えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

移植臓器を摘出した後のヒト-ブタキメラは食べるべきである Bobier (2020)

link.springer.com

【要約者によるまとめ】

  • キメラ動物の飼育環境は、工業畜産環境よりマシである。
  • 移植臓器を摘出した後のヒト-ブタキメラを食べれば、そのぶん工場畜産から来るブタの消費量を減らせる。
  • したがって、動物に与える苦痛を最小化せよという原理に基づけば、ヒト-ブタキメラを食べるべきである。(食べてもよい、という主張ではない)
  • これはカニバリズムなのではないかという懸念がある。
  • だが今問題になっているのはヒト臓器を摘出した後のブタ肉であり、人肉を食べろと言っているわけではない。
  • たしかに、微量のヒト遺伝物質がブタ肉に混ざっていることはありうる。だが、カニバリズムに反対する議論の多くは、ヒト個体の(死)体を食べるという状況を前提しており、微量のヒト遺伝物質がブタ肉に混ざっているという今回の状況にはあてはまらない。
序論
  • 臓器提供の不足により、たとえばアメリカでは毎日20人が死んでいる。
  • この不足を補う手段として、ヒト−ブタキメラ(ヒトとブタの細胞が混在した生物)のなかで人間に移植可能な臓器を育てることが重要な可能性になってきている。
  • 臓器移植目的でのブタの遺伝的改変には様々な倫理的問題がある。中でもこの論文では、そうしたブタの肉を食べるべきかという問題をとりあげる。実際、臓器を移植したうえで残りを食用にすれば、ブタを最大限利用することができる。しかし、ヒト-ブタキメラを食べることはカニバリズムなのだろうか? あるいは、人間の尊厳に反するのか?
  • 以下では、ヒト-ブタキメラを食べるべき十分な理由が1つあるのに対して、これに反対する十分な理由は現在のところ無いことを示す。

明確化

  • 議論の前に、以下の4点〔プラス、次節の末尾から先取りした2つの前提〕を確認しておく。
    • (1) ブタを取り上げるのは、ヒト臓器の培養候補として理想的だと考えられており、研究も集中しているからである。
    • (2) ヒト-ブタキメラは胚盤胞補完法で作られるものだと想定する。
      • まずブタの胚盤胞において特定臓器の成長に必要なDNAを削除する。かわりにヒト多能性幹細胞を注入し、胚発生のなかでヒト臓器が生じるようにする。胚を母豚に移植して、出産させる。生まれたキメラは外見・行動上は通常のブタと変わらない。
    • (3) キメラを作るべきではない、肉を食べるべきではない、といったそもそも論はここではおいておく。
    • (4) キメラの精神状態がどのようなものかは現在未解決であり、ここでも触れない。
    • 移植用のキメラは近い内に実際に作成されるものとする。
    • ブタ-ヒトキメラの肉は、通常の豚肉同様に食用として安全だと仮定する。

