えめばら園

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デュアルユース研究と予防原則 Kuhlau, Höglund, Evers, and Eriksson (2011) 

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  • Kuhlau, F., Höglund, A. T., Evers, K., and Eriksson, S. (2011), A Precautionary Principle for Dual Use Research in the Life Sciences, Bioethics, 25(1), pp. 1–8.

 予防原則は、非常に有害な結果が未知の確率で生じる場合に適用される意思決定原理である。この原理は環境や公衆衛生の問題という文脈ではよく取り上げられてきた。しかし、「生命科学者が自身の研究の誤用を防ぐ責任」という文脈ではほとんど論じらてこなかった。この論文は、こうした生命科学分野におけるデュアルユース研究に関しても予防原則を適用することができると、予防原則の4つの基本特徴の検討と予防原則に対する反論の検討を通じて示す。

予防原則とは

 予防原則が適用可能な問題は、人間の活動とその結果の関係の複雑性によって特徴付けられる問題や、ハザードおよびリスクに関して科学的不確実性がある問題である。生命科学研究にかんしても、善意でなされる研究とその兵器目的での悪用とのあいだには不確実性があり、因果関係を示す証拠が脆弱である。このことは、悪用が研究者のコントロールを超えていることや、悪用されうる生物学的物質は自然界にも存在していることなどによる。

 政策決定という観点から見ると、予防原則は「負担を減らす(burden-removing)原理」である(Manson 1999)。すなわち予防原則は、ある活動と危害の因果関係が科学的に確立されていない場合でも、その行為を規制することを支持する。

 しかし以下では、科学者の観点から見た予防原則をもっぱら問題にしよう。生命科学研究者は、望ましくない結果を避けるための道徳的責任をどのくらい持ちうるか。この問題に対して予防原則は、「負担を増やす(burden-adding)原理」としてはたらく(Manson 1999)。すなわち予防原則は、何らかの行動をしようとする人(この場合、科学者)に対して、その行動が害をもたらさないと示さなければならない、という負担をかける。

 「害をもたらさないとを示す」とはどういうことかを細かく見るために、「証拠の負担」(burden of proof)と「行為の負担」(burden of action)を区別しよう。この区別に基づけば、予防原則によって科学者に課される責任は、自身の研究は無害だという正当化された信念を確立する責任と、潜在的危害を回避するために積極的な対策をとる責任の、2種である。

4つの基本特徴

 予防原則の定式化には様々なバージョンがあるが、それらに共通する主要な特徴が4つある(Sandin 1999)。すなわち、「脅威」(threat)、「不確実性」(uncertainty)、「規範」(prescription)、「行動」(action)だ。この4つの要素は次のような形で結びついている。「もし不確実脅威があるならば、ある種の行為義務である」。

 実はこうした4要素は、おそらくそれと認識されないままに、生命科学者の責任にかんする既存の議論の中ですでに表明されている。例えば世界医師会によるステートメントにはこうある(WMA 2002)。「生物医療研究に携わる全ての者は、自らの発見が悪意を持って利用 [脅威] される可能性 [不確実性] が持つ含意について考慮する [行動] 道徳的・倫理的義務 [規範] を持つ」。ここで言う「考慮する」を予防的な「行動」の意味で解釈することには異論があるかもしれない。というのも、含意を考慮することはあらゆる意思決定原則の特徴であり、特に予防原則に固有のことではないからだ。そこで、「行動」をより特定しているものとして、『サイエンス』掲載の記事が挙げられる(Somerville and Atlas 2005)。ここでは、生命科学に関わる人・組織は「デュアルユース性に関する情報や知識の拡散を制限する [行動]」べきだとしており、〔いま引用した文の外では〕その他の3要素も含んでいる。

脅威の複雑性

 4要素の中で「脅威」と「不確実性」は、予防原則が適用できるのはどのような場面かを示す役割を持つ。ただしこれらの要素は、生命科学のデュアルユース研究の場合には、とくに複雑で厄介なものになる。

