めており、お金を稼ぐことも否定しないが、クリスは自分が社会的な良心を失わずにいることを誇りに思っている。実際、メンデル・バイオテクノロジー社はいくつかの発見をロックフェラー財団に提供している。その発見がアフリカで役立つと信じて。[371-2] クリスの考えでは、真の環境主義とは、科学を利用して世界の諸問題を解決することである。クリスの現在の研究は植物の細胞壁に関するもので、これは実用的応用面では、効率性の高いバイオマス燃料となる植物の開発を狙うものだ。シャウナもこのヴィジョンを共有している。二人のラボはスタンフォードにあるカーネギー研究所で隣同士にあり、[372-1] エネルギー植物の共同開発を行っている。この新たな研究の中心にあるのも、依然としてシロイヌナズナである。[372-2] この構想が実現すれば、遺伝子組換えされたエネルギー植物が全世界に植えられるだろう。ただし、例外は西欧である。そこには、遺伝子組換え作物は環境や人間の健康に悪影響だという明白な科学的証拠があると信じている反対派がおり、抵抗は弱まる兆しを見せない。
  • [372-3] 遺伝子組み換え作物への反対について、ファーナーは他のシロイヌナズナ研究者とは少し違う考えをもっている。「西欧が遺伝子組み換え作物に抵抗を示すのは、消費者にほとんど利益がないからだ」。欧州の消費者は加工食品や調理済み食品を多く購入するため、遺伝子組換え作物によって原材料のコストが下がっても、支払う金額はそう大きくは変わらない。すると、とくに利益もなくリスクだけをとる形になる。またリスクが存在しないと証明されても、利益がないなら食事を切り替えるインセンティヴがない。もしファーナーのこの見解が正しい場合、エネルギー植物なら人々の心を変えられるかもしれない。現在、地球温暖化への懸念は、米国よりも欧州でこそ高まっている。そこで、二酸化炭素排出量を削減しつつ生活水準を維持するために、遺伝子組換え植物を受け入れても良いと感じる欧州人が出てくるかもしれない。化石燃料が枯渇してはじめて、シロイヌナズナの研究はそれが同定された欧州でようやくその価値を認められるのかもしれない。