えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「予防的人格」原則:遷延性植物状態と最小意識状態の場合 Braddock (2017)

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  • Matthew Braddock, 2017, "Should We Treat Vegetative and Minimally Conscious Patients as Persons?", Neuroethics, 10 (2), pp. 267–280.

 遷延性ないし持続的植物状態(PVS)の患者は人格(Person)なのだろうか。PVS患者は意識を不可逆的に欠いているために、人格であるために必要な能力を欠いており、従って人格ではないという議論がしばしばなされてきた(McMahan 2009, Brody 1989, Harris 1995, McMahan 2009)。

 このタイプの議論に対しては「診断の不確実性からの反論」を提起することができる。これまでの多くの研究によると、PVSと診断された患者が実際に意識を失っている確率は約6割ほどしかない。つまり、約4割の患者はPVSだと誤診されており、実際には意識がある。誤診されたPVS患者のうち、41%は最小意識状態(MCS)であり、35%が閉じ込め症候群(LIS)ないし「暗黙の気づき」(covert awareness)*1状態にあるという研究もある(Schnakers et al., 2009; Stender et al., 2014)。この状況を踏まえると、「PVS患者は意識を不可逆的に欠く」という前提は成り立たない。

 しかし近年、診断の不確実性を考慮した上でも、やはりPVS患者は人格ではないとする新しい議論が提起された(Levy & Savulescu 2009)。この議論は、PVS患者がMCSである可能性を認めた上で、しかしMCS患者も人格ではないので、いずれにせよPVS患者も人格ではない、と進む。MCS患者は確かに意識的ではあるが、人格性に必要なほど洗練された認知能力や自己意識、心理的連続性を持たない公算が非常に高く、従って人格ではない非常に公算が高い、とされる。

 この議論に対して、「人格の不確実性からの反論」を提起したい。つまり、MCS患者が人格でない公算は非常に高いとまでは言えない。むしろMCS患者が人格かどうかは、少なくとも不確実だと言うべきである。この主張はまず、人格性の根拠に関する広範な不一致によって動機づけられている。人格性の根拠になるものは何なのか、一定の認知能力や心的特徴だとして具体的には何なのか、具体的にわかったとしてそれがどの程度必要なのか、哲学者のあいだで合意はまったくなく、MCS患者が人格だと言えるかどうかは不確実である。

 さらに、人格に必要な程度の能力や特徴が定まっているとしても、MCS患者がそれを持っていないという主張を疑うべき理由が3つある。

  • 1. MCS内部の多様性

 同じくMCSと診断される患者の中でも、その正確な状態には非常に大きなばらつきがある。実際、MCSを離散的なカテゴリーではなく、能力と反応性におけるスペクトラムだと考える神経科学者もいる。また状態のばらつきに対応して、予後やアウトカムにも大きなばらつきがあり、中には高度な認知能力を発揮できるようになるまで回復する患者もいる。

  • 2. 傾向性の問題

 能力というのは傾向性なので、MCS患者が今現在ある能力を発揮していないからといって、その能力を持っていないとは限らない。実際、少なからぬ数のMCS患者が高レベルの認知能力を発揮するまで回復するということは、この点を裏付けるものだ。

  • 3. 具体例から

 MCS患者は、例えば、特定の曲がかかると必ず涙したり、一定の音楽やテレビ番組、親しい男性介護者に反応して笑顔を見せたりする。これは人格性に必要な心理的連続性の表れではないのか? また、気分の良さを伝えているように見えたり、自分の結婚式のビデオを見て苦痛を感じているというのは、自己意識の能力を持っているからではないのか。患者がこうした能力を持っているか否かについては、こうした具体的証拠を踏まえると、むしろ判断を保留すべきだと思われる。

 このように、現状、MCSやPVSと診断された患者が人格であるか否かはかなり不確実な事柄だと言える。ではこの不確実性に直面して、医療上の意思決定はどのようになされるべきだろうか。この場合、以下のような予防原則に従うことが推奨される。

  • 予防的人格

 Sが人格であるか否かが十分に不確実な場合、Sを人格として(人格の持つ重要な権利を持つものとして)扱え。ただしこうした扱いが、その他の明らかに人格である個人の同等に重要な権利を侵害するとわかっている場合は、この限りではない。

 「予防的人格」原理を動機づける議論はいくつかある。そのうちの一つは、次のような非対称性に訴えるものだ。すなわち一方で、「予防的人格」を採用してSが人格でなかった場合、それで誰かの権利を侵害することはない。他方で「予防的人格」を採用せずにSが人格であった場合、その権利を侵害するという非常に大きな問題が生じる。従って、最悪の道徳的結果を避けるためには、「予防的人格」に従うべきなのだ。

 この原理をPVSやMCSに適用するとどうなるか。PVS患者やMCS患者を人格として扱うことは、その他の人格の同等に重要な権利を侵害するだろうか? この問題は、こうした患者のケアにどのくらいのコストがあるかにかかってくる。確かに、相対的に貧しい社会では、PVS/MCS患者の救命措置と明らかな人格を対象とする救命措置が衝突するかもしれない。しかし米国のような豊かな社会では、極端に珍しい状況(トリアージや自然災害、希少な臓器の分配など)でない限り、こうした衝突が生じることは明らかではない。

 もちろん、PVS/MCS患者のための資源を明確な人格へ向ければ、その分だけ後者に医療上の利益が与えられる。しかし、両グループの同等の権利をどちらも尊重することは可能だと思われる。次の2点に注意せよ。まず、PVS/MCSは決してよくある状態ではない。正確な推定は難しいが、米国では15〜30万人ほど〔全人口の0.0005〜9%〕だと考えられている。第二に、PVS/MCS患者を効果的にケアするためのコスト(経管栄養、抗生物質、看護ケアなど)は、他の治療(ICUでの治療など)と比べて比較的小さい。ただし、稀少な臓器の分配という局面では事情が異なる。資金不足ではなく臓器不足の場合、確かに競合は生じるため、「予防的人格」原則は明確な人格の方に臓器を与えることを指示するだろうし、これは直観的にも正しいだろう。しかし何れにせよ重要なのは、PVS/MCS患者に対する標準的なケアの点では、権利の明確な対立は存在しないということだ。

*1:PVSの基準を満たすが、ニューロイメージング技術によって意識的気づきや様々なレベルでの認知機能が確認できる状態