えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

機械の中の幽霊(ライル『心の概念』書評) Mace (1949)

  • Cecil Alec Mace (1949), "Review: Ryle, G., The Concept of Mind", Listener, 42, p. 1015.

以下は上記書評の翻訳です。

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機械の中の幽霊

ギルバート・ライル『心の概念』、ハチンソン、12シリング6ペンス

オックスフォード大学の形而上学的哲学ウェインフリート教授によって書かれた本書は、「機械の中の幽霊」という名の奇妙な物語の最終回として読まれるべき一冊だ。この回で、「物」(Thing)は祓い清められることになる。この結末を理解するためには、まずストーリーがどう始まったのかを思い出さなければならない。

いま中高年の人々は、人間は二つの部分からなると教え育てられてきた。この二部分は、日曜には「肉」(The Flesh)と「霊」(The Spirit)と呼ばれ、他の日には「体」(Body)と「心」(Mind)と呼ばれる。この理論のポイントは、二つの部分は極めて、極めて異なる種類のもの(stuff)からなるという点にある。体は物質からなり、物質については物理学者と化学者が言うことがすべてだ。他方で心は、これもまた一種のものではあるが、まったく別種の物で、物質では考えられない性質や能力を持っている。

こうした考えには非常に長い歴史があるが、それを素晴らしく巧みな形而上学体系に仕立てあげたのが、17世紀フランスの哲学者デカルトだった。ライルは不遜にも「デカルトの神話」と言っているが、これは形而上学体系としては驚くほど成功した。通常、一般の人は哲学的プロパガンダにはほぼ完璧な耐性をもっているようで、形而上学的イデオロギーには寛容な微笑みを返すだけだ。しかし「デカルトの神話」は一気に丸呑みされてしまった。デカルト以降3世紀にわたり、子どもたちはこの神話をこれ以上ない常識だと信じきって育ってきた。プロパガンダが驚異的に成功したのには理由がある。このアイデアが真っ先に売り込まれたのは、スコラ的理論にうんざりしていた時期の自然科学者だったのだ。自然科学者がこれを受け入れたのも不思議ではなかった。話の半分は、デカルトがガリレオから仕入れたもので、科学者はまさにそれを欲していたのだ。もう半分についても、あまり興味がなかったので、快く引き受けた。

二元論者のキャンペーンはあまりにも成功しすぎて、あとから問題が生じてきた。たしかに物質世界にかんするガリレオ-デカルト式の説明は、科学者が説明したかった多くのことを説明してくれ、さらに様々なかたちで有用でもあった。科学者は、機械を理解し作れるようになったのだ。そしてついには、心のはたらきだと言われていたことのほとんどすべてを行える機械が発明できるようになった。つまり、正確な識別、計算と推論、経験による学習、長所と短所を比較して決定を下すこと、などだ。電子工学の専門家は、もし需要があれば、基本的なエチケットや道徳を守る機械を作ることもできるだろう。そうした機械は例えば、女性が使うときには自動的に蓋が開いたり、あるいは貧乏な子供にだけ板チョコレートを配ったりするかもしれない。ともあれ、そうすると、人間の脳も実はこうした機械なのだという考えには説得力がある。人間の脳がその他の機械と違うのは、工学によって作られたのではなくて、自然淘汰によって作られたという点だけだ。

しかし「デカルトの神話」によると、もう一つ違いがあるのだった。つまり、人間機械は幽霊に取り憑かれている。もうすこし哲学的な言いかたをすると、人間機械は精神の「座」なのだ。だがここで疑問が出てくる。定義から言って、機械は自動的に動くものだ。そうだとすれば、幽霊には何ができるのだろうか? 幽霊は機械の計算に干渉することもできないし、機械の進行を寸分たりとも変えられない。ここで幽霊は、極めて奇妙な苦境に立たされている。これが、ストーリーの始まりだった。では、『心の概念』を手にとって、続きを読んでみよう。

幽霊が何もできないのはなぜか、ライル教授によれば簡単に説明できる。幽霊なんて本当は存在しなかったのだ。あの入念な理論構成全体が大失敗だったのである。だが、一つの謎が解かれたときに生まれる別の謎を突きとめることが哲学者の責務だ。幽霊が存在しないのだとすると、どうして私たちはそれが存在すると信じていたのだろうか。良い哲学的議論というのは、間違いを明らかにするだけでなく、なぜその間違いが生じたのかを説明し、誤ちが繰り返されないように話を整理する。これこそ、『心の概念』が取り組んでいる課題である。手短に言うと、ライル教授の考えはこうだ。幽霊を信じることは、「カテゴリー-ミステイク」である。これはつまり、大学を構成するすべてのカレッジを見たあとで、大学そのものを見たいと言うような間違い、あるいは、「平均的な人」というのを一人の市民だと思ってその人の住所を尋ねるような間違いである。

ライル教授は本書のある箇所で、この誤りの起源についてこう言っている。デカルトは一方でガリレオの証拠を尊重したが、他方で教会を尊重した、この衝突から誤りが生じたのだ、と。しかしこれは心理的な説明であって、私たちが欲しい説明とは少し違っている。「非物質的世界」の存在を信じたくなる誘惑は、教会の教説について考えるときに生じるのではない。そうではなく、私たちの夢や感情や感覚にかんする事実について、単純かつ十分なしかたで述べようとする時に生じてくるのだ。この誤りは、記述の仕方という点で生じる手続き上の誤りであるように思われる。この点にはライル教授も同意してくれるだろう。というのも、本書の中で最も重厚かつ説得力のある部分は、まさにこうした問題を扱っているからだ。そしてそこにこそ、著者のもっとも大きな貢献がある。ライル教授の他にも幽霊の実在を疑った人はいた。しかし無邪気な哲学者や心理学者がひっかかってしまう純粋に言語的な罠を避けようと、ここまで踏みこんだ人はなかなかいない。

本書は主に哲学者向けに書かれた本だが、専門用語とか、技術的に難しい部分はまったくない。「カテゴリー-ミステイク」(category-mistakes)、「カテゴリー-習慣」(category-habits)、「雑種-カテゴリー」(mongrel-categories)*1、「心的-行動形容詞」(mental-conduct epithets)などの表現があるが、これは専門用語ではなく、言葉遊びの類である。文体上多少のハイフンがあっても、「身-心」(Body-Mind)から形而上学的ハイフンを抜きとれるなら安いものだ。
 
たしかに、哲学者のための本だ。しかし、ロックの『人間知性論』やヒュームの『人間知性研究』と同様、一般読者でも読め、あまりにも-よく-ある(all-too-common)幻想をほとんど苦もなく払いのけることができるだろう。

*1:訳注:正確にはmongrel-categoricals