脅威とは何で、誰によって防衛されるべきか

 広く言えば、脅威とは、知覚された脆弱性である。9.11以降、西洋世界が脆弱だという感覚は増し、それに伴って、バイオテロリズム対策に関与する責任が科学者にますます求められるようになっている。

 しかし、生体物質、技術、情報へのアクセスを守る責任を、信憑性のある脅威を根拠として、研究者自身に要求することはできるのだろうか。確かに一般的に言えば、これまでの事例から考えて、バイオテロの脅威には信憑性があるかもしれない。しかしそうだとしても、〔個々人が行う〕通常の科学研究と脅威との因果関係には不確性がある。言い換えれば、脅威は一般に信憑性が高いだけでなく、警戒を求められる当人にとっても信憑性が高いものでなくてはならない。

 このように明確な因果関係を要求する主張に対する一つの返答として、予防原則を用いることができるかもしれない。すなわち、まさに脅威の信憑性が不確実だからこそ、予防が必要なのだ、と。

信憑性ある脅威とそうでない脅威をどうやって区別するか

 しかしながら、こうした予防原則の使いかたには批判がある。すなわち、脅威に信憑性があることは、むしろ予防原則の適用条件の中に組みこまれなければならない、という批判だ。そうしなくては、脅威なるものは最悪のシナリオによって人を脅す口実以上のものではなくなってしまうだろう。

 したがって、研究の悪用の脅威に信憑性があるのはどのような場合なのかについて、一定の基準を立てる必要がある。このことは、生命科学分野におけるデュアルユース研究では特に必要だ。というのも、生命科学者自身は安全保障環境にかんする情報を欠いており、自前でリスクアセスメントをする能力に限界があるからだ。そこで、科学者に課せられる予防の責任は、安全保障コミュニティ当局によるリスクアセスメントを踏まえたものでなければならない。

予防(Precaution)と防止(Prevention)の区別

 現在の議論では、生命科学者には生物兵器の拡散や悪用を「防止する」責任があるともっぱら言われる。しかしながら、責任にかんする理解を科学者により深めてもらうためには、「防止」と「予防」を区別することが重要だ。

 「防止」は、予想される脅威についての情報や知識があり、それを回避する具体的なアプローチが可能であることを含意する。他方で「予防」は、脅威にかんする不確実性を許容するものであり、より一般的な対策を求める。生命科学者に求められているのは、より正確に言えば、「防止」ではなく「予防」である。

不確実性

 ハザードやリスクを同定し評価すること自体にも科学的不確実性がある。したがって、安全保障リスクを評価して合理的な選択をするいかなるシステムも、この科学的不確実性に対処する戦略を備えなければならない。まさにそうした戦略を予防原則は与えるものであり、広範な科学的証拠を必要とする伝統的なリスクマネジメント戦略を補完するものだと捉えられている。

 しかし、予防原則が科学的不確実性に対処する有効な戦略だという点に反対する人もいる。以下では、3つの主要な異議を検討しよう。

予防原則に対する異議

予防原則は科学の発展を抑え込む

 予防原則は過度にリスク回避的なアプローチにつながり、重要な公衆衛生研究の発展を妨げると言われてきた。特に予防原則を強く解釈する人は、この原則に従うと我々は何もできなくなってしまうと批判する。
 
 しかし予防原則の擁護者は、予防が必要なのはあくまで、具体的なハザードの可能性についてある程度の証拠がある場合に限ると認めている。こうした「より柔軟な」解釈は、生命科学分野の研究者の責任にかんする上の〔(信憑性に関する部分)〕指摘とも整合する。すなわち、研究者が知識・情報の拡散を制限する義務があるのは、その知識が悪用されると考えるのに合理的な根拠がある場合に限られる。
 