キメラ肉を食べることを支持する議論

  1. 最小限の苦痛の原理:人は(すべてのことが考慮された上で)動物への危害が最も少ない食生活をするべきである
  2. ヒト-ブタキメラの肉を含む食事は、他の食事と比べて、動物の危害を減らす
    • キメラ動物が生育する環境は、工場畜産の劣悪な環境よりはるかにマシなため
  3. したがって、ヒト-ブタキメラを食べるべきである
  • この議論は、(1)多くの人が受け入れるだろう道徳原理(動物をなるべく傷つけない)と、(2)動物の飼育環境にかんする経験的観察に基づいており、シンプルだが強力である。以下では、ありそうな反論に応答する。
  • 反論1:動物を害してもいい
    • 前提1を否定するもの。実際、Timothy Hsiaoなどは動物には道徳的地位がないと主張している。
    • 応答1:前提1を否定すると肉食一般を肯定することになるから、当然キメラ肉食も問題ないことになる。キメラ肉だけに反対するなら、原理の否定だけでなく、追加で特別な理由が必要である(次節で扱う)。
  • 反論2:その他のいかがわしいものも食べなければいけないことになる
    • 上の議論の「ヒト-ブタキメラ」を「最近死んだ人」に置き換えると、「最近死んだ人を食べるべき」という結論が出てくる(Abbate 2019)。実際、たしかに最近死んだ人を食べれば、その分、動物への危害の総量は減る。〔しかしこの結論は受け入れがたい。〕
    • 応答2:この議論は前提1の「すべてのことが考慮された上で」を見逃している。実際、食事制限で肉を食べなければならない人は、動物への危害を最小化する必要はないだろう。同じように、人を食べてはならない十分な理由があるならば(例えば食べた人や社会に危害があるなら)、動物の危害を最小化する必要はないだろう。では、ヒト-ブタキメラを食べてはならない十分な理由はあるのだろうか、これは次節であつかう。
  • 反論3:動物への害が少ない食事は他にもあるのではないか
    • 前提2に向けられたもの。自動車にひかれた動物(Bruckner 2015)や、痛みを感じないある種の貝(Cox 2010)、昆虫(Fischer 2016)を食べることを提案する人がいる。
  • 反論4:増幅効果
    • 前提2に向けられたもの。キメラ動物を飼育するために、より多くの動物が害されることになるのではないか。つまり、キメラ肉食が動物の危害を減少させるかどうかは明確ではないのではないか。
    • 応答3&4:たしかに、他にも動物への危害の最小化に役立つ食事はあるかもしれないし、キメラには餌が必要である。だが、これらの指摘は反論になっていない。なぜなら、キメラの肉を食べようが食べまいが、作成されるキメラの数やキメラの餌の量は変わらないからだ。上の議論が言いたいのは、キメラという利用可能な肉があって、それを食べれば、動物の危害を減らせる、ということなのだ。

キメラ肉を食べること反対する議論

  • 応答2で述べたように、キメラ肉を控えるべき十分な理由があるなら、前提1は成立しない。そこでこの節では、そうした理由の候補を4つ検討する。
気持ち悪いからダメ(嫌悪要因(yuck factor))
  • キメラ肉食を控えるべき理由の第一は、それが気持ち悪いというものだ。嫌悪感は道徳において真剣に考慮されるべきだという人もいる(Kass 1998; Streiffer 2003)。
  • だが嫌悪感に訴える論法は、キメラの作製にかんする様々な議論のなかで多くの批判を浴びてきた。その幾つかをキメラ食肉に適用してみよう。
    • 嫌悪感それ自体がキメラ肉食を控えるべき理由になるか、明らかではない。ナスに対する嫌悪感は、ナス食が不道徳だと考える理由にはならない(Schaffer & Savulescu 2014)。実際、嫌悪感を重視するKassが嫌悪の対象としたもの(強姦、殺人、獣姦など)では、対象が危害を被っている。嫌悪感ではなくこの危害のほうは、たしかにこうした行為に対する反対の理由となりうる。だがキメラ肉食の場合にはこれらに相当する積極的な理由がない。
    • また、嫌悪感は誤解に基づくのかもしれない。キメラ食は人肉を食べることではないし、ヒト遺伝物質の残る肉を食べることでもない。科学者は、特定臓器以外にはヒトの遺伝物質がほとんど残らないようにできると考えている。
    • そもそも、ヒト-ブタキメラ食に人々が本当に嫌悪感を抱くかどうかも明らかではない。ヒト-ブタキメラは外見と行動はブタであり、ヒト要素を肉眼で見ることもできない。食べられるヒト個体も存在していない。
人間の尊厳に反するからダメ
  • キメラは人間の尊厳に結びついた能力を非人間に与えることであり、人間の尊厳を損なわせると論じる人がいる。この主張を踏まえると、実際に作られてしまったキメラを食べることは、人間に似た存在(キメラ)の価値を否定することであり、やはり人間の尊厳を損なう、という議論が可能かもしれない。
  • だが、臓器提供目的で作られるキメラが、人間の尊厳の根拠となるような人間的能力を発達させることはないだろう(推論、複雑なコミュニケーション、言語、抽象的思考など)。
  • たしかに、ヒトグリア前駆細胞を移植したマウスの学習能力が上昇した事例はある。しかし、まずブタとヒトでは発達に必要な時間が大きく異なり、ブタ内でヒト神経細胞が十分に発達する時間はない(Karpowicz et al. 2004)。また、両者は哺乳類として生理学の点で類似してはいるが、種の障壁は大きい(Tarifa et al. 2020)。さらに前述のように、ヒト遺伝物質の移動を最小化する有望な技術がある。もしキメラが人間に似た能力を示すとか、初期胚の段階で脳にヒト遺伝物質が多く残存していれば、科学者はそれを胚の時点で廃棄するか、あるいは臓器を採ったりはしないだろう。
カニバリズムだからダメ
  • キメラ肉にヒト遺伝物質を残さない技術に言及してきたが、残ってしまう場合もあるとしよう。この場合、カニバリズム、つまりヒト肉を食べることは道徳的に悪いという主張が当てはまるかもしれない。以下、カニバリズムの悪さを主張する3つの議論を検討しよう。
    • 人間の能力の道徳的重要性
      • Ferré (1986) によれば、カニバリズムは人間の能力がもつ価値を否定する行為であるからするべきではない。
      • だが、この主張はキメラ肉にはあてはまらない。キメラ肉の場合、消費されるのは人間の遺伝物質を微量に含むブタの肉である。価値ある能力を持つ人間が消費されているわけではない。
    • 人は食べられることを望まない
      • Wisnewski (2007) は、カニバリズムにカント的反論を提出している。私たちには理性的な行為者の目的を尊重する義務があり、その義務は当人が死んでも持続する。そしてカニバリズムは、食べられることを望まなかった理性的行為者を食べることであるから、許されない。
      • だがこの反論も、キメラ肉には当てはまらない。先程と同様に、そもそも理性的行為者なるものはここでは関係していないからだ。
    • 形相の反映
      • Lu (2013) は、カニバリズムにアリストテレス的反論を提出している。死体はもはや人間ではないものの、「生きている人間の形相」を反映しており、価値をもっている。カニバリズムはこの価値を尊重していない。
      • この反論は、質料形相論を前提としている点で説得力が低い。だがキメラ肉の場合さらに重要なのは、消費されるのは人間の体ではないという点である。食べられるのはヒト-ブタキメラの体であり、それは明らかに人間の形をしておらず、「生きている人間の形相」を反映してもいない。
道徳的警戒
  • 最後の反論は道徳的警戒(moral caution)に訴えるものだ(Koplin and Savulescu 2019)。
    • キメラ肉を食べることが許容可能かについては学者の見解の不一致がある。しかし、キメラ肉を食べないことについてはあまり不一致がない。キメラ肉を食べないことは、道徳的に見て良くも悪くもない、中立なことのように思われる。つまり、キメラ肉を食べることには道徳的リスクがあるが、食べないことは中立的である。学者の不一致や不確実性を踏まえれば、ここでは警戒の側に立って、キメラ肉を食べないほうが合理的である。
  • しかしこの議論は説得的ではない。ここまでの議論が示してきたのは、キメラ肉を食べるべき十分な理由はあるが、食べるべきではない十分な理由はない、ということだ。つまり、キメラ肉を食べないことが道徳的に中立だという仮定は誤っている。キメラ肉を食べないことは、動物の苦痛を増やすという点でやはり道徳的リスクがあるのだ。したがって、キメラ肉を食べることも食べないことも道徳的にリスクがあるため、道徳的警戒の観点から食べないことが合理的になることはない。

結論

  • 現状、キメラ肉を食べるべき十分な理由があるが、これに反対する十分な理由はない。
  • これは議論を呼ぶ主張であり、反論を歓迎する