 また、予防的行動は必ずしも法や規制の樹立を意味しない。研究者の意識を高めるための自主的な行動規範を作ることもできる。さらに、予防原則は研究のスピードを緩めるかもしれないが、それは新しい展開や技術を必ずしも妨げない(Grandjean, 2004) 。加えて、仮に研究が妨げられるにしても、それは道徳的に正当化される、と論じることもできる。予防原則の強みは、科学の社会における役割は何か、科学の発展がどこへ向かうべきか、その発展は十分な情報に基づく選択によって正当化できるか、といった点に反省をもたらすところにある。

予防原則は実践的な応用可能性を欠く

 予防原則は予防のために何をすべきかなのかを具体的に指定しておらず、実際的に機能しないという批判もある。

 しかし、そもそも多くの道徳原理は具体的に何をすべきかを指定するものではない。

 さらに、具体性を欠くというのは、柔軟性という利点だとも考えられる。あまりに狭く解釈されている原理は固定的な命令に転化し、それさえ守っていれば良いと反省を放棄する態度を醸成する危険性がある。予防原則は、解釈、洗練、経験に基づいてより精密で実践的なものになっていくポテンシャルを持っていると言える。

予防原則は十分定義されておらず曖昧である

 予防原則は十分定義されて(well-defined)いないという批判がある。この指摘はその通りだ。しかしこのことは、デュアルユースという文脈における予防原則も曖昧であることを必ずしも意味しない。予防原則の曖昧さは、この原理を政策決定の基盤や法的原理として用いる場合にはやはり問題になりうるだろう。しかし本論のように、責任ある研究実践を導く道徳的手引きとして予防原則を考える場合、曖昧さはそれほど問題にならない。

 予防原則の曖昧さは、問題となる脅威の不確実性や未定義にも由来する。デュアルユースの場合も、脅威の信憑性や悪用が起こる確率を決定するのは難しい。ここで、こうしたリスクの評価は研究者には不可能なのだから、研究の想定されない応用に対して責任を持ちようがない、と論じる人がいるかもしれない。しかしこれに対して予防原則の観点からは、無知を減らす努力をしないことが非難に値すると言うことができる(「責められるべき無知」(culpable ignorance))。すなわち研究者には、安全保障に関する懸念を意識し、関連する知識を集める責任がある。

結論

 以上の議論を踏まえて、生命科学のデュアルユース研究について次のような予防原則の定式化を提案する。

 生命科学において、正統な意図で〔取得・開発等された〕生体物質、技術、知識が、人類の健康と安全を害する脅威をもたらす深刻かつ信憑性ある懸念が存在している場合、科学界はその懸念に対応するための予防的措置を策定、実施、遵守する義務がある。(p. 8)

 生命科学分野で予防原則が成功するかは、先に挙げた4つの基本特徴にかかっている。予防原則の適用条件となる「脅威」と「不確実性」については、脅威の信憑性や有害な帰結を予見可能にするための情報の入手可能性が重要になる。また「規範」と「行為」については、柔軟性と具体性のバランスを達成する必要がある。

 加えて、予防原則の成功は次のような構造的要因にも依存している。すなわち、懸念事項を報告するシステム、「内部告発者」の保護、ピアレビュー、安全保障その他の関連領域当局からの情報の入手しやすさ、などだ。また、責任の所在が研究者個人にあるのか科学コミュニティにあるかも重要な問題であり、これは状況によって異なるだろう。

 最後に、予防は必要に応じて様々な程度を許すことを確認したい。警戒度が低いほとんどの場合、予防原則は研究者の意識を向上させる働きをするにすぎない。警戒度が高い場合には、危険な生体物質や技術に携わる少数の科学者に、より慎重な行動が求められる。

 深刻な脅威やリスクに関する不確実性が存在し、他のアプローチでは懸念が現実化しないことを願うことしかできないときに、予防原則はそれに対処する、少なくとも対処しようとすることができる。